『甲陽軍鑑』(こうようぐんかん)は、小幡景憲が江戸初期に著した戦国大名・武田氏にまつわる軍学書である。ここでは内藤伝右衛門・温故堂書店の刊行物を底本とする。
- 底本: 高坂弾正 著 ほか『甲陽軍鑑』,温故堂,明25,26.
- Webブラウザ上でキーワード検索しやすくするために、「龍」を除く旧字を新字に変換し、いくつかの異体字を常用漢字に変換している。
- 「己」と「巳」の誤りは底本のままとする。
【 NDLJP:28】甲陽軍鑑品第十信玄家来年之備前之年談合之事
【一本ニ付内藤ト長坂口論ノ事トアリ】
叡山に堂衆と学徒不和のこと出で来りて学徒皆ちりける時千日の山ごもりみちなんこともちかくひじりの後をたゝんことをなげきてかすかに山の洞にとどまりて侍りけるほどに冬にもなりにければ雪ふりたりけるあしたに尊円法師のもとにつかはしける
いとゞしくむかしの跡やたへなんとおもふもかなしけさのしらゆき 法印慈円
君が名ぞなをあらはれんふる雪にむかしの跡はうづもれねとも 尊円法印
【伝解ニハ返し「尊円法師」トアリ】
か様に比叡山にて儈達中の悪きをみ給ひ知識衆叡山滅却と思召、其ごとく去年戌極月廿八日に山県三郎兵衛尉所へ寄合、当亥年中の御備の義信玄公御在世の時のごとく各談合いたす時長坂長閑跡部大炊介跡より来る内藤修理申は余の談合に違て御備の義は深く密し申せと信玄公御在世の時度々の御仕置なり然ばかた〳〵両人は他国への御使者の往来公家衆出家衆惣じて客来などの談合にこそ長坂長閑跡部大炊介殿立入り給へ御備への談合には終に立入り給はず去々年西の四月十二日に信玄公御逝去則ち其極月廿八日に馬場美濃守所にて各御先を仰付らる年の寄たる者共寄合、戌の年中の御備信玄公御代のごとく談合いたす刻み御代がわりのことなれば誰にても此談合申す内へ御入りなされ度人も御座有るへしと書付を以て土屋惣蔵殿を頼みまいらせ言上仕る処に信玄公御代のごとく除事も入ことも有るへからず弓矢の義卒尒にして洩聞へば大悪事なりと既に勝頼公御自筆にて各に下さる信玄公御他界来年四月迄隠密故へ右の御書誰人にもみせず候それは定て馬場美濃殿に預り給ふへし惣じて両人のいろひ給ふ客人にはいろはず【伝解ニハ客人にはノ下「此方のものも」ノ六字アリ】信玄公の御代には其手よりにて越中椎名所より使者を進上申をば馬場美濃殿肝煎り給ふ多賀屋宇都宮安房の正木大膳上田万喜などゝ有り関東の侍大将衆申通ぜらるゝには我等所へ内証有㆑之其は上州みのわの城に罷有に付如㆑此それも終に我等罷出で披露申たることは有まじ土屋右衛門殿原隼人殿跡部大炊助殿覚へ有へし其方の役の事に我等共いろふまじ此方の談合にも無用なり第一信玄公の御仕置に相違有りては奈何と内藤修理申断る跡部大炊介は物言はず長閑申す内藤殿は無㆑曲事を承る者哉旁御談合未だはじまるまじ【一本「其上」ヲ「其前に」トス】其上勝頼公思召しの通り各ゝへ申へし其意趣は信玄公の御奥意は大方御存知ならん当屋形勝頼公の御心はしかと皆しろしめさるまじい其談合いたさんと存ずるに忠が不忠に罷り成と申す内藤修理申て云ふ当屋形にて御座共京筑紫東国へなをり給ふにてもなし其方ほどは我等にかぎらす御譜代の者なれば給皆とく存知奉る他国と申ながら信濃は御手に入り真田あた小幡安中衆和田をはじめ二三代の人々なれば【全集伝解共ニ信濃ハ当年迄三十ケ年上州も十七ケ以来御手ニ入トアリ
あたハ芦田ナリ】此の旁も勝頼公の御むねは可㆓存知㆒余り左様に出頭ふりも無用なりと云ふそこにて馬場美濃申さるゝそれは修理殿もはや勿体なし先長閑の申さる、を聞給へ其方我等共は小城にても預り申せば何としても御前は遠々敷候扨長閑老勝頼公の御奥意は如何と問はる其時長閑申当屋形の御奥意は一両年の間に美濃尾張三河三ケ国の内にて信長家康と是非運の御合戦必定可㆑被㆑成との思召なりと云ふ其の時内【 NDLJP:29】藤修理申て云ふそれは皆長閑をのしがをしへまいらせてわかき屋形をそゝり立て勝利を失なはせまいらせ武田の家を滅亡し巳が本懐を達せんとおもふ義なりその謂れは信玄公に巳れがむすこの源五郎をころされ申す其妬なりと云ふ長閑聞て是れは御情けなし罪科をもつてのことなれば如何してさ存ずへき内藤申、其方がそれ程によはきむね成る故くろづらをふり立て公界をせらる抑かわゆき子をころされまいらせても尤も三代相恩の主君に御とがめは申しがたし幸ひ時移り年老ぬ引籠み後生一篇のやうにいたすならば諸傍輩も憐み思ふへし何そ大科をして殺されまいらせたるむすこの意趣に主君の御家をほろぼさんことを企てあれ程強き屋形のしかも御年未だ三十にもたり給はぬに色々すゝめ異見を申を侫人を尽す越臣范蠡に異なる者なりおのれ侫人を作らぬと三岳の鐘をつけと云ふ長閑腹を立ておのが分として某に三岳の鐘をつけと百姓あてがひの申し様口惜しき次第なり其方こそ元来工藤源左衛門とて兄を古信虎公の御手打にきられ申其後信玄公へ種々軽薄をいたし御意を取請け今内藤修理に成らせられ二百五十騎の将をするといへ共何方にて何たる手柄をしたると是非いへと云ふて脇指に手をかくる内藤刀を取てさやがらみうたんとす内藤には山県馬場美濃と高坂弾正取り付き長閑をは小山田弥三郎原隼人左右の手を取り引き出し宿所へ送る其日長閑勝頼公の御前へ参侯し各人数もたぬ者共に同心被官を下され過分の御知行を取り一城の主に罷成る身を大事に仕り若殿をあなどりひかへ思案をいたし若し討ち死やせんと身の為め斗り存ると見申て候信長【一本信長ノ下家康ノ二字アリ】をば信玄公あらぎりをなされ岩村迄取詰めかんの大寺を此方御手に入給へど信長岐阜にゐながら頭をかたふけ罷在が岐阜と大寺の間は上道十里に少し遠く候に是迄取詰め給ふもとより家康は少身にて御入候其上信長より抜群若年にておはします遠州にては二股東三河にて設楽の郡迄御手に入り扨又当勝頼公の御代に遠からぬ当年の春東美濃にて小城とは申せ共いまみ、あてら、あけち、くらはら、いゝはざま【一本くらはらヲ串原トス】其外取手へかけては幾の城をせめをとされ有もあられすして信長罷出山県三郎兵衛が一手にさへ追散らされ四万にあまる人数にて上道四里に余りにげ申候去年の三月も信玄公御逝去の廿日以前に岩村の城をせめ給ふ時信長一万余りにて罷出馬場美濃が手にたらぬ人数をもつてかゝるを見て剣をまはして引候勿論当年の秋家康の城高天神をせめ落し候其時家康は四五里の間の居城に御入候へ共【伝解ニハ候ヘ共ノ下「後誥なくして」ノ六字アリ】城飼郡御手に入り其時も御家中の名大将共美濃国にても遠州にてもひかへ御異見を申つるあの者共の諫言に付給はゞ信玄公の御時の岩村の城一つ斗ならん城飼郡の義も今迄も敵なるへし我等と跡部大炊介と申上たるにて正しく信玄公の御時に御領分にてなき所皆御手にいれ給ふおほそれおほき申ごとにて候へ共君の御心と跡部大炊助我等式存じ奉るが同前にて御座候余人は皆各別の義にて候但各は何れも大身にて候間能にて候はん其段は御分別次弟にて御座候憚多き申ごとにて御座候へ共我等共見及奉るは君は長尾輝虎の御武辺かたきと存奉り候輝虎は勝負にも国をとるにもかまはぬ只せいでかなはぬ合戦をまはさぬやうに仕らるゝ武士なれば日本初まりて大方輝虎と君勝頼公にておはしますと申上を土屋宗蔵つぶさに聞てあにの右衛門に語る右衛門馬場美濃山県三郎兵衛内藤修理高坂弾正右四人に語る雖㆑然せがれ御膝本に罷り有奥にてのさたを告けひろむるとあれば其身のため如何とて一切さたはせず内藤と長閑と中悪しく成ること御家の大事なりたとへば比叡の山の衆徒達不和の儀山の破れなりと知識達鑑㆑之給ふ如㆑其山ははや絶へにけり去年極月廿八日に仮初の出入有之て屋形の御耳に悪く入り家老の諫言聊かも御承引なきゆへ、当年五月廿一日に長篠にて討ち負け給ひ悉く討死仕る其つよみを申し長坂長閑跡部大炊助無㆓何事㆒無病に帰陣して今に至りて両人強き御異見申さるゝは武田の御家の滅亡うたがひなく武軍つきさせ給ふしるしなり是れ偏へに長坂長閑跡部大炊助と云ふ両侫人のいたす所なり
天正三年乙亥六月吉日 高坂弾正忠書之
【一本ニ「御家の滅亡」ヲ「国乃破れ」トス】此書長坂長閑跡部大炊介令
㆓披見
㆒腹を立においては御家の滅亡うたがひなきものなり尤と同せば武田の御家長久にてましまさん仍如
㆑件