『甲陽軍鑑』(こうようぐんかん)は、小幡景憲が江戸初期に著した戦国大名・武田氏にまつわる軍学書である。ここでは内藤伝右衛門・温故堂書店の刊行物を底本とする。
- 底本: 高坂弾正 著 ほか『甲陽軍鑑』,温故堂,明25,26.
- Webブラウザ上でキーワード検索しやすくするために、「龍」を除く旧字を新字に変換し、いくつかの異体字を常用漢字に変換している。
- 「己」と「巳」の誤りは底本のままとする。
【 NDLJP:27】甲陽軍鑑品第九信玄公御歌の会之事
甲斐国中に信玄公御申いたす寺定まりて有㆑之然るに永禄九年丙寅春信玄公大僧正の御時恵林寺長禅寺をはじめ各々御成の寺々へ御申をいたす其日は時宗一蓮寺にて御歌の会有㆑之御相伴は小笠原慶安板坂法印長遠寺一花堂岡田見桃寺島甫庵長坂長閑以上検校共に十二人【一本板垣法印トス】御次の座には逍遥軒典厩勝頼公穴山殿兵庫殿一条殿此外六人以上十二人是皆御一門なり縁には大蔵太夫同彦右衛門各々猿楽共也信玄公御膳をは土屋平八郎其配膳に会根孫二郎はい田源五郎三枝宗郎【はい田ハ真田ノ誤ナルベシ】此四人は御膳の給仕斗り御相伴の衆御次の衆へは右四人の外御通ひ衆廿一人の人々御相伴衆御次の衆へ給仕なり信玄公の御膳奉行は武藤三河守今井仁左衛門尉桜井安芸守以上三人なり【全集伝解共ニ今井新左衛門トアリ】御供の衆上下共に喧嘩口論万事狼藉いましめの御目付廿人衆頭五人にさしそへ六十人衆頭の内にて三人城の意庵今井九兵衛遠山右馬助同心共に是は寺中の警固なり又廿人衆の頭五人にさしそへ加勢の足軽大将三頭市川梅隠斉原与左衛門横田十郎兵衛馬乗同心足軽共に召ぐし是は寺外四方を廻るなり加勢の足軽とは各々境目へ番手につかはさるゝ者共なり其時節都より菊亭殿下り給ふ二三日以前に一蓮寺より跡部大炊介原隼人佐をもつて萄亭殿をば御相伴にと言上す信玄公聞召し我相伴に菊亭殿はいかゞとの上意にて相留らる雖㆑然其日の朝不図菊亭殿一蓮寺へ御入り有て御歌の会と承及参ずること傍若無人なりと宣まひ御座席へ入給ふ信玄公不㆑斜悦び思召けり其後武藤三河守御前において御膳時分に候と言上す其時信玄公寺島甫庵をめして遠光院雪山和尚へ参り【雪山ハ説山ノ誤ナルベシ】宋梅洞のことは何の本に有㆑之と承り書付けて持ち来れと仰せ付られけり甫庵を遠光院へさしつかはさる一蓮寺出家のなれば高盛の膳人数のごとく仕、若其余分なき時菊亭殿入御たるに定りたる相伴衆立るも且は信玄がはぢならんとの御奥意と帰御の後高坂に仰聞かさるかやうに其時に当て御心づかいなり故にか後は膈の病をうけ給ふ禅の長老或は儒者の云信玄は唯唐の諸葛孔明がごとしと思なりと宣まふ雖㆑然あらはして申上ることもなし【伝解ニハ彼孔明ハノ下ニあまり行義かたくてきこん屈し相果必天下を可治大将の終に不治いま一年存生ならば仲達を殺し天下をとるべき人なれとその年の陣にて病死す人は士卒を撫で礼譲を厚くし玉ふ事不諫一豆の食云々トアリ】彼孔明は士卒を撫でゝ礼譲を厚くし給ふ事疎ならず一豆の食を得ても衆と共に分て食し一樽の酒を得ても流に濺きて士と均しく飲す士卒未炊ざれば孔明不㆑食、士雨露にぬるゝ時は油幕を不㆑張楽は士の後に楽み愁は万人の先に愁ふ加㆑之夜は終夜眠を忘れて懈れるをいましめ昼は終日に【 NDLJP:28】面を和して交をむつまじくす未だ須叟の間も心を恣にして身を不㆑安敵の仲達聞㆑之孔明が病弊に乗て戦はゞ心勝ことを得つへしと実なるかな孔明病に臥す七日にして終に逝去す信玄公孔明にたがはせ給はずと思ひながら申上候こともなし御歌の会などは御心も慰まるへきと思へば御気遣のみ中々申に及ばず此事実なりと今更存知者也今の屋形勝頼公万御思慮有る様に長坂長閑跡部大炊介殿申上られもつともなり
題 松間花 武田信玄公
たちならぶかひこそなけれさくら花松に千とせの色はならはで
各の御歌は我等野人にて不㆑存候付御申の時は諸式右のとをり尤に候
天正三年乙亥六月吉日 高坂弾正忠
長坂長閑老
跡部大炊助殿参