甲陽軍鑑/品第八

 
オープンアクセス NDLJP:25甲陽軍鑑品第八
はん兵庫星占之事付長坂長閑無面目仕合の事 

一本ニハ付信玄御影ノ事トアリテ長坂長閑云々ヲ省ク

永禄十二年巳己の歳より翌年午七月迄天に煙の出る星出たり信玄公三十一歳の御時より召置るゝ江州石寺伝解ニ「江州石山寺」トアリ博士はかせ昔の晴明が流れにて易者ゑきしやなり中にも判を能くうらなふに依て判の兵庫と号す占をも正法に仕り内典外典共にたづさはり邪気聊かもなければ信州水内郡において百貫の知行永代宛行はるゝ朱印彼兵庫に被成下此兵庫を毘沙門堂びしやもんだるのくり迄召よせられ武藤三河守下曽根両人を問者にて右の客星オープンアクセス NDLJP:26吉凶を兵庫に占せて見給ふに謹シテ言上す抑此星と申は天下怪異の客星なり雖然今時に当て何の大名に悪事の可之あらず末代に於て吾朝の古高家次第にめつして終に悉くなく成り給ひ武道国中の武家のさほうを取失ひきのふ下人かと見れば今日は主となり女が男の出立を仕り新家のだちて按ニのたちてハ伸ビ立チ栄ユルノ意ナランたとへばぶがくに至る迄しんなることを不見知してあざけり成る事を用る故本侍迄一世の間に二と三とづゝ作名字つくりみやうじをなさるゝ世に成候べし侍にかぎらず仏法世法と有之時は寺方も久しき正法の宗旨は次第に衰微して新き宗旨などと云て繁昌すべし百姓、商人、貧人迄も如此と書て右の武藤殿下会根殿へ渡之然ばかずならぬ我等体も代々判をうらなふ来候へ共此星の上は判占も我等迄に仕り子孫をばしらうとに致さんされ共嫡子は廿に余り候間是は時々卜ひ致す共孫には全く占とめさせ候幸ひ某に大僧正信玄公大慈大悲の御恵をもつて信濃国にて所領下され年来蓄へ候物を譲り孫をしらうとに仕立て甲府にあり付申べく候嫡子も孫にかゝり是も甲府に罷有りとて柳小路こうぢに屋敷を申請け子と孫とをば商人に仕付おのれは知行をさし上近江国に罷帰る五年めに死去となり其午の歳六月信玄公思召し立ち広さ一間にすこし小く鏡を鋳させ御影をもくぞうにあらはしみくらべて御本体にちがはぬ様につくらせ御ぐしの毛を焼て御影ごゑいの御ぐしを彩色さいしき給へば座像の不動明王に毛頭違もうとうちがはせ給はず各々にとわせ給へば摠じて御法体ましてより不動の尊体に少もたがはせ給はずと申せば於此信玄宣はく我四方の国々を押掠おしかすめしてたてへ東道五十里六十里づゝ取りつめざるはなし此ごろ日本に於て弓取多しといへ共北条氏康上杉輝虎織田信長徳川家康此四人に超へたる弓取なし此人々の居城近く某働き乗つめ取といへ共我持分の城を一つせめられたること今日迄は無之、北越の輝虎信州へ度々望をかけしかど十ケ年以前河中島にて我勝利を得しより後終に国中へ不出、堺目へ出るといへども一日も陣を張ることなくあまつさへ村上にゆづられたる長沼飯山の辺迄某方へ押取る実に思出してあり上野前橋のおさへ石倉の取手をさる時分一本名倉ノ取出トセシハ非ナリ輝虎せめつるに十かねわふど両人「十かねわふど」ハ長根大戸ナルヘシ少身成る故、予が後詰を待兼あけて渡之某飛弾を半国治め越中志井名が居城へ発向の時なれば此注進於越中聞届、当家椎名をあらくあてがひ降参の間私宥免ゆうめんせしめ廿日の内にかの石倉へ取詰、只一時にせめころし当家椎名は当敵ノ誤ナルベシしかも北城が甥のあらう甚六北条丹後守ガ甥荒尾甚六と云ふせがれのくびを切て軍門にさらし近辺のみせしめに仕る北条丹後守ガ甥荒尾甚六此外我十六歳より当年迄卅五年の間近国他国へ威をふるひ今五十歳迄に御旗楯なしも照覧あれ郡のことは不申我持分の屋敷を一としてとられたること不覚、况んや甲州へ一日二日路の間へ来らんと思ふ人異国のことは不知吾朝には不覚如此つめ候間明日にも我死したらば諸国の敵安堵して我持分をせめば数年に分国を取りつくされ終に此国へ乱れ入彼のにくき信玄がかたちなりとて手足を打もがれてもせんなし幸い不動明王に似奉るこそ自然の仕合なれ火煙を出して剣をもたせ左には縛の縄尤なりとて不動の尊体に御影をなされをき給ふは定て不動ならば人もあしう仕まじきとの義ならん

一本ニハ此処ニ徳権八卦付長坂釣閑失面目事トアリ

甲州西郡十日市場と云ふ所に徳厳とくごんと云ふ半俗有り此者甲州市川の文珠へこもり夢想に八卦を相伝仕りたりとて在所にて占を能致す長坂長閑今の徳厳を崇敬して右判の兵庫が知行を徳厳に申てとらせんと約諾す或夜信玄公御きげんよく御座おはします其謂は長遠寺といふ一向坊主をいつも江州浅井備前守そうじて上方へ計策に指のぼせらる一本「和泉の境へ下る時」トアリ其年は一入様子能相調へ伊勢長島、大坂、和泉の堺した時加賀越中迄も立寄信玄公へ御味方の証文を取て参上いたす其書物を土屋平八郎にもたせ武藤喜兵衛曽根内匠三枝善右衛門此四人計り御供にて信玄公御幡屋へ入御伝解ニハ三枝勘解由左衛門トアリ、馬場美濃守内藤修理秋山伯耆守高坂弾正小山田弥三郎原隼人はいと佐山県三郎兵衛此七人をめしてくだんの書物をみせ給ひ来年未の年中の備の御談合三重五重七重にも相定め給ひ小山田弥三郎筆者にて紙面にあらはし又各下にて評義仕り吉事あらば猶以てごん上すべしとの上意にて其後仰出さるゝ惣じて国を持者は博恵ひろくめぐむをもつて大身といふいかに国を持共かたおちて一トむきなるは是少身なり我宗旨に妙心寺は能とて快川和尚を頼み又天台真言よき宗旨とて善海法印加賀美の大ほうなど計策にさし越まいらせても長遠寺が千分一も合点すむまじ右の和尚達、無案内なることを某に頼まれたりとてはかの行様にし給はゞことあらはれて他国の嘲けりに成に付ては却て悪事をまねくごとし又長遠寺才覚さいかく宜しからんとて年来崇敬もなうして俄に申付る共我国に有上はいやとは申まじけれ共忝く存知忝事あらずんば何ぞ是程精を入て調へん一向宗時宗抔をこくしゆなどたれとても崇敬するとは聞ね共我此義を遠慮して長遠寺を相伴衆と定之但此上ながオープンアクセス NDLJP:27ら某仕る程のこと吉事と斗り不存共不審成こと有之は必ず言上すべし一向坊主の崇敬世がはづかしけれど如此とのたまふ各感じ奉る日くるれば信玄公奥へ入御にうぎよなさる依之御きげん能く其夜は御咄一入宜し此時を見合せ長坂長閑右の徳厳がことを披露申す信玄聞召占は足利にて伝授かと尋させ給ふ長閑承り八にて候が市川の文珠へこもり夢想相伝とて種々上のきどく有る証拠を半時斗り申上る信玄公聞召し長閑能く承れとて宣まふは八卦と云ふ本は吾終にみたこともなけれ共推量に云ふ其本に真に書たる文字少なし共二三百もなきことは有るまじ物を読むにも真に六ケ敷物ぞ又夢は定めなき者なりそさう成るたとへに人に逢ても早く別れたるは夢ほど逢たと云ふ者ぞ然ば六ケ敷き学文をめにもみへぬ文珠の夢に相伝は皆偽りの至りなり偽りを云ふ盗人に将たる者は対面せぬ者なり其ごとく成る者は心きたなきゆへ当座奇特有るとても貪慾心深く金銀を恵まば悪をも吉と云ふ引出物あたへねばよきをも悪と云ふ者なり神変奇特もさぞ有らんさなくば愚人も何そ用ること有らまじ放下はうかと云ふ者は矢の箆を二丈も三丈もつぎ第一の上に茶椀を置き巳れがはなのさきにのせくるとまはせ共其の茶椀落ちざる様にする是れきどくなれ共本意に達せねば何の用にも立たぬをもつて放下とは名付けたり文珠に夢想相伝の八卦などゝ云ふ皆是れ放下の一類なり面々可存、但吾朝菅丞相かんじやうせうもろこし無準ぶじゆんへ参得は是れ聖人のいきおいなり聖人は過去現在未来三世に通するそれを名付けて仏と申し又盗賊は現在斗りに屈詫して邪欲有る故天道の悪みをうくる人間六十二年の身をたもちかねさまをかへ色をかへ心をぬくは盗人なり邪智じやち深くして術をなし口にも虚言をまことの様にいひ見てをもしろふ聞てきゝことに取なす盗人を放下と名付け一として実の用に不立、再び如此者のこと誰にても我前にていはんは曲事くせごとたるへしと宣へば長閑赤面して無面目仕合せなり