『甲陽軍鑑』(こうようぐんかん)は、小幡景憲が江戸初期に著した戦国大名・武田氏にまつわる軍学書である。ここでは内藤伝右衛門・温故堂書店の刊行物を底本とする。
- 底本: 高坂弾正 著 ほか『甲陽軍鑑』,温故堂,明25,26.
- Webブラウザ上でキーワード検索しやすくするために、「龍」を除く旧字を新字に変換し、いくつかの異体字を常用漢字に変換している。
- 「己」と「巳」の誤りは底本のままとする。
【 NDLJP:24】甲陽軍鑑品第七小笠原源与斎軍配奇特有㆑之事
甲州に小笠原源与斎とて軍配者有㆑之種々の奇特をあらはしふろに入り戸をおさへさせ人々しらざる様に外へ出で或は夜各々会合するにざせきの向ひに山あれば向ひの山に火を幾度立ん各々見よと云て人のこのむやうに火を立るほどの者也凡そ軍配を能く伝授すれば其軍配の余精をもつて種々奇特をいたす又永禄四年に河中島合戦之時討死せし山本勘介は信長公旗本に足軽大将の中五人にすぐられたる名人と云ひ是も軍配鍛練の者なり【信長トアルハ信玄ノ誤ナルベシ】此山本勘介入道道鬼が軍配は宮、商、角、徴、羽の五つより分て見る雲気烟気其外ゑぎ、さご、すだ、来り様行様右之外も口伝あれ共勘介流はしゞめて是は一段短し但小笠原源与斎がごとくきどくは無㆑之、雖㆑然源与斎も云ふ奇特は軍配の神変なりと云ふ威光迄にて勝負の利には不㆑成者なり其いはれは人に望まれて向の山に焼松を立るならバ我くらき道にて火に事をかきし時焼松を立て路をみて行ならば尤然るべけれとも左様の事は中々不㆑成、たゝ人にのぞまれてよそに火を立る斗り是は術なり術は座興にて実の道に至て弓矢の計略、計策などの用に不㆑立然ば敵味方対陣の時節は勘介も源与斎も同前なり扨諸人の云ふ同事ならば神変いたすかたがましと云ふ又一方には同前ならば術をせざる方がましと云ふ馬場美濃守申すは神変は尤なれ共それは人によりての武士が弓矢のために軍配を習て神変いたしたらんには武道のためとは云ひながらかの奇特する人とあだ名をよばれ禰宜山臥などの様に申さん其上正法に奇特なしと聞ば神変は更に不㆑入者也摠じて侍が武芸をならふに弓、鉄砲、馬、兵法此四をば何より以て然るべし成程芸にいたし工夫【 NDLJP:25】思案して鍛練するに極りたり雖㆑然、上手になれば必弟子を取り弟子を取れば武道のたしなみとはいはず弓いる人鉄砲打、馬乗、兵法遣などゝ名を付て如㆑形覚ゑ有る人をも傍輩ゑみがたきとて人は人を偏執する物にてわきの事へかゝり武辺者とはいはざる物なれば何と上手に成ても弟子取ことは更にせんなき事なり扨て馬のめきゝをするも弓矢を心がけたる人、馬にすきての事なれ共あまり仕り過れば博労のごとくに各思ふ者なり頓て又後は其人心がけをバわきにして慾心出きたる故友傍輩をもだしぬく物に大方は成る也それは甚悪きしかたにてさたをかぎりたることなり但小身の自身弓鉄炮かたぐる足軽などはくるしからず侍はなき事なりことに盗と云て人の物を取斗りにても有まし口にて偽を云は口の盗、主の使に行とて私の用にわきへよりて久しく居り遅参して主を待せ遅く返事を申は足の盗と是を云ふ侍武略仕る時は虚言を専と用る者也それを偽と云は不㆑知㆓案内㆒武士にて女人に相似たる人ならん左様の者は武略の義と只事の分を不㆑知して其道鍛練せざる故に巳が申て悪き虚言を云ふ軽薄の意地悉く備てあり女人が人のことをば云ひ我悪事をば申分証拠もなきことに我と吾身に理を付る皆是れ女人のしかたなり扨又人間の背語、善患の方便有も証拠さへ有ば申分に非有まじそれを非するは無理なり無理は大小によらず至らぬ人のしわざなり其㆑猶女の如し女人は多分理を不㆑知、知と云共男中の分別程にも劣りなん直なる女は千人に一二人も有ぞせん然る故にや理非をしらずつたなき武士を女にはたとへたり右に云ふ武略の虚言不㆑苦云は国を持給ふ主君へさしそへての義なり国を持大将人の国をうばひ取給ふこと国に罪はなけれ共武士の道たる故にや且つ又其将悪を行へばそれは無道を討て国を治め民を憐み給ふこと将の道なり古今において山賊、海賊、強盗とも不㆑申就㆑夫の虚言を計畧と申て不㆑苦は道理なり昔年唐、吾朝に至る迄計畧の能者をば謀臣と名付てほめたりと馬場美濃守か申置、誠に将たる程の人は英雄の心を取てそれ〳〵に禄を与へ愛し給ふへきことなり古信玄公二十三歳の御時駿州より山本勘介を百貫の知行と定て召寄られ御対面の其座にて二百貫の朱印を被㆓成下㆒其いかんとなればあれ程の夫男にて名の高きは武道は不㆑及㆑云物に鍛練したる芸能のすくれ思案工夫も深からんと思召給ふとなり其後四五日をへて駿州の様体御尋ありければ其演説可㆑然とて終に勘介を近くぞ召つかはれける其時節長坂長閑左衛門の丞といひし時申ていふ此比の勘介を近付給ふ事駿州の聞へもいかゝに候といさめ申す信玄公聞給ひ籌有者をば是を近付よと云ふ時は駿州のさたは何共あれ勘介に物をいはせて聞なりと宣ふ信玄公其頃御年二十三大膳太夫と申す御時なれ共すどの義に合給ひ【すどハ数度ナルベシ】老将にも越て其理全くおはしますにより左衛門丞赤面して罷立扨三ケ年の間に勘介に八百貫の知行を宛行れけり勘介も弥過分忝くふだい同前に存じ奉る其後勘介工夫を以て信玄公信州数ケ所の城をせめおとし給ひ終に村上殿を追出有て【村上義清ナリ】信州悉く御手に入給ふこと過半は山本勘介がはかりごとに依てなり信玄公十八歳の六月天文七年戊戌の年より村上殿と御合戦はじめ同九年目天文十五年丙午の年村上殿追出有㆑之信玄廿六歳にて此たゝかいおはる山本勘介駿府より甲州へ参仕せしは天文十二年癸の卯の正月信玄公二十三歳の御時なり勘介甲州へ参じ四年めに村上殿との合戦終る信玄公武道功者にならせ給ふ村上殿と九年の間毎年合戦之あるゆへなり又其年の八月より越後長尾輝虎公十七歳信玄公廿六歳にて御取合海野たいらにおいてはじめて御合戦有㆑之【伝解ニハ輝虎公十八歳信玄公廿七歳トアリ】みぎのごとく軍配何ごとにもきどくを用べからす諸侍ものをけいこして上手に成ても弟子取こと不㆑可㆑有㆑之ものなり
天正三歳乙亥六月吉日
高坂弾正忠記之