甲陽軍鑑/品第五十三
信長長篠合戦勝利の威をもつて、其年七月越前朝倉をたをし、則ち其陣越前において、伊勢田丸の城を取あげ二番目の子息三の介を、彼城に指置べきと定め申され候、勝頼公御わかげ故、此合戦なされ、朝倉迄やすく亡び候、仔細は信玄公御在世の時、伊勢の国司江州の浅井、備前丹波の赤井悪右衛門、越前の朝倉中府へ使者を付置き、信玄公御上洛なされ候やうにと申候に、信玄公西の年四月御他界にて各力を落候所其上勝頼公亥歳長篠にてをくれを取給ふ故、少しもうしろつよき事なくして、かやうにほろび候、去ながら信玄公御他界ある次の戌の年、遠州高天神の城を勝頼公攻落し給ふ時、信長家康不㆑叶を聞、国司贔負の伊勢先方衆、歌を作りてうたひ候、其歌は「たゞあそべ、夢の世に、上様は三瀬へ御座れば高天神は落」などゝ申し信長にしたがふやうにても信玄公御他界の後、勝頼公御代までも、長篠の合戦に負給はぬ間、三年は諸方にて武田四郎殿を、うしろ楯に仕り、如㆑此候へ共、長篠合戦をくれの後は、御旗本衆の事は申すに及ばず候、御譜代衆東美濃岩村の秋山伯耆まで、亥の極月に取つめられ候へ共、勝頼公後詰成りがたくして、信州伊奈迄御馬を出され、大雪にことをよせ、岩村の後詰不㆑叶候に付て信長より岩村の城へ扱ひをいれ秋山伯耆守伯母むこなれば、たすくべきとありて、だしぬき、伯耆座光寺をからめとり、
天正四年丙子春遠州高天神の城へ、米入らるゝとて勝頼公きとうぐんへ御馬を出され候殊に高天神の押へに家康より横須賀と云所に城をとり、大須賀五郎左衛門と申家老指置、信玄公の御時、十双倍劣たる勝頼公の御備也、仔細は滝坂より横須賀へ備へ御押の時、家康におぢ、しほかひ坂をばかなはずして浜ばたをおし給ふ真田喜兵衛ばかり、兄源太左衛門跡目になり、千余りの人数引つれ候て信玄公御時のごとくさのみをそれず山の中を押とをるなり
右の通り、遠州高天神御仕置、勝頼公なされ候に、家康八千余りの人数にて、横須賀より少しこなたの山に【 NDLJP:236】備へをたて合戦をもちて相見へたり、去年亥の歳長篠において勝利を得たる故、家康備への勢見事也味方は去年おくれをとり、ほまれの侍大将衆皆討死仕つる、小身なる衆も十人が八人討死候て生替りなる故、臆意カなしおくれの後、敵地へふかく働らく事、是とても信玄公御武勇のあたゝまり少し残りて如㆑此扨又横須賀の城へは、小笠原衆、山県三郎兵衛衆、二の手にて、手あてのはたらきあり、大須賀五郎左衛門かひぞへにさしをかるゝ、かけひ介太夫と申者家康ふだいの兵、生国は三河侍剛の武士也此侍足軽をつれて出、小笠原衆と、弓矢鉄炮のせり合有、二の手山県衆、大将なけれ共、山県従弟なる故、小菅五郎兵衛を陣代と定めて、申付らるゝに付て、山県衆皆五郎兵衛と申合せ、懸引様子是とても、山県三郎兵衛仕置たるあたゝまりを以て如㆑此、とかくは信玄公御在世の時、侍大将、足軽大将、物頭、物奉行、諸役者に能御目利なされよき者を仰付らるゝ故也、殊に勝頼公惣御人数は十七手に備へ、家康山よりおろし川をこし候はゞ防戦を遂げらるべきと、合戦をもつて、まち給へど、家康先年より長篠にてかち、次第に我鋒さきつよくなるべきと、工夫して勝て甲の緒をしめ、少しも取あはず候、勝頼公は、横須賀を右に見少しうしろへまはり給ひ歩者三十斗り、めしつれられ横ずかの城をくわしく見分被㆑成候、さ候へば高坂弾正是を見候て、いそき跡より一騎にて乗つけ、勝頼公に向つて申すは敵を少しも大事になされす候事いかゞなり去年勝の威ひにて、家康只今にもかゝり候はゞ、味方は皆生れ替り、其上去年長篠にて負のをくれ心候へば千に一ツも此方の勝事は有まじく候、左様候て家康の居城浜松へは、上道五六里ならでは有ましく候甲州へは、この人数を引つれては、何と急き候ても富士の大宮駿河の府中、遠州の小山、さがら高天神までは五日路にて候、五日路をば長篠
【 NDLJP:237】天正五年丁丑に小田原より甲府へ御輿入候て氏政公の御妹聟に勝頼公御成候、高坂弾正、長篠の後ち三年己来初めて今夜心安く候て夜能く、ねいり申候は、小田原より御輿入たる故也と各〳〵にかたり申され候なり
日本有㆑山、名㆓富士㆒其山峻三面是海、一朶上聳、頂有㆑煙、日中上有㆓諸宝流㆒下㆑夜即郊上常聞㆓音楽㆒、古来六月上、此山不㆘会有㆓女人㆒得上㆑上至㆑今男子欲㆑上、三月断㆓酒肉欲色㆒、所㆑求皆遂云、因㆑玆関東関西之人無㆑不㆓竸望㆒、古人云、雖㆑跨㆓三州㆒過半吾甲陽之山也、処㆑今詔陽之一字、透得者希、自㆓天正丁丑㆒、抜㆓却黒駒関鍵㆒而不㆑碍㆓往来㆒、通㆓車馬㆒是太平得㆑路之謂乎、伏冀以㆓這開関力㆒、忠勇馳㆓八極㆒、武威傾㆓九州㆒、而掌上舞㆓天下㆒量外致㆓太平㆒、者算㆑日竣㆑之至祝至俟祷、稽首敬白
天正丁丑季夏六日 勝頼
奉㆑納㆓富士神前㆒
伊勢 熊野 諏訪 願書 追考可㆑記者乎
天正五年丁丑、高坂弾正、勝頼公へ、御意見申上る、越後謙信へ降参なされ、偏に頼入と仰られ御尤もかと存候其いはれは、信玄公御遺言も如㆑此候へ共、是非共越後へ委しき御使者をこし給ひ、輝虎の旗下に御成なさるべきと仰越れ御尤候是に付先御父信玄公御在世の時の御威光を申にたゞ、尋常の大将の御威勢にちがひ、さながら生摩利支天にて御座候其仔細は、永禄十一年辰の極月十三日に駿河国を乗とり氏真を懸河へ追こみ給ひ候へば其年極月下旬より、懸河の城内に腹疫病と申わづらひはやり、懸河中氏真の御味方下々の者皆力を失なひ候故、小身の家康におしつめられ、かなわずして次とし巳の始め五月二十二日に城をあけ小田原へ氏真公のき給ふ此外信玄公の御働き所、ケ様の儀度々覚へて如㆑此其上伊勢の国司を始め、信玄公御代に御音信申たる者を皆長篠の次ぎ子の歳、信長公殺し給ふも飛弾越中衆降参の人々は謙信にころさるゝもあり美濃三河の事は申におよばず、みな敵にとられ、遠州の城もおほかた家康にとられなされ候へぼ、いまより三年のあひだに、高天神、小山、さがちみなとられ給ふべく候、右信玄公の御威光のごとく只今又輝虎の威光つよく候て謙信働き申さるゝさき、悉く疫病はやり候故、信玄公御他界酉の歳より、信長越後謙信をうやまひ信玄公へ仕りたるごとくに、一年に七度づゝの節句をいはひ使者をこし、佐々権左衛門と云、信長譜代の侍を越後につめさせ都の絵図を、狩野にかゝせ、謙信へ信長より進上いたされ候、謙信は一年に一度も信長へ使ひこす事なし、二年に一度ばかり漸〳〵なり如此にても、又越中侍神保信長妹聟にして内々合力仕り、謙信に楯をつき候へと、申越し謙信にかくし山道をとをり、信長神保に合力なり、信玄公の御時は、織田掃部、佐々権左衛門、甲府へ年中に八度九度差越しては又家康に内々にてそゝろをかひ、信玄に楯をつき候へと申され候、其ごとく今は謙信の機をとり信長種々軽薄を仕られ候といへども、其上神保にそゝろをかひ候儀、謙信腹を立神保をばおさへをおき加賀の国松任の城長と申侍ひ、信長方なる故此城へ取詰せめらるゝに信長了簡なくして後詰を仕べきとてさきへ指こさるゝ其時、大将は柴田修理、佐久間玄番、丹羽五郎左衛門、長谷川お竹、前田又左衛門、木下藤吉、徳山五兵衛、大柿の卜全、滝川伊与以下、都合四万八千にて、右の後詰と名付、働き出松任のあなたに上道一里半、近所の川をこし信長勢陣取所を、謙信彼城をせめおとし、長が頸をとり、信長後詰と聞謙信早々夜中に打立明日卯の刻の合戦と定めらるゝ一の鐘に諸軍したゝめ、二のかねに武具をきよ、三の鐘にうつたつべきと、謙信出らるゝもよほしを聞、信長勢悉く敗軍して、跡先もなく夜にげに仕り、川を引こすとて
天正五年丁丑霜月、高坂弾正申は勝頼公謙信へ仰入らるべき事必ず御尤もなりと申、扨て又其節信長より部六角堂の山伏
信玄公軍に日取候て勝つ事はあやうき儀也、合戦はたゝ備への仕様にて勝、其仕様と云は第一に備へのたてやう、第二に物頭軍陣の諸役者を能く目利候てそれ〳〵の得たるわざをみしり申付る、第三に軍法をよく定め少も私なき様にして勝と仰られ候へども又日取をも内々にて御用ひ也其日取は山本勘介丸日取、前原筑前一月切の日取、是れ二ツはいづれの日取より古来からの勝負に大形相候とて右の二ツを内々にて御用ひ也、一ツに丸日取、二ツに月切の日取是れに書す此外小笠原源与斎申上る八方【 NDLJP:239】がゝりの事、合三ツから口伝有
武士道の沙汰褒貶六ケ条の事
敵討は、親の敵きを子のうつは順、兄のを弟のうつは順、子の敵き親の討は逆、弟のを兄の討は逆なり叔父の敵きを甥の討も順なれども、うたざるとてもくるしからざるなり
合戦せり合にあひうちは非義なりつよき武士、大かたの人にしるしをくれ候てよき武士は験しとらずとも不㆑苦、あひ討は必らず無用なり仔細は鑓をあはするにあひ鑓と云ふ事はなく候
ばい頸の事は、大きに比興なり但しこれはあひうちよりおこる努々ばいくび仕るべからざるなり
味方討は御大将への逆心なり、是れは又ばい頸より劣り也
武士の寄会ひ互ひに中悪敷とも、乗うち不㆑可㆑仕候、縦へ討果し候共無礼は弓矢神への恐れなる儀を専らにして実の道理を深く守るべきなり
親は又家中に奉公仕りなば、御旗本に奉公申候に、親兄弟
信玄公の御時、いかほど諸国にて諸〳〵の御敵信玄公に四天二天の御大将衆とせりあひ合戦城攻夜込かまりあひといへども終に味方うちは申に及ばず、ばい頸の儀少しもなく候、越後謙信の家にても如㆑此おそらく和朝戦国の中に、信玄謙信の両家ばかりケ様なるは弓箭せんさく能き故也、ぶせんさくの家にても武篇をつよく走り迴らんと心がくる、武士は信玄公の衆作法のごとくたしなみ候間其儀ならば又ばい頸はひが事也、又或る時ある武士しるしをとりはぐれ傍輩のよき頸をのし付の刀脇指に買ひ取て出し候、其事あらはれて諸人かひたる人をそしりたるに、馬場美濃、山県三郎兵衛、内藤修理、高坂各ゝ侍ひ大将批判に頸かひたる人は大きなる剛の武士なり、それほどに心かくるは英雄と是をいふ、又類実て物なば取てそれをあらはすは、何と
武士道批判の事
人をほむるに、能き証拠を引、
三河牢人山本勘介、此日取を信玄公御代に上る
周文王団扇事、義経公御歌に△時と日は味方よければ敵もよしたゝ肝要は方角をとれ
摩利文尊天〈[#図は省略]〉
信玄公日取をばさのみ御用意なく候つる、又入事も有㆑之【 NDLJP:240】 義経公百首歌
日取には其家々の吉事有、扨は照日と、風ふかぬ日と
周武王之日記、上野先方侍、前原筑前守、信玄公へ上る
△正月一日○二日○三日○四日●五日●六日●七日○八日○九日○十日●十一●十二○十三○十四● 十五○十六○十七●十八○十九○廿日●廿一●廿二○廿三○廾四○廿五●廿六●廿七●廿八○ 廿九○晦日
△二月一○二○三●四●五○六○七●八○九●十●十一○十二○十三○十四●十五●十六●十七●十八○十九○廿○廿一●廿二●廿三●廿四●廿五●廿ハ○廿七●廿八●廿九●晦●
△三月一●二●三○四○五●六○七●八●九○十○十一○十二●十三●十四●十五○十六○十七●十八●十九●廿○廿一○廿二○廿三●廿四●廿五○廿六●廿七○廿八○廿九●晦●
△四月一○二○三●四○五●六●七○八○九○十●十一●十二●十三○十四○十五●十六●十七●十八○十九●廿●廿一●廿二○廿三○廿四○廿五●升六●廿七○廿八●廿九●晦●
△五月一●二○三●四●五○六○七○八●九●十●十一○十二●十三●十四○十五●十六●十七○十八●十九●廿○廿一○廿二廿三●廿四○廿五○廿六○廿七●日八●廿九○時●
△六月一●二●三○四○五●六●七●八○九三十●十一○十二●十三○十四○十五○十六○十七○十八○十九●廿○廿一●廿二●廿三○廿四●廿五●廿六●廿七○廿八○廿九○晦○
△七月一○二○三●四●五●六○七●八●九○十●十一○十二○十一三○十四○十五●十六●十七○十八●十九●廿●廿一●廿二●廿三●廿四●廿五●廿六●廿七●廿八●廿九●晦●
△八月一●二●三●四○五●六●七○八●九○十○十一○十二○十三●十四●十五●十六●十七●十八●十九○廿○廿一○廿二○廿三●廿四○廿五●廿六●廿七○廿八●廿九●晦●
△九月一○二●三●四○五●六○七○八○九○十●十一●十二●十三○十四○十五○十六○十七○十八○十九●廿●廿一●廿二○廿三○廾四○廿五○廿六●廿七○廿八●廿九●晦○
△十月一○二●三●四○五●六○七○八○九○十●十一●十二●十三○十四○十五○十六○十七○十八○十九●廿●廿一●廿二○廿三○廿四○廿五○廿六●廿七○廿八●廾九●喉○
△十一月一○二○三○四●五●六●七○八○九○十●十一●十二○十三○十四○十五○十六○十●七十八○十九○廿●廿一●廿二○廿三○廿四○廿五●廿六●廿七●廿八●廿九○晦●
△十二月一○二●三●四●五○六○七○八●九●十○十一○十二●十三○十四●十五●十六●十七● 十八○十九●廿○廿一○廿二廿三●廿四○廿五○廿六○廿七●廿八●廿九○晦○
八方懸之事 信州先方小笠原源与斎
△子日戊の方 △丑日申の方 △寅日巳の方 △卯日は寅の方 △辰日戌の方 △巳日申の方 △午日巳の方 △未日寅の方 △申日亥の方 △酉日申の方 △戌日巳の方 △亥日は大形無㆑之
義経公御歌には
時と日は味方よければ敵もよし、たゝ肝要は方角をとれ
軍備へにて勝利の本の事
義経の歌に「百人を十所に置く備へこそ千の敵にも切かつときけ 謙信公備へは先衆七手組一手に七備へづゝ四十九備へ也、理義多し口伝 備へをたてやうは、八ツ伍よりはじまる口伝
足軽も段々に居て替るべし只肝要は備へなりけり
右の通信玄公御用ありたる儀を、能々御用なされ尤もに候然れ共信玄公と、敵方にても謙信とは、弓矢大形一ツに候、此大将にても謙信とは弓矢をつよく取給ふ儀をば御真似有間敷候、是れは両大将ながらよの常の儀にあらず、御戒力を以てあそばされ候、勝頼公はつよみをさしをかれ時にあたる名大将の大身或ひは大形の大将成共、大身へちかより、降参なされ候はゞ、武田の御家は長久に可㆑有㆑之候、御家さへ長久に候はゞ勝頼公当年三十二歳出る日のごとくに御座候間、以来は何程の国を切取給はんも不㆑存候、十ケ国と国を御持候へば、跡の諸方へつくろひたる事、悪しくて比興なる事は、誰も申さず候てさたもなくなり申候、信長眼前の儀に候、かならず此理をば工夫肝要なり、仍如㆑件
信玄公御若き時より人御使ひ被成様之事【 NDLJP:241】人を試み給ふに、先甲州の内にても、川よけ普請其外御鷹野などにて在郷扨ては山に竹木大小の有をよく覚へなされて夫をしろしめされざる様に、人々に尋ね給ふ各〳〵の中に委しく見覚へて申上候者の候其所を度々見たるか、又御供の時計りにて見覚へたるかと重ねて度々御尋ね有て、左様の儀幾度もかさなりて申人を、他国へ検使に差越境ゐ目などのもやうを見せ給ふ、或ひはくどく物を御尋ねあり其人の心をくみとりなさるここと常の儀なり其様子はたとへば御前衆親の煩ひなどあれば、彼煩ひ申候様子を委しく問ひ給ひ其者の親に孝不孝をしろしめさるゝを諸人は不㆑存して信玄公くせにて一ツ事を幾度も御問ひ有と申つるはひがごとなり其儀に能々思案工夫していたるべきなり、古人のいはく金以㆑火試、人以㆑言試〈[#底本では2つの返り点「レ」がいずれも名詞の下]〉
右のごとく試み給ひて、又其上御傍ちかきおく近習の内にて無二無三に御屋形御用にたち申べく候と存るわかものを御覧じ付、六人ゑらび出し耳聞と思召し定められ、諸人又は他国より来る新参衆の手柄の虚実を聞究め或は手柄有ても、うそをつねに申人か傍輩によき近付有に、無頼も数者が大身衆出頭ばかりに、慇懃にて諸傍輩に慮外成人か、酒をすごして酔狂をする人か、惣じて諸人に腹をたゝするやうにする人か武具万事無嗜みの人か、分限にて諸道具能嗜みても弓矢に心を入ざる武道無心懸の人か一切の善悪を申上よと、被㆓仰付㆒人六人は、曽根孫二郎、金丸平八郎、三枝勘解由左衛門、真田源五郎、三枝新十郎、曽根与市の助是なり此内金九平八郎を後ち土屋右衛門、真田源五郎を武藤喜兵衛と申すは勝頼公御代長篠合戦に兄両人源太左衛門、兵部の介討死候て、其跡を被㆑下真田阿波守と此比申す曽根孫二郎は内匠と申す、三枝勘解由左衛門は長篠にて討死いづれも弓矢鍛錬はおほへの武士にもおとらぬ人々なるが、信玄公御そばちかく召つかはれ、万づ御出語を承り覚へたる故なり、古人のいはく、花中鶯舌不
信玄公は他国の大将衆物いはれたる事、或ひは万づ其作法聞給ひ、戦此方の勝利をなさるべき、思案工夫専らあそばす故、永禄元年午の春越後謙信、さい川雪白水にて、大きに出たるに無理に謙信馬を乗込人数をころし、しかもよき侍おほへの武士川にて死候て、謙信も馬をのりはなち、流れたる大木に取つきやう〳〵くがへあがり給ふをきこしめし、信玄公御批判に、謙信弓矢には無類の侍なれ共分別なき故、至りては臆病の道理也、子細は出たる大河へのりこむ程ならばそこにて死したるこそ尤もなれ馬を乗はなし、あがるほどならば出たる河をば待候て河の落たる時渡り候て然るべき儀なり、但し謙信たけき武士故我被官にも何の道にてなりとも、たけくみられんとの儀にてもあるへく候、それとてもいらざるつよみは国を持者の非義なり、然れ共謙信未だ三十歳にたらざる者故如㆑此と信玄公仰らるゝなり
右耳聞六人の外、御目付衆十人は御中間頭十騎なり其横目十人二十人衆、頭衆、十騎也筋奉行十人も右の御中間頭十騎なり如㆑件
此比の大将衆弓矢取様之事
北条氏康公は、名大将にて度々の軍に勝利を得給ふ中に、夜軍にて管領上杉の大敵に一しほつけ、終に則政にきりかち追うしなひ、関東をきり随へ被㆑成候へば北条家の弓矢は敵の油断を肝要に目を付る也
越後の謙信は後の負にもかまはずさしかゝりたる合戦を、まはすまじきと有は、右の出川を無理に渡り給ふ仕かたなり殊更相手がましき敵には、何時も退口あらく有事、加賀越中或ひは関東碓氷などまで敗軍有つるといへども、信玄公にあひ給ひては、無二に仕懸申され候なり
織田信長は、巻たる城を、巻ほぐしてのき、堺ひ目の小城いくつせり落されても不㆑苦追くづされて我人数を追討にうたれねば、世間の取さたはなきものなればむづかしき所をばいそぎ引入、頓て出て国を多く取りて持、大身に成ては終に其名は高き物也と有儀なり以上
信玄公は、軍にけがのなき様に、敵をみて退口のあらくなきやうに、巻たる城を敵の後詰をみて巻ほぐし、のかぬやうに出陣前にならしを能して出、惣じて我領分の小城を一ツもとられざるやうに跡の勝利を水にせぬやうにさへあれば、末代迄名は残る者、也扨又国を多く治める事は其身の果報有て少しもけがなくして名を取りて、寿命長ければ終に扶桑六十余州の主共成べきと仰らるゝ也、信玄公の作法は御小旗の文字に書給ふ、四ケ条のごとくなり、其古語者其疾如㆑風、其静如㆑林、侵掠如㆑火、不㆑動如㆑山、天上天下唯我独尊【 NDLJP:242】 軍場にての様子、三ケ条は
侍大将馬そへの者持三色は、うちかひ又は馬のいきあひ、水入筒腰に指也 軍場にて、とはつく人きらひ申候、備へなり候てあしきなり、歌にいはく
軍兵は物いはずして大将の、下知聞時ぞいくさにはかつ
軍兵は団扇とりぬる人の只詞を聞てとにもかくにも
軍法に背き、一二人にても出る者あらば必ず御成敗可㆑有候、味方負の本也、義経公の歌に云く「懸引に独計を頼みなば只闇の夜の
過銭の事
高坂弾正存生の時定置候、諸奉公人の