甲陽軍鑑/品第五十五
卯の年春より、駿河富士の大宮大杉より、煙り立てみゆる、是を勝頼公聞召、吉田守警斎を召常の間にて諸人出仕の人々聞所において少しも隠密なくて、右の杉より煙りの出る事を御尋ね候、守警承り神道に
千早振る我心より成る業をいづれの神がよそとみるべき
身は社心の神を持なからよそを問こそおろかなりけり
と此二首の歌をひき、御機にさへ懸られずは、不㆑苦と申上る、勝頼公仰らるゝ少しも心にはかからず候、其子細は何事あるとも、滅亡してのくと思へば、心にかゝるべき様なし、さて又勝頼をおし詰て滅亡さすべき人は、日本国中にて、大身なれば越後謙信、安土の織田信長か、安芸の毛利か、小田原北条氏政か是四人の外別に誰とても無㆑之候、第一に大身といひ武功といひ長尾輝虎なれ共是は去年他界なり、氏政も我には八歳の兄といへども父氏康にちがひ、武功におそろしき事なし、安芸の毛利もいまは生れ替りといひ其上国へだて候、信長家康両人力を合せられ、我家を一度倒しみんとたくみ候へ共、家康こそ五年以前、長篠後、駿河へ働き申され候、信長は信州の内へ長篠後ちも手をさす事少しもなし、家康働も、我等旗先をみては、即時に引とる、是偏へに信玄公の御威光残り如㆑件、さりながら信長家康へ北条氏政内通の由なれば終には勝頼滅亡仕るべく候、滅亡仕とても、信長旗下などになると云ふ事は、御旗楯なしも照覧あれ、中々仕間敷候れれに付当家減知の物怪に高大士言杉より煙り立こをするらめと、少しも愁へたる色もましまさず、あざわらひて御座敷をたゝれ奥へ入給ふと、近習衆御物語り承り、余りに勝頼公つよき御屋形にて御座候と存じ奉り、春日惣二郎こゝに書付申候、如㆑件
天正八年庚辰三月末に、勝頼公伊豆の国おもてへ御働きあり、さるに付四月北条家より、梶原海賊を出し候所に、武田方より、小浜、間宮、駿河、先方の海賊衆、船を出し船軍あり、勝頼公事浮島が原にて御見物ある惣別北条家は、伊豆、相摸、武蔵、上総、下総いづれも海あり、然も大国持給ふ勝頼公は、信濃、甲州、上野、海なき国なり、海のあるは、たゞ駿河一国也、遠州は、家康とあらそひの国なれば、海有とても、是は他所へはたらき申事ならざるは小山、さがら高天神も、番手持なり、殊にもつて遠州浜松家康居城故、遠州の内、御持の所少しも油断なりがたし、此上信長はや十六ケ国にあまり、大身になり給ふ、家康と信長と合せては大形二十ケ国ばかりの大敵なり、何に付ても敵次第にふとる味方は又次第にほそる、北条殿も、常陸、下野までも手を懸給へば、大国を七ケ国ばかりの大敵なり、殊更勝頼公三年先に表裡をなされ、景勝と一味有、三郎殿をころし給ふ故、小田原よりも、家康信長へ内々にて入魂御座候由、聞こゆるに付て、勝頼公御備へあやうきばかりなり、其日の船軍にも、北条の船は武田方の船三十艘ばいある、間宮さけの丞手負て、甲州方海賊衆、悉く負さうにみゆる、但し向井伊賀子息、向井兵庫、敵船に向ふ所を、勝頼公御覧あり、旗本足軽大将城伊庵子息城の織部ノ助を御使に越給ふ、向井兵庫、只一人の覚悟にて、大敵にあひ勝負無用に仕候へ船を乗すて早々、くがへあがれとある儀なり、城織部波打際へ馬を乗ひて、兵庫が船をまねきよせ、勝頼公御意の通りを申渡す、兵庫承りて御返事に船いくさは陸の軍さにちがひ船よりおり候へば、縦へまん〳〵の手柄を仕りてあがるとも、くがへ追上られ船をとられたると申せば末代まで海賊の悪名にて候と申て又我ふねをこぎいだし、数船の敵の中へ、ふねをいれ、勝負をはじめ、しかも北条家の海賊衆よき者をあまたうちとり、敵の船を此方へ乗取、兵庫理運に仕り候故、北条家の海賊衆こと〳〵く仕まけ船をこぎのけ、はやめてにぐるこれをみて武田がたの海賊、間宮、小浜、伊丹大隅、岡部忠兵衛衆、各〳〵船をはやめ、北条衆を追かけ、理運にしもどる、武田方の海賊衆、何時も小勢にてかくのごとしその日は向井兵庫、たぐひなきほまれ、はしりめぐりなりとて勝頼公御感状を、向井兵庫に下さる但し御印判の御感なるは長篠合戦以後信玄公御代にちがひ他家の奉公人甲州へ参る事まれなり結句は武田家を出て、他国へまわるべきとあり、すへ判の御感は惣じて出し給はざる故如㆑件
孕石忠弥と申剛の者を、御成敗あるとて、甘利殿衆、歩の二十人衆合せて手直死人二三十人あり、ケ様の大剛の武士を少しの事にて御成敗有はおしき事也と諸人批判也、甲府にて尊躰寺へ籠りて如㆑件
曽根与一の助と申者、信玄公御代に、御前能出頭仕りたる侍を、小山田八左衛門、初鹿野伝右衛門に仰付られ御成敗なり、何の科もさのみなきに、ケ様なるは、長坂長閑、跡部大炊介と中悪き故さゝへをもつて如㆑件
落合市之丞と申侍は、度々の武功あり、殊に遠州味方が原合戦の時彼市の丞信玄公御意にちがひ、馬場【
NDLJP:247】美濃備をかり罷有、家康大剛の武士を指物を目付、毛付をいたし、あれ討べきと申て其ごとく討たる武功の者なれ共勝頼公御あてがひ悪き故、他国仕りたるに、市之丞母を人質に御取候へば、剛の武士なる故帰り申、こゝにてよくは被㆑成ずして、足軽大将の小幡又兵衛、遠山右馬の介の両人に仰付られ、からめとらせて、みごりのために、しばり頸をきれと、勝頼公仰せられ、彼市之丞を御成敗なり如㆑件
三年以前寅の年に、高坂弾正病死してより、悉く皆国法軍法共に、【全集ニハ以下三項ヲ加ヘアリ皆井靭負此外八ケ年に十三人釣閑讒を以武功乃士御成敗也
すはの分限者春芳休庵が子治部、伊奈相府相庵が子五郎左衛門金銀故両人共に足軽大将に成其外曽根下野、駿河奥国寺城代関甚五兵衛ハ同国鞠子城代に成是等ハ釣閑に重き音信つかいたる故なり
小宮山内膳小山田彦三郎口論に内膳ハ改易入寺彦三郎ハ内藤修理いもうと聟ゆへ無事なり】長坂長閑、跡部大炊申次第に勝頼公なされ候所に、長坂長閑跡部大炊、越後景勝より三年先に過分の金子を礼にとり、是に味はひ欲に耽り公事さたも礼物さばきに仕り、百姓其外をも、物持たる者公事を仕るには分限を見付、物をとるべきために、はやくあひすむべき事をも、すむまじき様に申、礼を取候へば、其相手縦へ不弁にても長閑へ礼をつかへばよきと心得人の物をかりて、長閑へつかふ理非にはよらず、礼物過分に仕たる人の勝にさばく、中々私なる事是非に及ばざる次第なり、信玄公御他界ありて、六年目に高坂弾正死去に付、次年卯の年信玄公御他界七年目よりは、残党なるさばきにて長閑大炊方へ地下人町人の有徳なる者共出、入心やすく何をも仕るにより、勝頼公御前にて、国法軍法の御隠密なる御談合をも、奥外様の近習物頭衆一切存せざる儀をもはやく有徳人は、しりて隠密がほを仕候へ共、町人地下人の有徳人はかたましき者なる故、分別一段あさくして末の考もなくをのれが中のよき地下人町人に語候により御舘におひて大事の儀をも柳小路れんじやく町に或ひは三日八日にてさた有は、長坂長閑、跡部大炊賄賂にすくゆへなり如㆑件
天正八年辰の夏より伊豆駿河の境沼づに城取御普請有、越後景勝と御無事の故此おさへいらずして留主居ばかり指置、高坂弾正、子息源五郎を組衆共に、沼津に指をかるゝ、但し川中島へ程遠きゆへ五分一の役にて如㆑件、さありて八月北条氏政大軍を引つれ出陣なさるゝ、甲州方は北条家と手ぎれなれば武蔵秩父の新太郎殿押へに上野菜を、大形きしおかるゝゆへ勝頼公御人数一万六千ならでなし此時節氏政公の人数を勝頼公見きり給へども更になりがたし大形氏政御領分のつもにには三万八七千る可㆑有㆑之候と見へたり然れ共勝頼公方には普請あひやめずして被㆑成候さりながらきせ川のはたへ旗本足軽衆を日々番替に指こし物見をかけ給へ共、北条家には物見を出し申されず候、北条家より国の垣に用心のためにこそ出候へ、合戦には罷出ず候と関東方より申
NDLJP:248】仕り候はゞ残は敵も味方も是に付てまはる勝負なりと仰らるゝ所に、穴山梅雪、御申候は、北条陸奥守を我等請取候事、中々なるまじく候、陸奥守かゝへの城計り五ツ六ツ是あるよしに候へば我等小勢にてなる事にてはなく候と申さるゝ、そこにて小山田兵衛丞申は、穴山殿近比いはれざる事を御訴訟なされ候御旗本をはじめいづれの手も三双倍五双倍の敵にて候陸奥守ばかりの大敵を其方へ御かけ有にてはなく候へ共梅雪御斟酌においては、我等に陸奥守仰付られ候へと小山田兵衛丞手柄をふるふて申上る故陸奥守をば武田方小山田兵衛丞に相定めらる、ケ様にあれ共氏政御返事に、我持の国用心のために罷出候、合戦仕り、人の国取べきとては出す候間勝頼は家康と御一戦尤もなりとある、御返事に付て、ぬまづには典厩、高坂源五郎旗本足軽大将に、城伊庵父子指をかるゝは北条氏政四万に及大軍のおさへ也、次の日勝頼公氏政をすて家康へ向ひて跡に大軍を御置早々駿府へ御馬をよせらるゝ儀いかゝに候、今日は浮島に御陣をなされ跡を御覧じ合され尤も、と長坂長閑申上る、勝頼公仰らるゝは、見合するに及ばぬ事なり氏政の何として合戦を勝頼と仕らるべき縦へ一戦をとげらるゝとも、柵の木をゆひ、どゐをつきなどいたしてはいかゞもあれ、たゞ平地の合戦はなるまじく候、又しやくをゆひ、土手をつきては氏康の名もよごすと思はれて、第一関東安房佐竹の敵にはぢ下総の旗下にもはぢて比興なる合戦は氏政もいたさるまじく候、さなくて田頭へおし出し、勝頼にかつべきとは思はるまじきと仰らるゝ、長坂長閑申すは長篠において、左様に敵をあなどり候故、御如在なきをくれを取給ふと申すに付て長篠と有儀を聞召其儀に任せ、河なりに御馬を立られ候へば、其日九ツ時より、雨降富士川出てこす事ならざるに、勝頼公一騎乗こみ給ひ御越あるに付一万二千の人数一度に越
【一本ニ高野など迄ヲ小者など迄トス】
天正八年庚辰秋の末に高天神御番手侍大将、一騎合の衆各ゝふちより、米渡しの
NDLJP:249】と申しかも海道一番の弓取、家康の居城へ上道五六里あり高天神へ御番手に参るより、生て帰り申すべきとはよの人はいかにもあれ、横田甚五郎にをいては存ぜず候、若此上も無二に御屋形後詰をなさるべきと思召候はゞ、割符を下され何月いくかにと、御約束ありて、塩かひ坂まで御旗をみせられ候はゞ其の時城より切て出申べく候それにても十が九ツ、各々残らず切抜候事成間敷候、左様に番手の衆みな討死候共それは屋形の御難に成申すまじく候、子細は番手の侍共、後詰を待かね切て出、皆うたせたるとあれば番手の衆計のなんになり、御屋形の御難になるまじく候若万に一ツ番手の衆堅固に、塩かひ坂まで走付候はゞそれからは高天神の城を敵にとられても番手の衆ばかりを引取塩かひ坂より御ひきなされ候て屋形御難になるまじく候、高天神の城をばとられ、番手の衆引取なさるゝばかりに、御馬を出されては、御ためいかゞに候さて又後詰御座なき内に城を出てせり合或は城をもちつめ城をまくらにと相定候はゞ誰人にも、横田甚五郎は、さのみおとり申すまじく候、此上我等申上るごとく後詰も御座なくして此地城内の各ゝ切つて出ると相定、其儀に仕るにをいては、又大形十が九ツ我等は切めけ、堅固に罷退申すべく候、横田甚五郎方より右の理窟にて書付を進上申候、勝頼公横田甚五郎申上る儀を聞き召し彼甚五郎養の祖父、横出備中も大剛の者にて信虎公より信玄公へ二代奉公申し、信玄公の御代に信州上田原にて討死する本の