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甲陽軍鑑/品第五十六

 
オープンアクセス NDLJP:249甲陽軍鑑品第五十六

長坂長閑勝頼公へ申上げ、信長へ御使御音信ありて、然べきと申上る、小山田兵衛其外各ゝ申すは信長殊の外威の強き大将なれば、御使を越給ふ程辱くは不存して当家を手にいれたると存ぜらるべく候間是は相止られて御尤に候、御使をこし給ふ共当家をやぶるべき思案工夫あひやむる事、有間数候と、各ゝは申上る、長閑申すは、信玄公御代に東美濃岩村へ御はたらき被成候まて信長より織田掃部赤沢などをさし越申され候へ共、それを悪きとは誰も申さず候、又信玄公御他界の後、越後輝虎には信長もち加賀のオープンアクセス NDLJP:250松任をとられ、越前の内をやかれても、佐々と云侍、春日山に付をかるゝ、其ごとく当方よりなされて、然るべきと申すにより、勝頼公安土へ使を御越ある、其返事に日付より抜群一寸ほどさげ、武田四郎殿へ、と御返事仕られ候、四年以前寅の暮に、輝虎と信長、有無の合戦と、謙信より申こされたる時は、信長の状には、対々に少あげたるもやうなりつるが、それをさへ信玄公の御時に、大に違たるとて、勝頼公御返事に、殊外さげてあそばされたると、さたあれども、今は早被官あいしらいの文章、名付にある家かまひ給ふ事ならず、信長家康風をきゝ、おそれ候事大形なく候武篇の儀はます共劣は有まじく候へ共信長出候へば野山も人数にて大軍也長篠合戦の時分の一倍より重ねては人数おほからんと積る、如

作州上月の城尼子勝久弟助四郎、山中鹿之介、安芸毛利を敵にして、信長へ申入候故、毛利家より、上月の城を取つめたるに信長家老羽柴筑前守ばかりにて、後詰かなはざる故、信長へ申候へバ、子息城の介殿に、丹羽五郎左衛門をかいぞへにさしそへ二万の人数をもつて上月の城へ後詰なり、又毛利家より城巻たる、人数の外、吉川と云ふ剛の侍大将、三万にて加勢する故、丹羽五郎左衛門、城助殿をつれ早々引はらひ、彼上月をせめをとさせ、尼子勝久弟助四郎、山中鹿の介を既にせめころさする、是等は弓矢に大きなる瑕なれ共信長はさやうの事さのみ苦労にもせられず、扨又信長は人数一万二万死たるとても、それに信長はこまる事もなしと、世間の取さた是なり、悪事をも此比は皆誉れの様に取さたあり、何に付ても、武田御家あぶなき事ばかりなり、如

天正八年九月、勝頼公駿河より御馬入て、甲府にをいて高天神後詰の御談合に必高天神後詰相やめられ尤に候、わかき者にて候へ共横田甚五郎申上候ごとくに被成よと、長坂長閑跡部大炊介、典厩大龍寺申上らるゝに付て、其儀になされ候、信玄の御時は、信長居城岐阜の五里近所へ、焼詰られても、信長おぢて出ざるに、今は信長におぢて、高天神の後詰無之、但勝頼公仰らるゝ甲府にて後詰、高天神へすまじとはいはれず候間、さあらば東上野へ打出、もやうにより、小城の一ツも手に入候はんと仰らる、勝頼公甲府を御立あり東上州へするいで大胡おゝこ山上ぜんなを御順見なさるゝ也、則御順見の次の日城をは御せめなざるまじきとて各侍大将もち小旗ばかりもたせ、諸勢すはだにて、御供仕る所に、ぜんの城より足軽を出し、上州安中衆とせりあひをはじめ候、是を見て勝頼公方、惣御人数大返しに仕り、ぜんの城へ取つめ候によつて、典厩勝頼公へ御申候は唯今ぜんの城御せめ被成よと申さるゝ、勝頼公仰らるゝ、かねて定の外不慮に城をせめては、此後の軍法いかゞなり、御屋形信玄公の御代より、さ様に不慮なる儀をなされずと、勝頼公仰られ候へ共、諸勢悉く堀ぎはにつき、殊に土屋惣蔵家中衆、一の門につきてあげじやうをおろしたる所を、土屋衆脇又市と申す若者、じやうをあげ廊下門おしこむ、同土屋衆、一宮左太夫と申剛の武士鑓一丁にて、ぜんの城方鑓六本と、廊下門にてつきあひ候、後には左太夫かなはずして引べきと申、脇又市申すは爰をさりては、必以来出家にまかり成べく候事は存ぜず、又市においてはさるまじきと申により一宮左太夫も立のかず候へば、一条右衛門太夫殿衆に、あざみ清太夫、堀無手右衛門、中根七右衛門、是三人は三州牢人なるが走来て脇又市同前に一宮左太夫鍵脇に、刀にてこたゆる、駿河先方ひゞの駿河先方日尾野左近と云侍は、是も土屋衆なるが其場六ケ敷とみへてはづす、あとより甲州勢かさむをみてぜんの城ひきはしを、城内へつぼむさありて土屋衆の脇又市をはじめ、一条殿衆、各城へ乗り、原隼人佐と申侍大将は我備にて一番に乗りこみ頭に刀疵の深手負、帰陣有て軈て甲府にて死去也、扨又右ぜんにては、土屋惣蔵大手を乗込、無類の走り迴り故、土屋衆皆手柄を仕り、中にも一宮左太夫鑓を合す其左太夫よりつよみを仕る脇又市なり、此又市は元来甲州侍にて、旗本足軽大将本郷八郎左衛門と申、剛の者のために甥なり駿河先方脇善兵衛と申剛の武士にやしなはれて脇又市と申土屋右衛門代に長篠にて又市二十歳ばかりの時鉄砲手を負、退き候へと、諸傍輩申候へども立のかず其後一ケ所手を負、合二ケ所の時立のく、心ばせほまれなり、舎弟惣蔵殿代には、ぬまづにてすぐれたる走り迴り仕り当ぜんの城にては二十五歳の時、大剛のほまれある走り迴りなり、さて一条殿衆三河牢人あざみ清太夫ぜんの城主を討又長篠合戦後高天神小笠原衆より、勝頼公御旗本へめしよせらるゝ五人の内林平六手がらなる討死なり、吉原又兵衛はよきくびをとり其上城内にて剛の武士と互ひに刀をもつて、しあひ吉原がたより無事を入、命をたすけんと申して、つれて出候へども、勝頼公仰らるゝ御屋形信玄公御代より、生捕は御助なく候間助けまじきと仰せられ、則ち御成敗被成候敵をうちとる其数「追可之」勝時をとりをこなひ給ひ候、城ぜめを、すはだにて一時ぜめになさるゝ事、信玄公の御代にも終に無之よその家にもさのみ無之大オープンアクセス NDLJP:251平記にも、しかとすはだの城ぜめは見へず候、勝頼公仰らるゝ、信玄公の御時我先を仕るに、遂にあぶなげもなく候ひつる、勝頼ごとくに先をする者候はゞ長篠にて敵に柵の木を三重の事はをき、十重ゆはれても負まじき物を、はやく信勝を大将にして、勝頼は頭をそりくづし、家老のごとくに成て、先を仕るへきと仰られ候は、勝頼公大形ならぬ、強き御大将の故なりそのゝち御馬いる如

同年辰のくれに、北条家のおとな松田子息笠原が養子、笠原新六郎と申、伊豆とくらの城主、勝頼公へ御被官になる、子細は辰の九月北条氏政三万七千の大軍に勝頼公一万六千にて向ひ給ひ候所に、氏政と浜松の家康申合せられ、駿河へ家康はたらきを聞、勝頼公氏政をすて家康へかゝり給ふに、家康ありたまらず、敗北せらるゝ勝頼公御手柄を見、其上其年中に、ぜんの城をすはだにて一時にせめ取給ふ事を聞、笠原新六郎譜代の主、氏政を捨て勝頼公御被官に成如

天正九年辛巳二月、伊豆表へ勝頼公御馬を出され候に、北条氏政三万余りの人数にて出向ひ給へば勝頼公典厩に仰られ、氏政へ合戦をかけ候へと有、さりながら典厩、長閑分別いたし、御一戦無之候、其時御一戦候はゞ勝頼公御理運にて有べく候、子細は氏政一の家老松田尾張子息の笠原新六郎、勝頼公方になる故松田勢を出すまじく候然るといへども、典厩長閑分別には、其日北条氏政衆三島の小川を前に当弓鉄炮を際限なく懸五重計に備へ然も惣勢下敷おりしき合戦を持ってゐたるを見て、勝頼公一万五六千の御人数にてあれへ懸り給はゞ別はなき三州長篠にて、七年先に信長家康にあひ、をくれを取給ふごとくならんと申て武田勢を引上るなり、勝頼公典廐に向ひて大きにいかり給ふ、典廐中上らるゝは笠原新六郎分別に明日ふしみたが原へおしあげ給ひ、なされかけ候はゞ北条衆たまらず敗軍と新六郎申に付引上て候と、仰上る故其日合戦なし、其夜に氏政引いれ給ふこれによつて勝頼公御仕置に新六郎居城のとくら本城、に信州先方浦野を指おかれ、ぬまづに高坂源五郎さしおかれ、其の外かうこくじ、銘々の御仕置なされ御帰陣なり

同年三月高天神の城家康にとられ、番手の衆岡部丹波守をはじめみな家康方へうちとらるゝ、さりながら前辰の年横田甚五郎書付をもつて申上るごとく甚五郎は切ぬけ甲府へ帰る、信濃侍大将相木殿も横田甚五郎と同前なり、去るに付勝頼公より横田甚五郎に御褒美として御太刀を下さるゝ甚五郎いたゝきて後返し申す、其子細はそれがし父、祖父、又は養ひの祖父も、数度の手柄を仕り、信虎公信玄公より、御褒美を下されたると承り及び候、それがし当年二十八歳にて、よくのきて参りたるとの御褒美は本の祖父〈[#底本では前二行の末尾、「御」と「祖」が逆]〉原美濃、養祖父横田備中、同十郎兵衛名をもいかどに候間、御太刀下さるゝ事過分に候へ共指上申と有て御太刀を返し申、諸人横田甚五郎大形のわかき者に候はゞ、かねての口違はざると自慢仕り御褒美をとり、おほへにいたすべく候へども、さなき所父祖父のほまれを取たるあたゝまり、横田甚五郎にも残り如此と大小上下共に批判なり如

天正九辛巳年五月、家康藤枝まではたらき申さるゝに、もちぶねより人数を出し、とうめをこし足軽をかけ候へば、家康衆仕様をよく仕りて、朝比奈駿河守者共を、尽く引おろし跡を見きり、かゝりて合戦を仕り候、家康家老石川伯耆守、酒井左衛門におとらぬ剛の武士故其日の合戦に伯耆守勝利を得、朝比奈駿河守人数のよき者を七八十、家康方へうち取候但し駿河守内にて、一番のおぼへの者、奥原日向久野覚助両人は駿河守と相談仕り、城に罷有候ゆへ討死いたさず候此せり合、朝比奈駿河守は不存候所にわかき者どもはやりて如件なるは、武田勝頼公御滅亡のはしなり、其日討死衆長谷川左近、須藤左門、石原五郎作、天野角右衛門、桜井兵庫、朝比奈市兵衛、朝比奈小隼人、矢部弥三郎、庵原伝内、家康衆勝利をうる人々は石川伯者守、萩生のさかん目両侍大将也如