甲陽軍鑑/品第五十二

其後勝頼公信州より遠州平山越を御出あり、三州うり【一本ニ三州うり谷トアリ】と云ふ所へ御着被㆑成長篠奥平籠居たる城へ取懸御せめなされ候に、家康後詰ならず、結句山県三郎兵衛におしつめられて悉とく塩を付られ候ゆへ信長引出す其使は、家康ふだいの旗本奉公人、小栗大六と申者也、二度の使に二度ながら信長出まじきとの御返事也、三度に家康小栗大六に申付らるゝは信長公と起請書き互に見つき申べきと申合候ごとく、江州箕作より此方若狭陣、姉川方々へ我等も加勢仕り候、此度信長公御出なくば勝頼公へ遠州をさし上、我等は三河一国にて罷有候はゞ、唯今にも四郎殿と無事申べく候、左候て信長今長篠の後詰無㆓御座㆒に付ては、申合候起請そなたより御破なされ候間、是非に及ばず誓段を水に仕り勝頼と一和して先をいたし、尾州へうちて出、遠州の替地に尾張を、四郎殿より申請べく候さるに付て四郎殿を旗本にして、我等はたらき出る程ならば、恐らくは一日【一本ニ一日ヲ十日トス】の間に尾州は此方へかたづき申べきと存候へ共其儀しろく申事は無用、大形聞知り給ふやうに、矢部善七迄申 NDLJP:233】内佐久間右衛門、加勢に参り候へども三州長沢より此方へ出る事ならず候、さる程に小栗大六岐阜へ罷越此趣をば、おしかくしたゞ信長殿御旗本を出され候やうにと申候へとも、三度目の使ひにも出まじきとある儀也、そこにて家康使ひの右の臆意を矢部善せに
NDLJP:234】ふ伝右衛門此御使に参り、ゆきゝ五六町ありき申候間勝頼公御馬をとめられ候其節御馬草臥てうごかざるに、初鹿野伝右衛門御馬に声をかけ追候へ共むかしが今にいたる迄、武田大将のをくれ軍に馬すゝまぬ物也、然る所に笠井肥後守申、信玄公御代より旗本においてゆびおりの剛の武者いづくよりか勝頼公御馬の進まざるを見て、はやめて来る馬よりとんでおり、是にめし候へと申、勝頼公被㆑仰は左様候はゞ其方討死有べきと仰らるゝ、そこにて肥後守命は義によつてかろし命は恩の為に奉る、我等せがれを御取立有て被㆑下候へと申て此馬に屋形をのせ参り候其身は屋形の御馬を手綱を取ていだき乗て跡へ一町ほどもどり討死する、左有りて信玄公勝頼公へ御譲ゆるし給ふ、諏訪法性上下大明神と、前だてにあそばさるゝ御甲、信玄公御秘蔵の故諏訪法性の甲と是を申、此御甲を勝頼公も御秘蔵なされ候へ共五月にて温天故、初鹿野伝右衛門に御もたせ候伝右衛門いそがはしきにより此御甲捨申べく候と申て是をすつるされ共小山田弥介と申武士跡にて是を見付名高き御甲を捨てはいかゞと有て取てもどるケ様に何れも残り申す義理深き剛の心有は偏へに信玄公の御威光強くまします、御あたゝまりにて御他界天正元年酉年なれ共天正三年乙亥五月まで三年の強よき事如㆑此、是勝頼公三十歳の御年三州長篠合戦是也、甲州方侍大将足軽大将小身なる衆まで剛の武士大形悉く討死して負合戦也、討死の衆馬場美濃守内藤修理少輔、山県三郎兵衛尉、原隼人佐、望月殿、安中左近、真田源太左衛門、同兵部介、土屋右衛門尉(此次追可㆑考)足軽大将横田十郎兵衛(此次追可㆑考)城伊庵深沢へ小幡又兵衛あすけへこされ候ゆへ、是両人は足軽大将の中に残る、御飛脚をたてられ頓て甲府へ召寄らるゝ甲州勢此節小勢なるは、越後謙信より前戌極月、一向衆長遠寺をよび、勝頼公へ御ことわりに、遠州参州美濃三ケ国の間を来春勝頼御上洛候へ、謙信は越前を罷上るべしとあれ共、勝頼公御返事御合点なき故、輝虎腹を立て申され候、其上東美濃遠州きとうぐんにおいて勝頼鋒よろしきを聞、謙信信濃へ打出ず候はゞ勝頼公に恐れたると諸国にていはれてはと存ぜられ信濃へ手を出すべき共内々存ぜらるゝとあるが事聞へ一万余信州勢を高坂弾正にさしそへ越後のおさへに置給ふ故、勝頼公御人数長篠へ一万五千にて御出候、其内をも長篠城奥平をさへに二千鳶の巣山兵庫殿を大将に牢人衆雑兵千は名和無理介、井伊弥四右衛門、五味惣兵衛三人を頭にさしをかるゝ、是れは一人ものこらず兵庫殿をはじめ大形討死なり、如㆑此一万五千の内三千費え候て信長家康にむかふはたゞ一万二千にてかやうになされ候なり如㆑件
高坂弾正謙信の御前をよく申付、八千にて、こまんば【小馬場】まで御迎ひに出る、三年前信玄公御他界の節、かやうあるべきと、高坂弾正存候て、信玄公青がひの御持鑓に小熊のたれの鍵しるし二十本、亀の甲の御鑓二本合せて二十二本鑓持のはおり迄、段子にて内々支度仕り爰かしこにかくし、二人三人つゝ三日の間に出し甲府へ、勝頼公御着の時は、少しも御旗本にも障りなきやうに仕り候は、高坂弾正やさしくも信玄公御工夫のふかきをおぼへて如㆑件
右の通りに候へ共都の町人其外諸国の商人、甲府に罷有故落書をよみ、札にかきたて申候
信玄のあとをやう〳〵四郎殿、敵のかつより名をバながしの
高坂弾正、勝頼公へ御意見申五ケ条は
駿河、遠州、氏政へさし上られ、北条氏政の幕下にならせられ、勝頼公は甲州、信州、上野、三ケ国にて氏政の御先をなさるべきと被㆑仰御尤もに候事
右の上、氏康御娘子御座候由、承り及び候間是をむかへ取、勝頼公氏政公の御いもうとむこに御成御尤もに候事
木会を上野小幡へ御越、小幡上総を信州木曽へ御越、御尤に候事
唯今迄、足軽大将衆をみな人数持に被㆑成馬場内藤山県三人の子供を初め、皆同心取あげ奥近習にあそばし小身にて召つかはるべく候、明日に我等果候はゞ源五郎をも、小身になされ、我等同心被官誰になりとも御預け、御尤もの事
典厩穴山殿に、腹を御きらせ有べく候、穴山殿を、典厩に仰付られ典厩をば我等に仰付られ、尤もと申候へ共勝頼公御合点なく候て、五ケ条の内、小田原北条氏政の御妹聟に御成候事計りに、御点を懸られ候真田源太左衛門跡に弟喜兵衛をしすへ給ふ計也、如㆑件
信長家康此合戦にかち、めでたしと悦び候て、信長家康へむかつて申さるゝは、其方に駿河国を出し候三河遠州の儀は無㆓異儀㆒城をあけわたすべく候、駿河は家康手前にて叶はず候はゞ、加勢申べきやとあれば家康申さるゝは我等一心の覚悟にて少しも手間どるまじく候とあれば、信長機嫌よくして我等は東【 NDLJP:235】美濃岩村へ取懸秋山伯耆守、座光寺其外の者共を、うつとり候て三年の内に、信州へ取懸候はんとありて岩村へよせ候へば、秋山伯耆、中々備を出し、信長を少しもませざる体をみて、おさへをおき、信長越前へ取懸其年七月、朝倉をたおし扨又家康は、長篠の合戦のきほひに、駿河由井くら沢【倉沢】まで、はたらき引取て遠州ふたまたへ取懸候へ共、あした【蘆田】少しもよはげをみせず候故、家康三河侍を悉くよせ、猿楽をあつめ、一日能を仕り、次日に懸川まで出、其次日すはの原へ取懸、六月七月八月まで、せめ申さるゝに付、すわの原の城家康へあけ渡す、家康おとな酒井左衛門と云ふ侍大将申は甲州方の城はやおしおとし候以来には、次第に如㆑此有べく候早々馬を入給へと申候、家康是をきかず、小山の城へ取懸べき由申さるゝ、酒井左衛門申は、信玄の弓矢古今ためしまれなる跡なれば、勝頼やがて後詰仕らるべきと申、松平左近と云ふ、家康家老申は尤も、小山城へ取懸給へ、勝頼公は、五三年の間にも出る事なるまじく候、仔細は能者を大小共にあまた討死させ、其上越後の謙信に、信濃をとられざる様にとこそ、はげみ申べく候へ、何として此方へ罷出らるべく候、然る所に小山をせめおとし給へば、高天神二俣両所を、たゞとりになさるべく候と申に付、左衛門尉も其儀にまかせ、小山へ取よせてせむるなり、小山の城には駿河先方侍大将五頭罷在かくて八月に成候へば、勝頼公は甲州信濃上野勢、名有る者の子孫或は弟など出家に成、町人に成罷有を皆よび出し人数を二万余り作り、八月中【一本ニ八月中ヲ九月初トス】に、遠州小山後詰なり、家康勢是をみてまきたる小山を、まきはぐし立退候駿河先方城より、くひとむるに、酒井左衛門尉、戸田左門、大津土左衛門と名乗てしんがりを仕る、高坂弾正此節御意見申、勝頼公無二に御一戦と有を相留申、其仔細は、負たる以後百日のうちに出、敵勝たるきほひにてまきたる城をまきほぐさせ、敵のおし付をみるは、武田の御弓矢さかんの故なりと、弾正しきりに御意見いたし相とめ申により合戦なくたがひに相引なり