甲陽軍鑑/品第五十一
天正元年癸酉四月十二日に信玄公御他界なされ候へ共、三年かくし候て三年めに御死骸をば被㆓仰置㆒候ごとくに仕り、御とふらひと信玄公御遺言に候、去ながら跡方に大かた御他界と推量いたし候へば、北条氏政、越後謙信へ信玄公御他界のもやうと有て、使を御越候、内々にて遠州浜松家康へも、小田原氏政より被㆓仰通㆒候駿河先方の内にも朝比奈駿河、岡部丹後、両人は信玄公へ能したしみ申、内々なみだをながし候、其夜は岡部二郎右衛門をはじめ、悉くかほの色替り候、殊更三州先方奥平美作守子息九八郎、ふりかわり候、仔細は右の武士物をよみこび候故、勝頼公酉の年の御
同年酉九月、勝頼公遠州へ御馬を出され、みつけの府迄、御働き候て、ふた俟、いぬい、かうみやう、あまかた、たゝら筋、【一本ニ二俣光明甘形鍵掛山吉田相良たゝら筋トアリ】各御持の城々御仕置有て、家康持の城懸河を、御順見なされ、御帰陣有に家康分別いたさるゝをもつて、懸川の城代、石川日向守に申付、勝頼公を鉄炮をもつて
天正二年甲戌二月中旬に、勝頼公五ケ国の人数をもよほし信長方へ御はたらきなされ候信玄公御代に東美濃岩村かりか城【一本ニ二月下旬トアリ
又かりか城ヲきりが城トス】をせめおとし城代に、秋山伯耆守、信州先方には座光寺を始め、三頭都合秋山伯耆共に四頭二百五十騎あまり、右の城御番勢に伯耆守付らるゝ時、遠山の郡代は秋山伯耆守也、此伯耆守は則ち居城美濃侍ひ、岩村殿の後家を妻女に仕り候後家は、織田弾正忠妹、信長のため伯母なる故、内々種々信長より伯耆守方へ無事を作り申され候へ共、伯耆守少も合点なきゆへ信長より美濃先方の侍衆小城をかまへたる人々へ信長衆を十騎十五騎はかりづゝ、警固にさしそへ、其外取出をこしらへ、都合十八ケ所岩村、秋山伯耆守押への為に申付らるゝ、仔細は其比は美濃の岐阜信長の居城なる故、用心のために多くの城を取立られ候然れ共岐阜へ上道七八里ちかくまで武田方へとりひしぎ、秋山伯耆守も、焼ばたらき仕候殊更右申勝頼公御馬を出され二月半ばより四月上旬までに、信長こしらへおかれたる取出或ひは美濃先方衆、信長へ降参の人々の城共都合十八、勝頼公御代にせめおとし被㆑成候其城共はないぎ、かうの、ぶせつ、いまみ、あてら、まごめ、大井、中津、つるひ、かうた、せとざき、ふつたぐし原、明智此城へとりつめ、遠山与介をせめらるゝ時、【苗水、香野、今見、阿寺、孫目大井、中津川、鶴居、幸田、瀬戸崎、振田、串原、大羅、千駄帰、妻木
一本ニ遠山与助ヲ勘右衛門トス又此時ハ民部ト称ストアリ】信長六万あまりの人数をもつて、後詰なり、明智の向ひ鶴岡と云ふへ信長の先衆、二手取上る山県三郎兵衛手勢寄騎相備へ衆、合せて六千の人数をもつて、かねて覚悟して彼道筋押へに罷立候、信長勢を見て、山県少し鶴田山の方へまはりかくるを見て、信長勢早々引取跡へ帰る、山県衆競ひ懸つて、是をくひとめ申べきと、跡をしとふ、上道四里、山県衆六千の人数をもつて、信長衆六万あまりを追申候然れども其後は山県下知しておはず候扨て又信長は、上道四里しさりて陣を取申され候、信長勢山県三郎兵衛におぢ候て、都合上道八里しさりさる故、明智の城を力なく勝頼公へわたし申候、信長警固の衆十六騎の内、九騎討死仕候残り七騎はおくらるゝ、【飯波狭ノ城】其後いひはざまの城へ信州河中島衆の内、三備をもつて取詰らるゝ、馬場内藤を始め家老衆各申上らるゝは、此いひはざまをば、先づ此度は指をかれ、重ねての事になされ、早々御馬を入られ尤もといさめ申候仔細は、余り十分にあそばし候事、いかゞに候とある、扨又長坂長閑跡部大炊介申上る、各家老衆分別だてはいかゞ、仔細はいひはざまの城一ツさし置給ひて、【一本ニ井伊ヲ篏尾トス】更に所詮なき儀也と申候へは、勝頼公長閑跡部大炊介申分尤もと御諚也、さるほどに牢人衆、名和無
同年戌五月勝頼公御馬出され、【一本ニ五月三日勝頼公甲府御出馬下山より満座(今ノ万沢ナルベシ)四日小山六日相良七日ニ高天神の城へ取誥るトアリ】遠州高天神の城へ取詰給ひ、家康旗下の小笠原与八郎を、せめ給ひ候へ共家康一人の後詰ならずして、信長を引出し候、其使は小栗大六と申、家康ふだいの三河侍なりと、浜松よりの生捕如㆑此語り申候、扨て勝頼公は、信長家康両旗にて高天神の後詰仕られ候はゞ、勝頼公一心の覚惜をもつて、合戦遂らるべきといさみ、お山堺と申所に、陣取後詰を待給ふなり、或る時城より追手池の壇へ備を出し足軽有、小笠原内渡辺金大夫、林平六、吉原又兵衛、伊達与兵衛、小池左近などゝ申者、心ばせを仕る内藤修理同心の内に、手柄の武士多く、駿河先方には、岡部治部是は岡部次郎右衛門弟なるが、信玄公味方が原合戦の時も、毛付を仕り、高名いたす、大剛の武士なり、同忠二郎、大堺三介、此衆其節鑓を合せたる人々なり、其後七月高天神落城は猿もどりと云くるはを、岡部二郎右衛門衆、取つめせめ申候に、次郎右衛門下において、朝比奈金兵衛と云ふわかものと、右申剛の武士、岡部治部、一番に屏へ乗ゆへ落城也但し岡部治部、そこにて討死する、金兵衛につゞき屏へ乗入、岡部忠次郎、鈴木弥次右衛門也、其後かなはずして、降参申小笠原は富士のしもがたにおいて一万貫の所領御約束にて高天神城をあけ渡す、信長家康をすけ後詰に出られ候へ共、高天神の落たるを聞、早々引返し、岐阜へ帰陣なる、かくて遠州きとうぐん、勝頼公御代に御手に入、其年の春、美濃において数ケ所の要害せめおとし給へば信玄公より、勝頼公の御弓矢増給ふと、各取さたなれ共、信玄公名大将にて、御威光つよきゆへか、臆意力なき事、大小上下共に如㆑此さありてきとうぐんの、御仕置なされ勝頼公御馬、七月中に入、是れ勝頼公二十九歳の御時也如㆑件
甲府御舘において、御祝ありて、めし出しの御盃侍大将衆に被㆑下、高坂弾正御盃を被㆑下、立ながら長坂長閑にむかひ、武田の御家、滅亡と定めらるゝ、御盃是なりと申、長閑聞候て、いわれぬ弾正申様哉と、挨拶なり、其後内藤修理と、高坂弾正と両人ながら申は、三年の内に当家滅却と申さるゝゆへ、各相尋候へば内藤も高坂も、挨拶に、東美濃にて数ケ所の落城候て其上高天神落城して、きとうぐん御手に入故、各家老の申事勝頼公御取あげなく、長坂長閑、跡部大炊介申ごとくに可㆑被㆑成候間やがて信長家康、両旗を相手になされ勝頼公無理なる御一戦遂られ候はゞ面々かた〳〵皆討死候て、其後武田の家、滅亡うたがひなし此もとは東美濃、遠州きとうぐん、両所においての御手柄しかも一年中に如㆑此なるゆへ也とかたる各是をきく、高坂内藤臆病分別なりと笑ひ申す猶以て長閑大炊介申され候より勝頼公も内々にて、高坂内藤をあしくおほしめし候といへども、信玄公御代よりの侍大将なれば、高坂勝頼公御ちかく参り人をのけ御意見申上る、其儀は東美濃を信長子息是に居られ候御坊に下され、たれぞちかき御親類中のむこになされ、信長と無事にあそばされ、又きとうぐんを、家康弟源三郎、信玄公御代に人質にめしをかれ候、此源、三郎懸落にて候へども、無事のあつかひなさるゝ上は、万事を指をかれ信玄公御
同年戌九月長坂長閑分別いたしていさめ申ゆへ勝頼公尤もと仰られ、九月半ばに遠州浜松へ御はたらき也、おりふし大天龍の河出候て【一本ニ河水出てトアリ】武田勝頼公御人数こす事ならすして河の辺に、備をたて浅き瀬をみきり給ふに家康衆三十騎ばかりにて大物見に出る、勝頼公御旗本は、みつけの府よりおりくちの瀬【下口乃瀬】を御心がけ有て、備へを立給ひ難波一甫斉を召て、鉄砲をもつて川向の浜松衆、物見に出たる三十騎ばかりへうち懸なされ候へば、程遠く候故敵武者にあたる事なし、左候て五町ばかりしもに広き瀬の有てみへたるへ板垣衆の中より、宇野武井、志村金右衛門、平原新蔵、河野伝左衛門此五騎抜出、【一本ニ平野新蔵トアリ】馬をば河へのりこみ渡り候所に、家康衆物見に出たる武士三十騎ばかり、くつばみを揃へ、しもへのりおろし右の板垣衆五騎にうちむかふべきと、見るゆへさすがにすゝみたる五騎の武者、川中より引返す、是をみて家康衆勝頼公の御小旗大の字をみしり、御旗本を心懸候故、又かみへ乗向ふ然る所に、朝比奈駿河守衆の中より須藤左門【一本ニ須藤左衛門トアリ】、石原五郎作、長谷川左近、三騎板垣衆もどりたる瀬へ乗入川を渡る勝頼公河上にて是を御覧なされ土屋惣蔵に仰らるゝは、はじめ板垣衆かなはずして引返したるに、其跡にて朝比奈駿河守備へより三騎乗こみたるは、無二に討死と究たるなり定めて最前のごとく川むかひの敵、三騎の味方へ乗向ひ申べく候、左候て三騎の朝比奈衆敵にうたせては、勝頼か弓矢をとりて、不足をかくと仰らるゝ所に案のごとく家康衆しもへのりおろしくつばみをそろへ甲州方三騎の武者に乗向へども、三騎の武者引返す事なし、既に川を三ケ二向へ渡り、そこにて勝頼公御腰のさいはいをぬき給ひ、一振ふりなされ御馬をけだてあの武者うたすなと仰らるゝ、一度に川へのりこみ給ふ、土屋惣蔵其年十九歳なれば、勝頼公御身近くめし仕はるゝ故、勝頼公と一度に川へ乗こむ、御旗本衆の事は不㆑及㆑申二万余の多勢大声を挙一度に乗こむ、山県三郎兵衛は遠州三河の御先なる故、いちのしもと備へをたて候へば、即時に河を乗越し惣手の先に河向ひへあがる、仔細は大軍をもつて渡され候故、しもは抜群浅く候て如㆑此扨て又家康衆大物見共出たる【〈[#底本では二百廿五頁の傍注の六段目の文字が一字ずつ左にずれている]〉全集ニ〇はしば、あんまと云所迄おし付備を立其後先衆ハ小天龍迄押誥る家康小天龍の向迄七千計にて出其中より三十騎程連小天龍を越大物見に出磔場に馬を立扣へ柴田七九郎を一人物見に越山県備をいかにも近くさげすむ山県同心広瀬たがひに馬上にて渡合柴田を五十間追候家康も頓て引入る〻武田方には迫たる広瀬を訕りにげたる七九郎と海道一の弓取三十騎に中より一騎抜出し物見に越武士なればこそ山県備を百廿間計り近く来て討取らざるは透間かぞへの武士かなとほむる其夜は香立の上に陣取惣軍苅田を仕云々トアリ又夜を明し△小笠原与八郎諫にて大天龍乃此方高木にて七日陣を張間に大天龍中瀬を前に当てさぎ坂六郎五郎松井因幡三百余にて備る小笠原衆武田へ新参故源平の戦にも不㆑被㆑越湘を渡て追討渡辺金大夫林平六両人因幡を生捕進上す此松井も遠州にて小城主也勝頼公宜ふ因幡事信玄公へも三度首尾相違也此度我をも抜き候とて即ち天龍乃端にて頭を切其後二俣へ御馬を寄せられ苅田仰付られて後い乃やへ御馬を寄せらる云々トアリ】三十騎ばかりは村上弥右衛門、内藤四郎左衛門、植村庄右衛門、渡辺半蔵、服部半蔵、大久保七郎右衛門、森河金右衛門、加藤喜介、成瀬吉右衛門、鳥居彦右衛門、大久保次郎右衛門、日下部兵衛門、山本帯刀内藤平左衛門、青山藤七郎、安部善八郎、高木九介、榊原隼人佐、柴田七九郎、小栗仁右衛門、梶金平、しげの七兵衛、天野伝六、都築惣左衛門、松下加兵衛、酒井与九郎、右の人々甲州勢惣軍の河をこすをみて、此方へ見むく事もなく、ひたいつさんにて、浜松へ引とる、山県衆、馬場美濃守衆両手は○はしばかんまと云ふ所まで、おし付備へをたつる、家康小天龍の向ひ迄七千ばかりにて出向ふ、かくて勝頼公惣軍かつ田を仕り青
小田原北条氏政より信玄公御他界かと有義、能く見届申べきために○【一本ニ〇板美岡トアリ】いたひえ岡江雪を差越なされ候武田の家老各はかりごとをもつて江雪をしばらくとゞめ仕様を仕り、其後夜に入逍遥軒を信玄公と申御対面なされ八百枚にすへをき給ふ、御判の中にていかにも御判の不出来なるを、えらび御返事をかき江雪にわたし候へばさすがにかしこき江雪もまことに仕り、小田原へ帰り信玄公は御在世也と氏政へ申上候故、御他界のとりさたなきなり、以上
小田原北条家は如㆑此なれ共、三河先方の中に奥平父子、ふりあしき故誓紙を仰付られ其上九八郎内儀を人質に召をかれ候を聞、家康聟に九八郎を仕候へと、信長あつかひをもつて奥半父子、逆心仕つられ候それにより、奥平九八郎女房衆を
天正三年乙亥四月十二日に信玄公御とふらひこれあり、宗旨は禅宗関山派本寺は都妙心寺也其東堂衆をもつて七仏事と云ふ事有り、その次第は鎖龕は
一服
右の後勝頼公御馬を出され諏訪明神へ御社参有に、亀の甲の御鑓おれ候其後高遠へ御着有に堅固なる橋おれて御小人衆一両人死す勝頼公御馬上手にてまします故、けたてゝめし候、御馬の後ろの左の足橋のくづれへちとかゝりたるは、あぶながりつるに御堅固なり、めでたしと申者もあり、けんごなる橋如㆑此なるは物怪なりとつぶやくもあり巳上
天正元年四月信玄公御他界あり其秋勝頼公廿八歳にて、遠州御働きの時、草履取二十内外の小者共十五人狭竹をもち惣手の跡にさがりたるを敵方の馬乗三騎出、草履取を一人きる所に、残りて十四人狭竹にて馬乗を一人うちおとし、からめ取て日暮に及び金谷へ来り、此生捕をさし上申候、武田方の人数五十六十跡より参り候はゞあまりの手柄にてもなく候へ共、惣御人数おしはらひ、しかも懸川と久野との間にて敵の領分の中にて如㆑此なるは能々勝頼公鋒さきつよきゆへ也是とても信玄公御鋒さきのあたゝまりにて候、馬場美濃、内藤修理、山県三郎兵衛、高坂弾正、各功者衆批判に武田の御弓矢はや頂上へあがり候へば、大にあやうき事なり是は偏に大負の瑞相とてことのほか侍大将衆悔み申され候は後ちにぞ思ひしられたる如㆑件