甲陽軍鑑/品第五十
元亀四年者天正元年に替る、然れば天正元年四月十二日に、信玄公御他界なされ候に付て、則ち其年五月より勝頼公御仕置也、但し他国諸の敵衆、越後の謙信、岐阜の信長、浜松の家康、其外関東の新田、足利飛弾越中各小敵までの聞へのため、又は相州北条氏政公は信玄公旗下にと有ども、法性院殿御他界を聞候はゞ即時に敵対なさるべきとある事にて、方々へのために信玄公御他界かくし候て御わづらひとばかり申ならはし候
百年己来本の合戦さのみこれなし、但し両度本の合戦これありと申は、永禄四年西、信州河中島合戦遠州味方が原合戦これ両度合戦也、北条氏康公、河越にて上杉管領八万余の大軍に氏康八千にて勝給ふも夜軍なれば敵油断のゆへなりさなくば八万余の人数八千の北条家に何とてしまけ申べき、下総こうのだいに於て氏康公、安房の義広にかち給へども、義広はじめうち勝、油断の所へ氏康懸りて利運になされ候なり、如㆑此だしぬき、或ひはふたまたにて、小身なる敵にかち或ひは堀をほり、柵をつけうち、我逆心し、又旗下の侍、合戦の場において、俄にうらかへり、敵に成、無理なる勝をば、まけ候とも、負とあまり心にがをおらず候、世間にも本の勝負と批判なきなり、国持だち、敵味方ともに、二三万の人数をもつて、白昼に合戦可㆑参候とて、両方ともに他国の加勢は有ども大将は一人づゝ候て堀も川も柵も、うらぎりもこれなきにうち合、手ことにて鑓を合、勝負をして、実否をつけたるを、本の合戦と申也、是をいづれと分別にて見申に、川中島合戦と、味方が原合戦也、両度ながら信玄公御勝利なり、敵味方ともに二千三千の勝負は、諸国にさこそいかはどもこれ有べく候へ共、それは大合戦と申さず候、大合戦にてなく候へば、世間の取さたになき物也、信玄公御勝利の相州みませ合戦も、氏康公、氏政公父子の着給はぬ以前に、北条家の先衆ばかり、きりくづし給へば、本の合戦とは申がたし、北条陸奥守、阿波守助五郎、各一類衆△【全集ニ△各一類衆計り伐崩し玉へバ本の合戦とは申難し信玄公大合戦を殊の外大事に思召味方が原御一戦の時ハ先衆七手二の手衆七手十四人の士大将それに付たる一備つゝの物頭衆五十人余乃人々不残御勝と証拠を引申さるゝをも慎み玉ふて御一戦不㆑被成左様に御遠慮故危き事なく御勝候子細ハ岡部次郎右衛門舎弟同治部右衛門と落合市之丞御意に違ひ馬場美濃守備をかり走り廻り家康案の内馬場方へ向ひたる武士の中に云々トアリ】御座候へ共大将の氏康父子着給はさる以前、馬場美濃方へ向ひたる武士の中に、金のせいさつ、金の提灯差物にしたる両人の武士、是も又けんを争、持ぎ候を、治部市之尉見て、治部は金の制札、市之尉は金の提灯と毛つけを仕り、うち申べく候と申候て、其如く治部も市之尉も右の武士を高名仕り、差物を添へ我備への侍大将、馬場美濃守にはみせずして、市之尉は治部を尋ね、治部は市之尉を尋ね、互に広言のごとく仕る、是は古今にさのみなきはたらきなり、然れとも武田衆計の手柄にあらず、家康衆も、信玄公の衆におとらぬ手柄なり、仔細よくはたらき勝負を仕り、あしなみにてにげざる故なり、何たる剛の武士手柄を仕度と申ても、見くづれににぐる敵には、此ごとくなる手がらはなるまじきとありて、是につきても家康を日本に若手の弓取と定められ、信玄公仰らるゝは、長尾謙信と家康と両人の弓取なり、信長江州箕作の城攻落すも、家康被官どものはたらきゆへ、北近江姉川合戦も、信長は三万五千の人数にて、浅井備前守三千の人数にきりたてられ、悉く負たるに、家康は五千の人数をもつて、越前の朝倉衆一万五千にて、浅井備前に加勢仕りたる同勢を、家康衆姉川をおし渡、無二にかゝりきりくづし、信長理運にさせたるは、家康弓矢をつよく取故也、金崎発向の時も、浅井心かはりたるをきゝ、信長は味方をすて、岐阜へ早々引入候所に家康は若狭の敵をきりひしぎ、おしつけをうたれざるやうにいたしたるは、家康二十五六歳の時分より如㆑此仕るなりと、信玄公御先の侍大将衆 仰わたされ候なり、如㆑件
信玄公御他界已後、万事勝頼公へ諫申上られ候間、長閑大炊助殿へ申候、長閑大炊助殿へ申候、大身小身共に、常々思召さるべき事、大身小身共に常々思召さるべき事、五ケ条は深き浅きに合十ケ条也、
慈悲を深く付欲を浅く、但し大身の乱国を取給ふ事、小身の人忠節忠功の奉公にて、所領取儀は、欲深きにてな所領取儀は欲深きにてなし、邪欲の事也、慈悲も罪科のものをあわれむ儀にてはなきなり
人をふかく付 我身をあさく 忠節忠功の心懸を深く、付 所望をあさく 遠慮して慇懃を深く、付 遊【 NDLJP:228】山或ひは楽事浅く 人を仕ふに穿鑿を深く被㆑成付 折檻を浅く
第一国持の慈悲をしらぬは、むさと欲深し、理非なく、欲深ければ其下の出頭衆、邪欲をかまへ、艸づとにふけり、おのれに音信仕る者をば、せんさくもなしに取立、諸奉行或ひは諸役者に相定候は 其者ども上をまなび、国法軍法にそむきたるものをも、我気を取人は、悪事をもおしかくし、法外にわたくしをさばき、科なきをもさゝへおしたをし慈悲少しもなく、その大将のあやうきをもしらず、上杉則政の家中のごとくに成て、悉く意地むさき人多きなり
第二に国持の人あさく、我身をふかく御座候へば、出頭衆をはじめ、悉く走り迴るほどの衆、身に高慢してよき証拠もなき儀を、互ひにほめあひ、ほまれにすれば、国あやまち有物也、其上民のつまるもしらず、下々の惑迷もしらず、殊にすまじきいくさなどありて、つゐに其めつきやくこれあるなり
第三に国持給ふ大将の、崇敬有る侍衆、忠節忠功の心懸浅ければ、其家の下々迄、主君の御為をも思はず、手柄もなきに、所領をほしかり、大剛の武士をも、小身なればあしき証拠もなきにそしり、縦ひ臆病なるをも、親に譲られ、所領沢山に持、金銀米銭持たる分限者をば、侍の事は不㆑及㆑申、町人地下人迄をもほめたてよき証拠もなきに、手柄の人かなと申ならはし候故、分限にさへあれば町人などまで、うはもり剛の武士の居たる所にても、武篇雑談を仕り、皆悉く慮外はやり、
第四に出頭衆遠慮浅くて、慇懃なければ其家の諸人先の考へもなく、遊山にふけり身をかざり、恥もしらず、朝暮不足をかきても恥と思はず国法にそむく者多く、いひごと有てあやまちを仕、或ひは死ぬまじき所にてむだと命をすつる事も有、又はひる強盗など仕り、政道ならざるは、はかにもたゝざる仕置なり、如㆑此有か其もとは走り迴りの衆遠慮あさきよりおこるなり
第五に国持の人をつかふに、せんさくあさければ、取まじき人知行を取、崇敬ある衆の親類の者大身の親類分限者の身よりの者計りはゞをして、しそこなひ有ても、能き縁者の影に、身体は何事有間敷候と思ひ其上縦へ何たる悪事仕り、千に一ツ身体破れ候共、命にも、怖畏有まじきと存ずれば、国法をそむきてもくるしからざるを、能き親類もたざる者のしかも分別なき人々、是を見て能者のよしみさへ背き候に、我等式は猶以て大将の御ためも、さのみいらざると心得、そむく事多くして法度あれ共、種々の悪事出来して申事たへざる者也、如㆑件、右の五ケ条、裏表十ケ条なり、是を能々分別なさるべく候
天正元年五月より、其年中に諏訪、富士、戸隠を始五ケ国の諸社諸寺へ、勝頼公続き目の御朱印出る也、右の内諏訪富士戸隠三社の事、是に書す残りは事多し、かくに及ばず
定
従㆓法性院殿㆒被㆓渡下㆒候御判形之旨、自今以後弥〻不㆑可㆓相違㆒者也、仍如㆑件
元亀四癸酉年九月五日
甲州郡内の安左衛門と申者は、安蔵主と云ふ出家がへりなり、信玄公御意に入、俗人に成り一疋に乗会衆の中に入、御陣の御供申、二三度も弓矢の心ばせ有㆑之右の安左衛門、信玄公御他界被㆑成候に付御跡目御武運長久の為に諏訪へ日ごもる事、六月朔日より八月晦日まで九十日也、其内七十一日目に夢想をみる其歌に 諏訪明神、たゆる武田の、子とむまれ、代をつぎてこそ家をうしなへ
と見て後諏訪の