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  • 天正十年春奥州輝宗は、二本松右京と毎年取合ありけるが、右京輝宗の幕下に可成とあるにより、塩の松といふ所にて対面あり。輝宗悦び、関東表の義万事頼入る由申述べらる。右京暇乞して立出づるを、輝宗何心なく送り出でらるゝ。右京は無隠強力故、輝宗を無手と捕へ、脇指を首にあて立出づる。二本松
    177バイト (5,325 語) - 2024年2月3日 (土) 17:26
  • 一、鬼小島弥太郎一忠、武勇大力なる侍にて、或時謙信より、信玄へ、使者に遣され候。信玄方に、猛犬獅々と名付け、人喰ふ犬御座候。科人御座候へば、矢来の内に入れ置き、此犬を放し、科人を喰殺させ申され候。扨、謙信よりの使者へ、対面致すべしとて、態々弥太郎を、庭へ呼入れ給ふ。信玄縁近く出で、対面あるにより、弥太郎
    560バイト (17,663 語) - 2023年11月26日 (日) 18:31
  • 仕られ候由申伝へ候。繁長の五番目の子を鮎川になし申候。只今、鮎川孫大夫と申候。 一、下条駿河守 一、安田治部 如何なる働に候や、会津へ所替の時は、二本松の城に置かれ候。只今下条治部左衛門と申候。安田は平民にて、謙信先祖より奉公仕候。度々軍功を顕し、大剛の兵なり。永禄四年九月十日、川中島合戦にも働き…
    768バイト (20,470 語) - 2023年11月26日 (日) 18:25
  •  数月(すうげつ)の後(のち)に、抽斎は良三を安積艮斎(あさかごんさい)の塾に住み込ませた。これより先艮斎は天保十三年に故郷に帰って、二本松(にほんまつ)にある藩学の教授になったが、弘化元年に再び江戸に来て、嘉永二年以来昌平黌(しょうへいこう)の教授になっていた。抽斎は彼(か)の終始濂…
    642キロバイト (126,753 語) - 2022年3月23日 (水) 18:11
  •  此年には葌斎詩集に、前の早春の作を併せて、只二首の詩が存してゐるのみである。わたくしは余の一首の詩を見て、堀江允(いん)と云ふものが江戸から二本松へ赴任したことを知る。允、字は周輔で、蘭軒は餞するに七律一篇を以てした。頷聯に「駅馬行駄緗布帙、書堂新下絳紗帷」と云ふより推せば、堀江は聘せられて…
    1.54メガバイト (342,889 語) - 2024年3月25日 (月) 01:52