謙信記

 

 
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謙信記
 

一、寛文九年、日本通鑑、公儀にて御撰に付、弘文院林春斎へ仰付けられ、諸武家記録差上候節、上杉家へ、信玄・謙信、川中島の合戦御尋ね遊ばされ候間、家伝の記録又は此時代まで、謙信代に勤め候者共四五人、存命罷在候に付、此老人共集め、記録と引合せ上り候、覚。

一、天文年中、武田信玄、信州の城々攻め、小笠原信濃守長時・諏訪頼重等、韮崎にて合戦あり、小笠原・諏訪討負け、同国坂木城主村上左衛門義清・高梨摂津守政頼も戦ひ負け、両人共信州を退く。天文廿一年六月、越後へ来り、謙信を頼み、旧領川中島を取返したき段、謙信へ申候。此外信州侍井上・栗田・清野も越後へ来り、謙信を頼み給ふ。之に依つて、信玄・謙信、合戦始まり申候。

一、天文廿二年十一月朔日、謙信、川中島へ出馬あり。武田信玄も出張あり。其間一里場対陣にて、足軽の迫合計りあり。其間廿七日。謙信方より、平賀宗介へ使番を以て、信玄へ申越され候趣は、対陣に空しく日を送り、本意無之候間、明廿八日は、有無の合戦を致すべく候。其御心得有之旨申送り、備を定む。

一、先手    二千騎 長尾平八郎 長尾包四郎 元井日向守長尾修理亮 青川十郎 安田掃部

一、左横鎗備  諏訪部次郎右衛門 水間掃部

一、右横鎗備  向井包兵衛 長尾七郎

一、二手備   荒川伊豆守 山本寺庄蔵 吉田杢之助直江神五郎 小田切治部

一、三陣    謙信 装束は□笠胴服着け、萌黄緞子袖無羽織、小手さし青竹三尺に切りて持つ

一、旗は、紺地日月一本大四半昆字旗一本

一、弓箭奉行長尾越前守政景

             一、後備    長尾兵衛 北条丹後守 柿崎和泉守 大国修理亮

一、小荷駄   斎藤下野守

都合四十九備。一手の様に九備。人数八千。

一、後備    人数千四百騎 本庄美作守宇佐美駿河守

オープンアクセス NDLJP:103謙信、馬乗出し、総軍勢を丸備に押し給ひて、下米宮摺前備。

一、武田信玄、人数二万三千、十四備にて、是も下米宮摺を前にして備ふ。十一月廿八日、卯の刻より合戦始まり、下米宮摺を追越し戻られ、火花を散らして戦ひ、勝負は区々に之あり、未刻まで、命限りに、互に勝負之なし。両方、手負・死人夥しく御座候。然る処、謙信方後備宇佐美駿河守・本庄美作守千四百人、筑摩川を渡り、信玄の後へ廻り切つて懸り、信玄の後備へ馳せ合せ戦ふ。然れども甲州勢、前後の敵防ぎ兼ねて、引色になる。宇佐美駿河守、手勢にて横鎗を入れ、突立て戦ひける。之に依つて甲州勢、敗軍して引退く。甲州勢を上下五千三百討取り候。然る処、此合戦は、謙信負と申され候。謙信の本陣負色に相見え候処、宇佐美駿河守・本庄美作守、後を討ち候により、甲州勢、敗軍仕候により、来るべき勝なれば、謙信は負戦と申され候。甲州衆首武田大坊・板垣三郎・武田飛騨守・穴山相模守・今川加勢衆栗田讚岐・帯兼刑部・半菅善四郎・朝比奈左京・染田三郎左衛門、右の通り越後へ討取り、都合首数五千三百十一なり。越後勢、討死二千五百人・手負三百人。然れども一手の大将は、一人も討たれず候。是を下米宮摺合戦と申候。天文廿三年、原町合戦と申候。謙信二度目合戦、八月十日、謙信川中島へ出馬あり。此合戦備、

一、先陣    鶴翼  村上義清 高梨源五郎

一、二陣        川田対馬守 石川備後守

一、三陣    謙信  黒川備前守 松原壱岐守

一、左備        中条越前守 新発田尾張守 下条薩摩守

一、右備        加地但馬守 新津丹波守 鬼小島弥太郎須賀但馬守 柏崎日向守

一、左横鎗       岡山孫次郎 黒金治部

一、右横鎗       唐崎左馬助 直江入道

一、弓箭奉行      長尾越前守

一、小荷駄奉行     斎藤下野守

一、後備        本庄美作守 松本大隅守 大崎筑前守桃井隠岐守 長井丹後守

一、浮備        甘糟近江守 神藤出羽守 平賀志摩守安田伯耆守 竹股筑後守

一、脇備        宇佐美駿河守 飯森摂津守松本大学 二千騎大塚村備

オープンアクセス NDLJP:104 一、脇備        大塚村東備 鳥山因幡守 渡辺越中守かける

一、旗本備       上条弥五郎 元井日向守 山本寺宮千代小田切治部 安田掃部

右の通り、謙信馬を乗廻し、備相極め、八月十八日寅刻出陣にて、原町に備へ給ふ。

一、武田信玄は、八月十六日、貝津城に入り、十八日寅刻に出陣にて、雁行の備。

一、先手備  高坂弾正 布施大和守 小田切刑部 落合伊勢守日向大和守 室賀出羽守馬場式部少輔 二千五百

一、二陣   真田弾正 市川和泉保科弾正 清野常陸 二千五百

一、三陣   望月石見守 海野常陸多田淡路守 矢代安芸 二千五百

一、後備   仁科上総介 井上伯耆守根津山城守 板垣駿河守 四千三百

一、弓矢奉行 武田左馬助 小笠原掃部助

一、武田信玄公床机居  七千五百人 左 一条信濃守 七宮将監跡部大炊頭 大久保内膳右 逸見山山城守 小田切主計山本勘介 駒沢主税

               旗本麾頭 飯富三郎兵衛

一、後備  二千五百人  南部入道喜雲 和賀尾治部飯尾入道浄嘉 土屋伊勢守

都合人数二万五千人。

一、八月十八日寅中刻、村上義清の備より、草刈の者三十人出し、草を刈取り候。甲州勢是を見て、高坂弾正の備より、足軽二百人程走り出で、草刈を取巻き、兼ねて越後の村上義清の足軽頭小室平九郎・高梨政頼の足軽頭安藤八兵衛、此両人の組四百人、丑刻頃より草伏して、此謀を仕候間、甲州勢、草刈を取巻き候後より起上り、切つて懸る。甲州勢、思ひがけなき事なれば、草刈を捨て逃ぐるを、越後勢追詰めて、百三十人討取り候処に、甲州の先手衆、是を見て大に怒り、馬武者二百騎余り走り出でて、越後の足軽を突殺し切殺し、馬にて駈倒し、上杉勢の足軽共二百騎余り、少しの間に討死し、残る者共、先手の下までなだれ懸る。上杉方先手村上・高梨三千、切先を揃へ切つて出で、甲州馬武者を取巻きて切散らす。然る処に、甲州先手大将高坂弾正・馬場民部・落合伊勢・布施大和守七人、押太鼓を打立て、五六千ほど馳せ出で、上杉勢に切つて懸る。上杉勢、甲州の大勢に切立てられて、散々に色悪しく乱れ、越後勢、三百余人討死して、村上義清・高梨政頼、既に危く見えしかば、上杉二陣川田対馬守・石川備後、二オープンアクセス NDLJP:105千余馳せ出で、村上・高梨を救うて、甲州勢と戦ふ。武田勢真田弾正・市川和泉清野常陸介・保科弾正等、組侍に下知して大に戦ふ。上杉方川田・石川、左備杉原・新発田・黒川・下条、一手に相成る。村上・高梨競ひ懸つて、甲州勢に入乱れ、火花を散らし戦ふ。甲州衆真田弾正と、越後高梨源五郎と、馬上にてむづと組んで、馬より落つ。源五郎、真田を取つて押へ、脇板を二刀刺し候処に、保科弾正是を見て、真田討たすな、弾正を救へや者どもと、大声に下知して、保科、鎗にて高梨源五郎を突く。源五郎郎等三十人程、源五郎を救に馳せ来る内に、真田家人□屋彦助といふ者馳せ来る。源五郎は、右の股を切つて落され、終に首を取られける。源五郎家人三十人程、死物狂に甲州勢と戦ふ。保科弾正・市川和泉、汗水に成り戦ひ候間に、源五郎討死し、家人は皆討死仕り候により、上杉勢、殊の外色悪しく相見え候。是を武田勢見て、大に勇み、望月・屋代・根津・仁科・海野・板垣、一手になりて切つて出で、上杉勢を、六七千まで切散らす。上杉敗軍して、追討に大勢討たれ、上杉方加地但馬・新津丹波・須賀但馬・鬼小島弥太郎・柏崎日向守等は、右備なり。横鎗備より、岡山源次郎・黒金次郎、都合四千余馳せ出で、武田の荒手と戦ふ。此時は、謙信乗廻し、軍勢を下知せられ、武田勢を切捲り追乱し、武田勢を千二三百人〔本ノマヽ〕討つ。是にて武田方勢ひ抜けて、色合悪しく引退く。是に上杉勇み誇り、右備衆唐崎左馬助・直江入道・本庄美作・松川大隅・大崎筑前・桃井隠岐、此者共四千三百人走り出で、武田勢を切捲り、火花を散らし戦ひける。大軍入乱れ、敵味方の見分けなり難し。此戦の間に、武田信玄御下知にて、犀川に、大綱を千筋ほど張渡し、旗本一条信濃・七宮将監・大久保内膳・跡部大炊助・逸見山城守・小山田主計・駒沢主税・山本勘介等四千余、犀川を、何の手もなく忍び渡りに越し、川向に上る。信玄公も、御馬廻三千ほどにて犀川を越え、大野村の蘆茅繁る細道を忍び通り、大野村西天神の森にて、甲州勢集り揃うて、謙信が旗本へ、咄と切つて懸る。謙信には、先手備を乗出し、軍勢に下知致され候て、旗本備は、謙信の居られ候通りに備を守る。中条越前守・黒川備前・杉原壱岐・新発田尾張・下条薩摩・加地但馬・新津丹波、此者共思も寄らぬ処より、越後勢に切つて懸るにより、大に驚き敗軍する。武田勢は勇み誇りて、越後勢を切立て突伏せ、追討に大分討たれ、信玄公は勇み悦び給ひて、謙信を洩らすな、討取れや者共と、団扇にて諸軍に下知して、馳せ廻り給ふ。之に依り甲州勢、十方へ越後勢を追廻り、謙信を尋ね廻る。然る処に越後勢、宇佐美駿河・飯森摂津・松本大学二千騎、大塚村備、オープンアクセス NDLJP:106同村東山下へ、渡辺越中守翔・鳥山因幡千二百両備にて、三千五百は脇備にて居たりしが、謙信の本陣切散らされ、敗軍と見て、宇佐美駿河守、信玄公の旗本へ切つて入り、跡部越中は、横鎗に突懸る。甲州勢も、思ひがけなき所より、越後荒手出で、切り懸るにより、甲州勢敗軍仕る。信玄公、旗本備になりて、信玄公を中に引包んで、御幣川へ飛入りて引退く。謙信は、先手備の中に居給ひて、下知せられて戦ひ居給ひしが、本陣大に敗軍し、信玄公は、宇佐美駿河・跡部越中・鳥山因幡に揉立てられて、御幣川の方へ、信玄引き給ふを見て、謙信大声に、信玄は、宇佐美に打負け川を引く。追詰めて首を取り候へ。共に川へ乗入れよ者共とて、〈長光兼光〉 とも申し候長さ二尺九寸の刀を下げ、諸鐙にて追ひ給ふ。謙信と馬を並べ、信玄公を追ふ者は、上条弥五郎・長尾七郎・元井日向・小田切治部・北条丹後・山本寺宮千代・青川十郎・安田掃部、是等信玄公を追うて、御幣川へ乗入りて、甲州勢を、川中にて切捨つる。信玄公は、近習三十騎程の中に引包んで、川を越し給ふ所に、謙信は馬を乗付けて、備前長光の刀を持つて、信玄を川中にて切付け給ふ。信玄公は、軍配にて請け給ふ。然れども二箇所手を負ふ。信玄の近習、余り嶮しき事故、鎗にて謙信を叩きし所に、馬の三寸に当る。是にて謙信の馬、二間計りも飛び候。其間に、信玄公も隔り、謙信物別れ致され候。甲州衆も謙信と□□□、十八九人程にて附廻し切つて懸る。謙信是を事ともせず、切掃ひ難なく引退き給ふ。甲州勢引後れ候者共を、謙信、川中にて十二人まで切捨て、四方に眼を配り、川中に馬を控へ居給ふ処、武田信玄の弟武田左馬助信繁、後陣に居候が、信玄公手を負ひ給ふと聞きて、六七騎程にて、河端へ馳せ来り、謙信を見付けて言葉を懸け、大音揚げて、川中に居給ふは、大将謙信と見申候。某は、武田左馬助信繁なり。我等と勝負せられ候へと申さる。謙信は是を聞き給ひ、是は謙信の郎等甘糟近江守にて候。貴殿の敵には不足なるべし。勝負は御無用候へとて、謙信馬を川端へ乗上げ給ふ所へ、左馬助馬を乗付けて、謙信を一打と、拝打に打つ太刀を、謙信請けながら、馬をもじらせ、片手なぐりに、左馬助が高股を切落し給ふ。左馬助馬に耐らず落ち給ふ。村上義清、謙信の敵と、太刀を翳して馳せ来りし所に、左馬助の馬より落ち給ふを見て、村上、馬上より飛び下り、左馬助信繁の首を取る。

甲陽軍記には、村上義清・武田左馬助太刀打にて、左馬助打負け、村上首を取り候様に、御座候へども、上杉伝記には御座なく候。謙信と戦ひて、高股を切つて落され、村上馬上よオープンアクセス NDLJP:107り飛び下り、左馬助が首を取り候段、老人共能く存じ罷在候。

一、甲州勢、散々敗軍あり。信玄、三箇所手を負ひ、左馬助信繁・真田弾正討死。板垣駿河・小笠原若狭、二三箇所も手を負ひ候故にや、甲州勢引退き、八月十八日卯の刻合戦始まり、申の刻迄、十七度合戦仕候内、八度信玄の勝、九度謙信勝、終大勝にて、甲州勢敗軍致され候。謙信は、翌十九日、善光寺陣取り、手負を越後へ遣し、二十日、引払ひ、越後へ帰り申され候。手負千九百七十人、討死三千百十七人。甲州勢二万五千内、手負二千八百十九人、討死三千二百十六人。

一、弘治二丙辰年三月廿五日、合戦は信玄公、謙信三度目。信玄公、山本勘介に御相談御手立に、甲州勢六千程、宵より戸神山へ隠し置き、扱、謙信の先手へ入乱れ、合戦最中、戸神山の隠し勢、謙信の後より、凱声を上げて、謙信の旗本を切崩し、謙信、筑摩川を渡り、引退く処を、河中にて、討取るべきとの事にて、戸神山へ、廿四日忍びに、向勢保科弾正・市川和泉・海野常陸・多田淡路・栗田淡路・布施大和・河田伊賀、是等大将として六千余り、戸神山に、総先手の始るを待ち居る。

一、謙信、廿四日の晩方、井楼にて、信玄の陣所を、遠見して居給ふに、信玄の陣中夥しく煙立つ。是を見て申されけるは、信玄明朝早く、取懸り申すべき仕度なり。斎藤下野・宇佐美駿河・色部修理を呼び給ひて、此事相談致され候処に、戸神山の方より、山鳩・鴉飛乱れけるを、又申されけるは、信玄明日我等を、前後より立挟みて、討つべしとの行あり。我にも一行して、信玄を討取るべし。信玄を討洩らすとも、見よ旗本は、洩らさず討取るべし〔本ノマヽ〕。今度なり。先手に功者の入る合戦なれば、宇佐美駿河・柿崎和泉加はり候へ。謀を諸人に知らせ、備を定め、腰兵糧一人に三人前に支度ありて、其上、亥の刻より出陣仕候。

一、先手四千    宇佐美駿河 村上義清 長尾遠江守柿崎和泉 色部修理 甘糟備後

一、二陣   謙信 甘糟近江 本庄美作 柏崎弥七郎

一、後陣      斎藤下野守 本庄弥七黒川備後 唐崎孫次郎

一、横鎗備     新発田尾張守

一、右同備     加地但馬守

一、後備      中条越前竹股筑後 松原壱岐守

オープンアクセス NDLJP:108謙信は、木綿胴服の上に、萌黄緞子の袖なし羽織、白布にて鉢巻、波原行安の長刀をさげ、青竹三尺切つて、腰にさし給ひて、先手に乗入る。旗本勢は、謙信の居給ふ如く、遥後に備へ居る。寅の刻に、謙信四千の人数、信玄の旗本へ、無二無三に瞳と切入り、信玄公本陣思ひ寄らず、逆寄に、謙信の寄せ給ふとて、周章騒ぐ所へ、謙信の先手早や切入つて、切伏せ突伏せ切散らす。然れども、武辺第一の武田武士内藤修理・武田刑部・小笠原若狭・一条六郎・飯富三郎兵衛等取合せて、上杉勢を防ぎ戦ひ、謙信の先手粉骨を尽し、武田勢と戦ふ。謙信は、信玄公を心懸け、敵中を乗廻り給ふを、武田勢、見知りたるや、又は能き武士と思ひけるにや、敵三騎馬を並べ、太刀を揃へて切つて懸る。此折、本庄越前廿六歳、謙信の後にて戦ひけるが、謙信へ、敵三騎打つて懸るを見て、本庄越前、謙信の脇を出で、彼三騎に向ふ。謙信是を見給ひて、本庄と同様に打つて懸る。敵を、行安の長刀にて、車切りに切落し、余る長刀にて、一騎の敵、弓手の腕を打落し申され候。本庄も、残る一騎を討取る。武田勢武田左衛門・穴山伊豆守・高坂弾正・南部喜雲斎・小山田主計・真田兵部・根津山城、是等四五千程、荒手にて、上杉勢を切捲り、上杉敗軍仕り、上杉横鎗衆新発田尾張・加地但馬、左右より鎗を入れ、甲州勢を突立つる。甲州勢亦突立てられて引退く。謙信、旗本備へ下知ありて、旗本を以て切入り、信玄公の備、都合十二備切崩し、喚き叫んで切散らす。此時に甲州勢諸角豊後・板垣駿河守・山本勘介入道・初鹿野伝五郎・小笠原若狭守・一条六郎等、都合三百余人討死す。扨、戸神山に忍び居たる甲州勢、合戦始まるを待ち居けれども、沙汰もなく、越後勢は一備もなし。扨は謙信の軍法にて、出抜にせられけると、呆れ居たりしが、川中島の方にて、喚き叫ぶ声を聞きて、六千の甲州勢、本陣にて合戦ありとて、一騎駈に馳せ来る。信玄公是に力を得給ひ、旗本備色合よく、越後勢を前後より挟みて、揉立て防ぎ戦ひける。越後勢、数刻の戦に草臥れ、両方より揉立てけるより、敗軍仕候。謙信、総軍勢を即時に引上げて、丸備にして引退き給ひけるを、武田勢是を見て、謙信は引きけるぞ、追打にせよやとて、保田・落合・河田・小田切・栗田・多田三八郎・布施大和・海野常陸介等勇み誇り、備を乱して馳せ来る。謙信是を見給ひて、青竹振廻し、人数を遣し給ふ。車返しといふ軍法にて、後備より先備迄、くるりと立備へ、大返しといふものにて、武田勢の、備もなく追ひ来る勢の中へ乗入りて、四方八面に切散らす。信玄公の旗本を目がけて、越後勢馳り廻る処、甲州飯富三郎兵衛・内藤修理・七宮将監・下山内匠・小田切主計・オープンアクセス NDLJP:109跡部大炊介四千計り、噴と切つて出で、越後勢を防ぎ戦ふ処へ、甲州勢根津山城は、海野常陸介横鎗を入れ、越後勢を突立て戦ふ。之に依り、越後勢敗軍仕り引退く時、越後浮勢中条越前・神保筑後・杉原壱岐二千五百人、初めより合戦見物して荒手にて居たりしが、爰ぞ我が請取る所とて、武田勢の中へ、一文字に馳せ入りて戦ひける。武田勢敗軍仕り、信玄公も引退き給ふ。竹股・中条軍勢を制して、一人も追討ちさせ申さず候。是より合戦相止み、謙信犀川を渡り引退く。宇佐美駿河守、手勢二千五百人にて殿仕り、越後へ帰陣仕候。此合戦も勝負付かず候。夜の内三度、夜明四度、都合七度合戦仕候。

一、信玄公方討死四百九十一人、手負千二百七十人。

一、謙信方討死三百六十人、手負千廿二人。

一、弘治二丙辰年八月廿三日、謙信、又川中島出馬致され候。四度の合戦、上野原合戦と申候は、此合戦にて御座候。当年三月も、信玄公、謙信合戦仕候へども、信玄公に出合もなく、慥なる勝負も見えず、無念千万なる事。何卒信玄公に出合ひ、勝負致したしと、申され候へども、信玄公謀にて、信玄公に似たる法師武者七人拵へ置き、何れ信玄公と知り難く仕立てければ、卒爾に働きもなり難し。凡は信玄公を見知りたり。何卒手詰の勝負かけたしとて、今度亦、出陣仕候。

一、先備     村上義清 石江采石坂与五郎女

一、二〔陣カ〕     川田対馬 満願寺隼人長井丹波

一、三陣  謙信 大川駿河 松川大隅 須賀摂津

一、左備     斎藤上野 青川十郎田原左衛門

一、右備     本庄美作 下山弥七郎朝日隼人

一、横鎗     石川備後 松本大学

一、横鎗     安田伯耆 山本寺伊予

一、後備     千坂対馬 島津卜可斎

一、脇備     長尾越前守 長尾遠江 宮島参河

一、浮備     宇佐美駿河 鬼小島弥太郎

謙信、人数都合二万五千。然れども謙信は、八千の人数を以て、信玄公と戦ひ、能しと申さるオープンアクセス NDLJP:110る人共、信玄公には、いつも二万五六千にて出陣御座候故に、家老共又は宇佐美駿河守逢ひ、意見申され候間、二万三千に仕候へども、謙信は八千の人数を遣ひ候とて、残勢は後に差置き、脇備・浮備などと申し差置かれ、多分は先手備・謙信旗本にて合戦致され候。脇備・浮備、合戦を見物仕居り候て、越後勢危き時分は、横を打ち後を取切り、粉骨を尽し戦して、勝戦にても、謙信は殊の外不機嫌にて、勝戦とは申されず候。手廻八千にて合戦仕候時は、負にても機嫌にて、合戦咄致され候。脇備・浮備勢の者共、骨折損に御座候へども、味方難儀に及び、又は戦ひ労れ、危き時分は、謙信下知なしに馳せ出で、合戦仕候。然れども、上州・越中・加賀・能登などにては、終に脇備・浮備など申す事御座なく候。武田信玄は強敵と、謙信存ぜられ候故、家老共の意見に付き給ひ、人数も多くは召連れ申され候。先づは八千にて、合戦を始め申され候。

一、信玄公には、二万五千の人数にて出張なされ、早速忍・物見を、謙信陣近く遣されて、陣中を見て、信玄公へ申上候は、今度謙信には、永陣と見え申候由申上ぐる。信玄公、聞召して、何とて永陣とは見定め候かと、御不審なされ候。物見申上候は、謙信の陣小屋に、夥しく薪積み置き候と申上候。信玄聞召され、御うなづきなされ、即刻使番を召し、仰付けられ候は、謙信陣小屋に火事あるべし。必ず此方より一人も人出すべからず。若し相背き、一人にても出候はゞ、其者一類迄、曲事申付くべく候。堅く相守り候様に、触れ申すべき旨、仰付けられ候。扨、甘四日晩方になり、案の如く、謙信の小屋に火事有之候。信玄公、井楼に登り、遠見なされ御覧の処、火事もしめり候へば、越後勢五六十程、草の中より、弓・鎗・長刀を持つて出づ。甲州勢是を見て、扨々信玄公の御推量、鏡に向ふが如くなり。誠に名将と感じ入り候由。

一、信玄公の御計には、廿五日朝、馬三匹取逃し、其馬を、謙信陣小屋の方へ追ひ来る。謙信の足軽共是を見て、信玄の陣中より、馬放れ参る。いざや取つて徳にせんといふ。謙信、此時井楼に居、遠見して、馬の放れ来るを見給ひて、本庄平七を呼び申され候。只今、信玄方より、馬追ひ放し、此方へ飛び来るべし。其儘捨置き候様に、諸軍勢に触れ申すべし。此方より、一人にても出で候はゞ、急度曲事申付くべし。使番急ぎ触れさせ候へと、大音に申付けられ候。然る処に、馬、野山を走り廻る。然れども謙信方より、足軽一人も出でず候。信玄公、夜の内に、足軽三百人・騎馬五十程、草伏に隠し候て、謙信の足軽共、馬取りに出で候はゞ、討取る御オープンアクセス NDLJP:111計なり。謙信より、一人も出で申す者なく、信玄方は、草伏の者共、手を空しく起上り、引取り候。信玄の仰には、謙信は、扨々功者なる弓取、中々謀にては、合戦はなり難しと仰せられ候由。扨、信玄公、如何思召し候や、廿五日昼過より、爰の陣引払ひ給ひて、廿五日夜は、上野原に野陣を張り、厳しく用心仰付けられ、四方に篝を焚き、夜廻り陣取御座なされ、謙信は、信玄の引退き給ふを遠見して、総人数二日分の兵糧支度にて、廿五日酉の刻に信玄の跡を慕ひ、廿五日の夜中、人数押し仕りて、廿六日卯の刻に、上野原信玄公の陣へ押寄せ、村上・石江・石坂、鬨の声を上げて、信玄公の備に切つて入る。信玄公の方にても、一二を定め取合ひて、鎗を合せ出で、火花を散らし戦ひける。謙信方捲立てられ、乱れ散る。甲州勢、勇み進みて、色合三段に謙信勢を追付け、謙信二の手川田対馬守・満願寺隼人・長井丹波、人数を押出して、先手に入り替り戦ひけるが、信玄公勢きわほこり勇み強く、丹波・隼人・対馬、汗水になり、苦戦仕り候処へ、謙信の横鎗の者石川備後・松本大学、爰を我等の請取る処とて、瞳と横鎗を入れ、信玄勢を突立つる。甲州勢、散々に打負け引く処を川田・満願寺・長井・石川・松本、一手になり、甲州勢を追討に仕候。甲州勢高坂弾正・内藤修理、押太鼓を打立て、三千余入替りて、越後勢と喚き叫んで戦ふ。越後勢色合悪しく、乱れ足になり戦ひける所に、甲州原大隅・仁科・高梨・海野・望月等、三千程にて切つて入り、越後勢を取包みて討取る。越後勢、大勢討死仕候処へ、越後脇備長尾越前・長尾遠江守・宮崎参河守、甲州勢六七千の中へ、二百五国〔本ノマヽ〕にて切つて入る。安田伯耆守・山本寺伊予、横鎗に突き入れ戦ふ。甲州勢も亦、飯田・甘利・土屋・室賀一葉軒・日向大和守二三千計り、火花を散らし、勝負区々にて、いつ終り申すべしとも知れず戦ひける。

一、謙信内宇佐美駿河守は、手勢二千五百にて、謙信の備にて、合戦にも構はず、初めより、山の手に備を立て、合戦を見物仕り罷在候ひける。越後勢、旗色悪しく相見え、甲州勢も、過半四方にて取合ひ最中にて、信玄公の旗本備、小勢を察し、駿河守手勢五百人、二備に仕り、信玄公の旗本へ切つて入る。信玄公の旗本も、両手へ向ひ、防ぎ戦ひけるが、駿河守、山の手より落ちかけ、切込みけるに、信玄公の備、殊の外乱れて備立て直す事なり兼ね候。駿河守、敵陣へ乗入り、信玄を洩らすな、討取れや者共と、大声にて馳せ廻る。信玄の旗本勢、本庄美作・下山弥七郎・朝日隼人・斎藤下野守・田原左衛門、備を乱し、信玄を遁すなと馳せ廻る。之に依つて信玄公、引退き給ふ。甲州勢、本陣の敗軍を見て、皆々敗軍して引退く。追討に甲州勢をオープンアクセス NDLJP:112討取り、越後勢、勝鬨を揚げて引退き申候。

右の合戦は、八月廿六日卯の刻に始まり、未の下刻まて、都合五度合戦あり。一番合戦は、信玄公勝。二番目謙信方勝。三四番信玄公の勝。五番目終合戦は、謙信方大勝に罷成候。

一、信玄公方、討死千三十三人。

一、謙信方、討死八百九十七人。

一、永禄四年西八月廿三日、謙信、川中島へ出馬致され、西条山に陣取り、下米宮海道取切つて、西条山の要害に、赤坂山の下より出づる水の流れを引取りて、堀の如く仕り、苦し西条山を攻め候とも、足場悪しく拵へ置き、謙信には、何卒今度、信玄に出合ひ、勝負を決したしと申され、白布にて鉢巻し、木綿胴服・巻小手をさし、備前兼光長三尺の刀を帯し、岩手栗毛と申す早馬に乗り、先手に交り戦つて、信玄公を心懸け、八年前に、信玄を打洩らす事、無念至極、今日は是非出合ひたしと申され候。八月廿九日、信玄公、貝津城着陣にて対陣あり。足軽迫合も無之、陣取り給ひて、九月九日の夜、信玄公、潜に総軍勢を引払ひ、貝津城を出で、川中島に備を立て給ふ。物見走り来りて、此段申す。謙信之を聞き給ひて、宇佐美・斎藤・柿崎・直江大和・本庄美作・岩井備中、此古老の者共軍評定致され、備を定め、十日亥の刻に、謙信総軍勢押出し候て、川中島に陣取り給ふ。此時の備、

一、都合三千五百。西条山に残る。井上兵庫清政 島津左京亮入道 須田相模守親満 高梨摂津守

一、川中島にて備次第は、

一、筑摩川端貝津城押 本庄越前守繁長 新発田尾張守長敦 鮎川摂津守勝利 大川駿河国重

一、先備       柿崎和泉守景良

一、二備       北条丹後長国

一、三陣  謙信旗本 川部豊前 大熊備前 長井丹後 岩井備中 城織部 元井日向守

一、左備       斎藤下野朝信

一、右備       長尾越前政景

オープンアクセス NDLJP:113 一、左横鎗      色部修理長実 山吉孫次郎親景

一、右横鎗      本庄美作度慶 唐崎孫次郎吉俊

一、後備       長尾遠江藤景 鉄孫太郎中条梅坡斎

一、浮備       大貫五郎兵衛

一、軍奉行      宇佐美駿河定行 柏崎弥七郎

一、浮勢       直江大和実綱 安田治部甘糟近江守

一、右の通り備へ、九月十日夜四時に、総勢押出して備へ陣取り、信玄公にては、夢にも知るものなく、信玄公より、物見十七騎、夜子の刻時分に、うかと斎藤下野守備へ乗懸け来りて備を見、大きに驚き、馬を引返し逃げ帰るを、下野守手の者追懸け、馬より突落し、十七騎を洩らさず首を取り申す。下野守者共三人、深手を負ひ候までにて、亡死候者〔本ノマヽ〕は御座なく候。謙信、是を聞き給ひて、使者を以て、先手柿崎和泉守に、早く信玄公本陣へ切込み候へと、下知有之候。和泉守、即時に信玄の陣に切入る。信玄方にて、合戦は、夜明と思ひ居ける所へ、切込み候故に、陣中驚き騒ぎ、取合兼ね候へども、武勇勝れ候武田勢にて、弓・鉄炮打出し防ぎ、早や飯田・高坂等乗出し防戦、段々甲州勢大軍になりて、柿崎叶はず引退く。北条丹後・斎藤下野守・長尾越前・本庄美作・唐崎孫次郎四備、一度に馳せ出で、甲州勢を切立て、火花を散らして戦ひけるに、謙信、信玄公に参けいせんとて、自身先手を致され、旗本勢を以て、信玄公の本陣に切つて入る。信玄公の備十二段、切捲り、謙信は、信玄公を尋ね、敵中を馳せ廻り馳せ廻り、尋ね給へども、信玄公の様なる法師武者八九人も相見え、何れを信玄公とも見届け兼ね、謙信飛鳥の如く乗廻り、切散らし、信玄旗本敗軍仕り、筑摩川広瀬方へ逃行く。謙信は定めて信玄公も、筑摩川方へ引退き給はんとて、謙信も筑摩川へ馳せて、信玄公を追ひ給ふ。甲州勢を追打に仕候事数知らず。信玄公は引違ひて、犀川を渡り、引退き給ふ。謙信、此事を後に聞き給ひ、信玄は誠に名将なり。大勢の味方の引く方へ引退かずして、小勢にて、犀川の方へ行きける事、我等は、信玄の智慧には及ばずと申され候。

一、謙信は、信玄公を追うて、筑摩川の方へ行き給ふに、跡より信玄公の御嫡男太郎義信、二千余にて、謙信の跡より切懸け給ふ。謙信の後備長尾近江・鉄孫太郎・中条梅坡斎、取合せて、太郎義信と戦ひ居る。長尾・中条・鉄、散々に打負け、敗軍仕り候処に、色部修理・山吉孫次郎馳オープンアクセス NDLJP:114合せて、横鎗に突入る。浮勢直江大和・安田治部、馳せ合せて、甲州勢を切捲り、之に依り太郎義信、引き給ふ。

一、謙信は、前後の合戦に打勝ち、総軍原町に休息仕り、腰兵糧をつかひ居り給ふ。然る処、何方に隠れ居り給ひけん、太郎義信は、百騎程にて、腰差抔も軽く、忍びやかに、謙信の油断の処へ、俄に切入りて、謙信の本陣へ、急に駈入り給ふ。謙信方は、丑の刻より合戦にて草臥れ、殊更油断等仕り、陣中騒動して、取合ひ兼ね候。然れども、先手組の者馳せ出し、切合ひ防ぎ候内に、柿崎和泉、鎗取つて突取りて、皆々参り、急なる事にて、馬に乗遅れ、歩行武者にて戦ひ候故、甲州武者は駈悩まされて、大勢討死仕候。信田源四郎義時も、馬武者に駈倒されて倒れけるを、甲州武者鎗付くる処を、刀にて、鎗の千段巻より切折り、臥し乍ら敵の馬の前足を擲りけるにより、敵も馬より落ちける内に、源四郎跳ね起き、敵に切付くる所に、敵人一騎馳せ来りて、源四郎を鎗にて突倒して、首を取らせ討死する。大川駿河守、歩行立にて合戦し、敵二騎取廻して、終に大川駿河守も討死す。謙信は家の重宝五挺の内、第三番目の鑓にて合戦し、首より突折り、後には波平行安の長刀を取つて、手を砕いて切つて廻り給ふ。然る処へ、直江大和・安田治部・柿崎弥七・甘糟遠江守、三千余馳せ来りて武田義信を取捲きて、切込み突入り戦ふ。義信計りに打ちなされ、叫はずして引退き給ふ。謙信勢、殊の外に草臥れ労れければ、追討もならず物分れ仕り、謙信は歯噛をなして、年若なる者に仕懸けられ、殊更、我が勢油断致候事、我等一代の疵なりと、至極無念に存ぜられ候。流石は信玄が子とて、我等に仕懸けける。然れども義信、是を自慢に弓取らば、越度出来せん。信玄が如くしまり、遠慮をむねとして弓取らば、能き大将となるべしと、申され候。

一、永禄七年、信州の押、野尻城主宇佐美駿河守定行・上田城主長尾越前守政景生害にて、謙信仕置見分、信州へ出□あり。之に依り信玄公も、早速出陣にて、十日対陣有りて、足軽迫合計りにて別条なし。扨信玄公御一門・家老衆相談にて、信玄公へ種々諫言して、川中島四郡を、年々御争ひ、今年まで十二年の間、大合戦・小迫合、毎年相止み申さず候。龍虎の勢にて、勝負御座なく候。貝津城附領計り、此方へ御取になされ、川中島四郡は、謙信へ遣され候て、境を相定めなされ、互に乱れなく、信玄公には、駿河口・関東口・美濃口へ出馬なされ、手広め然るべく存奉候。纔の川中島四郡に御隙御取り、剛なる謙信と御取合、空しく年月を御送り、外オープンアクセス NDLJP:115の国々は愚になされ候事、返す無念至極。今年迄謙信に御隙入り候程にては、外の国々、余程御手に入り申すべく候へども、信玄も御得心なされ、各存寄り、尤も至極せり。我等も其通り心得、謙信との争ひ、相止むべしとは思ひ候へども、先年和睦破れ已後互に和睦すべき品もなく、我等方より和を乞ふ事は、中々以て所存なし。謙信も亦、和談なる事にてなし。依つて止む事を得ず、合戦に及ぶ。然れども各意見、尤千万なり。さり乍ら、今年迄十二年争ひ、隙取りたる川中島を、何の分もなく打捨て、謙信に相渡す様もなし。互の運のためし、安三〔本ノマヽ〕を出し、組打の勝負次第、川中島を何方へなりとも、領すべしと思ふと仰せられ、内藤・馬場・甘利等之を承り、恐れ乍ら御尤に奉存候。謙信へ、思召し候通り仰遣され、両軍の間にて、組打勝負御覧なさるべく候とて、右の趣、使者を以て謙信へ申来り候。謙信、聞召し候て、家老共に申され候は、信玄が口上の趣、扨々若輩なる申様なり。讒の四郡にても、鋒先にて取つてこそ面白きに、組打の勝負次第とは、寺勝負の様にて、他国の聞えも如何なり。品を付けて批評すへし。兎角合戦の勝負に任すべきと申されけるを、直江大和・斎藤下野・竹股参河、一統申しけるは、信玄の望の通りになさるべく候。大和が郎等に、大力の者一人、下野が郎等に、早業の者も、人並より勝れ候者、一人御座候へば、御前へ召出され、御目兼めがね次第、一人御出し、組打勝負次第、川中島を御隙明けられ、北国残らず御治国なされ、関八州を御切随へ、上方へ御攻上り、天下に御広め然るべく存候。纔の川中島、御隙入り候間、兎角信玄所望に御任せなさるべき由、再三諫言申候に付、謙信漸々納得にて、信玄への返答に、御所望に任せ、郎等一人宛、両陣の間へ差出し、組打勝負次第に、川中島領地境を相定め、以後意乱不有之候。明十一日午の刻、御家来一人差出され、此方よりも一人差遣すべし。外には一人も御加へあるまじく候。只二人の勝負に相極め申す事にて候。此通り返答申遣され候。扨謙信、両人の郎等を召出され、両人をつくと眺め申され候て、下野が郎等長谷川与五左衛門然るべく候。明日出でて、組打の勝負すべし。信玄方にては、大力の者これありて、夫を頼に、組打勝負望みしと見えたり。さもあらば、与五左衛門が早業にて勝つべしと思ふとて、与五左衛門にぞ相極めける。十一日の朝、謙信、与五左衛門を呼出され、今日の勝負は、後代迄名誉を残す者なり。能々せよやとて、勝栗・熨斗・蚫給はりて退く。与五左衛門、程なく午の刻に至れば、与五左衛門勇んで罷出で馬に乗り、馬上にて名乗りけるは、謙信が家老斎藤下野守朝信が郎等長谷オープンアクセス NDLJP:116川与五左衛門元連と申す者にて候。御覧の通り小兵にて候へども、承り及び候安間殿へ、見参仕るべしといひ、今日は晴なる組打勝負にて御座候へば、加勢・助太刀、互にあるまじく候。若し加勢・助太刀候へば、末代迄、弓矢の恥辱なるべしと、大声に申しける。安間彦六、馬乗り馳せ出で、何の言葉・会釈もなく、大の男、馬を乗違へて、与五左衛門と、馬上にてむづと組み、両馬の間に落ちけるが、安間は大力といひ大男、与五左衛門は小男なれば、何の手もなく、与五左衛門を取つて伏せけるが、如何にしてか与五左衛門、手の下より抜け、安間の後より、仰向に引倒して、其儘一刀刺して、首を取るより早く差上げて、首御覧なされ候へ。長谷川与五左衛門元連と申す者、組打の勝負にて、安間殿の首取つて候と、名乗りければ、上杉勢同声に、仕つたか長谷川、□たるや与五左衛門と、感じ申し候へば、甲州勢にて腹を立て、七八百騎、木戸開き切つて出でんと犇きけるを、馬場民部・内藤修理等馳せ出で押留めける。信玄申されけるは、鬼神の如くなる安間が、あの小男に仕負け候事、味方の運悪しきと、忽に合戦始めて、越度を取り、殊更約束違へて、此方が切懸け候ては、永き弓矢の名折なり。一人も出づべからずとて押留め、兼ねて定の通り、組打勝負次第と申し候へば、川中島四郡は、謙信へ相渡し申候。今日より謙信、御心次第なさるべく候とて、互に家来三十騎づつ出し、境目を立て、信玄・謙信共に馬を入れ、是よりして信玄・謙信の弓箭取合、相止み候。扨又謙信、長谷川与五左衛門を呼出され、今日の手柄早業の働、褒美致され、盃給はり、千貫の折紙を出し、直参に申付けられ候。斎藤下野には、信国の太刀給はりける。川中島四郡は、村上義清・高梨政頼旧領なりとて、両人へ返し給はる。

                             上杉内

  寛文九酉年五月                     清野助次郎井上隼人

右川中島合戦の次第、酒井雅楽頭忠清〈原本一字欠〉〔奉イ〕にて、上杉家へ御尋ねなされ候に付、上杉家記録、又は此節迄存命の者四五人御座候故、其者共集め、記録にて引合せ、穿鑿吟味仕り、繕ひ虚言御座なく、斯様書附け差上げ申候。

 右は此度日本通鑑御撰び仰付けられ候間、御尋ねなされ候。

一、南光坊天海大僧正、御物語なされ候は、近年甲陽軍といふ書物出で、世間広まり候を見候に、川中島合戦の事、年月・場所に相違あり。殊更信玄、謙信太刀討の時、信玄は床机に腰をオープンアクセス NDLJP:117懸けながら、謙信が太刀を請流し候と有之、大なる虚説。其時分我等は、会津不動院に居り、信玄の祈祷致し、年月懇に申され候間、天文廿二年八月、甲州へ檀那廻りに行きけるに、信玄には、川中島に、謙信と対陣の由、留守居の者申す故、八月十七日、我等も川中島へ行き、信玄の陣所へ見廻る。信玄、早速対面致され、遠方見廻り、悦びの段申され、一両日中、謙信と合戦懸け候間、貴僧は早々帰られ候へ。来春甲州にて、緩々対面致すべしと、申され候に付暇を乞ひ、陣小屋立出で候へども、道にて思ひけるは、大檀那、一両日中、大事の合戦取結び給ふを聞きながら、出家にても、聞捨に帰る道理なしと思ひ、下米宮に一宿致し、翌十八日、合戦始まり候節、山へ登り見物致しけるが、勝負幾度も之あり、十八日の卯の刻に合戦始まり、昼八時頃には、信玄大勝と見え、謙信が本陣へ切込みて、謙信、本陣乱れて、信玄が旗、殊の外進み、諸勢も勇み誇り、八方へ謙信勢を追行きける所へ、大塚村の方より、押大鼓を、成程静に打ちて、誰とも大将は知れず、千五六百騎程出で来る。是を甲州勢見ると、亦大きに乱れける処へ、早や敵乗入りて、合戦ある処へ、又謙信の内渡辺越中といふ者、何方よりか馳せ出で、勢の程六百騎もあらん、此新手ども、左右より信玄を揉合せ、挟打に甲州勢を打つ。之に依り、信玄勢四方へ散り、信玄も、二三十騎程にて、御幣川へ乗入れて、引退く処へ、謙信は、白布にて鉢巻して、飛ぶが如く馳せて、信玄を目に懸け、御幣川へ乗入れて、信玄へ切付くる。信玄、手に、団扇持ちて請け給ふ。謙信、畳み懸け切り給ふ処へ、信玄が供せし侍共、鎗にて謙信を叩くと見えしが、両方押隔り、物別れせられける。扨々烈しき戦にてあり。其夜、信玄の陣所へ、我等見廻に行く。信玄は驚きて、御坊は帰られ候と存候へば、逗留めされて候とて、褒美あり。其時信玄、手を負ひ、寄懸り居られ、我等に申すは、源平両家の戦より、大将と大将の太刀打、承り及ばず。近代稀なる事。扨々御手柄なる御事とほめ候へば、信玄顔色変り、殊の外機嫌悪しくなり申されけるは、信玄も太刀打仕りたるが、我等に非ず。信玄が真似さする法師武者なり。鎧甲、我等同様なる仕立なれば、外目より知らぬ者は信玄と申すべきなり。中々我等にてはなし。必ず奥州伊達・佐竹会津抔にて、信玄・謙信と太刀打仕りたる抔と申され候事、無用なりと申されて帰られ候。然る由申され候まゝ、暇を乞ひ、会津へ帰り申す。我等山へ登り、御幣川見下し、信玄も謙信をも能く見知り、太刀打の次第、合戦の始終、見物せしに、当代世間に出で候甲陽軍に、迂矩を書きたると御咄なされ候。江戸御城にて、或時御オープンアクセス NDLJP:118旗本衆大勢寄合ひ、古戦の話有之、横田甚右衛門其座に居り、南光坊も上座に御座なされ、御旗本衆、国々の合戦大将衆の智謀咄になり、横田甚右衛門噺しけるは、近代の大将衆多く候内、武田信玄公程なるはあるまじく候。智謀といひ、締り能き大将、後代迄出来まじく候。川中島合戦の時、上杉謙信、先手の内に入りて、信玄を狙ひ廻る。信玄、八方へ目を配り、床机に腰懸け、軍勢の甲乙を正し居給ふ。謙信一騎、鹿毛馬に乗り、無二無三に信玄へ切懸くる。信玄、床机に腰懸け居ながら、謙信の太刀を、団扇にて請流し御座候体、天晴大将に、天下の誉事に致候と、噺し申されけるを、南光坊聞召して、甚右衛門を御叱りなされ候て、甚右衛門未生已前の事、何とて存ぜらるべき。我等は、合戦能く見たり。八月十七日、川中島信玄陣所へ見廻り、翌十八日、合戦之あり、双方御幣川へ乗入り、川中にて謙信乗付け、信玄も、太刀抜合せたく思召されつらんが、片手にて馬を控へ、片手団扇を持たれければ、太刀に手を懸くる隙もこれなく、団扇にてうけ、二箇所浅手負ひ給ふ。信玄郎等三十人程、鎗持つて信玄を囲ひ、引退く中へ、謙信乗付けて切付くる。信玄の内衆、此時、謙信を鎗付け候事は、余り烈しき事故にや、突く事せずして、鎗にて叩きける。我等四十五歳の年、山に登り、御幣川を目の下に見下し、能き見物致候と、仰せられける。

伝に曰、南光〔〈坊一字脱カ〉〕天海大僧正慈眼大師と申し奉るは、足利将軍義澄公御末子。御母は会津蘆名盛高の娘にて、義澄公薨去後、御母と会津へ下向なされ候て、御出家あり。寛永十九年壬午年十月二日、百三十四歳、円寂なり。

一、江戸に於て、弘文院林春斎門弟千賀源右衛門と申す者召され、〈此源右衛門と申すは、酒井修理大夫殿家来、〉酒井忠清へ参られ、申上げられけるは、今度本朝通鑑撰び申候に付、諸家の記録御渡なされ候処に、信玄・謙信川中島合戦次第・年号月日、甲陽軍と大なる相違御座候。上杉家より差上候記録を用ひ申すべきや、甲陽軍用ひ申すべきやと伺はれ、雅楽頭殿挨拶は、相談を遂げ候て申入るべき由、仰捨てられ御〔〈帰ノ字脱カ〉〕城。此事、御沙汰御座候節、御一座に、信玄衆大勢詰合ひ、其を申されけるは、今度上杉家より書上げ候通り、通鑑に記し申候はゞ、日本に流布仕候甲陽軍鑑、偽書に罷成り、甲州流軍法迄、偽に相成るべしと、軍鑑編立て候者、近代の偽撰には御座候へども、高坂弾正と御座候。兎角甲陽軍も廃り申さず候様願奉ると、御旗本衆大勢願なり。之に依り雅楽頭殿、林春斎へ仰渡され、是れ今流布せし甲陽軍廃らざる様、上杉家より書出し候記録オープンアクセス NDLJP:119も捨てずして、並べて能き中を取り、通鑑を撰び差上候様仰渡さる。

一、長尾信濃守為景八子

一月 弥六郎晴景。京都将軍義晴公より、晴の一字下され候。

二男 平蔵景康。天文二年二月十三日、黒田和泉逆心にて、景康誅せらる。

三女

四女

五男 左平次景房。

六女

七女

八男 景名猿王丸。十四歳の時、長尾八郎政虎といひ、後景虎と改む。天文十九年七月、京都将軍義輝公より、輝の一字下され、輝虎と改む。天文廿一年、輝虎二十三歳にて剃髪あり。心光と申し、後謙信と改む。

一、越後騒動根元は、長尾平六俊景大将にて、越前朝倉義景の牢人胎田常陸・子黒田和泉二男・金津伊豆、以上四人一味にて逆心を起し、天文十一年四月廿二日、長尾六郎為景、越中国にて戦死あり。此日を、右四人逆心の者、俄に城に馳せ入りて、為景次男平蔵景康・同五男長尾左平次景房討死する。此間に嫡男弥六郎晴景城を落ち、三島郡に忍びける。此時猿王丸、十三歳なり。二の丸番人島勘左衛門・山岸六蔵両人、猿王丸を座敷の縁敷放し、縁下に入置き、夜に入りて林泉寺の住僧門察和尚の方へ落し、隠し置き候て、門察和尚、猿王丸を、本庄美作方へ同道ありて、頼み申されければ、美作大に悦びて、早速宇佐美駿河守を招ぎ、猿王丸の事を頼む。宇佐美も悦びて、猿王丸に心入れ、行跡を考へ見るに、只人にあらずと存じ、大将に取立て、大熊備前・上野源六・鬼小島弥太郎・山岸丹波・新津丹波・同彦八郎馳せ集りて一味仕り、人数千三百余御座候故、旗を挙ぐる。此段、長尾平六・黒田和泉・金津伊豆七千余にて、橡尾城に押寄せ攻む。城方大熊備前・城新左衛門・鬼小島弥太郎馳せ出で、火花を散らし合戦する。城の櫓にて、猿王丸・宇佐美駿河、戦を見物仕居候。然る処、宇佐美申すは、城より今一備出し、横鎗を入れ、突崩し申すべしといふ。猿王〔〈丸一字脱カ〉〕殿聞き、暫し待ち候へ。時分見合せ、我等も乗出で、一手は本庄・宇佐美二人馳せ出で、両方より挟討にして、切崩すべしとて、時分見オープンアクセス NDLJP:120合せ居て、いざや時分能しとて、猿王丸殿・金沢新之丞・新津彦次郎一手なり、宇佐美・本庄一手となり、左右より、長尾平六・黒田和泉が陣を、挟討ち切込み、大熊備前・城新左衛門・鬼小島弥太郎勇み突崩す。猿王殿初陣にて、馬の達者、太刀打只人ならず。殊更切崩す時分、考へ切つて出で、敵を大勢突伏せ働き給ふ。依つて平六討死故、黒田和泉・金津伊豆叶はず、三条城・黒滝城へ引込み籠城仕る。依つて、越後長尾家譜代の者・国侍馳せ来りて、猿王殿に随ひ奉る故、猿王運を開き給ふ。

一、上杉家四家老長尾・石川・斎藤・千坂。

一、石川備後為元、継子なく家絶え申候。

一、斎藤下野朝信、武勇智謀あり。謙信公代、所々合戦手柄仕候。

一、千坂対馬清胤子二人共病身故、軍務勤め難し。之に依り一族の内満願寺仙左衛門を養子仕り、家を譲り、千坂対馬と申候。

一、本庄美作慶秀、越後国橡尾城主、大身者。謙信公、幼年の時取立て、大将仕り忠節の侍。嫡子本庄清七郎と申す。天正六年謙信病死あり。之に依り、景勝と三郎景虎、家督論あり。此時、景虎へ一味にて、景虎生害あり。依つて清七郎も越後を退く。

     謙信代

一、長尾越前政景 一、長尾遠江藤景 一、本庄越前繁長 一、安田上総順易 一、杉原常陸親憲 一、岩井備中経俊 一、甘糟備後清長 一、順田大炊介長義 一、宇佐美駿河定行 一、竹股参河朝綱 一、川田豊前長親 一、島津左京亮勝久 一、吉江中務定行 一、高梨摂津政頼後月下斎と云 一、高梨弥五郎盛貞 一、高梨源三郎盛政 一、志田修理義方 一、五百川修理郷春 一、大熊備前朝秀 一、加地安芸泰綱 一、新津丹波義門 一、大岡修理頼久 一、鬼小島弥太郎一忠 一、金津新兵衛義慈 一、鉄上野安則 一、色部修理長実 一、山本寺庄蔵孝長 一、新発田因幡長敦 一、柿崎和泉景家 一、山吉源次郎親重 一、北条丹後長国 一、中条越前藤資 一、泉沢河内年親 一、直江大和実綱 一、渡辺越中翔 一、甘糟近江清英 一、村上左衛門義 一、藤田能登只位 一、大川駿河宗徳 一、須賀摂津 一、柏崎日向 一、松川大隅 一、大崎筑前 一、唐崎左馬助 オープンアクセス NDLJP:121一、神藤出羽 一、朝日隼人 一、丸田左京 一、矢尾坂伊勢 一、永井丹後 一、満願寺隼人 一、飯森摂津 一、石口采女 一、菅名大炊 一、田原左衛門 一、元井日向 一、片貝式部 一、小田切治部 一、鮎川摂津 一、吉江織部 一、城織部 一、川田摂津 一、西条刑部 一、松木伊賀 一、木戸元斎 一、下条駿河 一、須賀但馬 一、松本大学 一、中条与二郎 一、七寸五分たずばた織部 一、杉原壱岐 一、清野常陸 一、山岸宮内 一、大関安房 一、安田伯耆 一、宮崎参河 一、新津掃部 一、井上兵庫 一、芋川播磨 一、上野源六 一、毛利上総 一、溝口左馬助 一、田原左衛門 一、亀田小三郎 一、寺島六蔵 一、小中八郎 一、和田喜兵衛 一、城新左衛門 一、青川十郎 一、清野介一郎 一、小川紀四郎 一、栗田刑部 一、諏訪部次郎右衛門 一、荒川主馬 一、平賀久七 一、下山弥七 一、鵤平次 一、畠山弥五郎義春謙信甥、後上杉に改む

一、上杉弥五郎。実父能登国主畠山修理大夫義則次男なり。弥五郎、後上杉民部義春と申す。後入道あり、畠山入庵と申す。嫡子畠山弥五郎長則二男源四郎長員、上杉を名乗り、三男畠山下総守義真といふ。童名弥三といふ。慶長六年、家康公へ召出され、千石宛下され候。

一、長尾越前守政景は、信州上田城主にて、謙信の姉壻にて、景勝実にて、猛勇の大将故、永禄元年七月七日生害あり。此頃、景勝、喜平次と申して八歳なり。謙信甥にて、養子になされ候。

一、大国修理〔本ノマヽ〕、源三位頼政舎弟多田蔵人頼行三代三郎頼連の後胤なり。修理継子なく、直江山城弟を養子とす。之を但馬と申候。無津枝城・南山城二方に領知仕候。然る処、兄山城守と仔細御座候て、上杉家立退き、行方相知れ申さず候。

一、宇佐美駿河守定行は、上杉民部大輔顕定の侍大将にて、智謀勝れたる大将にて、上杉顕定・同安房守房能、共に長尾為景に打負け、生害あり。之に依りて、宇佐美駿河守、越後にて長尾為景と合戦、五年に及び候。然れども上杉修理大夫定実扱にて、和睦ありて、為景に随ひ、天文オープンアクセス NDLJP:122十年、越中国放生津城攻め落しける。同年、為景、神保安芸守良衡を攻めける時に、椎名泰胤・遊佐弾正局・江波五郎・一向宗西光寺下間筑後法印・七里参河一味にて、仙檀野に備へて、陥穽三箇所に拵へ置き、浮巻〔本ノマヽ〕の里長尾六郎為景聞きて、仙檀野へ馳せ出で、椎名・遊佐・江波等合戦あり。椎名・遊佐が勢、偽つて敗軍する。為景軍を□進み行く時に、一向宗寺等、為景の跡を取切り、為景前後の敵に戦ひける時に、落穴に一度に崩れ落ち、為景討死あり。此時宇佐美駿河守定行は、松倉城に楯籠り、神保・椎名は、両月の間合戦して、和睦ありて、松倉城を引退き、越後へ帰りける。永禄七年、信州野尻の城主長尾越前守政景と、一同に入水して死す。年七十六歳。嫡男宇佐美造酒之助定勝事は、永禄五年七月十日、武州上尾合戦に戦死する。次男民部勝行は、父駿河生害已後浪人仕り、景勝代に至りて、数度□し、奉公仕り候へども、景勝父の仇とて、言葉も懸けず。然れども民部事は、上杉家を慕ひ、大正六年に、景勝と柴田勝家と合戦ありし時、民部、甲府の首二つ取りて、其身数箇所手負ひ、景勝の本陣へ来りて、目見え願ひけれども叶はず。其後は、越後上条に引込み罷在候。

一、村上左衛門佐義清は、信州五郡の領主、坂本城に居り、清和源氏伊予守頼義舎弟肥後守頼清子蔵人頭顕清四代孫為国子判官基国後胤なり。

一、高梨摂津政頼・同源五郎盛貞・同源三郎盛政・井上兵庫・須田大炊長義。是等伊予守頼義公舎弟出羽守頼秀三代孫高梨七郎盛光井上河内守清政後胤なり。

一、新発田尾張敦〔〈脱字アルカ〉〕子なし。弟養子に仕り、是を因幡守と申す。武功剛強なる者にて、因幡守十六歳の時、謙信小田原城下迄押詰め候。此時引退き備定めあり。因幡十六歳にて進み出で、謙信へ申しけるは、宜しからず候備定にて御座候条申す。謙信機嫌悪しく、忰差出でたる事を申すとて、殊の外叱り申され候。因幡少しも屈せず、左候はゞ、私へ御暇下さるべく候。小田原城へ参り、御帰りの次第、北条氏康へ申し、人数召連れ罷出で、越後勢の跡を付け、酒匂川より此方にて、屋形様を打つて崩し申すべく候と、申しければ、謙信つら思案して機嫌直り、成程因幡了簡の通り、宜しからざる備なりとて、備配りを仕直し、因幡殿を申付けられ候。誠十六歳にて名誉を顕はし、武運に相愜ひ候ものかなと、諸人申候。謙信時代には、数度手柄仕り、将数多〔本ノマヽ〕。之に依りて、奢心出来候をぞ知り候様〔本ノマヽ〕、景勝是を呵り給ふに依つて、自然と不和になる。然る処天正十五年、織田信長、因幡方へ種々申越され、逆心を勧め、オープンアクセス NDLJP:123終に因幡逆心を発し、内通を仕り、奥州赤谷城主小田切参河守も、信長へ一味にて、新発田図幡と内通仕り、小田切方より、因幡方へ、兵糧・玉薬・人数、合力仕る。之に依りて因幡事、新発田城へ楯籠り、小田切参河守人数は五千、若野城に楯籠りて、景勝と四年の間合戦する。然れども信長は生害あり、新発田も小田切も、独身の体になり、天正十四年に、小田切居城、赤谷城を攻め取つて焼払ひ、新発田城を攻む。因幡切つて出で、猛威を震ひけるを、色部修理馳せ向つて討取り申候。

一、北条丹後長〔綱カ〕、武勇場数の侍にて、板戸城主一万貫領し候。謙信代より、大方は先陣承り候。謙信病死後、景勝も景虎と、家督争論の時、景虎に一味仕候により、荻田与三兵衛打伏せ、鎗にて突殺す。其已後景虎を討取り、景勝越後を治むる。〈景虎は、北条氏康七男にて、謙信養子にして、景虎と申しける。〉

一、鬼小島弥太郎一忠、武勇大力なる侍にて、或時謙信より、信玄へ、使者に遣され候。信玄方に、猛犬獅々と名付け、人喰ふ犬御座候。科人御座候へば、矢来の内に入れ置き、此犬を放し、科人を喰殺させ申され候。扨、謙信よりの使者へ、対面致すべしとて、態々弥太郎を、庭へ呼入れ給ふ。信玄縁近く出で、対面あるにより、弥太郎縁端に手をついて、口上申居り候処へ、縁の下より、彼の猛犬走り出で、弥太郎の膝頭にかぶり付く。弥太郎少しも騒がず、右の手を縁の下へ差延べて、犬の口先しつかと握り挫ぐ。大縁の下にて、殊の外騒ぎ候。信玄も態々返答承り申され候。其内犬の口先を握締め、知らぬ顔にて、弥太郎退出す。然れども膝より血流れ候へども、知らぬ体にて罷出候。跡にて信玄、犬を見給へば、口先より脇迄挫ぎ付けられ、犬は死し申候。信玄名将にて、斯様の事なされ候段、他国にて笑草となり申候。

一、島津左京大夫〈島津修理大夫資久の末子にて、後入道ありて、月下斎と申候。島津義久の弟なり。仔細ありて、謙信を頼み居、武勇場数あり。〉

一、鮎川摂津は、本庄越前房長一族にて、本国越中の侍、謙信に奉公仕り、天正六年、謙信病死前、正月より逆心を起し候。如何なる心入にて有之候か、訳知る者なし。謙信、種々宥め候へども、随ひ申さず候故、本庄越前守繁長に、討取申付けられ、繁長、即時に攻め破り、鮎川を討取り申候。

一、竹股参河朝綱、父は筑後と申し、数代越後糸魚川領知仕り、謙信代に、所々合戦手柄。南越中国魚津城に、川田豊前・竹股参河・山本寺庄蔵楯籠り候。天正七年より同十年迄、柴田勝家・佐々陸奥守成政等と合戦する。天正十年、城内兵糧なく、六月三日、川田・竹股等并に山本オープンアクセス NDLJP:124寺切腹して、城兵を助けける。竹股参河子三十郎と申し、後参河と申候。子孫三十郎・権左衛門・平左衛門・数右衛門と申し、当時出勤仕り罷在候。

一、新津丹波義門、清和源氏平賀冠者盛義後胤盛義次男平賀三郎信資、〔〈脱字アルカ〉〕越後新津庄代々領す。当時新津将監家にて御座候。

一、加地安芸守泰綱、下越後加地庄を代々領す。佐々木三郎盛綱の後胤なり。子但馬季綱といふ。三郎景虎に一味仕り、景勝と合戦の時、但馬討死す。但馬子加地右馬助と申し、越後に浪人にて罷在候。慶長五年、越後にて一揆起り、堀丹後守直寄家人小倉主膳居城。下倉城攻め落し楯籠り、堀丹後守、下倉城を攻め落す。此時右馬助討死す。子一人あり。山伏となりて、忍び居り候。後年上杉弾正定勝代、加地子孫を呼出すべしと尋ね給ふ。畠山下総守義直、加地安芸の孫、越後山伏と成りて居候段聞出し、定勝へ、此由を申され候に付、召出さるべしとて、山伏を越後より呼出し、髪をはやす由、勝定四十三歳にて、正保二年九月十日、逝去あり。之に依りて山伏も、是非なく越後へ罷帰り申候。

一、川田豊前長親、父は江州守山住人川田伊豆と申候。謙信上洛の節、日吉山王へ社参あり。此時川田伊豆の子岩鶴と申し、幼少なるを召連れて、社参仕る。謙信是を見給ひて、岩鶴を貰ひ給ふ。豊前と申し、後年越前国魚津城主椎名肥後泰種を攻め落し、此領知六万貫を豊前に給はり、居城とする。天正十年、佐々政盛・柴田勝家、大軍にて取巻き、兵糧を詰めて攻むる。信之城持ち難く、六月三日、川田豊前・竹股参河・山本寺庄蔵切腹仕候。

一、本庄越前繁長、〈童名弥二郎〉古父大和守房長と申す。越前十三歳の時、一族小川紀四郎・鮎川因幡と申す者逆心起し、此時弥次郎武勇を震ひ、紀四郎・因幡守、討取申候。永禄四年九月十日、川中島合戦の時、武田太郎義信勢を切崩す。此合戦、志田源四郎義時と大川駿河守討死仕る。之に依りて謙信勢敗軍する。本庄・宇佐美・色部横合より、甲州勢に切懸けてまくる。此時本庄越前、廿六歳にてあり。越前申しけるは、謙信の油断にて、太郎義信に切捲くられ、推着を見せられたると、誹り申しけるを、謙信、聞き給ひて怒り、勘気致され候。之に依りて居城に八年引込み、蟄居仕る。然れども謙信は捨て置き給ふ。其後降参仕り候て、出羽国庄内城主大宝寺義興方へ、越前次男千勝を養子に遣し候事に付、越前怒り、色部修理・中条越前・荒川主馬・黒川備前等を頼み催して、庄内城へ押寄せ攻め落し、義興を討取り候。本庄千勝丸を元服させ、オープンアクセス NDLJP:125義勝といふ。扱、景勝へ断りもなく、京都秀吉公へ、御礼申上候故、景勝不興ありて、殊の外の勘気にて、暫く牢人仕り、本庄誤りの段、景勝へ色々詫び候に付、景勝、会津へ所替仰付けらるゝ年、帰参申付けられ、奥州森山城に居り、其後同国福島城に移り居る。天正十四年に、最上義光方より、草刈備前を間者に入置きて、庄内城主義勝子光安を打止めて、最上義光、庄内城を押領する。義光より、東禅寺右馬助・中山玄蕃を城代として入置き、此由を、本庄越前聞くより、五百騎にて庄内へ押寄せ攻め破る。時に東禅寺右馬助戦負け、無念に存じ、越前に近寄り、刺違へて害はんと思ひ、首を手に下げて、味方に交りて、本庄越前に近付きて、越前が甲に切付けて、甲の筋三筋切解き、余る太刀にて、錘を刺して、左の小耳に少し切付くる。本庄心得たりとて、太刀抜合せ、右馬助を胴切に切殺す。右馬助太刀正宗なり。越前是を取りて、家宝として、右馬助と名付け、秘蔵し持ちける処、文禄年中、伏見御城普請に付、景勝普請奉行に、本庄越前を申付けられ、伏見に在りては、大分金銀を遣ふ。此時に、彼正宗を払物に出し候。大神君様へ召出され、本庄正宗と号し、紀伊大納言頼宣へ進ぜられ、紀伊様御家宝なり。

一、山本寺庄蔵孝長、武功の侍、父を伊予守と申し、代々越後不動山城主、越中国魚津にて切腹仕候。

一、色部修理長実、一代の高名場数多く、越後にて長尾平六・黒田和泉・金津伊豆逆心の時、河西城・黒滝城新山刈羽城・村松城・安田城・菅名城、六箇年に謙信攻め落し、此度に手柄五箇度候。川中島合戦、此外、沼田城・古河城・小田城・白井城・和田城・佐野城、是等の城攻に、残らず高名仕り、新発田因幡逆心の時、景勝の先手にて、新発田の両城を攻め落し、終に因幡の首を取る。因幡は、色部修理壻にて御座候。

一、松原常陸介親憲、会津にて猪苗城一万五千石領、数度高名仕り、大坂御陣の時、天下に名を揚ぐ。扨常陸介は、百姓・町人迄に情をかけ、金銀・米銭を取らせ、家中大身・小身にても、景勝の用に立つと見及び候者は、慇懃に挨拶し、音信遣し、足軽より下の者まで言葉を懸け、身貧なる者には合力仕り、奉公のなる様に取立て候故、合戦の時、士卒、常陸介の下知を能く守り、人数の廻する事、手足を遣ふが如く、外大将の及ぶ事にて御座なく候。年八十三歳にて病死仕候。子息を弥七郎と申し、父相果て、家督の事に付、景勝へ不足申し牢人仕り、上方へオープンアクセス NDLJP:126退き申候。

一、大熊備前朝秀、越後代々領知仕り、殊更謙信、初めて旗を上げ給ふ時、味方仕り、軍配之あり。之に依りて謙信も、常々目を懸け給ひける。然る処城織部両人とも、法度背く事之あり、謙信家老、種々相談遣され候へども、其通りに差置き難く、備前・織部両人とも牢人仕り、甲州へ行き、信玄へ奉公仕候。

一、長尾遠江守藤景、武勇功なる者にて、謙信の下知を度々もどき、議誹申す故、常々不和に御座候。然れども、武功の侍に御座候へば、謙信、万端知らぬ顔にて過ぎ給ふ処に、永禄四年九月十日、川中島合戦の時、武田太郎義信、〈信玄公嫡子、〉原町に謙信休み居給ふ所へ、俄に押寄せ、謙信本陣へ切込み候。謙信人数油断の処へ、切込み申さるゝ故、総人数騒動仕り、先手の者共も、漸々取合ひ候故、謙信の勢、大勢討死仕候。大川駿河・志田源四郎、武勇を震ひ討死仕り、謙信も波平行安作の長刀持つて、散々に切つて廻り給ふ所へ、貝津城押へ本庄越前・下条薩摩・新発田尾張等引き来りて出合ひ、本庄・新発田・下条三人、共に会釈なく、太郎義信の陣に切つて入り切崩す。此時合戦、謙信の油断、年頃武勇に自慢ありけれど、口上に違ひ、年若の義信に捲付けられ、をかしやと、謙信を誹り申す事聞き給ひて、甚だ立腹ありて、本庄越前へ遠江兄弟を討つて参るべきの旨、申付けられければ、越前、其座より、直に遠江宅へ参り、兄弟早速対面する。時に本庄越前家来屋羽木新助と申す者、越前用事申す体に御座敷へ出づる時に、越前抜打に遠江を切伏せける。遠江弟右衛門景治、心得たりとて、遠江□□刀抜いて、本庄に飛懸る。越前も立向ふ処に、遠江切殺す血に、しりのつけに転びて、危く見えける処に、越前家来屋羽木新助脇差を抜き、右衛門刀を受流し、飛入つて右衛門へ組付く。其間に越前飛懸り、右衛門が咽笛に刀突立て、討取り申候。

一、川田摂津守、謙信出頭人にて、段々取立てられ、二万石給はり候。景勝代に、秀吉公へ内通申上候事顕はれ、景勝の耳に入り、天正十四年六月廿二日、景勝初めて上洛ありて、秀吉公へ御礼申上候。此時、摂津をも供に召され給ふが、越前国敦賀禅宗寺に一宿あり。此所にて直江山城に申付けられ、切殺し申候。然るを打損じ、摂津死物狂に切つて廻り候時に、三人切殺し、十人余り手負ひ御座候。此摂津は、塚原卜伝流兵法能く覚え候故、大勢の手負御座候。

一、岩井備中と申すは、謙信小姓相勤め、武功の侍、場数高名度々。三方の大将しても、心安オープンアクセス NDLJP:127き者と、謙信申され候。智謀兼備へたる侍にて、段々立身仕り、甲州押城信州飯山城に置き給ふ。信玄押城は、信州上田城・野尻城、謙信人数入置き申され候。

一、五百川修理弘春は、信州五百川城代々領地、三万五千貫領し罷在候。信玄を押へ、数度信玄を押へ、数度手柄仕り、場数御座候。末孫五百川九郎兵衛三之丞にて候。

一、吉江中務定伸は、太平記に出で候吉江小四郎政房と申す者の後胤に候。此小四郎は、高越後守師泰を、鎗にて突き、首を取り候。吉江中務事も、武勇の者にて、場数多く御座候。只今の吉江監物先祖にて御座候。

一、甘糟備後清長は、本主尾張越前守政景家臣にて、呼寄せ、川中島其外所々の合戦に、供に召連れられ候処、武勇智謀ありて、合戦の図を能く考へ、戦ひ候故、謙信の心入に叶ひ、段々立身仕り、五万石を領し、景勝代、会津に移られ候節は、二万三千三百右にて、白石居城。慶長五年、伊達政宗より合戦の節、備後内室は、会津に差置き候。然る処内室病死する。幼少なる子供計り□□候故、白石城に、甥登坂式部と申す者を、城代として、備後は、忍んで会津へ参り候跡にて、政宗より謀者を入れ、登坂式部を、一万石の約束にて、正宗呼出し、白石城を、政宗へ請取るべしと申越され候。式部納得仕り、白石城を、片倉小十郎に相渡し候。景勝是を無念に存ぜられ、備後へ詞懸けられず候。景勝、米沢所替の時に、三千石になり候。後年家康公へ、畠山下総守義真御使にて、御旗本へ召出され、一万石下さるべき旨、上意御座候。備後承り、生々世々有難き上意を蒙り候。台命に応じたく存じ奉り候へども、私故、至極不調法仕候。景勝は詞懸け申さず候。日陰者に罷成候。然れども、景勝譜代の者にて御座候間、御免蒙り奉るべしと申切り、其後、備後米山にて病死仕候。子二人御座候。嫡子藤左衛門・二男帯刀二人、共に暇を取り牢人仕り、津軽へ退き候。然れども定勝代召返され、相勤め候。只今の甘糟五郎左衛門・同久三郎は、備後の孫にて御座候。

一、須田大炊介長義は、清和源氏伊予守頼義弟掃部頭頼秀の後胤、父は須田相模守と申す。大炊介廿三歳の年、慶長六年四月廿六日、伊達政宗と景勝合戦の時、政宗瀬上よりも、福島城へ向ひ給ふ時、此節は、須田大炊介梁川城に居り、加勢として、横田大学・筑地修理楯籠り居候て、政宗福島へ向ひ、攻め給ふ時は、梁川城より、大炊介大将となり、横田大学・平野丹波 〈此丹波は佐竹の臣〉等馳せ出で、政宗の陣小屋山田といふ所へ押寄せ、政宗留守居の勢八百人参り打取オープンアクセス NDLJP:128り、政宗の家実短刀・天幕・其外武具類分捕して、梁川城へ引退く。之に依りて、政宗の本陣騒動仕り、敗軍仕る。大炊介高名第一なり。後年大坂御合戦の節、信貴野合戦の時、景勝の先手にて高名仕り、大将軍様より、御感状頂戴仕り、御小袖・御腰物下され候。只今の右近祖父にて御座候。

一、志田修理義方、清和源氏志田三郎義憲後胤なり。父源四郎、川中島合戦討死。只今の志田介十郎祖父にて御座候。

一、安田上総介順易、手足に手疵御座候て、蹉跛にて、大剛の侍、数度馬上にて高名仕り、場数多し。信貴野合戦の時、上総介横鎗を入れ、大坂勢を突崩し、勝利を得、高名仕候。然れども、直江山城と不和にて、大将軍御耳に入らず、御感状下されず候。景勝も残念に存じ、直江山城を、殊の外叱り、景勝自筆の感状給はり候。

一、西条治部大夫、謙信・景勝公代、軍功数度仕候。只今の舎人祖父にて御座候。

一、島津左京亮勝久、入道月下斎と申し、場数度々軍功。只今の玄蕃祖にて御座候。

一、柿崎和泉景家、大剛強なる大将にて、武功場数一番。謙信代飛騨国を預け置く。手勢凡八百騎持、一方の大将になり候。或時、和泉、黒馬を払ひ候処、此馬を、信長の旗下へ求めけり。信長是を聞召し、幸なる事とて、和泉自筆に、和泉方礼状認め、判も自身なされ候て、和泉旗本の内、信長へ内通仕り候者の方迄、此状遣され候。此者是を謙信へ差上げ、謙信披見ありて、信長より参り候数通出されて、引合せ見給ふ。疑ふ事なき信長の判形なり。此行様の権左衛門と申す弁説の侍一人越後へ、信長より、謙信の機嫌伺とて差越され、居合ひ候間、此権左衛門に、信長よりの状見せ給へば、一目見て、是は信長自筆状に御座候と申候間、又信長より参り候状の内、自筆尋出し、引合せ見申され候へば、相違なく信長自筆故、謙信も、誠に和泉に心ありとて、生害申付けられ候。和泉申候は、奸謀に□□浅間しや。押付信長に国を取られ給ふべしといひて果てける。和泉相果て候へば、彼の状差出し候侍、早速欠落ち仕候。之に依りて謙信も心付き、和泉は、誠の内通にては御座なく候ものをとて、後悔せられ、状差出し候侍を、生捕り申す様にと、物主共に申付けられ候へども、終に見出し候者御座なく候。

一、直江神五郎、後大和実綱と申す。此大和、川田豊前・吉江紀四郎、無二の相口にて出頭仕候様、毛利名左衛門と申す者、大和に遺恨ありとて、大和、春日山城槿の間にて、切殺され候。オープンアクセス NDLJP:129登坂角内と申す者馳せ寄りて、名左衛門を打留め申候。大和継子なし。之に依りて、越後千坂城主樋口与惣兵衛与六と申し、十四歳罷成候。之を大和養子に申付けられ、後直江山城守兼続と申す。景勝代、秀吉公へ御目見仕り、殊の外御意に入り、秀吉公御前へ罷出で、御咄仕り、陪臣にて、御紋附御小袖・同服、数度頂戴仕り、父子米沢城三十万石下され、秀吉御前は、景勝も、直江には及び難く候。本多佐渡守正信の二男三十郎と申すを、直江山城養子仕り、大和守と申候。後直江方にて実子出生仕候間、大和守実父佐渡守方へ立帰り候処に、加賀利家招きて、家老になされ、本名を名乗り、本多安房守と申候。

一、栗田刑部は、一万石領。信州先方清野助十郎両人にて、相勤め申候。景勝代、慶長五年、会津籠城の節、刑部如何存じ候か、会津を立退き候故、景勝より討手申付けられ、境目にて追付き、討取り申候。

一、木戸元斎と申す者、武功の侍にて、成田下総守長泰と、二度合戦仕候処に、二度とも、自分の覚悟には、成田を追崩し手柄仕候。謙信、元斎の軍仕る手段の次第を聞き給ひて、殊の外褒美にて、四尾城三万八千石、与力の外に、組子を付け、此木戸元斎を据ゑ置き、武州・信州の先手役申付けられ候。

一、上杉弥五郎義春、後に上条民部少輔と云ふ。信玄・謙信和睦以後、信州貝津城に居り、景勝方へ、書状差越され候状に申越され候は、大家に、出頭一人に、万事仰付けられ候て、御為然るべからず候まゝ、折節は蔭を御聞き然るべき旨、書状を直江山城に見せ申さる。直江はや我が身の上と合点仕り、其後上条民部事を、折々讒言申候て、真田安房守と内通仕候など申候処、民部此事を聞きて、上方へ登り、秀吉公へ委細申上候。之に依りて、石田治部少輔に仰付けられ、扱申付くべき上意御座候へども、石田、直江兄弟よりも睦しく候故、石田扱ひ候事、打捨て置き、秀吉公より、民部扶持米とて、千石下され、其後家康公へ召出され候。

一、鉄上野介安則、子孫左衛門と申す。景勝代、大坂信貴野合戦の時、景勝下知にて、大坂勢の中、鉄炮打入れて大利を得、天下に名を挙げ、高名仕候。孫太郎祖父にて御座候。

一、渡辺越中 長井丹後 桃井隠岐 栗林肥前 宮島参河 川田対馬 市川左衛門 下条駿河 安田治部 元井日向 鳥山因幡 唐崎左馬 黒金治部 毛利上総介 大関阿波 オープンアクセス NDLJP:130神藤出羽 藤田能登 斎藤八郎 水間掃部 山岸宮内 松本大学 飯森摂津 平賀志摩 青川十蔵 柏崎弥一郎 樋口与惣兵衛 長尾七郎 長尾包四郎 臼杵包兵衛 小田切治部 矢尾坂伊勢 菅名大炊介 寺島六蔵 上野源六 亀田小三郎 若林九郎右衛門 相川大隅 須賀摂津 大崎筑前 和田喜兵衛 朝日隼人 満願寺隼人 諏訪部二郎左衛門 田原左衛門 片貝式部 新津彦次郎 黒川備前 松木伊賀 中条千次郎 田丸左京

右の者共、川中島其外城攻に供仕り、高名数度御座候へども、詳ならず。

一、小田原城攻の時、景勝人数押し、秀吉御覧なされ、上意に、馬印之なき故、景勝居備知り兼ね候間、向後馬印持たせ候へと、上意御座候。景勝畏り奉り候段、御請申上げ、左候はば、駿河大納言、貴殿御馬印扇、見事に御座候間、申受けたく存候の由、申上候へば、家康公御機嫌克く、左候はゞ、進ずべく候。我等馬印、金の扇にて候間、色を変へ持たせ候へとの上意御座候。景勝忝き由申され、拙者馬印の儀、黄色の扇に仕るべしと申上候。

一、慶長二丁酉年、景勝四十三歳。此年、小早川筑前中納言隆景病死。之に依りて景勝、五人の大老の列に仰付けられ候。家康公・利家卿・輝元卿・秀家卿・景勝とも五人なり。

一、文禄三甲午歳十月廿八日、景勝中納言に昇進なり。

一、会津へ移る。城持家人には、

一、米沢城  直江山城 一、猪苗城  杉原常陸介 一、金山城  色部長門 一、白川城  五百川修理 一、南山城  千坂対馬 一、津川城  竹股勘解由 一、長沼城  安田上総 一、大浦城  島津月下斎 一、梁川城  須田大炊 一、白石城  甘糟近江 一、福島城  志田修理 一、二本松城  下条駿河 一、森山城  本庄越前 一、鮎川城  中条千次郎 一、藤島城  木戸元斎

オープンアクセス NDLJP:131 出羽国

一、庄内城  岩井備中

 
謙信記 大尾
 
 

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