三壺聞書/巻之四
表示
< 三壺聞書
三壺聞書巻之四 目録
百韵成就して後、又亀山に立帰り、家臣明智左馬助・同次郎右衛門・藤田伝吾・斎藤内蔵助・溝尾庄兵衛等を呼びて申しけるは、何れもへ無心の義あり、各の一命を申請け度しと申しけるに、何れも不審なる顔色也。酌に立ちたる池田与三郎申しけるは、命は常に奉り置く、何事にても候へ誰が違背可申と申しければ、光秀申しけるは、我れ数年信長へ背く事あるなれば、迚も遺恨残るべし。去れ共物さわがしき時節なれば、色にも出し給はず。世静謐になるならば我が身の上と思ふ也。とても死なん命なれば、此の時節京中人数のなきを幸ひに本能寺へ取懸け、運を天に任すべし、此段頼入る由申しければ、何れも如何と存る躰なるを、左馬助進み出て申しけるは、一言出づるより駟馬も及ぶべからず、最早此の事露顕すべし、早々思ひ立ち給へと申しけなって、何れも其の義に同心す。光秀大に悦び、池田与三郎に備前長光の刀、其の外何れもへ引出物を遣し、早や亀山を打立ちて本能寺へ押寄せ、鬨をどつとぞ上げにける。森蘭丸是を見て、すは光秀こそ謀叛にて候、とても叶はせ給ふまじ、御腹召され候へとて御腰物を指上ぐる。信長公誠共不思召所に、蘭丸腹十文字にかき切り、御先へ参り待ち奉るとて果にけり。信長口惜く思召し、御弓にて指詰め〳〵進む兵十騎計射落し、奥へ入りて御腹召されけり。御内に在合ふ矢代庄助・伴三郎左衛門・村田吉五郎、其の外小者・中間等防ぎ戦ひ討死す。児小姓には蘭丸弟力丸・於坊愛平・金森義入・魚住少七・今川孫八・狩野又九郎・鈴木与市郎・山田弥太郎・飯川色松・柏木おなへ、馬廻大塚又七・平尾平助、其の外町方よりはせ来る人々、皆死物狂に戦ひて討死す。其の内火の手上る。信忠公は妙覚寺におはしけるが、二条の城へ入り給ふ。明智押よせ攻めければ、不叶して信忠御生害、御内の者不残討死す。夫より明智は安土の城を心懸け、勢田の橋へ行きけるに、山岡美作・同対馬早や此の事を聞き橋を焼払ひに出づる由を聞き、光秀引返し坂下へ指懸り、もみにもんで安土へと急ぎけり。
【 NDLJP:30】 安土へ此の事相聞えひそ〳〵といひ出で、何れも十方にくれいかがはせんといふ所へ、蒲生飛騨守家来告来る。去れ共城中はさわぐべからず、堅固に持ちかため給へと留守居達へいひ置きてぞ帰りける。夫より武家・町方声を上げて愁歎す。斯くて明智押来るとて、何れも妻子を引退くる。御台所は蒲生右兵衛引具し奉り、日野の谷へ退け奉る。六月三日卯の刻には上を下へと返しけり。利長公の北の方は、恒川監物・山森伊左衛門・吉田数馬・三輪作蔵・姉崎助左衛門等歴々引具し、越前府中へ引取る。此の時新参の侍共一人も不残落失せたり。信長公の二男御本所は伊勢半国・伊賀一国の主なりしが、阿濃の津に在城也。三七殿・上野殿・源吾殿、何れも神戸の城にまし〳〵て夢にも知り給はぬ故、御点にも合ひ給はず後悔なりし有様也。
家康公は信長公へ御加増の御礼相済み、大阪へ御出ありて、和泉堺に寛々御逗留の内此の事を聞き給ひ、弔合戦し給はんとありしを、酒井左衛門尉・石川伯耆守達て申上げけるは、此の小勢にていかゞ叶はせ給ふべきと諫め奉るに付き、伊勢路より立退き給ひ、四日市の船に召され、浜松城へ引入り給ひけり。
信長公の御事関東へ聞えければ、北条氏直上州を切取らんと人数を出す。滝川厩橋にありて此の由を聞き、方々の城主共を呼集め、信長公の御事を披露し、人質を相渡し、人数を揃へ氏直と戦ふ。然れ共多勢に無勢不相叶、上方へと引退く。七月二十一日小諸へ着き、福嶋へ使者を立て、木曽義昌へ別心なくば人質を可被出と申遣す。義昌無異義人質を出すにより、心易く行く程に、八月五日居城勢州長嶋へ引入りけり。
家康公は堺の浦より御乗船にて浜松へ入り給ふに、甲州に一揆蜂起の由聞し召し、本多百助に人数を添へ被遣しを、河尻討手を被遣かと思ひ誤り自殺せり。家康公は甲州へ御発向ありて、北条氏直と合戦ありしが、氏直不叶甲州を家康公へ渡し軍を引入る。于時鳥居彦右衛門一騎当千の働あり。甲州御手に入り、日野といふ所に勝頼の菩提所造営あら。此の時遠三駿信甲五ケ国御領分也。信濃にて芦田・保科・小笠原・諏訪・下条・松岡・矢代御礼申上ぐるに付き、諸事御仕置あり。大久保・菅沼等を信州御代官に置かせらる。甲州にて曽根・下野・玉虫・前山・伴金・駒井・今福・工藤・遠山等御礼申上げ、本領其の儘被下置、甲州に在城す。右三ケ国の侍の内、山県・土屋・原・一条・三枝・松岡などゝいふ者同心与力にして、井伊万千代に附けさせらる。此の万千代父は今川家先方の侍也。万千代家康公の近習にて宮仕へ、覚もよかりければ、後兵部少輔直政とて御家老にぞ被成ける。甲州侍小幡山城は越後の景勝へ帰服す。家老に直江山城ある故に下野と名を替へにけり。
河尻与兵衛と申しける時、青山与三右衛門一所に信長公御部屋住より勤めけるが、随分と武道者也。高畠石見守定吉の妹婿に成りて、前田利家公の北の方の姪婿也ければ、能州へ妻子を御引取養育ありて、河尻後家を土肥伊予に嫁娶被仰付、土肥左京が母也。河尻惣領の子あり。青山与三は佐渡と改名して魚津の城に有之時、佐渡に実子なし。養子に被仰付、豊後といふ。豊後妹一人あり藤田八郎兵衛妻女に被仰付。豊後に四人の子あり。惣領は豊後名跡になり、次男は伊豆といひ、三男は山崎閑斎孫なれば、閑斎の養子になり、山崎美濃といふ。此の子を山崎庄兵衛といふ。四男は青山織部也。然るに惣領豊後は早世也。子息将監幼少により、伯父伊豆将監の後見してありけるに、将監家を伊豆我儘に致しければ、家老早崎孫右衛門といふ者横目になりて伊豆を制しける。伊豆腹を立て、早崎を呼寄せ討つて取る。此の事利常公被聞召、伊豆を加賀・越前の境吉崎浦へ流刑被仰付。将監成長して、小松へ御隠居の時御家老に被仰付。伊豆流刑は元和年中也。
秀吉公は備中国冠城を攻落し、高松を水攻にしておはします所に、天正十年六月三日に京都より信長討たれ給ふ由、長谷川宗仁方より飛脚到来す。秀吉聞召し、毛利輝元へ和睦の儀被仰入に、輝元同心ありて、以来互に可申談由誓紙を取りかはし、従弟久留米侍従元龍を証人に被出、弓・鉄炮【 NDLJP:31】七百計の人数を被指添。秀吉公も義を守り、安国寺に判本を見せ、誓紙を遣し、宇喜多秀家を指置かれ、高松を打立ち、十一日に尼ケ崎にて落髪あり。織田三七殿並に惟住五郎左衛門・池田紀伊守・同庄九郎方へ案内ありて、軍法評定あり。一番は高山、二番中川、三番池田と相極り、十二日先陣山崎天神馬場にすゝめば、後陣は西の宮清水辺に満ち十三日の合戦と光秀方へ仰遣さる。
光秀は信長御父子を討済まし、京都の仕置等を申付け、町中諸役免許の朱印を出し、安土の城へ馳せ行き、金銀財宝を改め、人数にわけあたへ、仕置等申付くる所に、織田三七殿と惟住五郎左衛門被仰合、織田七兵衛信澄に詰腹切らせらるゝ由、光秀方へ申来る。光秀頼みに思ひし味方七兵衛殿を打ち申すよと聞くより大に驚き、筒井順慶方へ可申入とて、案内申遣すといへ共、順慶も不道を悪んで出合はず。先五畿内を治めんとて、明智左馬介を安土城へ入置き、越前の柴田、能州の前田等を申合はせんとすれば、越中の合戦に景勝と対陣す。羽柴秀吉は中国の合戦に取結ぶ。家康こそ和泉堺にあるよし聞及ぶ。一揆ども討つてとれ、手柄次第に国をあたへんと申触れけれ共、家康公もはや浜松へ引取り給ふ。光秀あきれはて淀城へ引入り、城の普請等申付有之所へ、明日の内に合戦可有と秀吉より案内ありければ、大に驚き人数を集め詮義をす。侍大将には斎藤内蔵介・柴田孫左衛門・阿閉淡路守・池田伊予守・後藤喜三郎・多賀新左衛門・久保六左衛門・小川土佐・松田太郎左衛門・笹川掃部・伊勢文三郎・諏訪飛騨・池田与三郎・佐枝三左衛門・進士作左衛門、都合一万五千余騎、一備〳〵手分けして打ち向ふ。寄手の人々には、高槻の城主高山右近、茨木の城主中川瀬兵衛、有岡・尼ケ崎・花隅の城主池田勝入父子、佐和山の城主惟住五郎左衛門、勢州神戸の城主織田三七信孝、中国五ケ国の主羽柴秀吉大将にて、其の勢都合四万余騎にて押よせ、両陣もみ合ひ、天王山・洞ケ峠あなたこなた入乱れ、火花を散らして相戦ふ。味方は山のかたより真下りに懸る。敵は坂の麓より攻登る。終に光秀打負け敗軍す。中にも進士作左衛門・改田太郎は光秀を引包んで、勝龍寺の惣構に付き本城へ引取りしが、兎角是にては叶ふまじと、明智庄兵衛・村越三十郎・三宅孫十郎・山本仙入・進士・改田、一手になりて伏見をさして落行く。小栗栖野へ退き行く所に、藪の内より野武士共起つて悉く討取り、物具はぎ取りて首共を田の中へ投込み〳〵置きけるを、村井春長拾取りて、光秀の首を秀吉公へ上げけり。堀久太郎は安土へ馳行き、明智左馬助を討取らんと、もみにもんで行く所に、左馬助は光秀討死と聞きて、天守に火をかけ、我が妻子を指殺し、坂本へと急ぐに、大津にて秀政に出合ひ相戦ふ。荒木山城兄弟の子供、秀政に手向ひ散々に戦ふ。去れ共兄弟共討死す。其の間に左馬助は坂本の城へ立退く。秀政追付きて終に左馬助が首を取り、秀吉公へ上げければ、光秀・左馬助両人が首を死骸につぎ合せ、粟田口にて磔にぞ懸け給ふ。
城之介信忠公の北の方・公達を、岐阜より前田玄以・長谷川丹波申談じ、清洲の城へ入れ奉る。天正十年に秀吉公は本能寺にて信長公の死骸を取納め、三法師殿へ御礼申上げんと急がせ給ふ所へ、越前の柴田も信長公の弔ひ合戦を志し、北国より馳登るに、光秀討たれける由を聞き、柳ケ瀬より直に清洲に赴き、池田父子・蜂谷・筒井其の外何れも参会して、三法師殿へ御礼申上げ、十五歳になり給ふまで国々を預置き給ふ人々には、尾州一国信雄、美濃は信孝、丹波は秀吉、近江の内長浜六万石勝家、尼ケ崎・兵庫十万石池田父子、若狭に近江の内志賀・高嶋二郡は惟住五郎左衛門、伊丹五万石滝川一益に御加増あり。若君を安土へ入れ奉り、玄以・丹波守御守にて三十万石を付置き、皆々国々へ入部せり。此の時勝家と秀吉確執の志あり。柳ケ瀬の乱れ是より根ざす。
秀吉公は二条の城へ入り給ひ、御葬送の御用意として畿内をひゞかし、御法事等尤念頃に取営み、十月五日は転経、十二日は頓写施餓鬼、十三日は宿忘、十四日は入室、十五日は闍維、十六日は懺法、十七日は陛座拈香也。中にも十五日御葬礼、金銀をちりばめ天をかがやかし、蓮台野に百二十間四方に大唐竹にて垣結廻し、発心・修行・菩提・涅槃の四門を建て、大徳寺より十町余の其の間畳を敷き、白布を五幅延べて、羽柴小市郎警固にて一万余人、武士弓・鉄【 NDLJP:32】炮・鑓・長刀にて厳敷守護し奉る。近郷の大小名参りつどひ、御輿の前轅は池田三左衛門、後は於次丸、御位牌は於長丸、御太刀は秀吉、不動国行也。三千余人の御供衆烏帽子・白張を着し、諸宗の智識数千人、鎖龕は怡雲大和尚、掛真は玉仲大和尚、起龕は古渓大和尚、念誦は春屋大和尚、奠湯は明叔大和尚、奠茶は仙岳大和尚、拾骨は竹澗大和尚、康炬は咲嶺大和尚也。偈曰、四十九年夢一場、威名説什麼存亡、請看火裡烏曇鉢、吹作梅花遍界香。於次丸・秀吉公御焼香ありて、夫より次第に焼香相済み、天正十年初冬望日巳の刻無常の煙となし奉る。勅使贈官あり。惣見院殿贈大相国一品泰巌大居士と号し奉る。一日に二百石宛十七日の間霊供の料、卵塔以下の作事料に銀千枚、寺領五十石、近辺の地子米五百石、永代大徳寺へ寄附あり。秀吉公の主恩の報謝前代未聞と申しあへり。
越中守度々の忠節により、丹後国を賜り、明智光秀の婿なりしが、内室に向ひ、其方は女子なれ共、正敷主君を打ちたる人の子なれば、一所に置難し。光秀滅亡せば再び呼迎へんる若光秀繁昌ならば再会あるへからずと、三戸野といふ所へ遣し押込め置きしが、光秀滅後再び呼迎へけり。父藤孝は秀吉公に与力して難なく明智を打ちとり、本望の余り信長公追善の連歌を催す。
中国毛利家の事 三八
惟任日向守謀叛の事 三八
安土の沙汰の事 四〇
家康公の事 四〇
滝川左近将監一益の事 四〇
河尻肥前守が事 四〇
同妻子の事 四一
秀吉公中国御引取の事 四一
光秀滅亡の事 四二
御葬送御法事の次第 四三
長岡越中守忠興の事 四四
奥州伊達家の事 四四
能州石動山一揆の事 四五
勝家秀吉鉾楯の事 四六
【 NDLJP:29】三壺聞書巻之四 抑々毛利家の先祖は、古へ鎌倉将軍の御時政道補佐の臣と聞えし大膳大夫大江広元入道覚阿の後胤也。中興の武将陸奥守元就は小身の侍なりしが、本より智勇兼備の人なる故、芸州吉田に在城し、雲州尼子晴久と毎年弓矢を取りて止む事なし。此の晴久は江州佐々木の末流也。天文九年の秋より翌年夏までの合戦に、尼子家毎度利を失ひ、終に元就の為に滅亡せり。又周防の大内家といふ中国一の大名なりしが、義隆の代になり武家の風儀を取失ひ、専ら公家の風になり、弓矢の道を忘れ驕を極められける程に、家臣陶尾張守諫言すといへ共更に承引なし。陶終に謀叛を起し義隆を攻む。義隆防戦の術を失ひ、終に大寧寺にて自殺あり。是より尾張守晴賢権威を振ひ、九州大友宗賢の二男を大内家の家督と定め、晴賢後見して威を振ひけるが、芸州元就と弓矢始まり年々相戦ふ。然るに晴賢入道して全姜と申しけるが、主君を討奉る天罰にや、毎度合戦に利なく、終に芸州宮嶋の合戦に打負け、一族残らず討死し、爰に至りて大内家・陶一党は元就の為に滅亡せり。かくて尼子・大内亡びて後、元就の威勢強大になり、終に中国十三ケ国を押領せり。元就の子息隆元・元春・隆景等、何れも智勇の名将也。元就死去の後隆元死去あるにより、隆元の子息輝元家督して、元春・隆景後見也。然るに信長公播州を秀吉に給るにより、播州へ発向し、所々の城を攻落し、夫より備中の冠・高松等、因州鳥取所々の合戦に秀吉勝利也。依之輝元より後詰として、元春・隆景等数万騎にて発向す。秀吉も信長公へ加勢の事を願はれしに、信長公聞し召し、追付き加勢可被遣とて諸大名に御下知有りける。
斯くて中国へ加勢を可被遣とて、天正十年五月上旬に先づ堀久太郎に被仰含備中へ被遣、其の次池田父子・長岡越中守・明智日向守・高山右近・中川瀬兵衛・塩川左近等、御暇被下、国々へ帰り、用意出来次第中国へ可発向旨被仰渡、各帰国也。中にも明智光秀は居城丹波亀山に帰り、翌日愛宕へ参詣し御鬮を取り、二十八日西坊にて連歌を催す。
ときは今 天が下しる 五月かな 光秀
水上まさる庭の夏山 西坊
花落る ながれの末を せき留て 紹巴
墨染の ゆふべや名残 袖の露 藤孝
魂まつる野の 月の 秋かぜ
分かへる朝の松むし音に鳴て 紹巴
右百韵興行あり。如斯忠義正敷誠を尽し被申故、寛永の頃まで大名八・九人の内の一人なり。
天正十年春奥州輝宗は、二本松右京と毎年取合ありけるが、右京輝宗の幕下に可成とあるにより、塩の松といふ所にて対面あり。輝宗悦び、関東表の義万事頼入る由申述べらる。右京暇乞して立出づるを、輝宗何心なく送り出でらるゝ。右京は無隠強力故、輝宗を無手と捕へ、脇指を首にあて立出づる。二本松の家来共兼て心得たる事なれば、引包んで馳行くに、輝宗の者ども思ひもよらざる事なれば彼是猶予し、其の上輝宗を人質に捕られ、無事に取返さんとする内に、敵ははるかに行延びたり。子息正宗は折節鷹野に出で給ひしが、此の事を聞くとひとしく追懸け、三里が内にて追詰め、輝宗諸共に一人も不残打殺し、二本松右京が死骸を磔に懸けらる。是れ正宗十八歳の時也。片目なりけれ共弓矢取りての無双也。藤原の山陰中納言政朝に九代、伊達輝宗の子息也。是より剛の者の名を顕はせり。 能登国には代々長谷部の長氏並に温井・三宅などゝて在住して、所々を押領す。京都将軍の御時畠山一国の守となる。其の後畠山をば家臣共追失ひ、恣に押領す。越後輝虎能州先方の侍と申合せ、長対馬守重連の一族を亡し、能州を随へ、上杉玄蕃といふ者を穴水に在城させ、棚木城へは黒滝の長を入置きけり。其の頃重連弟を信長公へ証人に遣し置く。此の人長九郎左衛門連龍と名乗る。人数を催し能州を従へんと、爰かしこへ押寄せ、上杉・黒滝を始め悉く打亡し、遊佐・温井・三宅は越後へ退去す。連龍一人能州を治め有之所へ、天正八年利家公を能州の守護となさる。此の時長与力分になり、鹿島半郡賜り舘の浜に在城也。利家公は府中にまし〳〵て、利長公・前田五郎兵衛殿御父子七尾へ引越し給ひける。天正十年六月三日信長公討たれ給ふ由能州へ相聞え、石動山天平寺の衆徒大宮坊・日宮坊越後へ飛脚を遣はし、遊佐・温井へ申遣しけるは、此のまぎれに能州へ乱入し前田・長を亡し、昔の通りに大檀那の契約可仕と申遣す。遊佐孫九郎・温井備前・三宅備後大に悦び、越後勢を催し合ひ、六月二十三日越中免良の浦へ着船し、三千余騎にて石動山へ引入り、荒山の出城を拵へ楯籠る。利家公聞召し、金沢の城主佐久間玄蕃、越前の柴田修理へ加勢の事を頼み遣されしに、両将共に一左右次第出陣すべきと申来る。利家公大に悦び、三千余騎にて七尾を発向あり。玄蕃も金沢を打立ち高畠に陣をとれば、利家公の御勢は柴峠に着き給ふ。一揆共荒山の普請を急がんと勢を出す所へ、出合頭に打ちて懸り、ひた打に首をとる。金沢勢も鬨を合せ打つて出で押合ふ所へ、勝家も三千余騎にて駈合せ、もみにもんで攻めければ、越後勢も身命を捨て防戦す。長九郎左衛門・篠原勘六〈出羽〉・高畠織部〈石見〉・小塚八右衛門〈淡路〉・笠間儀兵衛・丸毛又五郎〈道和〉・富田与六郎〈越後〉・富田与五郎行〈善右衛門〉・雑賀金蔵・【 NDLJP:33】奥村助右衛門〈伊予〉・奥村孫八郎〈周防〉、其の外何れも爰をせんどと戦ふ中にも、此の人々は一騎当千の働き故、末代までも其の名を残し誉ある人々也。斯くて遊佐・温井・三宅不残討死し、衆徒共は利家公火を放ちて攻め給へば、衆徒煙と敵とに防ぎ兼ね、何れも不残討死す。本堂寺院一宇も不残焼払ひ、大宮坊・日宮坊を初め数百人、児童子まで撫切に被成けり。抑此の石動山は、天智天皇の勅願所として越前の泰澄大師建立あり。養老元年草創也。かゝる清浄潔斎の山を、衆徒の悪逆故穢す事の浅ましさよ。是れ皆欲心熾盛の致す所也。千余の首を山間の左右に梟す。かくて利家公能州を鎮めて後石動山建立あり。新堂伽藍金銀を鏤めたり。悪を退け善を彰す、誠にあらたなる神力也。 勝家は越前に在りてつくづく物を案ずるに、羽柴筑前守津の国宝寺に在りて五畿内を悉くしたがへ、三法師殿の後見として信雄を附置き、我が身は近国に威をふるふ事信長公の如し。よもや御子息までを世に立て、秀吉随はん事思ひもよらず、行く〳〵は我等如きの古老の者も臣として取仕ふ様にもすべし。神戸にまします信孝を主君と仰ぎ、秀吉を亡し可然と思案して、滝川一益に内談し、丹羽長秀方へも申遣す。長秀は家老戸田半右衛門・坂井与右衛門などを集めて被申けるは、当時武勇を以ていはゞ、勝家・一益に誰が肩を並べん。然れ共仁義を知らず、民を憐むの心なし。如斯ならば諸人の思ひ付かん事あるまじ。秀吉も人道はなしといへ共、智勇に於ては誰か及ばん。信長公の敵を討ち、御法事等を執行ふ。是れ当時諸人の競望する所也。天下を治めん事必ず秀吉なるべしと思ふ也。いかが思ふとありければ、家臣も此の義に同心す。依りて爾々の返答なし。信孝は兼ねて勝家に同心あるにより、勢州・濃州の侍共被仰談謀事を廻らさる。