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浮世の有様/3/分冊7

目次

米売買に関する御達婚姻披露の節の悪習の禁制汚穢代銀取調延期の上進古文字銀二朱銀引替に関する御達古銀新銀引替に関する触徒党人の素性軍器軍用金の集方○そびくハ誘フナリ熊本より人数出張熊本城下にて党児を召抱ふ能勢一揆乱妨の模様其一其二能勢一揆人数出張の領分賊徒の廻文徳政の願乱妨始末の風聞両南孫四郎の妹の書翰能勢一揆の強請○墨に致すハ罸ニ処スヿ一揆追討の諸勢山田屋大助の素性八幡の起源大助平素の風体大助親源六大助弟の悪行絹屋卯兵衛山田屋大助今井藤蔵詐欺共謀大助と藤蔵の処刑大塩乱と山田屋大助大助一揆を催す大助一家の処刑大助の子供尋問を受く家主篠崎長左衛門取調を受く篠崎長左衛門御叱り能勢郡騒動の原因山田屋大助一揆に参加能勢騒動に付弥助の実話能勢一揆蜂起の状況山田大助討死山田屋大助の性質山田源六の素行源六の貪欲源六壻源二郎の素行○へたるハ誘フコト今井佐藤の両人能勢へ赴きし理由大助等が最後の真相大坂より出張の人名御代替の式次溜詰布衣以上御目見御一門に松平参河守等御目見西の丸へ御移徙大御台御台様移替御移徙済の御祝儀日光准后より御祝儀日光へ御名代仰付らる御代替御礼出仕の面々御代替之御礼御隠居の御祝儀御代替の御礼紅葉山御霊屋へ参拝御能御太刀下さる京都へ御名代朝覲行幸御再興の事

 
オープンアクセス NDLJP:173

​本町一丁目​​ 後藤三右衛門役所​​ ​ ​駿河町三井組​​ 為替御用取扱所​​ ​ ​本両替町十人組​​ 為替御用取扱所​​ ​ ​本革屋町​​ 三谷三九郎​​ ​ ​室町三丁目​​ 竹原屋文右衛門​​ ​ ​上槙町​​ 泉屋甚兵衛​​ ​ ​金吹町​​ 播磨屋新右衛門​​ ​ ​田所町​​ 井筒屋善次郎​​ ​ ​神田旅籠町​​ 石川屋庄次郎​​ ​

     口達

オープンアクセス NDLJP:174米売買に関する御達近年米価高直に付、売買懸引・他所積り等の儀は、冬以来追々口達を以て相触置候処、当年の儀は諸国豊熟の趣に相聞候処、一作のみにては去年来の入合いりあはせも行届く間敷候間、其辺の心得を以て石数の註文等引受候儀は、勘弁可致事に候得共、是迄通の差畧には及ぶ間敷き旨、其筋の者へ申渡候間、米売買筋に携候者共は前書の趣相心得、時節前後を考へ雑穀類に至候ても、売買方格別窮屈に無之様融通合専一に相心得、弥以て一己の利慾を離れ正路の売買可致候。右の趣三郷町中へ不洩様可申聞事。

  酉十一月

町人女房呼迎候に付、婚姻披露の節の悪習の禁制水あびせ又は右の儀に事寄せ振舞致させ、金銀をもねだり取候者有之由相聞候。前々ゟ停止申付候通り可相守事。

町人女房呼迎候節礫打候儀、是又前々より停止申付候通り可相守事。

 右の通り相背候者有之候はゞ、急度曲事可申付旨、三郷町中可触知者也。

     伊賀

     山城

正月は人の出入多き月に候間、火の元入念可申候。年内迚も弥〻火の元入念候様可申触候事。

  十二月十六日 伊賀

         山城

      乍恐口上           ​当西年火消​​ 年番町年寄​​ ​

当月四日私共御召被成、三郷町々下屎一件の儀御尋被成下畏候。早速組合町々へ被仰渡の趣通達仕り相調、汚穢代銀取調延期の上進下屎代銀当時人別一人前に何程と申す儀取調仕候に付、乍恐別紙に御断奉申上候。尚町々差支難渋箇条の儀は、今少難行届、何卒来る廿三日迄御猶予被成下候様、乍恐奉願上候。御聞届可成下候はゞ難有奉存候、以上。

  天保八年酉十二月廿日            ​年番町々​​ 年寄連​ ​

 御西地方へ

オープンアクセス NDLJP:175 去々未年暮に百姓より受取候分。

一、六百七十一貫五百九十七匁五分四厘九毛    ​三郷町中​​ 下尿代銀​​ ​ 三郷町々右年人別高三十三万八千二百五十一人  平均仕り一人分凡一匁九分八厘六毛宛相当申候。但し右未年の前後午・申年両年の儀は村方凶作、町家には大火有之、右等の儀申立て、掛け入不仕村方多分有之候。未年の儀は穏の年柄に付、右年分御調べ奉申上候儀に御座候。然れ共右総高の内にも丸年掛入不仕村方も有之候得共、町数の儀故右綿密には調べ難行届、未年にて受取銀を受取候姿に仕有之候。町分も右の内に相籠り御座候。且又船著の場所又は宿屋、其外商体に寄せ、日々人出入多く有之、代銀等夫々准じ有之候へ共、其町内に在る人別平均仕有之候儀に御座候。将又三郷町数高とは相違仕候儀は、下尿代銀先年より一切不請候処有之、又は下屎出方無之町分も御座候に付、右町々は相除き御座候故、町数高相違仕候。以上。右の通り書上置き御座候。尚箇条の儀も郷々より出取出来有之候得共、三郷合体の処、御日延奉願上候。御承知の上、早々御順達可成候。以上。

  酉十二月廿一日               ​右年番​​ 白子裏町​​ ​

     急廻状

   当甘日通達、年番町々年寄々合の上左の通

一、近頃一朱金打多く、諸商人向取引混雑仕り、殊に来る晦日は年中大季〔節カ〕の事に付、外金同様通用不差支様、総御年寄中迄願書差出申候。尤も郷中為総代年番・町年寄連印仕候間、此段御承知可成候。右願書写は跡より相廻可申候。

  酉十二月廿二日               ​通達年番​​ 江戸堀四丁目​​ ​

右文字銀・弐朱銀引替方并に引替所の儀、古文字銀二朱銀引替に関する御達兼ねて相触れ置候処、未だ引替残の分も不少、尤引替方に付いては諸雑費等可相掛訳を以て、是迄古文字銀・古二朱銀引替に差出候者、引替所迄道法相隔候分は里数に応じ、諸入用被下候処。向後は道法の遠近に不抱、古文字銀は一貫目に付銀百目宛、古二朱銀は百両に付金十両宛、為御手当下候間、来る戌十月限り引替可申候。

通用銀吹直し一歩銀吹立被仰出、弐朱銀の儀は無程通用停止の旨、先達て被仰出オープンアクセス NDLJP:176候に付ては。通用銀・二朱銀共所持の者は、早々差出し引替可申候。尤も引替に差出候持主へ、通用銀は一貫目に付銀十匁宛、二朱銀は百両に付金一両宛、是又為御手当下候間、精出引替可申候。右之通り相心得、古文字銀・古二朱銀は勿論、当時の通用銀・二朱銀共所持の者は、聊不貯置早々引替可申候。若し其上にも貯置候者有之ば、厳しき可沙汰候条、其段兼ねて相心得候様、御料は御代官、私料は領主・地頭より急度可申付候。

 右の通従江戸仰下候条、此旨三郷町中可触知者也。

  西十二月 伊賀

       山城

、此度吹直被仰付候銀の儀、当月十八日より追々引替可遣候。古銀新銀引替に関する触新規吹立被仰付一歩銀は、同廿一日より通用可致候。尤も有来る銀の儀も、追つて及沙汰候迄は、新銀取交ぜ受取方・渡方・両替共無滞通用可致候。上納銀も可同前事。

、引替銀の儀は丁銀・小玉銀の無差別、取交ぜ引替可遣候。勿論新規焼銀・錆銀并極印相分り兼候分共、勝手次第可差出、是又無差支引替可遣候条、来る十八日より銀座を始め別紙名前の者共方へ差出、引替可申事。

、武家其外共町人へ相対にて申付け、右名前の者方へ差出、為引替候儀も勝手次第候事。

、引替に可差出丁銀・小玉銀共員数相知れ候事に候間、貯置不申段々引替可申候。若し貯置不引替者相知れ候はゞ、吟味の上急度可申付候事。右之趣可相触候。

 右の趣従江戸仰下候条、此旨三郷町中へ可触知者也。

   十二月廿九日 伊賀

          山城

​蠣殻町​​ 銀座 ​​ ​ ​駿河町​​ 三井組為替御用取扱所​ ​ ​本両替町​​ 十人組為替御用取扱所​ ​ ​室町三丁目​​ 竹原屋文右衛門​​ ​ ​上槙町​​ 和泉屋甚兵衛​​ ​ ​金吹町​​ 播磨屋新右衛門​​ ​ ​神田旅籠町​​ 石川屋庄次郎​​ ​ 以上

     ○天保八丁西五月肥後国八代郡鏡村辺小児徒党を結び候人数書の写

オープンアクセス NDLJP:177大将吉蔵〈十三歳〉 算術名人六左衛門〈十二歳〉 弁舌者宗太郎〈十四歳〉 右三人此度頭分。

〈吉蔵舎弟〉伝右衛門〈九歳〉 猿平〈八歳〉 恵五郎〈十一歳〉 三郎治〈十六歳〉 弥太八〈十三歳〉 権九郎〈十二歳是は青立寺弟子雲海が事なり〉右の外内意の者凡三十人計り、小川村川股山に籠り、米五十俵計り用意致し、銀子一貫目・馬十七匹、其外刀・脇指・槍等銘々所持致し、毎夜山中にて篝火を焚き集会致し申候由、五月下旬に至り何事なく相鎮り申候。

右の書付は大坂より彼地へ行合せし者、此騒動を目の当り委しく見分して、写来れる書付なり。徒党人の素性同人がいふ、「此度大将となりし吉蔵といへるは、小児ながらも至つて器量逞しき者にて、何事も総べて此者の指図なる由。六左衛門といへるは算法に委しく、四書位の素読せし者にて、至つて才子なり。此者軍師となりて、川股山といへる深山の明神の社へ楯籠り、五十人計りの子供を語らひ、近き内に軍始り此所へも攻来れる様子なれば、何れも其用意すべしと申合せ、徒党を結びしといふ。中にも宗太郎といへる者は、至つて弁舌者にて、此者説客をなす。青龍寺の小僧雲海と申す者密に之を聞出せし故、「何卒我等をも其中へ加へくるゝやうに」と申しぬれ共、何れも之を許す事なければ大に残念に思ひ、「如何してかさ程に我を嫌ひぬるや」と尋ねけるに、「坊主は脇指なし、夫故の事なり。切れ物をも持たずして軍はなり難し」といへるにぞ、雲海之を聞きて忽ち脇指を工面し来りしかば、早速其中間へ入れしにぞ、還俗して権九郎と改名せしといふ。三郎治といへるは中にての年嵩なれ共、至つて鈍き男なれば、右三人の者の指図を受けて走り廻る。されども至つて大力にて、鉄砲をもよく打つといふ。右五十人計りの者共党を結びし上にて、何れも他に洩らすまじき由誓約をなして、之を誓紙に相記す。小児生れ出ると其儘に、何左衛門・何兵衛抔いへる名を直に付けて、之を生涯改めざる土風なりといへり。此度一揆を催すに付いて、「我は源の義経になるべし。其方楠正成と名のれ。我は太閤秀吉になるべし。然らば此方は加藤清正と名乗るべし。我は源頼朝にならん、我は武田信玄になるべし」と、銘々に古人名将・勇士の聞覚えたる処の名に改めて、之を連判状に書記し、名前毎に血判せしといふ。子供等のせし事なれば、をかしき様に思はれぬれ共、大人にて斯様の事に及ばゝ、深く心を用ひし事といふべし。此子供等オープンアクセス NDLJP:178大抵は両親とも有る者共にて、一人も片親にても之なき者なし。只大将となりし吉蔵計りは二親共に之なき者なりといふ事なり。五十人計りの者共銘々申合せ、大勢一度に山中に集りては忽ち露顕する事なれば、大抵十人程づつ一組に成りて、両親・世間等を憚り、昼は外方へ遊に行く様に偽り、夜は人の寝鎮る頃よりして、何れも家を忍出で、又は心易き人の方にて泊りし様に持てなして川股山に会合し、軍をなすには劔術・力業は申すに及ばず、学文もなくして、はなり難しとて、竹木を以て何れも劒術の真似をなして、気根限りに叩合ひ、又は角力を取る抔し、拝殿に於ては六左衛門、大学・論語抔の教をなす、何れも吉蔵が計らひなり。又軍をなすには武器は申すに及ばず、兵糧・軍用金の手当なくては叶ひ難しとて、槍・刀・鉄炮の類を盗取り、又は銘々の家々に所持せるを密に取出し抔して、明神の社へ取集め、鏡村より八代迄は二里計り隔りし所にて、常に人馬にて米穀の類ひを持運びぬるにぞ、途中に待伏し、軍器軍用金の集方馬士をば鉄炮にて打殺し、其死骸をば深く隠し、馬に付けし儘にて米を奪取り、又は常よりして八代より米を買入れぬる家の名を騙り、米入用なれば一駄の米を送るべしなど偽りて、○そびくハ誘フナリ之をそびき出し、嶮難の処にて前後共人家を離れぬる所にて、之を打殺して奪取り、人足にて持来れるは其者を打殺し、彼の力強き三郎治に命じて之を山中に取入れ、或は四五人もかゝりて米俵を引摺り行き、いつに 時刻を考へ、八つ過ぐる頃より鏡村を立出で、八代よりして米を持来りぬれば、大抵夜に入りて、彼待伏せし所へ程能く来るやうになれる様になし、又米一駄送られよと八代に到り、夫々の家へ到りぬれ共、「今日は馬を牽いて行ける人なければ、明日に至りて送り遺すべし」といひぬるは、「夫にては間に合ひ難し。急に入用の米の事なれば馬をば、我等牽帰るべし」と申しぬるにぞ、何れも何某が子供等にて、よく顔を見知れる者共なれば、かゝる事に及ばんとは思ひも寄らざる事なる故、これがいへる儘に馬に米を附けて、子供等に之を托しぬる故、之を直に山中へ取込みぬ。所所方々にて米を奪取られ、馬も人も行方を失ひ、又は鉄炮にて打殺されし死骸など谷底に陥り、川にかゝれる抔ありて、之を見付けぬれども昨年来騒々しき時節故、山賊などの所為ならんと思へるのみにて、子供等が党を結びて、かゝる事あらんとオープンアクセス NDLJP:179は何れも思寄らざりしといふ。夏の事故、何れも深山の事なれば、山に行く人とてなかりしに、子供等も始の程は前にもいへる如く、忍びやかにせし事にて知るゝ事なかりしが、後には興に乗ぜし物と見えて、五十人計りの者共三四日も家を出て帰る事なく、昼夜山中に籠り、夜は大篝を焚連ねて騒ぎぬる故、其親毎に子供等の家出して帰来らざるを案じ、物騒の時節がら故、何れも之を尋ね廻りしに、川股山に大篝を焚連らね、大勢の楯籠りし様なれば、此処に山賊集りて人を殺し、米を奪ひぬるものなるべし。かゝる様なれば子供等が身の上も覚束なし、其辺に近寄りなば何れも命を失ふべければとて、熊本より人数出張此辺りへは一人も行く事なく、早々其由を熊本へ訴へ出しかば、直に其手当有つて、不容易事ならんと大勢の人数差向られしに、案の外なる事なる故、何れも呆れ果てしが、子供の事なれば一人も残らず之を召捕へ、「何故にかゝる事に及べるにや」と吟味有りしに、「近々軍始る故、其用意なり」と答へて、外に怪しき事なし。彼連判状を取上げて之を見れば、前文の通の事にて頓と分り難く、十七匹の馬は之をよく飼ひ立て、林の中に之を繋ぎ、五十俵の米は社内に積重ね、一貫目の銀子は地を穿ちて之を埋め、大石を其上に置きぬるといふ。子供の所作にして、かゝる深山へかく取入れしも、よく心を用ひし事といふべし。五十俵の米と一貫目の銀子にて、兵糧・用金沢山のやうに思へる事に有らんかと思へるもをかし。此者共を悉く城下へ引行かれしかども、子供等の事にて何も取締めたる事なく、党を結んで一揆すと雖も、未だ事をなすに至らず。されば迚天下の大禁を犯せし者を其儘にもなし置き難く、之を罪に行はんとすれば、頭人は漸々十三歳にて、何れも之があと先にて、いづれも少年の者共なり。之に依つて其処は申すに及ばず、熊本城下にて党児を召抱ふ此事を見聞せし者共迄深く口留となりて、此噂する事をば厳しく停止申付けられ、子供にしてかゝる事を思ひ立ちぬる程なる者共なれば、程よく仕込み置なば成人の後は、一かど用に立つべき者なるべしとて、一人づつ家中の内にて之を召抱となりて、世間へは深く隠し、密に取治めしといふ事なり。彼等が楯籠りぬる節、明神の辺の掃除等立派に行届き、両便等も所を定め、少しも不浄にて其辺を穢したる処なしといふ。其外煮焚等の事迄もよく行届きぬる事、奇妙なりといふべし。こオープンアクセス NDLJP:180は全く時運の然らしむる事ならんと思はる。

昨日は寛々奉尊顔大慶不斜奉存候。彼此在方騒動の始末、今日先方ゟ書状著、猶又昨日私方ゟ飛脚差向け候処、漸く只今帰宅仕り、委細の訳相鎮り申候。

誠以て騒動実説、近き内罷出御噺可申上候。先以て私共在方何れも無事安堵仕候。乍恐御休意被遊可下置候。此程五日出の書状奉御覧候。御覧可下置〔候脱カ〕以上

  七日賀                   中西用助

  倉垣村奥祥右衛門より加島屋用助へ申来候書状の写也

一筆啓上仕候。能勢一揆乱妨の模様其一極暑の時分に御座候得共、御三方様益〻御栄健に被御凌ぎ成、珍重に奉存候。次に当方無異事罷在候間、乍憚御安意可下候。然れば去る二日初夜過ぎに、当郡栗栖村へ悪党共七八人妙見ゟ参り、近辺百姓共襲ひ、直に森上・今西・稲地を荒出し、味方五十人計り、二日夕明方になり杵の宮に籠り、山田・今西・垂水たるみ・神山・長谷・山辺・大里・柏原・平通・岩野等を潰し可申様に申し降参為致、右村々にて人足を出さし、三日九つ時一揆五百人余りに相成り、垂水酒屋三郎兵衛〔に脱カ〕・酒飯米・銭を為出、尚々近在を荒し、三日夕、片山村貞右衛門家財等誠に微塵に潰し、尚又杵の宮に引取り申候て、吉野三右衛門へ馳向ひ可申様の勢にて、倉垣村抔大に恐れ、昼夜の分ち無之騒動仕候。尤も昨四日朝四つ時に杵の宮を立ち、山田村ゟ杉生・鎌倉へ走向ひ、昨夕方には千余人に相成り、総勢鬨の声にてあふれ候。尤も昨夕暁七つ頃、佐曽利迄に富家二軒打潰し候。扨又七つ頃能勢郡の一揆反忠の者出来、六百人程人足夜抜に立帰候故、一揆の張本大に怒り、尚又能勢へ立戻り可申様子にて候故、山田村一本松・上杉村三草山峠両所に百姓共相固め、鉄炮三百挺程づつにて厳しく待受け居申候。私共只今見受け立帰り候。尤も民田村へ大坂盗賊方多人数にて陣立の著有之候。当村御代官出〔陣脱カ〕後追々に、小浜村・桜井谷等も今日加参なにの様子に付、漸々胸静まり仕候。乍併倉垣村の儀は這入不申、大に安心仕候。かと心配も有之共、当村まづ無難にて御座候。此段御安意可下候。丹州亀山は吉野境迄軍出立にて陣取り、園部は平松村に陣取り、地黄知行、下悪中・名月峠に陣取オープンアクセス NDLJP:181り、皆々鉄炮の音透間なく勢ひ見せ申居候。扨々希代の珍事恐ろしき事に候。先は取急ぎ乱書真平御仁免可成下候。早々已上。

  七月五日九つ時認               奥祥右衛門

     加島屋用助様

     同弥一兵衛様

     八条屋孫七様 貴下


   加島屋用助より見舞状飛脚に為持遣候返書の写なり

弥〻御壮栄に被御座珍重に奉賀候。其二誠に今日は当郡急変の儀、七兵衛を以て遠方の処御尋被下、不浅忝く奉存候。扨去る二日夜ゟ西郷杵の宮悪党群集候て、西十ヶ村を降伏為致〔候脱カ〕尤垂水村三郎兵衛宅にて米金を取り、片山村定右衛門を潰し、四日四つ時に杵の宮を引き川辺郡六つの瀬郷へ走り、杉生村慶福寺〔を脱カ〕襲ひ、尚道筋を荒渡り、佐曽利村万勝寺に坐し大に混乱仕候。所々福家を潰し候儀恐ろしき次第に御座候。乍併吉野村三右衛門を潰し可申歟と、倉垣郷大に恐れ罷居候処、以の外奥川辺郡へ押渡り、誠に以て危急を遁れ候段天命に相叶ひ候と、より村中歓喜不斜候。此段御安慮思召可下候。尤も昨四日奉行所捕手・当地頭役人夫々御出張にて、百姓共大に力を得、鉄炮を以て同日九つ時張本の者共を打取候に付、残党散乱仕候由に付、猶々安心仕候。定めて御方角にても色々取沙汰御座候事と奉察候。殊の外大変、前代未聞の儀に御座候。何分委細の儀七兵衛ゟ御聞取可下候。且火急の御中、結構の御品御恵被下難有奉頂戴候。乍憚殿方様へも宜敷く御礼奉申上候。先は右御答旁如斯に御座候。期尚後顔の時候。早々謹言。

  七月六日                  奥祥右衛門

     加島屋孫兵衛様

     同   用助様 貴下

     摂州川辺郡豊島郡能勢郡変事略記

当六月下旬より七月上旬へ掛け、能勢一揆浪人共八人能勢郡妙見山へ集り、夫より今西村杵の宮へ引移り、右の内五人垂水たるみ村役場へ行懸り、万民為救思立つ事有之候間、人数差出候様申聞候得共、番人申すは、「譬へ救ひたり共手頭より不申付儀は、一切不オープンアクセス NDLJP:182旨」申否み候処、「己れ推参なり」と申すや否や、只一討に切殺候に付、夫より恐怖し、近郷十八ヶ村人数七八百人計差出し候を引連れ、彼杵の宮へ相集候処、太鼓を打ち鉦を鳴らし、人数凡そ千四五百人に相成り、右人数へ申聞候は、「近年米価高直一統困窮、最早渡世不相成候。依之徳政の行一統安穏に被暮候様致可遣候条、味方に附可申。万一違背に及び候者は一々首を刎候」と申候に付、無拠一味致し、夫より「徳政大塩味方」と申す幟を仕立て村々へ廻文致し、追々人数相集め此辺山部にて猟師鉄炮の外、面々鉄炮所持致し候処に付、追々取集め徒党を結び、大家に米銭を為出、不出者は切殺し、又申付候より少しく出し候ても出しさへ致し候へば、おとなしき仕懸に致し、民心を得べき様にて、追々蔓り候様相聞、右触書総方へ相達候処、就中同所豊島郡下止々呂美村は、備中岡田領主伊東播磨守様の領地に付、其所庄屋右の趣当七月四日、右御同所大坂御留守居小島肇へ相届候に付、早速有松堂助と申す者に小者相添へ、彼の村へ遣候跡より、肇忰市之進に人数相添へ止々呂美村へ罷越し、同所より三里半計り奥の儀、手寄を以て委数く相探り候処、御代官所根本善左衛門殿支配村上月村願正寺・鳥井天王村・山辺村辺にて余程戦致し候由。人数出張の領分出張の国々は、亀山領笹山・三田・撫木・能勢、旗本領保科弾正・桜井谷陣屋麻田領御代官、小堀領御代官根本善左衛門殿支配村、其外も有之由に候得共不分明。右の箇所より追々人数被差出、賊共を谷合に見下し、四方の山上に陣を取り、直に鉄炮相放し矢軍に候処、初は賊頭不相分候得共後には相知れ、根本殿支配所猟師何某と申す者鉄炮の名人、彼賊頭三人を択打に致し候処、夫より賊共致散乱候由。駆集にて致一味候者共、庄屋より以前内々申喩し候者故、諸方の勢集り戦に相成候て、能き時節見合せ、反忠致し候様申付候に付、程合見合せ裏切致候に付、容易く勝利を不得、頭分今二十人も有之、一致致し戦候とて、四方の集り勢容易に勝利は有之間敷と申噂の由。

一、賊頭の中五尺八寸位の大兵一人有之、年齢四五十歳計りの者多く、一人廿五六歳の由。此者行方不相知由、当月七日総方共引取候由、只賊徒廻文抜書左の通。

     乍恐奉願口上覚

、数年米価高直、賊徒の廻文病流行、餓死夥く、当春以来百人の内廿人は乞食〔に脱カ〕相成りオープンアクセス NDLJP:183餓死仕候。然る処此節は財宝も尽候上、次第に米価高直にて、此後当秋取込候迄日数凡九十日、百人の内五十人は餓死可仕事顕然の事にて、総方御田地相続き不申候間、何卒一国総有米を改め〔〈原本省略トアリ〉〕〕其郡・其国の総人数平均高に割渡し、当秋取込候迄諸人活命仕候様、被仰付下度き事。

徳政の願斯数年諸色高直に付、在・町小前・末々の者実に困窮に候。当秋縦へ豊作にても貸借是切、徳政被仰付下置度、若し徳政被仰付下不申候へば、粗十ヶ年困窮仕能在候に付、是より何ケ年相立候ても、小前・末々の者生立候儀出来不申候。乍恐御田地不相続候様相成候間、何分格別の以御仁徳、帝様より諸御地頭へ被仰付下候はゞ、譬へ如何様の厳科に被仰付候共、難有仕合に可存候。依之此段奉願上候、以上。

  七月

 関白殿下御披露

前書の通願出候間、其村家別に一軒より一人づつ今晩杵の宮へ相集可申。若延引致候村は押懸け、庄屋は上京の路用致借用候。此廻状早々順達留り村より杵の宮へ相戻し可申候。

     人数出候村々左の通

岡崎村・吉川村・黒川村・東山村・吉田村・止々呂美村・古郷村・中川原村・木部村・野田村・萩原村・矢間村・多田院村・町野村・平野村・上京村・笹部村・山下村・一庫村

昨朝も御使被下置候由の処、漸く今朝書付相廻候。先日御咄申上候通り、仲仕共止々呂美へ罷越候者罷帰り、咄の趣書取候由、内々の事候間、他見は御用捨奉願上呉候様との事に御座候間、左様奉願上候、以上。

  七月十一日                 吉岡

、御聞及も可之、当月初旬大塩の残党と称し、摂・丹の境にて致蜂起、即ち当所よりも領分境へ固め人数差出申候。追々進候へば、一番の人数繰出しの積にて、即ち小生一番手引続可出張覚悟の処、早速御討取に相成り、先々御静謐の儀奉恐悦候。既に二月の節も今一左右次第、城州山崎辺へ出張可乗出と勇しく御座オープンアクセス NDLJP:184候処、無其儀残念の至に存候。当月の蜂起の様子、世上の風聞書留め置候間、尊大人御慰に写し差上候。宜しく被仰上下候。尚後音可申上候。以上。

  七月十九日                 伊丹孫兵衛

     乱妨の始末世上の風聞

七月二日の夜、乱妨始末の風聞摂州妙見山より乱人大将分下り来り杵の宮の寺の鐘を撞立候に付、村方打驚き相集候処、乱人申候は、「別段驚くには不及徳政を願立候事に付、人数を集むる為なり。何れも随従致候様に」と申し、右杵の宮に滞留、其辺村々近辺人足加り集め、自然随従致さぐる者は討果すと申すに付、止を得ざる事、追々人足差出し、頂上人数千七百共申し、又は二千余とも申す。四日朝杵の宮を立ち、六つの瀬の内杉生村一の宮と申すに入り休息致し、夫より清水村左助と申す方にて、昼仕度致し、銭百貫目計り無心に及び、夫より佐曽利村万祥寺にて一宿。五日の朝四つ時、前上月村油屋へ押寄せ候と申して、右村方へ立越え、かう福寺と申すにてたむろ致し候処、追々大坂御代官根本善左衛門様御人数、并に大坂町御奉行御人数、数百挺の鉄炮を為持、双方より右寺へ押寄せ打立と相成り、大将分三人共同日七つ時分御討取と相成り、其外縄付十八人計り、坊主も之ある由。右にて兼ねてより集居候人足共散々に逃去り、残るは一揆の者共計りと相成候。

 右は固めの場所より忍の者を遣し、大概を聞合させ候始末なり。

     追々の風聞

、三日昼片山村定右衛門方を打潰し候由、杵の宮の東にあり。

、森上番人少々一揆の所存に相拒み候故、立処に討果し候由。

、杵の宮にて人気を取らんため歟、人形を自由に遣ひ候て、如何体の事これ有り候共、此の如くに人を遣ひ候故、必ず心配に及ばず、怪我等は之なく候と申候。

、大将分の中、一人始終左の耳を隠し候由に付、兼ねて仰せ出され候人相書の、河合郷右衛門かにも存ぜられ候由。

、大将分の中一人ははま与力・同心へ劒を教候山田大助、山田村医師忰摂州多田院の家人の由、大塩平八郎軍学の門人の由。

オープンアクセス NDLJP:185、摂州池田あめや平三郎忰、名前相分らず。

、大将分へ一味の者凡そ三十人計り有之候由。

、能勢郡へ散札致候文句は相分らず候得共、大意徳政を願ふとの趣意の由、其散札の内に、大塩の手跡にても之あるべくやと思しき物、四枚計り有之候。是は大坂御役所へ差出候由。

、人足差出候村方へは紙幟一本づつ相渡し、徳政願は何村と記し有之由。

、よしの三右衛門方へ、人足の者に二三十人計り先へ罷越可申と申付け候処、人足の者申候は、「中々諸家の御手当御厳重にて、鉄炮にて打果され候節は恐敷候に付、先へ罷越候儀は御断り申上候。もし大将分先立ち成され候はゞ参るべし」と申候へば、「さすれば跡廻し然るべし」と申候由。

、処々にて無心申候て取り候金銭、銭の分は人足へ割渡し、相余り候へば差戻し候由。金は京師へ参り候入用とて自身所持致し候由。

、杵の宮出立掛に坊主を上席へ直し一礼を述べ、世話に相成辱く候得共、今日は是より出立、もはや是にて暇乞申す。何ぞ謝儀も致度候得共其儀なし」と申聞候由。出立の跡にて見れば、床に銭五貫文差置これありし由。

、一味の中重立ち候者一人逃去候由、後に承り候へば討取られ候由。

、初発五六人の処、二人は何れへ参り候哉相分らず候由。

、七月五日の夜の話にいふ、十日已前に大塩平八郎大坂へ罷出候由、御差押へに御手配の処、何方へやら逃去候。右に付能勢郡下役の者へ平八郎に似よりの者有之候はゞ、召捕へ申すべき段、御沙汰の趣風聞これある由。

、退治後村々に於て、追々御召捕と相成り、大坂へ御差出の様子、七日迄に最早七八十人もこれあり候由。

亀山の学士に、始め小身者の儒学に志厚く執立に相成候、両南孫四郎の妹の書翰両南孫四郎と申者の妹、摂州柏原村某へ嫁し居候に付、右乱妨の場所故見舞の使差遣候処、返書の写左の通

仰の如く乱妨大塩平八郎残党の類共と申す三人大将にて、能勢郡森上村杵の宮にオープンアクセス NDLJP:186集候て、能勢一揆の強請夜中鐘をつき、二日の夜同郡稲地村庄屋へ行き無心申し、村中人足を出せと申候へば、其村の番人取りに掛り大将の胸ぐらを抓み候へば、大将刀を抜きむねにて打候へば、むねにて切れぬと申候へば、肩先を一刀切り候へば、も一つと突きよれば首切落し候て、人足を引連れ杵の宮へ引取りて、夫より村々へ人足を出せと申し、○墨に致すハ罸ニ処スヿ出さゞれば墨に致すと申候。又片山貞右衛門方へ飛脚遣し、金子廿貫目と米五十石と無心申候へば、聞入れなき時は潰すと申候へば、聞入れ之なく候て、三日の夜諸道具・建具悉く微塵に潰し申候。夫に近村当村も恐れ、人足を家別に残らず一人づつ出し申候といへば、又森上村杵の宮へ引取る。四日朝郷中・村々人足杵の宮へ集り、夫より六の瀬へ行き杉生村の宮へ行き、此処にて同中飯ちうはん致し、其方村々人足八百人計り出す。〆て千四百人に相成り、夫より清水村へ行き質屋にて休み、左曽利村万しやう寺〔にてカ〕其夜を明さんとする時、能勢郡の人足四百人計り、其夜抜け帰り申候。其夜万しやう寺の堂動き、其時大将恐れ刀を抜き空中を切払ひ申候。且又四日代官根本善右衛門参られ、又番所の役人四頭参られ仁辺村より押寄せ、根本善右衛門は山田山中峠より押寄せ、一揆追討の諸勢其次大星村役所・栗栖村役所、山田村峠押寄せ申候。田尻村役所は明月峠・坂井峠・大坂峠三方へ出張被致候。五日八つ時に上月村宮寺へ行き籠り候処を上月峠根本善右衛門数人押寄せ、三方より押寄せ、鉄炮を打つ事雨の如く、三人の大将刀を抜き切懸かるを一人は手を討たれ、堂へ駈入り切腹致し候。今一人は田のふちにて玉を四つ負ひ死す。一人は農家へ駈入る処を打殺す。大将一人は山田村源六医者忰大助と申して、大坂へ出で劒術指南致候者と申す。今一人は池田あめしんの弟、今一人は出石の浪人とも申し、又は加賀の浪人とも申し、又は河合郷右衛門とも申候。是が三人の中の大将と相見え申候。三人とも手きゝにて候。

 右は本のまゝ、火急の時節の返書故、不都合の事共もまゝ相見え申候、御推了。

、右討取の節風聞には、公儀役人衆間者を以て、忍びに人足共へ申含め、最初打立候鉄炮は玉な〔きカ〕故、異心無之者は「初発の鉄炮を相図に退散致すべし」と申含め、人足退散見受け、残る者共見当に玉入れ打立候共申す。又は初より玉入打オープンアクセス NDLJP:187候故、人足の怪我を憐み、頭分の者抜連れて打出候共申候。未だ是非分明には弁じ申さず候。

     亀山より領分境固人数大概

、物頭二騎、足軽一組廿五人づつ、一組鉄炮、一組は弓鉄一挺づつ挟む。

、大目附一騎、徒目附二人、代官一人、同心十人、郷手代五人。

、大筒方一騎、懸り下役十人、医師一人。

 右人足〔従カ〕卒〆凡百五人計りは西加舎村へ出張。

、物頭一騎、足軽二十人。し鉄炮組

、大目附一騎、徒目附一人、代官一人、同心十人。

 右人足従卒〆凡八十人計りは犬飼村へ出張。

山田屋大助は摂州能勢郡山田村の者なりといひ、其父を根来源六といふ。山田屋大助の素性多田院の家来にして、満仲公已来相続の旧家なりといへり。源六に至り貧窮に及びしかば、三十年余り已前に大坂に出来り、布屋町に於て島屋市兵衛借家に住し、按腹針療をなして、加島屋久右衛門方へ出入し、後には剃髪をなして薬をも調合し、店方・勝手等の召使の者共を療治し、追々身上も宜しく成りしにや、西横堀京町橋西詰少し北へ入る所の西側へ転宅し、薬店を開きて忰大助これを商買す。元来親子共欲深き者共なれば、間もなく薬の抜物を買ひて公儀の御法度を犯し、久しく入牢せしが、後に町内へ御預けとなる。

御法度を犯し唐物を抜買するを八幡ばゞんといふ。八幡の起源之は唐音なり。抜物を密に取扱ひぬるをかくいへる其始は、嘉吉元年六月廿四日、赤松満祐将軍義教公を己が屋敷へ招請して殺害し、播州へ引取りて籠城せしを、山名持豊討手に馳向ひ之を攻めしかば、終に自害して落城に及びぬ。時の将軍を弑せし者の残徒なれば、公儀へ憚りて一人も之を召抱ふる者なし。此者共何れも身の置処なき儘に海賊をなし、海外に到りて乱妨狼藉をなす事甚し。明朝にて之を和寇と唱へて、大に困り果てぬ。之が船中に建つる処の幟には、何れにも八幡大菩薩と書記せし故、之をみる者ばゝんといひて大に恐怖せしといふ。之よりして不正なることをさして八オープンアクセス NDLJP:188幡といへる様になれりとぞ。八幡の神号かゝる正なき事の異名となりぬる事、是非もなき事といふべし。

其後数月を経て漸々御免を蒙りぬ。此者劒術・柔術〔の脱カ〕師をなして町人共を弟子に取り、其業を教ふ。又対馬屋敷に其稽古場有りて、屋敷内残らず之が弟子なりといふ。彼が人柄の様子、平常の所業を以て考ふるに、定めて不法なる劒柔ならん。

され共当時武道大に衰へ、少しにても腕立する者あれば、其業に何れも拙き者共なれば、かゝる者をすら鬼神の如く尊信するに至る。別して蔵屋敷などの士は、両刀を横たへ槍をつかせ抔して、いかめしき風をなしぬれ共、町人・百姓よりも遥に劣りて、何の用にも立難き者多し。大助平素の風体斯る者共の彼に随従せしものなるべし。大助が平日の有様、風呂敷包を背負ひて歩行廻るかと思へば、二尺計りの長脇指を横たへ、黒縮緬の羽織など著用し、大道一杯踏みはだかりて歩行廻れる事有り。風体の転々する事笑ひに堪へざる事共なり。其相貌は身丈至つて低く横に肥太り、丸面にして仰山に髯生ひ、音声猫の吠ゆるが如く、至て下賤の人相にしていやみ有る姿なり。

親源は至つて痩枯れし男にして、随分人品もあり。大助親源六加島屋久右衛門方へ出入して按摩をなし、寝泊り等を勤むる身分にして、己が家柄を鼻にかけて、至つてなめげなる有様にて、其心不正なる人物なり。上福島葭屋九左衛門方へ源六が姉縁付きぬ。されども彼が不正なるを忌嫌ひて、至つて不快の中なりしに、いかが思ひ直せし事やらん、源六が二男大助が弟を引取りて葭屋の養子とす。大助弟の悪行然るに此者多くの金銀を遣捨てし所より、土蔵にある処の脇指・小道具等を多く盗出し、出入の者を密に頼みて質物に置き、己れ斯かる正なき振舞をなし乍ら、其非を掩ひ隠さん為に、蔵の錠を捻切り、隣との境の塀に梯子を打懸け置き、外より賊の入りし様になし置きぬ。明日に至り家内大に驚き、土蔵の内を吟味するに、脇指・小道具の類、高金の物を択みて多く取去りし事なれば捨置き難しとて、直に其品数を記して公辺に訴へぬ。其跡にて右の品々息子より頼まれて、質家へ持行きて金借りし始末を、取次せし出入の者より家内へ告げしかば、再び大に仰天し、乍ち御吟味の息子に及ぶ事を恐れ、「品物悉く有り、其置処を失念し、卒爾なる事をオープンアクセス NDLJP:189願ひ奉りし」とて早々応下げをなし、御奉行所に於て大にしかりを蒙り、這々の体にて引取りしが、家内大に憤り、若き者共の金銀を遣ひ過し、詮方なくて親の金を密に取出し、又品物を以て工面する事など、世間にてもまゝある習ひなれども、土蔵の錠を捻切り隣の塀より梯子を打懸け、外より賊の来りし様になしぬる事、其仕方至つて悪し。恐るべき心底なり迚、直に源六方へ引渡して之を破縁し、源六も志宜しからで常々快からざりしが、此次手に源六とも絶交せしとなり。願行寺堀の辺に夫に死分れ、後家暮しにて、一人の娘を持てる釜屋の相応にして手広く商売する者有り。此家養子を求むるにぞ、仲人ありて葭屋より不縁せし二男を養子に遣しぬ。先方後家暮しにて直に名前に付きし事なれば、大に気儘働き遊所狂をなし、後には心に叶ひし女を受出し、親源六が宅へ預け置きて、常に親元へ寝泊す。源六も親の身にして何の異見もなく、之を預り置きぬるうへに養家の物を頻に取込んで己が身に徳取らんと、種々の姦計なせしといふ。釜屋よりは、これ迄息子の放蕩なるを頻に異見しくるゝやうに頼みぬるに、其事なき上に、右様の悪事を親子心を合せて工みぬる故、大に恐れ憤りて、之を離縁せんと言出でしかば、「わが子当時の名前人なれば、釜の下の灰迄彼が物なり。彼を離縁せば家財は申すに及ばず、家蔵も共に取るべし」など、難題を言掛けぬるにぞ、女ながらも大に憤り、公訴せんとせしか共、仲人より之を宥めすかし、終に金を取られて離縁せしといふ。是等の事にて大助親子・兄弟の正なき事を思ひ計るべし。

絹屋卯兵衛斎藤町に絹屋卯兵衛といへる小両替有りしが、大に身上手縺れて、困窮に及びしかば、本宅を明けて之を借家とし、己れは裏家へ引込みしにぞ、大助横堀よりして此家に引移りぬ。然るに其後神社・仏閣等に富の興行始りしが、住吉にも富有りて堺に於て興行ありしに、大坂新地裏なる下原とやらんの人、其富の大節に当りしを、大助が元居し横堀の旧宅の真向ひに今井藤蔵〈又藤作ともいふ〉といへる書家あり。此者元来三河の浪人の由なるが、之も正なき者なる故、大助と至つて親しくし、兄弟の交りをなすといふ。此藤蔵いかなる故にや、其当りし札を一見し、忽ち慾心を生じ、己れ書家の事なれば其似せ札を拵へ、大助と心を合せ似せ印など拵へて、本札に紛るゝ様オープンアクセス NDLJP:190にせしといふ。其富に当りたる者より先に行かざれば事なり難き事なり、僅かの間にかゝる似せ札を拵へぬる事の、速なる姦人の所作怪むべし、恐るべし。山田屋大助今井藤蔵詐欺共謀今井は面の差合ふ事ありしにや、山田屋大助其似せ札を持ちて堺へ到り、似せ札の事なれば己が心にも咎めぬると見えて、夕暮に金受取らんとて其札を差出しぬ。富掛りの者共之を見るに、相違なき札の様子なれば、既に金渡さんと思ひしか共、大勢の中にて、之を少しく怪しみ思ひし者有りしかば、他の人の袖をひき、「何分にも最早夕暮に及び、掛り役人の内引取りし者も有りて只今は渡し難し。明朝来りて受取られよ」と言ひぬるにぞ、大助がいふ、「我は大坂の者にして、今夕叶はざる用事あり。速に引取らざれば其用弁じ難ければ、是非渡されよ」と利屈など言ひぬれ共、明朝出来れとて取合はざれば詮方なく、「然らば明朝参るべし」とて、其夜は堺に一宿す。大助が引取りし跡にて、彼の下原の富に当りし者出来り、金受取らんと言ひぬるにぞ、何れも面見合せ大に驚きしが、之も「明朝来るべし」とて返せしが、跡にて何れも評定し、直に其由を御役所へ訴へしにぞ、其御手当ありしといふ。然るに明日に至りて、早朝に山田屋大助はかゝる備有りとは夢にも知らず、金受取らんとて出来りしに、下原の者も出来りしかば、忽ちに悪事相顕れて、直に堺の牢に入れられしが、大坂へ引合となりて、間もなく引渡しとなりて百日計りも入牢す。今井は其噂を聞くと其儘出奔して、大助と藤蔵の処刑影を隠しぬれ共、程なく召捕られて之も同じく入牢す。容易ならざる悪事なれば、何れも首斬られぬべしと、世間にて専ら取沙汰せしが、住吉の富によつてかく罪人出来し、其命を失はしむる事、神慮にも叶ふまじく、又此噂にて富も自ら不繁昌となるべしとて、住吉の社務より内々願ひ出でし故、御憐愍にて二人共助命せしといふ噂なりし。大助が妻は此時夫の身の上を案じ煩ひしが、忽ち気欝の病となりてふらして居たりしが、一年計り過ぎて、男女の両人子供を残し置きて泉下の鬼となりぬ。憐むべき事なり。其後度々妻を迎へし。当時の妻は此家に嫁してより、未だ格別の年数にはならずといふ事なり。

絹屋卯兵衛も次第に困窮に迫り、終に此家を保つ事なり難くして、之を篠崎長右衛門といへる儒者に売りぬるにぞ、六七年前よりして篠崎の借家となる。

オープンアクセス NDLJP:191大塩乱と山田屋大助天保八丁酉年二月十九日、大塩平八郎乱妨放火せし時、かゝる事とは思ひよらず、只尋常の火事と心得、山田屋大助天満の方へ火事見舞に到りしに、十丁目筋とやらんにて、思ひがけなく大塩が鉄炮・石火矢・刀槍の鞘をはづし、いかめしき様にて出来れるに出会ひしかば、大いに胆を潰し、周章狼狽へて走帰りしが、船場にて鴻池・三井等を焼立て火勢大に盛んになり、加島屋作兵衛・加島屋久右衛門等をも石火矢にて焼打に来れる由、専ら取沙汰に〔衍カ〕して、市中一統騒々しかりしにぞ、大助が有様大いに狼狽へ、「こはいかゞなりぬる事やらん」とて、顔色血色を失ひ、周章て騒ぎぬる有様、彼が平日に武芸を諸人へ教へ、大助一揆を催す高慢なる様子とは雲泥の違ひなる故、大いに人目にも立ち諸人の物笑なりしといふ。六月の末より何か思立ちぬる事の有りぬる由にて、能勢郡の辺にて多の人を語らひて、七月二日に至り大いに騒動せし事あり。之を大塩が残党とも強訴一揆の類ともいひて、種々の取沙汰有れ共、未だ其実を知らざりしに、五日の早朝の事なりしが、斎藤町山田屋大助といへる薬屋へ御吟味の筋ありとて、同心衆出来り、妻娘・忰并下女両人、外より来りて滞留せる者都合六人、北二丁目の会所へ連行かれ、大助一家の処刑其家に在る処の大小・槍・長刀・弓・鉄炮の類をば、直に御取上となり、其余の家財悉く付立となり、妻と忰とは直に入牢し、娘一人は御憐愍にて、両人の下女と共に宿下げと成りて、町内へ御預となる。之にて山田屋大助・今井藤蔵〈横堀の書家にして大勢の弟子に書并に算術の教をなす〉研屋何某〈御霊筋河原町南へ入る処にて、八幡屋といへる雪踏屋の裏に住す。因州の浪人といふ噂なり。〉などいへる者、此度能勢騒動の発頭人の由相知れて、諸人驚きし事なりし。研屋は独身なれば、其儘にて家財元町へ御預となる。〈御霊筋へ宿替して未だ間もなく、名前は久宝寺町とやらん下地居し町に其儘にて有りぬる故、元町へ引戻しとなりて家財町預となる。之に依つて、御霊筋には此掛り合を遁れしといふ。〉今井も妻は入牢、娘あれども十歳已下なれば、家財と共に町預けとなる。山田屋が娘は十八歳、何か御吟味の筋有りて、十二三日頃呼出されしが、夫よりして入牢す。大助の子供尋問を受く此娘に何か御尋あれども、一向に何事をも知らざれば、其由答へて、少しも恐れわるびれし事なく、涙一滴も溢す事なく、泰然として覚悟を極めぬる有様、役人は申すに及ばず、何れも感心せしといふ事なり。又弟猿之助も姉と共に厳しく拷問せられ、之も同様に落著きて尋常の事なりしか共、親父の斯かる事有りとは少しも思ひよらず、其身に於て何も知らざる事を、厳しく責問はるオープンアクセス NDLJP:192る故、科なき者を無実なる責を蒙れるやうに申しぬるにぞ、此者に町内の者附添ひ能勢郡へ召連れられて、親の死骸及び其余の者迄も見せられしにぞ、之より大に屈伏せしといふ。母は継母の事故二人の子供悪み、日々叱りて打擲などせられし事は、近隣の者も之をよく知りて、哀れに思ひぬる程の事なりしに、子は少しも之を恨めることなく、此度猿之助が死体を見届けて帰りぬるにぞ、其罪逃れ難きを知り、兄弟口を揃へ、「私共事は実子の事に候へば、如何様なる御仕置を蒙りしとて、篤と覚悟致し候へ共、母が事は私方へ参られ候て、未だ格別の年数にも相成り申さず、何れも同人の存ぜられ候事にては之なく候へば、御憐愍を以て母が一命をば、御助け下されよ」とて、数々願ひしにぞ、役人中も感心せられしといふ。猿之助は男の事なれば別牢に入れぬれども、母と娘とは同じ牢なり。今井が妻も同様なりしが、此女中にて年嵩なれば、牢の中にて大いに幅を致し、山田屋が妻子をむごきめに逢はせ、「大助めに唆かされて夫は非命に死し、我等迄かゝる憂目に遇ひぬる事の腹立や」と怒り罵り、散々に打擲すといふ。娘牢中にて病臥食を喰ひかぬるにぞ、牢番之を憐み、小豆餅・菓子の類を与へぬれば、今井が妻悉く之を奪取りて喰ひぬる上に、病労れぬる者むごき目に遇はせぬ。又母親も猿之助も同じく病臥ぬる故、御憐愍にて三人共、七月晦日宿下げになし給はる由、仰渡されしに、娘は二十九日の夜死去せしにぞ、母親之を歎き前後をも弁へざる程なるに、今井が〔妻脱カ〕は心地よしとて、娘が衣服を剥取り、丸裸になして牢外へ投出せしといふ。目も当られぬ事なりしとて、明くる日引取りし上にても、之を言出でて日々大に歎きぬるといふ事なり。

家主篠崎長左衛門は、借家にかゝる事出来せし事故、他参留仰付けらる。然るに山田屋が家つけたての節、大塩が落文とやらんありしにぞ、家主篠崎長左衛門取調を受く役人衆立合にて、「之は何れより手に入りしや、定めて大塩に同意なる故、かゝる物の此家に在るならん。有体に申すべし」となり。猿之助がいふ。「決して左様の事にはあらず。之は篠崎より板行を借りて写されしにて候」と云ひしにぞ、〈外に兵書もありしが、之も篠崎より借りしといふ。〉 直に篠崎を呼出して之を糺されしに、長左衛門が答に、「いかにも左様にて候」と申す。「其方には斯様なる物何れより手に入りしや、板行の由なれば定めて大塩オープンアクセス NDLJP:193が手よりして得し者ならん。委細に申すべし」とありしにぞ、長左衛門いへる様は、「玉造組与力坂本源之助より借り候て、弟子共が写取候を貸し候にて、決して大塩の手筋より出候にては之なき由」を申す。役人又云ふ、「猿之助が申し候には、板行なりしといふ事なるが、左様なるやいかに」、長左衛門がいふ、「決して左様にてなし。卦紙に写せしなれば、子供心に板行なりと思違へるに候はん」といへるにぞ、「然らば出処も慥なり。併し家主の事なれば、他参留申付くる」となり。長左衛門が大塩が落文を借りて写せしは、北浜三丁目肥前屋又兵衛なれども、之を有体にいふ時は、彼が難儀とならんと思ひ、幸に坂本源之助心易きことなれば、此名を以て偽りしが、坂本には何も知らざる事故、此事聞合等有りては一大事なりとて、直に息子長平を走らせ、「斯る事の有りし故かく答置候へば、御奉行より聞合あらば、其由に答へくれられよ」と頼みしかど、源之助之を諾はざりしにぞ、詮方なくて引取りしといふ。かくて御奉行所より玉造口御定番遠藤但馬守殿へ御聞合あるにぞ、坂本を召出し糺されしかば、「篠崎より頼み来りしか共、諾はざりし由」を有りの儘に申せしにぞ、遠藤より其趣を返答せられし故、高津辺の会所より、「篠崎親子の者共を召連れ来るべし」と、斎藤町へ申来りしにぞ、年寄米屋佐兵衛之を召連れ到りしに、篠崎長左衛門御叱り「儒者の身分にて大勢の弟子を取り、五常の道を人に教ふる身分にして、公儀へ偽りを申上げし段不届なり」とて、大に叱りを蒙りしにぞ、「肥前屋又兵衛と申す者より実は借り候へ共、有体に申上げなば彼を御詮議にて、夫より先々の本迄御糺有る時は、多くの人の難儀ならんと思ひし故、偽りを申上候ぬ。かく偽りし事は恐入奉りぬ。如何様の御咎仰付けられ候共畏奉る。何卒御憐愍を以て、肥前屋の難儀になり申さぬ様希奉る」と申せしかば、「公儀が重きか、肥前屋が重きか、儒者の身にして其弁別なきや。急度御吟味の筋有れば町内へ急度御預けなり、其旨心得よ」と仰渡されしといふ。〈肥前屋又兵衛御糺有りしかば、大和田大三郎より借りしといふ。大三郎は大和屋庄左衛門より、庄左衛門は水田の神主よりかりしと、有のまゝに申上げ、御咎なかりしといふ事なり。〉

〈篠崎は儒を業として博学多才の者にして、至つて高名の者なり。又行状・心志大いに儒業に背し事多くして、至つて慾深き人なり。之を爪崎と称して、之も亦至つて高名なり。古より古学なりと唱へぬる者は放蕩を事とし、朱子学と称する者才器屈縮して君子めける迄にして、世間の人情に少しも通ずる事なく、陽明学を唱ふるは此度の大塩が如し。俗人の無学文盲なれ共、よく家を治め身を治むる者は大学者より。遥オープンアクセス NDLJP:194に勝れる者多し。世に儒者の多く用ひられざるも、あゝ宜なるかな。既に此先生も二月十九日折節他行なりしかば、平日の行状故か、大塩に組せし者ならんなど、世間にても事ら取沙汰す。人は平日の行肝心の事にして、深く慎むべきものなりと。〉

能勢郡騒動の始末区々の噂なりしが、能勢郡騒動の原因之を委しく聞定むるに、其起りたる始といへるは、昨年来の饑饉に困つて、世間と同じく能勢辺も小前こまへの者共大に因窮し、当年は豊作の様子にはあれ共、之を取納むる迄の喰続き六かしき事なる故、山田村とやらん何村とやらん、一村打寄りて評定をなせし上にて、其村に何某とやらん言ひて、至つて富める家あり。金銀・田畑沢山に所持し、昨年来の饑饉にて諸人大いに困窮をなせ共、己れは利を貪んとて米は申すに及ばず、雑穀の類に至るまで、仰山に積み貯へぬる者有り。此者を頼んで作物取納むる迄の米を借受けて、何れも飢を凌ぐべしと、何れも一統に申合せ、中にてもよく口利ける者両三人も行きて之を頼み、「秋作取入れし上は、相違なく速に返すべし」と、言ひぬれど、之を少しも聞入るゝ事なきにぞ、詮方なくて引取りしかば、此度は五六人も連立ち行きて、種々詞を尽し頭を下げて頼みぬれ共、一向に聞入れざれば、此者共も引取りぬ。夫より一村連立ちて行き、種々に歎きぬれども、気強く之を取敢ざる故、何れも大いに怒り、若き者共已に此家を打毀たんとする勢なれ共、老分の者共之を制し、事なく此家を立出でて、直に山田村の内に住居する、何某やらんいへる劒術の師範せる者の方へ立寄り、「然々の事にてしか頼みぬれ共、少しも頓著なさゞる故、若き者共は大いに怒り、彼家を打毀たんと言ひぬれ共、さ有る時は大変に及びぬれば、何卒先生の御計ひを以て貸しくれらる様なし給はるべし」とて、一同頼みぬるにぞ、之を捨置き難く、「各〻方の一統に頼まれしを用ひざる者にして、我等が申しぬる事を聞入れ申すべき理なし。れ共之を否めるも不実に当りぬれば、一応掛合ひて見るべし」とて、夫より直に彼家に到り、詞を尽して頼みぬれ共、露計りも之を聞入れざる故に、之も詮方なくしてすご引取りて、其由を言聞かせ、「最早致方なし。所詮我々が手には逢ひ難ければ、各〻の存寄致されよ。此上は我は知らず」〔と脱カ〕いひしにぞ、何れも此人の返事を聞かんとて、此家に相待ち居りしが、此由を聞くと其儘、「年若き者共は此の如くならんと思ひし事よ、もはや堪忍なり難し。彼家を打毀ち存分の腹愈せせん」と言罵オープンアクセス NDLJP:195りしかば、此劒術者の家に前以てより滞留せる二人の浪人者有りしが、之を聞きて、「さ思へるも尤も至極の事なり。我等も共々に加勢すべし」とて之をけしかけ、燃ゆる火に油を注ぎぬる勢ひなりしかば、何れも弥〻其臍を固めし故、是非なくも老分の者迄同意せしといふ。劒術者も此の如き事に掛り合ひ、逃れ難き場所に及びしと見えて之に同心す。山田屋大助一揆に参加此者の弟子大坂に六人あり。大助は其高弟なりといふ。此故に六月晦日、親源六大病なれば用事有りとて、急使を以て招に来りしにぞ、翌七月朔日早朝、宿を立出でて彼地へ到る。幸の折柄なれば、今井・研屋〈研屋は佐藤四郎右衛門とて、因州鳥取の浪人なりといふ。〉抔に妙見参りを勧めて同伴し、二日よりして騒動に及べる様になりて、遂に鉄炮にて打殺されしといふ。

今井藤蔵は書家にして算術を専らに教ゆ。其子上町同心へ養子に遣せし有り。又高麗橋筋とやらんに、松田とやらん松岡とやらん言ひて、算術の師範あり。此者の子も亦上町の同心何某とやらん云へる者の養子となると云ふ。然るに今度今井は、同心の方へ遣し置きたる忰をも、妙見へ召連るべしとて之を召寄せ同道せしといふ。然るに此者二日の騒動せる様を見ると、其儘密に逃帰り、養家に隠れ居りしに、五日に至り何れも鉄炮にて打取られ、従類多く召捕られしが、今井が子の同心の養子になれるをも召捕へんとて、上町へ到りしが、算術者の子なる由をいへるにぞ、人違にて高麗橋なる算術者の子、始めに召捕られ大に難儀せしが、漸〻と人違なることの相分りしかば、後に今井が子を召捕られしといふ。両人共揚り屋へ入れられしとの噂なり。一人は大なる災難といふべし。

多田の近在に万善まぜといふ処あり。能勢騒動に付弥助の実話此村の弥助といへる者は、斎藤町市物屋久兵衛といへる者の縁類なり。盆後大坂へ出来り久兵衛方に滞留し、同人が咄を聞くに、世間にていへる如く、最初杵の宮へ発頭人五人出来り、番人を切り、鐘を撞きて人数を集め、頂上二千人に余れり。能勢一揆蜂起の状況村々へ廻文を廻し、従はざる者は悉く打殺すと云へるにぞ、何れの村々も是非なく之に従ひぬ。我村へも廻文来りし故、其変を恐れて随身の由を返答し、銘々竹槍を用意し、近辺村々の様子を窺ひ、日々遠見を出し、隣村迄出来ば拠無き事なれば、是非を論ぜず此方より出行きて之に随ふべし。彼の大オープンアクセス NDLJP:196勢の人を当村に引入れては、仕度等を致させぬる様になりて、一度の飯を仕出ぬるも三石や五石の米にては足り難かるべし。何れも其心構にて用意すべしとて其積りなりしに、もはや隣村迄出来りし故、已に打立たんとする時、諸方より討手出来りし故、一揆の方へは行かずして大坂の手に属して、先手を勤むる様になりぬ。今一足違にて已に一揆の群れに入らんとせしに、幸にして其難を逃れぬ。危き事なりし。夫よりして麻田・根本・小堀・石原・能勢・保科・桜井谷等の人数追々に出来りしかば、揆跡へ引返し、寺の内へ楯籠りしを、御町奉行根本善左衛門等の人数、前後より押寄せ、大勢の狩人を先に立て、空鉄炮を打掛けしかば、之にて一揆方の人数は悉く散乱し、多くは味方の人数に加りしにぞ、跡は残れる者とては山田屋大助・今井藤蔵・佐藤四郎右衛門の三人となりしにぞ、三人の者共も今はこれ迄と思ひしにや、本堂の内より小田屋大助刀を抜持ちて馳出でしを狩人に命じ、之を鉄炮にて打たせぬ。山田大助討死何れも股を目当に打掛けしに、何れもあやまたず当りしかば、玉三つ迄は踏堪へしが、四つ目の玉にて打倒されしかば、今井藤蔵走来りて之を介錯し、己れは直に引返し腹十文字に搔切つて咽笛を後へ突貫き、うつ伏に成りて死失せぬ。佐藤四郎右衛門は少しも本堂を動く事なく、自ら鉄炮腹をなし、疵口に紙を撚込め、血の漏れざる様になして、俯しに伏して死す。何れも武士と違ひ天晴なる最後なりしと云ふ。こは五日の未の刻の事なりしとぞ。杵の宮へ始め出来りし一揆の発頭人は五人なりしが、二人の者は何つの間に何れへ失行きし事やらん、其影だにも見し者なし。三人の者共も斯る事を思立ちぬる者共とも思はれず。こは定めて天魔にて有りしやらんなど専ら噂せしと云ふ。山田屋は能勢大助、今井は蒲冠者範頼の末孫なりとて、蒲蔵人と名乗りしとも云ふ。始めより之に従ひぬる村毎に、幟を一本づつ立てさせて、何れも難渋訴訟人何村と書記させしと云ふ。然るに其願の筋をも聞糺す事なき上に、御料・私領の別なく、支配地頭へ一応の沙汰もなくして、領地の狩人・百姓共を我儘に人夫に取り、此者を先手とし、必竟徒党せし者共速に散乱して、烈しき戦ひなかりし故、何れも無難なりしかども、少しにても取合ざれば何れの百姓・狩人も命に係はる事なるに、不埒なる致方其儘にては差置き難し、急度公訴なさんオープンアクセス NDLJP:197など云ひて、何れも大に怒り憤られしと云ふ。此の如きに狩人・百姓を先に立て、鉄炮を打掛け進みぬるにぞ、一揆の人数大いに散乱し、逃るあれば此方へ走加る有りて、大いに騒立てしにぞ、遥の跡に控へぬる与力・同心の類は大いにうろたへ、大崩れに成りて逃出せしとて、諸人の笑物なりしといふ事なり。

山田屋大助が事は前にも言へる如く、山田屋大助の性質不良の人物にて慾心深きのみにして、大塩が乱妨に狼狽へ騒ぎ、平日妻子惑溺し愛著に余念なき事共にて、聊腕立はすれ共、少しも沈勇ありて、命を失ふ事を恐れざる男にはあらず。強訴の事なれば命を失ふ程の事はあるまじく、麾は振れ共程能く云逃れて、騒動せる中にて金儲せんと思ひて、例の慾心より起りし物にして、有無の糺もなく、鉄炮にて打殺されんとは思ひも寄らざりし事なるべし。今井は至つて貧窮人にて、一年半計りも家賃さへ滞れる程の事なれば、余は之にて知るべし。之も算盤の桁外れなるべし。此外仙石の浪人鎌田隼人大塩の余類河合郷左衛門など、之に組せしなど云へる風説ありしかども、之も分明ならざる事なりし。又小田屋、今井・研屋など四五人計りの人を引連れ、盗賊方与力・同心にやつし、捕物有りて出来りし由にて、川尻村の庄屋に到り、番人を切殺し人数を集めしなど、道行長々しき咄もあれども、今井・研屋は知らざれども、大助は山田村の産にして、其辺にて面を知らざる者はあるまじき事に思はるれば、かゝる事のありしといへる事、其道理に当り難く覚束なき事なれば、此始末を記する事なし。何分にもかく鉄炮にて打殺さるゝ事なりと思はゞ、かゝる事をばもくろみぬる事はあるまじき様に思はれぬ。

蜂起せし始め勢ひを以て人を服従せんと思へるにや、頻に空鉄炮を打立候ゆゑ、焰消乏しくなりしにぞ、三田の町へ二人連にて之を求めに到りしを召捕へしにぞ、委細に白状す。其由直に大坂へ訴へらる。又村方よりも追々訴へ出でしかば、御奉行所にては大塩が残党ならんと思はれしといふ事なり。又鈴木町御代官根本善左衛門へ御支配地より早速訴へ出で、速に御手当下され候やう申せしかば、大いに仰天し、「暫く待つべし」とて此者を留置き、頓と何の御沙汰も之なき故、数々催促すれ共、「暫く控へよ」と計りにて、何の返事もなく、只大にうろたへ廻れる様子なれば、如何とオープンアクセス NDLJP:198もなし難く、半日余も引付けられぬ。かゝる所の大変なれば、宿元へ心せかれ候へば、私は御暇給るべしと、七つ頃に至りて言捨てにして走帰りしが、夜に入りて斯かる騒動の中へ引取りぬる事故、心ならず思ひしかば、天王寺辺に住居する所の知辺の人を相頼み、之と同伴して帰りしといふ事なりし。

     山田屋大助が妻并に忰猿之助より直に咄せる処左の通

根来源六は、山田源六の素行前にもいへる如く不良の者にして、種々悪しき事有りて、現在肉骨の姉に絶交せらるゝ程の人物なり。此姉根来の家に生れて葭屋の家に嫁し、弟ながらも源六は父の跡を継げる者なれば、此女の身に取りては、麁末に思ふべき者には非ず。然るを義絶せしはよくの故有る事なるべし。源六当年七十四歳、先年布屋町に住居せる時、四十四五にして十七八の妻を迎ふ。世間は云ふに及ばず近隣の者も皆程能き年頃なれば、何れも大助が嫁なり〔と脱カ〕思ひしに、案外の事なりし。同人事は至つて房欲甚しく、斯かる年若き妻を迎へ乍ら、召遣ふ処〔の脱カ〕下婢・乳母の類、一人として之を犯さずといふ事なく、日々飲食の敖り又其度に過ぐる事甚しく、是等の費少なからざる事なれば、加島屋久右衛門より間毎に貰ひぬる五六百目の給銀にては足り難き事故、常に不良の山を工みなす事と思はれぬ。十四五年計り已前より加島屋の家督は忰大助に譲り、己れは能勢へ引籠り、後妻の腹に生れし娘に養子をなして家を相続す。又同腹の男子あり。之は末子の事にて幼弱なる故、姉に養子せしといふ。此男子といへるは大坂に出でて堀江辺に奉公すといふ事なり。

源六在所へ引取りて後は、大助よりして日々魚肉を贈りしが、源六の貪欲暑に至りては味損じ腐れる故、源六方より、「魚肉を贈る事を止めて料物すべし。此方にて勝手に求めん」といへるにぞ、近年金子にて毎間に贈れるやうになる此肴代も、「金子入用なれば当年の分を一所に受取らん」といへるにぞ、其意に任せぬれば又間もなきに、来年の分も受取らんとて之を貪取り、又其上にも何時となく金子入用の由申来りぬるにぞ、大助も困窮し之を断れば、「公儀へ不孝を申立て勘当すべし」などいひぬる故、無理なる積りをなして金子を拵へぬる事故、自ら貧困に及びぬるやうになりしオープンアクセス NDLJP:199といふ。

又源六が後妻といへるは、源六壻源二郎の素行至つて不人柄の者にして、只さへ悪しき源六をけしかけて頻に大助を困らしむ。此者が腹に生れし娘に嫁せしめし増の名を源二郎といふ。此者源六が家の相続人なり。此者も至つて放蕩を尽し、聊か有る所の田地をも質に置き、又は他借等をも格外に致し、身の立所なしとて、借金方の者を引連れて出来り、○へたるハ誘フコト兄大助が家へへたり込み、過分の銀子を無心云ひ、後には所の庄屋と馴合ひ、庄屋同伴にて出来り、二三日も尻を居ゑて居催促をなし、大いに大助を困らせて金の工面をなさしめし事あり。之に限らず斯様の類まゝ有る事にて、弟の事なれば叱り付けて之を取合ざれば、忽ち母の機嫌を損じ。親源六へ悪様に申含めて、大いに大助を苦しましめて、己れも至つて惨く当りぬるといふ事なり。後には大助を追退けて加島屋の家督を源治郎が有とせんと、源六に勧め込みて工みぬる事など有りしといふ。此度大助が能勢へ到りしも、親源六至つて大病の由申越しぬる故、取る物も取敢ず明る日早朝に立ちて、彼地へ到りしといふ。今井は京都其外近国処々に用事有りて出で行くにぞ今井佐藤の両人能勢へ赴きし理由「幸の能き道連なれば、能勢の妙見へ参籠すべし」とて同伴し、佐藤四郎左衛門〈研屋也〉は、是も故郷鳥取へ用事有りて行きぬる故、道すがら商をなしながらに行かんと思ひ立ちぬる故、幸のよき連れなれば之も同伴して、妙見へ参るべしとて、一所に出で行きしといふ事なり。〈今井は大助と兄弟分なれども、佐藤は左程深き交りせる者に非ず。〉家を出づる迄も何の様子もなき事なりし故、能勢へ到りて後、俄に思付きしものならん。下地より其催し有りぬる程の事ならば、少しにても我が心付かざる事は、有るまじき事なるに、露計りも其気色はあらざりしと、妻が咄なれ共、一大事を思立つ程の者にして、うか妻に悟られぬるやうの事も有るまじく、只欲心を起し密に金儲せんと思ひぬる時は、尚一命を失はんとは己が心に存寄らざる事なれば、なにしに之をけどらるゝ事あらんや、覚束なき事なり。

大助が劒術・柔術の師といへるは、前に噂ありし処の能勢の者には非ず。天満会根崎新地神明より少し南にて、東側に播磨屋忠兵衛と云へる下駄屋有り。此者表名前は右の如くなれども、専ら〔秦カ〕た四郎兵衛といへる通り名なり。此者与力・オープンアクセス NDLJP:200同心など随身して、稽古をなす者多しといふ。大助も此者を師として稽古せしとなり。

前に大助・藤蔵・四郎右衛門等が最後の事を記せしが虚説なりし。大助等が最後の真相猿之助がいふを聞くに、四日三人共に上月村のはづれ野中の道にて、何れも鉄炮にて打殺さる。同人が死骸を改めに行きしは八日の事なりしが、長き箱に入れて、石灰詰にして仮覆ひして有りし〔を脱カ〕掘出し、石灰を洗ひ落して之を見せられしに、大助は咽を打抜かれ、今井は胸先を打抜かれ、佐藤は腹を打抜かれて有りしとなり。此者其此処へ出来るを待伏して、猟人共打殺せしといふ。夫より三人の死骸大坂へ引取になるといへり。大助が家筋は頼国の末孫にて、世に多田院の家来なり。猿之助にて二十五代相続すといふ事なり。親源六も此度の一件に付、村預けに仰付けられしとなり。

福島の葭屋・願教寺堀の釜屋等にて、悪事をなせし大助同腹の弟藤兵衛といへる者、其後富田にて母娘両人有りて、按摩をなして世渡りせる者の方へ養子となる。是も相変らず悪事をなすといふ。昨年大助半身不随にて病臥して一ヶ年計りも引籠りしにぞ、之が手代りに出来り暫く滞留せし内、加島屋久右衛門へ出入する処の兄が家督を奪取りて、己が物とせんと工みぬる由。又兄が衣服等をも密に盗出して、之を質に置き、又は売払などせしといふ。又源六より大助へ来れる書状、只の一度も宜しき事を申越せる事なく、悉く難渋なる事のみなれども、其書状来れる毎に之を頂かざれば開封する事なく、封切りて其状を見終りぬれば、之を紙袋に納め父の書なりとて、己れは勿論妻子等にも之を反古に遣しめず。此の如くなる故、大なる袋に六七も溜り有りしを、昨年源六夫婦連にて出来り、長々滞留のうち、母親之を髪結反古に遣ひ捨て、紙袋に昨已来の書状二袋計りも有りしを、此度の一件に付、附立の節公儀へ御取上になりしかば、此度の始末も委しく分るべき様に思はれぬと、妻が咄なりし。彼がいへる所にては、親計り悪しきやうに聞取られぬれ共、不良の心なき者のいかでか悪事に組する事のあらんや。され共父の無理なる事のみを申越しぬる書状を戴きて開封し、之を大切になして除置くに至りては、少しく人倫のオープンアクセス NDLJP:201道を弁へぬるに似たり。何分にも貧困せる処よりして、生質うまれつきの慾心を生ぜし者ならんか。何にもせよ一命を捨てゝ、事を起せる程の気象ある者とは思はれぬ事なり。いかなる事にや知り難し。

大坂よりの先手には、大坂より出張の人名平山源三郎・人見八次郎・島田亀五郎・松浦一太郎。二番手〈与力〉桑原信五郎・吉見勇三郎・久米孫三郎・旗吉田覚之丞・関弥次右衛門・寺田義四郎。

天保八酉六月朔日、勢州桑名松平越中守殿領分越後刈羽郡柏崎八万三千石、御陣屋へ、朔日の夜八つ時分表門へ火をかけ鉄炮打込み、烟の内より十人計り身には甲頭巾・小具足著し、槍・長刀・小筒等所持致し、荒浜宿の者二三十計引連れ、無二無三に切入申候。其輩には、

鷲尾甚助 是者無念流の名人にて、其名隠れなく、猛勇の者にて、越後にては摩利支天の甚助と異名取る者なり。元は会津の浪人、今は劒術の師なり、行方不知。

小関六郎 是は越後三条在小関村の者にて、鷲尾に増る一刀流の名人にて、其名国中に隠れなく、元は西国の浪人者に御座候。松岡彦之進に被討留申候。

生田よろづ是は米沢の浪人にて劒術の上手、其上強弓の名人にて、八分迄は引く人也。今は柏崎に住居致し、和学者致し居申候。乱軍の内に死す。

其外六七人の浪人は、何国の者に候哉不相分、右の内三人は海辺にて打留候。御陣屋方には、

浅手七ヶ処 岩崎台助  浅手二ケ所深手一ケ所​養生不相叶​​ 松岡彦之進​​ ​  浅手 松岡勝四郎   深手にて死生不相分 島橋助八郎・加藤才助・小林金之丞・同鉄蔵・即死 一村亦八・伊東治兵衛 藤岡鉄蔵

 右之通り珍事に候尤夜明方に相鎮る。

御代替の式次天保八酉年四月、江戸御代替に付候て、御式向如左。

一、上様今日御本丸へ御移徙に付、五つ時の御供揃にて西の丸大手御門より、内桜田御門通り御本丸御玄関へ被入。

一、御書院番所御馬印出置之、上覧有之、大広間ゟ大廊下通り被成。溜詰布衣以上御目見

一、溜詰、松平近江守・松平参河守・松平越前守・松平上総守・松平淡路守・松平大蔵大オープンアクセス NDLJP:202輔・松平兵部大輔、御譜代衆・高家詰衆・御奏者番・菊の間縁側詰・右嫡子共諸番頭・諸〔手カ〕頭・布衣以上之御役人、席々に於て御目見。

一、御一門に松平参河守等御目見御黒書院御下段、御三家方・御三卿方御対顔過ぎて、御座の間へ被入、御祝儀有之、重ねて御三家方御三卿方御対顔、御手自御熨斗鮑被之。松平参河守始め松平兵部大輔迄御目見。

一、西の丸へ御移徙大御所様、四つ時御供揃にて西の丸へ為御移徙出御、出仕の面々前条の通り御通懸、於席々に御目見有之、御書院番所へ御立寄、御馬印上覧相済み候て、大広間御駕籠台より蓮池御門通り西の丸へ被入。

一、出仕の面々於席々掃部頭、老中中務大輔御熨斗鮑出之。

一、御移徙相済み候為御歓、紀伊大納言殿・尾張大納言殿使者被差出。之於躑躅の間和泉守

一、大御台様・御台様も今日御移替有之。大御台御台様移替

一、御移徙相済み候為御祝儀、大手内桜田御門番迄面々登城、於席々水野壱岐守

一、同三日、総出仕有之。  一、掃部頭快、今日登城。

    四月三日

一、御移徙済の御祝儀御移徙相済み候為御祝儀総出仕有之、於御座の間御三家方・御三卿方御対顔、松平加賀守御目見。御手自御熨斗鮑被之。松平参河守・松平越前守・松平右近将監・松平上総介・松平左兵衛督・松平淡路守・松平大蔵大輔・松平兵部大輔御連役方溜詰、其外出仕之面々於大広間二の間の間御奏者番堀田豊前守・本多下総守

一、右同断に付いて、紀伊前大納言殿・尾張大納言より使者被出之、於躑躅之間和泉守

一、右同断に付いて、御三家方・紀伊前大納言殿・尾張大納言殿より箱肴・御樽代被出之、躑躅之間に於て謁和泉守

一、日光准后より御祝儀右同断に付、日光准后より三種二荷、同新宮二種一荷、以使差上之、於焼火のオープンアクセス NDLJP:203和泉守

一、右同断に付、万石以上の面々より箱肴・御樽代献上之。於大広間四之間堀田豊前守家来請取之

一、右同断に付、右之面々より大御所様へ箱肴・御樽代献上之。於西の丸大久保出雲守家来請取之

一、右同断に付、右之面々より大御台様へ箱肴・御樽代献上之。於坂下御門番所に本多豊前守家来請取之

    四月四日

一、日光へ御名代仰付らる日光へ廿日御名代、松平河内守・松平備中守・酒井修理大夫(〈代り〉)・酒井右京亮・大久保佐渡守(〈名代〉)・□部備中守(〈代り〉)。右被仰付旨、於芙蓉の間掃部頭老中列座、和泉申渡。

一、 御台様御広敷御用部屋書役・大御台様御待へ、鵜沢源之助。右被仰付旨出焼火間若年寄中西の丸共出座、増山河内守〔申渡脱カ〕

御小性組番頭□見甲斐守右組中御門渡の間於帝鑑之間掃部頭老中列座、和泉守申渡。若年寄中待座。

一、明五日、御代替之御礼有之。  一、中務大輔今日登城無之。

    四月五日

一、御代替御礼出仕の面々今辰の下刻御白書院へ紀伊大納言殿・尾張中納言殿・水戸宰相殿・松平加賀守・松平参河守・松平越前守、右御代替之御礼、御太刀目録を以て被上之。次参河守・越前守、御太刀目録持参申上之

井伊掃部頭・松平肥後守・松平右近将監・松平上総介・松平左兵衛督・松平摂津守・松平左京大夫・井伊玄蕃頭・酒井雅楽頭・松平淡路守・松平大蔵大輔・松平兵部大輔・酒井左衛門尉・藤堂和泉守・松平大学頭・松平下総守・松平隠岐守・松平近江守・松平播磨守・松平和泉守・水野越前守・太田備後守・松平伯耆守・脇坂中務大輔・戸田采女正、右御代替の御礼、壱人づつ御太刀目録持参申上之

松平出雲守・榊原式部大輔・真田伊豆守・小笠原伊予守、右同断。終つて大広間へオープンアクセス NDLJP:204渡御。御襖老中開之、御次之間御譜代大名外拾万石以上の内六人替寄合出礼之分、其外諸大夫・法印・法眼之医師、但奥医師狩野晴川諸役人、且西の丸并大納言様御附之面々一間に御礼申上之。畢つて入御。

一、在国有迄病気・幼少の面々、名代之以使者御太刀目録献上之、大広間へ掃部頭老中出席、御奏者番請取之

一、御代替為御祝儀大納言様へ献上之、御太刀目録出、於蘇鉄之間青山因幡守家来請取之

一、右同断、為御祝儀大御所様へ献上之、御太刀目録は西丸へ差上之

一、明六日御代替之御礼有之。  一、中務大輔快、今日登城。

    四月六日

一、今巳の上刻、御白書院へ出御。御代替之御礼

一、紀伊前大納言殿・尾張大納言殿在国に付名代之以使者、御太刀目録被上之。老中波露。

一、 松平弾正大弼、右御代替之御礼、御太刀目録持参申上之、畢つて大広間へ渡御。有馬玄蕃頭・上杉弾正大弼・松平土佐守・松平豊後守・松平安芸守・宗対馬守・佐竹右京大夫・伊達遠江守・松平出羽守・松平伊予守・出羽左京大夫・有馬上総介・松平対馬守・上杉式部大輔右同断御礼。壱人にて御太刀目録持参、於板縁に〈[#底本では直前に返り点「二」なし]〉、上之。畢つて御下段出御。襖老中開之、御次之間外拾万石以上之表高家并諸大夫、其外御番衆詰役人一同に御礼申上之、相済入御。

一、御隠居の御祝儀御隠居為御祝儀、上様・大納言様へ紀伊前大納言殿・尾張大納言殿より以使者、箱肴・御樽代被上之。於躑躅之間和泉守・中務大輔。但御代替為御祝儀、御台様へ白銀・箱肴被上之、於同席御留守居

一、御隠居為御祝儀、上様・大納言様へ万石以上之面々より以使者、箱肴・御樽代献上之、於大広間之間本多豊前守・戸田因幡守家来請取之。但松平加賀守使者、於檜之間本多出雲守

一、右同断有御祝儀、右之面々より大御台様へ、箱肴・御樽代并〈[#底本では直前に返り点「二」あり]〉御代替之御祝儀、白オープンアクセス NDLJP:205銀・箱肴献上之〔於カ〕坂下御門番所、内藤大和守家来請取之

一、右同断為御祝儀右之面々より、御台様へ同断献上之、於平川口御門番所安藤対馬守家来請取之

一、御表へ出御に付、伺御機嫌、御三家方より使者被上之。於躑躅之間和泉守

一、明七日御代替之御礼有之。

    四月七日

一、御代替の御礼今巳之上刻御白書院へ出御。煩松平牧三郎。右御代替御礼、御太刀目録持参申上之、畢つて桜の間へ立御。万石以上無官の面々並居、御礼後座之、榊原式部大輔・奥平大膳大夫・井伊右京亮家来並居、御太刀目録前へ置御礼申上候。畢つて御次之御襖障子老中開之、御敷居際立御。千人頭・江戸町年寄・江戸町総中・銀座・金座、右の者一同に平伏、過ぎて御納戸岩松満次郎御目見、畢つて入御。

一、御代替之為御祝儀、万石以上病気・幼少并隠居之面々より御太刀目録、以使者上之、於檜之間大久保出雪守

一、右同断為御祝儀右之面々より、大納言様へ御太刀目録、以使者上之、於蘇鉄之間御奏者番添番大久保玄蕃頭請取之。但大御所様之分西丸へ上る。

一、御表へ出御に付、御三家方より使者被上之、於躑躅之間和泉守

一、御代替之御祝御歓、為〔伺〈[#底本では直前に返り点「二」なし]〉脱カ〕御機嫌御三家方より使者被上之、於同席和泉守

一、御代替被済候に付、明八日紅葉山総御霊屋へ御参詣に付、御供揃五つ時と被出之

    四月八日紅葉山御霊屋へ参拝

一、御代替相済み候に付、今五つ時之御供揃にて紅葉山総御霊屋へ御参詣。

一、還御以後為御機嫌、御三家方より使者被上之、於躑躅之間和泉守

一、右同断に付、大手内桜田・西の丸大手御門番之面々登城。於席々水野壱岐守

オープンアクセス NDLJP:206一、 御御五、御使宮原摂津守。日光准后、右近々御登山に付被之、且明後日十日御登城、御対顔被在候様、被進之

一、明九日、上野一山出家中、御代替之御礼有之。

    四月九日

一、今巳の上刻御白書院へ出御。御太刀目録・巻物二十、御代替之御礼日光准后。同御太刀目録、同新宮右御対顔。三束一巻、〈山門総代〉常智院。一束一巻、〈東叡山総代〉凌雲院大僧正。同〈日光山総代〉哲城院。同〈山王別当〉観理院僧正。一束一本宛、〈兼目黒龍泉寺〉龍王院・仏頂院・〈武州仙波〉喜多院僧正・〈市ヶ谷〉自洗院。 一束一巻宛、〈深川〉覚樹王院・〈谷中天台寺住持〉護法院・〈東叡山東〉信解院・〈東叡山福聖院住持〉五仏院・〈根津権現別当〉昌泉院・〈千駄木〉世尊院・〈兼水戸〉御宮別当・〈東叡山吉祥住持〉維摩院。右御代替の御礼、壱人づつ申上之。其外出家中・山王神主樹下近江・根津権現神主伊吹左衛門・神田明神〔神主脱カ〕芝崎大隅・氷川明神別当大乗院、進物持参御礼相済、御襖開之、御次之間東叡山中遠国寺院・紅葉山道達長説・日光准后家来・東叡山目代之末人共、御礼申上之

    四月十三日

一、御移替相済み候為御祝儀、大御所様へ御膳被進、御能被仰付候に付、溜詰松平近江守・御譜代大名・高家詰衆・御奏者番・菊之間縁側詰、右嫡子ども、布衣以上の御役人、西の丸並に大納言様御附之法印法眼之医師登城、見拝被付之

一、今辰の下刻大広間へ大御所様・上様出御、御間之御襖老中開之。御次伺候之面々一同に御目見相済み候て御能始まる。

一、御能始、森川内膳正勤之。

      御能組御能

翁  三番叟   雄太郎

高砂 ​観世太夫​​ 権右衛門 ​​  萩 大名​ 九郎兵衛長右衛門 与右衛門雄太郎  六浦 ​金春大夫​​ 新之丞​​ ​ 三太郎新次郎 弥右衛門惣右衛門又六郎

長良 ​六平太​​ 源七郎​​ ​ 三助徳次郎 与五郎安兵衛  諸言 ​八右衛門​​ 栄太郎​​ ​ 忠七郎弥五郎 長次郎久五郎

      金札  御中入無

オープンアクセス NDLJP:207一、於御座之間御膳被之。鴈之間〈溜詰松平近江守。〉・柳之間〈御譜代大名臨之間詰・御奏者番菊之間縁側詰・右嫡子ども。〉菊の間、〈高家・布衣以上御役人・西丸并大納言様御附共・法印・法眼医師、〉右於席々御料理被

一、御表へ出御に付、為御機嫌御三家方より使者被上之、於柳之間小廊下越前守

    四月十五日

一、銀拾枚宛、観世太夫・金春太夫・喜多六平太。同五枚宛、金春八右衛門・観世鉄之丞。右御移替御祝儀御能相勤め候に付被之、於焼火之間に増山河内守申渡之

    四月十九日

一、御太刀下さる御座間御手自御刀〈豊後国景盛代金銭二十枚〉水野越前守、時服七増山河内守、右御移替御用相勤候に付、於御前領之。時服六土岐豊後守、右同断に付於奥拝領之、畢つて御目見。時服三長崎奉行久世伊勢守、右長崎御取締之儀、取計方行届骨折相勤候に付、被之。金三枚同戸川播磨守、時服三、​名代​​久世伊勢守​​ ​。右御目附勤役中、長崎御取締之儀立合相勤、骨折候に付被之、於芙蓉之間列座、和泉守申之。

    四月廿五日

大御所様より・大納言様より

  御刀青江吉次代金百枚   御脇指来国俊代金同断

右御隠居之為御祝儀、西丸於御座之間之。

  御刀延寿国泰一種代金七拾枚   御使松平伯耆守  紀伊大納言殿

  同備前国近景一種代金同 断   同        尾張中納言殿

  同長谷郡国信一種代金同 断   同        水戸宰相殿

  同備前国宗 一種代金五十枚   同        紀伊前大納言殿

  同三原正家 一種代金同 断   同        尾張大納言殿

  同備前国隆景一種代金同 断   同        徳川鶴千代丸殿

右御隠居之為御祝儀大御所様より被之。

  御刀大和国則長一種代金五十枚  上使永井肥前守  松平加賀守

  同備前国祐兼 同代金三十五枚  同        松平参河守

オープンアクセス NDLJP:208  同備前国光来 同代金 同断   同        松平越前守

  同備前国春光 同代金 同断   同大岡主膳正   松平上総介

  同大和国包永 同代金 同断   同永井筑前守   松平左京大夫

  同備前国則永 同代金 同断   同        酒井雅楽頭

  同備前国重則 同代金 同断   同大岡主膳正   松平肥前守

  同備前国後則光同代金 同断   同        松平因幡守

  同備前国前菊光同代金 同断   同        松平安芸守

  同大和国包則 同代金 同断   同永井紀伊守   松平淡路守

  同備前国祐光 同代金 同断   同大岡主膳正   松平大蔵大輔

  同大和国正真 同代金 同断   〔同脱カ〕       松平兵部大輔

  同若狭国金狭 同代金弐十枚   同永井肥前守   松平犬千代丸

  同豊後国長盛 同代金 同断   同大岡主膳正   松平陸奥守

  同豊後国重行 同代金拾五枚   同永井肥前守   前田亀九

  御壺壱・御煙草盆・昆布 一箱  同松平伯耆守   日光准后

  源氏物語・昆布    一箱   同        同新宮

 右御隠居之為御祝儀大御所様之。

一、右同断為御祝儀掃部頭老中・伯耆中務大輔・若年寄中永井肥前守・大岡主膳正・本多豊後守・堀田摂津守、西丸於奥御刀被之。

    京都へ御名代京都へ御名代

一、​松平讚岐守 ​​武田大膳大夫​  ​酒井左衛門尉​​横瀬駿河守​  ​松平隠岐守​​大沢修理大夫​

御使、畠山飛騨守。大御所様御使、戸田土佐守。大納言様御使、今川刑部大夫。

一、日光へ御名代、松平下総守。

公方様可御隠居候間、内府様将軍宣下等如先にて、勅辞之儀京都へ被仰進候処、今暫御在職被在候様被遊度、将亦御治世五十歳、殊に莫大之御労功に付、准三后宣下之議被仰進候得共、御隠居之儀は御訳定被遊候御事、且准三后宣下之儀被御辞退候処、将又再応被仰進、并輦宣下之儀をも被仰進度御内慮之趣候オープンアクセス NDLJP:209処、准三后東照宮にも被御辞退、御家に御例も無之御事に付、堅被御辞退仰進候得共、是亦御辞退候段、被仰進候処、公方様為御高徳、内府様将軍宣下。御同日不右大臣、直に左大臣御転任、大納言様右大将御兼任可之宣下候間、被仰進候に付、是亦御辞退も可遊候得共、御勲功被仰進候御事厚く、叡慮難黙止御領掌候間、京都へ被仰進候。此段申進候様之御意、右に付当酉九月、内府様左大臣御推任に付御参向之御方、

​御著座​​ 二条左府殿​​ ​  近衛内府殿 ​別勅使​​ 転法輪大納言殿​​ ​ ​勅使親王様御使兼​​ 徳大寺大納言殿​​ ​  日野前大納言殿 ​院使​​ 橋本大納言殿​​ ​ ​大宮使​​ 姉小路中納言殿​​ ​ ​准后使​​ 石井弾正大弼殿​​ ​ ​御衣後​​ 高倉侍従殿​​ ​  土御門陰陽頭殿 ​両扈​​ 押小路大外記殿​​ ​  壬生官務殿

  右は天奏日野殿の書付を写取り候なり。

朝覲行幸御再興之儀に付、朝覲行幸御再興の事御入用莫大之御出方にて、不容易儀には候得共、御所方并於関東も御繁栄被在目出度御時節、殊に当年は御移に付、内府様御昇進之儀被仰進、重畳御満悦之折柄に付、格別之思召を以、此節朝覲行幸御再興之儀被仰進度との御事に候間、能々御両卿被御心得候様可御示談候。尤初度之行幸之儀は、御都合次第早速被在候様被存候。年々又は折々被行候儀は、御用途出方多く人分之儀にて、於関東御入用多き御時節故、何分思召も難任御事に候間、再度行幸之儀は先其時の御催候間、無急度御両卿へ御達可申旨、年寄共ゟ申越候事。

  天保八年酉三月                松平伊豆守

      徳大寺大納言殿

      日野前大納言殿

四月二日、御四方様御入替。三日総出仕。五日・六日・七日元日之通り御祝儀并総献上。寺社御礼紅葉山御同前、〈未日限不知〉六日、御隠居様御儀献上之品々、塩鯛・昆布・するめ・御樽代金・千鯛同断。二日、内府様大手御門より内桜田御門下参橋、御玄関へ被入。虎之間御飾付、神君様御譲扇御馬印・半月小馬印

   御行列荒増

御鉄炮挺〈五十挺〉・御弓〈五十張〉・御槍筋〈五十筋〉・御持七つ道具、御行列御上洛之通。公方様御平常之御供立にて御駕御式台より、御内通り西丸へ被入。御同日、御台様・御簾中様御入オープンアクセス NDLJP:210替、大納言様は正月廿一日相済。八月頃御宣下、九月頃御転任。

      天保八酉年九月、将軍宣下・御転任・御兼任・御規式書。

    九月二日将軍宣下、御転任・御兼任。

 
 
 

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