横浜市震災誌 第三冊/第4章

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第4章 社会救済事業団体[編集]

九月一日の震災に因りて、社会事業施設の如きは殆ど全滅の悲運に遭遇し、斯業関係者をして再び起つ能わざるべしと落胆せしめたが、幸にも事業は全く此予想に反し、却って一般事業に先んじ、災厄後年一年有余にして、既にその大体を復興すことを得た。今左の各事業の被害復興に就いてその大要を述べんとす。

1 横浜孤児院[編集]

南太田町字庚耕地1459番地 震災の為め院舎五棟、百七十九坪全潰し、十三棟二百二十四坪半潰し、共損害見積高は金弐万千参百円である。院児百五十名を収容して居たが、屋舎の倒潰破損に因りて、其大半は一時他に避難せしめて置いたが、其後半潰屋舎の応急修理が出来たので、彼等は帰院せしめ、現在は七十名を算して居る。此外に里預中の者八十名、業務修習のため他に委託して有る者九十名ある。

2 菫女学校[編集]

山手町紅蘭女学校内 損害程度は全潰全焼であって、死者は合計三十六名、負傷者七名であった。損害見積高は金七万参千九百五拾円で、震災直後は焼残りたる山手外人学校の一部を借受け、此処に一時孤児を収容した。

3 私立尋常恵華学院[編集]

中村町中之丸200番地 震災のため校舎二棟(四十坪)半潰したが、其後復興準備中で、未だ事業を開始するに至らない。

4 平沼小学校[編集]

南太田町庚耕地1605番地 損害程度は校舎三教室半潰、三教室全潰、其他教員室使丁室大破損をした。共損害見積高は校舎金六千五百八拾円である。応急施設としては破損せる三教室に児童壱百六十七名を収容し、二部教授をしつつある。

5 私立尋常隣徳小学校[編集]

浅間町字鹿島675番地 損害は全潰四棟、其延坪百十九坪、破損二棟此建坪八十四坪、損害見積高は合計金壱万参千四百円である。校長木村坦乎氏が圧死したので、一時授業を中止して居たが、在籍児童の家庭は案外被害少く、従って他に移転せるものも極めて少数に過ぎないので、皆一日も早く授業を希望して居たから、震後取敢えず残存せる三教室を修繕して、十月十五日より二部教授を始めた。其後小使室児童室出入口、応接室を建直し、十二月中旬県社会課より木材および亜鉛板を支給せられ、倒潰校舎の再築および多年希望であった。児童浴場をも設置するを得た。震後開港(まま)の時は児童数二百五十名であった所、十三年四月に二百八十二名に達した。

6 警醒学校附属児童教育所[編集]

中村町1290番地 校舎三分の二即ち幼稚部は全潰し、他の三分の一即ち小学校部は半ば傾斜した。但し倒潰家屋の木材は大半掠奪せられた。損害見込高は金壱万弐千円である。震後一時事業を休止したが、其後県より木材亜鉛板等を給与せられ、板校舎を建設し、十三年月から開所した。但し小学部は廃止し、託児事業のみに従事し、名称を中村愛児園と改めた。

7 浦島保育院[編集]

神奈川町字浦島丘1600番地之1 損害程度は建物二棟延坪二百三十一坪全焼した。それが復旧費見積高は金壱万七百七拾参円参拾弐銭である。応急施設としては本県の紹介により兵庫県救護団の寄贈にて、建坪六十七坪の仮屋舎を建設することを得、十一月二十日より開所し、日々百三十余名の児童を収容していた。其後救護事務局および大震災善後会から復興資金を給与せられたので直に、院舎の再築を企画し大正十三年十月竣功した。

8 明徳学園[編集]

南太田富士見耕地1103番地 損害程度は敷地一部亀裂、建物全潰、備品類大半使用に堪えない位で、其見積価格は約一万円である。震後一時之を抛棄して在ったが、県から木材および亜鉛板を、救護事務局から多数の復興資金を下附せられたので、十三年八月園舎復旧工事に着手し、十一月落成し、同月二十六日より事業を開始した。現在夜学部生徒八十二名、裁縫部生徒十五名で、日曜学校は毎回七十名内外の出席を見るとの事である。

9 横浜保育院[編集]

久保町字大谷772 震災前は西戸部町西ノ原に居たのである。被害の程度は建物二棟七十五坪全焼したが、見積価格は金壱万壱千弐百円である。応急施設としては、本県の紹介により兵庫県救援団の寄贈に従来の建物と、同坪数のはバラックを建築することを得、十一月二十日より開所した。十二年末、出席児童数僅に三十六名に過ぎなかったが、十三年度に激増し、日々九十余名を収容するに至った。其後救護事務局および善後会より復興資金を給与されたので、院舎の再築を図り、渡邊利二郎氏より寄附された現在地に新院舎が出来上った。時に十三年十月二十六日である。

10 相沢託児園[編集]

根岸町3188番地 損害程度は二階建木造家屋五十坪全部倒潰し、木材は大半掠奪せられ、復旧工事に使用し得る分は、全体の四分の一に過ぎなかった。損害見積高は約金壱万円である。応急施設として、は、附近住民は比較的被害程度少く、従って皆彼等児童の委託を希望せるを以て、本県よ支給された材料によ近く工を興し、仮屋舎を建築し、十三年三月一日から開所し児童を収容すること百十七名である。

11 神奈川県仏教少年保護会[編集]

大岡町2321番地 損害程度は新築中の会館全潰二十八坪、仮事務所類焼し、其損害見積高金壱万弐千五百円である。それが応急施設としては、震災後一箇月間保護児童を其家に帰らしめ、或は就職せしめ、病者は一時救護団に預け、事業復活方法に主力を注いだが、十一月上旬再築に着手し、十三年二月落成したので、新に児童相談部・教化講演部を設置し各種の講話等を開催する事になった。

12 婦人矯風会横浜支部[編集]

蓬莱町一丁目メソヂスト数会内 基督数青年会館階下の一室を借受け業務に充て居たのである。が、十二年の大震災に全焼の厄に遭ったので、現在の処へ移転した。十二年十月十五日から一箇月間、馬車道に無料休息所を設置し、茶菓子を呈した。十二月山室軍平氏を聘し、復興演説会を開き、十三年二月、基督連合会と提携し、基督青年会館に於て、二日に渉り廃娼運動に関する講演会を開催し、遊廓移転に就き請願書を知事に提出した。次いで横浜婦人連合会に加盟し、乳児保健のためミルクを配給した。

13 横浜家庭学園[編集]

保士ヶ谷町帷子2082番地 損害程度は家屋倒潰せるもの二棟、家屋傾斜甚しきもの一棟、家屋屋根および壁の破損せるもの二棟、外に家屋焼失せるもの一棟、即ち新港税関構外売店であった。其損害見積高は合計金壱万六千八百円である。応急施設としては、本県の紹介により大阪府救護団の寄贈にて仮屋舎一棟を建築し得たに依り、是を講堂・教室家族舎に使用し、全潰せる建物は一時取片づけ、半潰家屋は僅に修繕し、その儘使用して居る。十三年六月末現在の園児は六十五名である。

14 横浜訓盲院[編集]

根岸町字竹ノ丸3414番地 損害程度は、寄宿舎木造平家一棟倒潰、消毒所木造平家一棟倒潰、校舎木造二階建一棟瓦および壁落ち、柱および建具類大破損をした。器具機械等は大半破損または紛失した。損害見積高は合計金四千七百五拾円である。災後一時事業を体止して居たが、十月十五日から大型天幕二張を運動場に設置し、一を教室、一を寄宿舎に充用し、十二月一日より授業を開始した。次いで校舎百坪、寄宿舎四十四坪、其他六十一坪の再築工事に着手し、+十三年十月竣功した。

15 横浜盲人学校[編集]

根岸町字上464番地 震災前までは南吉田町字南五ッ目に居たのである。が、震災に因りて校舎および附続建物全潰全焼した。其損害見積高合計金壱万八千円程である。市内中村町の公設バラック第十三号舎の一部を借用し、十一月二十六日より辛うじて授業を開始した。其後本県から仮校舎建築材料として木材・亜鉛板を支給せられたので、仮校舎一棟の建築に着手し、翌十三年三月落成した。次いで更に文部省の恩典に依り、低利資金を借入れ、現在の所へ新築移転した。四月末日収容の生徒総数は四十名である。

16 神奈川県仏教慈徳会[編集]

根岸町201番地 損害程度は収容場一、建坪十六棟は半潰し、事務所一棟建坪四十五坪は、傾斜大破損をした。 其損害高は合計金壱千参百七拾五銭である。一時その儘に使用し、被保護者その家族およびその他の避難民を収容して居た。その後更に一般救済事務に従事しつつ事業を継続して居たが、後新に授産部を設置し、先づ活版所を経営し、本会の宣伝書その他の印刷をなすこととなり、特に収容者の就職不能なる者は此処に就職せしむる様にした。

17 修道保護会[編集]

根岸町736番地 被害程度は建物二棟総坪数三十九坪が半潰し、傾斜頗る甚しく、屋根周囲の壁総て破壊し、根本的改築するにあらざれば使用に堪えざるものとなった。その損害見積高は金六千弐百四円五拾銭である。応急施設としては庭前天幕を張り救護に努力したが、その後救護事務局から木材の配給を受けたので、直に半潰家屋に修理を加え、事務復旧を図った。即ち収容・保護・一時宿泊・職員紹介・金品給与等迄百数十件におよんだ。

18 根岸力行舎[編集]

根岸町160番地 損害程度は建物全部四棟全潰し、その損害見積高は金八千八百八拾円である。応急施設としては、約十坪の仮小屋を急設し、事務を継続した。

19 横浜基督教青年会[編集]

常盤町1丁目公園前 会館損害程度は第四階の一部を除く外・窓・漆喰および銃器・器具・図書・書類等全部焼失し、その他隣地に所有せる附属日本建家屋四棟全焼した。其損害見積高は約拾万円である。応急施設としては残存せる部分をその儘使用し、職員および臨時委員を設け、罹災市民のため救護事務に従事した。その後は四階に外人宿泊所を設け、次いで会同を失える数会に礼拝堂に提供し、或は大音楽会・大園芸会等を開いて、市民慰安の道を講じ、或は教育部を復興し、或は市内数会と連合事業に着手し、警察官・消防員のために慰安会を催し、市民の知的向上を図らんとして、市民大学講座を開設した。

20 横浜基督教女子青年会[編集]

太田町6丁目104番地 本町六丁目八十四番地に会館を置き、北仲通五丁目に日本婦人寄宿舎を設け、山手五十五番に外国婦人寄宿舎を置いて在ったが、震災に因りて皆焼失し、本牧町字原休養所は全潰した。その損害見積高は金参万円である。震災後は基督数青年会の焼失残存せる二階の一部を借受け、事業を継続し、次いで太田町五丁目の天幕内に仮事務所を設け、罹災市民救済のため努力して居たが、又同時に横浜連合婦人会および神奈川県乳児保護協会事務所を併置し、罹災民救助・乳児保護のため活動した。又新山下町に小規模の婦女子および児童向の隣保事業を開始した。十三年三月末、現在の地に仮会館を建築したので、直に教育部および宗教部を開始した。次いで本牧町字八王子に一家を借受け、職業婦人および一般婦人のために休養所および水泳所に充てしめた。

21 寿保育園[編集]

寿町2丁目85番地 横浜パフチスト教会の附属事業として、初め幼稚園を開く目的にて、階下に之が適当の施設を為したが、まだ開園に至らず、全焼の厄に遭うた。併し幸に建物の外廓だけ残存したので、内部に修理を加え、十三年四月更めて此所に託児所を開いた。

22 愛国婦人会神奈川支部児童健康相談所[編集]

伊勢町2丁目14番地 赤十字社神奈川県支部事務所内の一部を借用して開いて居たのである。が、震災の為に全焼に遭い、その後は未だ開所に至ない。

23 横浜社会館[編集]

表高嶋町甲35番ノ2 震災の際、館内の一部約三百坪焼失したが、大部分は類焼を免かれたので、そのまま全部を震災救護事務局に貸与した。同局では大阪医科大学救護班・陸軍警備隊救護班・廣嶋救護班・満鉄救護班・神奈川県救護班を配置せられたが、十二月に全部廃止し、十三年一月から平常通りの事業に復した。

24 神奈川県動物愛護会[編集]

神奈川県庁内 震災のため一時忘却されたかの感があったが、本年六月から再び事業を開始し、取敢えず水槽十七箇を市内の要所に配置し、牛馬に飲用水を供給し、又日覆千八百枚および蹄油二十五缶を牛馬所有者に分配した。

25 横浜仏教講話会[編集]

野毛町4丁目185白石方 宮川町二丁目に仏堂公会堂を有し、会員千余名を有して居たが、震災に全焼し、創立者加賀美貞悦氏も不幸焼死したので、会堂はまだ再建に至らず。然し講話会は災後直に復旧し開催して居る。

関連項目[編集]