↑前年 隱公八年(紀元前715年) 翌年↓ < 巻の一 隱公 < 春秋左氏傳
【經】 八年、春、宋公・衞侯、垂に遇ふ。三月、鄭伯、宛をして來りて祊を歸らしむ。庚寅、我、祊に入る。夏、六月己亥、蔡侯考父卒す。辛亥、宿男卒す。秋、七月庚午、宋公・齊侯・衞侯、瓦屋に盟ふ。八月、蔡の宣公を葬る。九月辛卯、公、莒人と浮來に盟ふ。螟あり。冬、十有二月、無駭卒す。
【傳】 八年(周ノ桓王五年)春、 齊侯、將に宋・衞を平げんとす[1]。會期[2]あり。宋公、幣を以て衞に請ひ、先づ相見んと請ふ。衞侯、之を許す。故に犬丘[3]に遇ふ。
鄭伯、泰山の祀を釋てゝ(魯ノ)周公を祀り・泰山の祊[4]を以て許の田[5]に易へんと請ふ。三月、鄭伯、宛[6]をして來りて祊を歸らしむとは、泰山を祀らざればなり。(→桓公元年)
夏、虢公忌父、始めて周に卿士と作れり。
四月甲辰、鄭の公子忽、陳に如きて、婦嬀を逆へ、辛亥、嬀氏を以て歸り、甲寅、鄭に入る。陳の鍼子[7]、女を送る。先づ配[8]して後に祖[9]す。鍼子曰く、『是れ夫婦たらじ。其祖を誣ひたり。禮に非ざるなり[10]。何ぞ以て能く育[11]せん』と。
齊人、卒に宋と衞とを鄭に平がす。秋、温[12]に會し、瓦屋[13]に盟ひ、以て(隱公四年→)東門の役(ノ恨)を釋く。禮なり。
八月丙戌、鄭伯、齊人を以て王に朝す。禮なり。
公、莒人と浮來[14]に盟ふは、以て(隱公二年→)紀の好を成すなり。
冬、齊侯、來りて三國を成げしを告げしむ。公、衆仲をして對へしめて曰く、『君、三國の圖を釋てゝ以て其民を鳩んずる[15]は、君が惠なり。寡君、命を聞けり。敢て君の明德を承受せざらんや』と。
無駭卒す。羽父[16]、諡と族とを請ふ。公[17]、族を衆仲に問ふ。衆仲、對へて曰く、『天子は德を建て、生ずるところに因りて以て姓を賜ひ、之に土を胙いて之に氏を命ず[18]。諸侯は字を以て、諡を爲り、因りて以て族と爲す[19]。官、世功あれば、則ち官族あり。邑も亦た之の如し[20]』と。公、命ずるに字を以てし展氏[21]と爲す、
- ↑ 齊侯、本と宋衞鄭三國を平げんと欲す。是の時、宋衞亦た甚だ睦しからず、故に先づ二國を平ぐる也。
- ↑ 會する期日定まりたる也。
- ↑ 犬丘は即ち垂。
- ↑ 祊は鄭の泰山を助祭する湯沐の邑なり。
- ↑ 許の田は、魯の邑にして、許に近き地。周公の別廟立てり。
- ↑ 鄭の大夫。
- ↑ 陳の大夫。
- ↑ 配は婚禮を行ふ也。
- ↑ 祖は婦至りしことを祖廟に告ぐる也。
- ↑ 婦を逆ふるには、先づ必ず祖廟に告げて、後に行ふべきは、禮なり。
- ↑ 育は子孫を育する也。
- ↑ 温は地名。
- ↑ 瓦屋は地名。
- ↑ 紀の邑。
- ↑ 三國互に相謀ることを弭めしめて、以て其人民を安集す。
- ↑ 公子翬。
- ↑ 公は魯公。
- ↑ 天子は有德の人を立てゝ以て諸侯と爲し、其の生るゝ所の地に因りて、以て姓を賜ひ、之に報ゆるに土田を以てし、その國を以て氏と爲す。
- ↑ 諸侯は位卑ければ、卿大夫に姓を賜ふを得ず、故に死者の字を以て諡と爲し、其子、之を以て族と爲す。
- ↑ 舊官を取りて族と爲し、又は封ずる所の邑を取りて族と爲す。
- ↑ 展は無駭の字なり。