第十七 善き撒馬利亜人の譬[編集]
- 路加十章三十節より三十七節
イエス答て曰けるはある人エルサレムよりエリコに下るとき强盗に遇り 强盗その衣服を剥取て之を打擲き瀕死になして去ぬ 斯る時に或祭司この路より下しが之を見過にして行り又レビの人も此に至り進み見て同く過行り 或サマリアの人旅して此に来り之を見て憫み近よりて油と酒を其傷に沃これを裹て己が驢馬にのせ旅邸に携往て介抱せり 次日いづるとき銀二枚を出し館主に予て此人を介抱せよ費もし増ば我かへりの時爾等に償ふべしと曰り 然ば此三人のうち誰か强盗に遇し者の隣なると爾意ふや 彼いひけるは其人を矜恤たる者なり イエス曰けるは爾も往て其如くせよ
- 〔註〕イエス何の故を以てこの譬を設たまふといふに一の教法師ありてイエスを試んとて如何にして永生を得べきやと問ひしにイエス答て爾が讀みし所の律法には何とありやと詰たまひしかば彼教法師は復傳律令六章五節並に利未記十九章十八節を引て對へり この教法師は律法に於て唯其文字にのみ熟するにあらず その奥義にも明なること見るべし 故にイエス爾すでに能知れり果て此に依て行はば生ことをうべし何ぞ人に問ふことをなさんやと曰たまへり かの教法師は己れの問の理あることを表さんとして問るのみにあらず何が己れの隣なるか之を知らざるに因て問るなり 教法師はその心甚だ窄く愛すること限量ありて己れの隣は善く之を待ひ己れの隣にあらざるは者は善く待はじとなせり 中華の人は必ず同姓同村のものは互に親み愛し他国異族の者は疎遠となして愛し親まず 博愛之謂仁もとより愛には限量なきを知らざるなり 苟も矜憫べきことは倶に力を竭して帮べし イエスは教法師の全く此意を明にせざるを見たまひし故に此譬を設てその心を廣めたまひしなり 此譬はユダヤの事を借て講じたまへり エルサレムはユダヤの京城にてシオン山の上にありて甚だ高き處なり エリコの城はヨルダム河の傍にありて其地至て低し 故にエルサレムよりはエリコに下るといへり 此エリコはエルサレムを離ること約七里程にて平地の沃壌なれば物産も繁庶常に庶人往来して貿易をなせどもエルサレムへの道は甚だ崎嶇して山を踰へ嶺を超へ岩徑を登行く難路なれば强盗その間に潜伏して旅客の患をなし數の人ここにて殺されしかば此處を名て血路といへり 其後にはローマの人この處に一の軍営を設て行人を保護せりとなり イエスの言たまふことは當時の實事なるか又は設て言るにや ユダヤの人此路を往て强盗に遇ひその衣を剥れ傷を負て死ぬるばかりなりしが適一の祭司とレビの人と此處をとほりて之に遇ひしかども見過にして去れり エリコには祭司およびレビの人の居住多くあり 祭司は輪班に殿に入て奉事常にこの路を往来せり モーセの例に照らして専ら殿堂を管理し天父に服事れども此輩は仁愛の心なくその行為ことモーセの律法には合ざるなり 復傳律令[1]に爾同儕の牛と驢馬と途に伏せしを見ば目を掩て視ざること勿れ必ず同儕を扶て之を起せと載せり〔二十二章四節 出埃及記二十三章五節〕蓄牲すら兄弟の物とあればかくの如く憐むべし况て兄弟は尚更の事なるに彼の祭司は之を見過して照應もせざるは其心硬にして憐ざるかまたは他人の自己も連累あらんと疑はんことを恐るるにやレビの人も見過にして去れども此レビの人は始めは憐憫の意なきにあらざれども重傷の醫しがたきを見て必ず多分の時日を費し銭財を費さずんば調治し難しと估量り されば仁愛の心は吝惜の心のために勝れ終に之を理ざるなり 唯一のサマリアの人之を看て憐み前の二人はこの盗難に遇ひし者とは兄弟なるに事に推諉て逃れ去り このサマリアの人は盗難に遇ひし者と異族なれば遁んとせば遁るべきなり且ユダヤの人は常にサマリアの人を視て仇敵となして往来せず 約翰傳にユダヤの人とサマリアの人とは交際ざるなりと云り〔四章九節〕又ユダヤの人イエスを罵て爾はサマリアの人にて鬼凴たる者なりと我等がいふは宣ならずやと曰ひ〔八章四十八節〕路加傳にもイエス使等を先に遣はしければ彼等往てイエスに備んためサマリア人の郷に入りしに郷人そのエルサレムに向ひ往さまなるが故にイエスを納れざりきとあり 其互に嫉忌て共に交際ざることを知るべし されば此サマリアの人は盗難に遇しものを見て照應せずとも怪まざるにその仇敵といふをも意とせず彼れの難儀を見て深く憐み近く跟前によりて油と酒を斟てその傷を裹て介抱なせり 途中の事なれば縦ひ布帯の預備もなく己の衣服を裂きて用んにまた惜む気色もなかりしなり且己の驢馬に乗せて旅舘にいたり慇懃に照顧をなし明日出去んとする時銀子を二銭を取て舘主に與へて曰けるは此人をよく照顧せよ多分の費もかかりなば我が返りさに爾に費を償はんとかくの如く時日を躭擱し銭財を破費し人に疑を受け自己の累及になるをも顧ず只管憐恤の心専なり 所謂己れの如く人を愛するとは是れなり イエス教法師に爾の意この三人の中孰れか盗に遇ふものの隣なるやとあれば答て矜憫の者是れなりと云ひしかど事のさまを以ていわば本来祭司とレビの人とは盗に遇ふものの隣なり サマリアの人は彼は同縣にもあらず同族にもあらざれば隣とはなしがたし 心を以ていへば祭司とレビの人は同縣の隣を以て之を待はず サマリアの人よく之に待ひ己の隣に異なることなし 教法師もかく答しは彼の心にも之を明に暁れるなり 故にイエスその暁れる所に即て爾往てかくの如く行へと告たまへり 此譬の本意はイエス己の如く鄰を愛すべしと語りたまふ 此鄰をといふ字に泥むべからず 世界の人はみな己の隣なり 人々互に愛すべし 凡疾病艱難貧窮労苦あれば我之れを憐み都て益あらしむべきことは力を竭して帮助べし 必ず同じ郷里のもの而已鄰となすべからず 主の弟子たるものは只外貌の禮儀に依て天父に服事へ兄弟に愛憐なきは祭司レビ人と同じことにて假僞の弟子なり 聖書に見所の兄弟を愛せざるに安んぞよく未見ざる所の神を愛せんやと説り 我儕まさに是を以て戒めとなすべきなり 又為易き事か或は時の便利によりて適人のために為ことあるも若し稍心を労し財を費し日時を躭擱すことあれば事に推諉て之を遁るる愛心の薄き人あり 大に聖書の意に合はざるなり イエスのかくの如く行と曰たまふは我儕にこのサマリア人の事為を学しめたまふなり 己の驢馬に乗しむるは我の労苦に甘じ病ものに安を與しむるなり 明日去んとするとき己の事を舍おきて人の事を為せり 力を費し財を費に至ては言を待ざるなり 都て人に益をあたへんとするときは自己を損することあり 己に克ずんば人を愛すといふべからず
- ○以上説ところは譬の本意なり しかれども古人の説に此外一の意味ありといふ説もあれども其説は定め難し 教法師の何を以て永生を得んと問にイエス必ず福音の道を以て之に教へ救主を信じ従ひて永生を求めしめたまふべし 其意に照して解ときは(盗に遇し人)は世上の人を指し(エルサレムを離れエリコに下る)とは眞理を離て世俗に従ふを指す(盗の衣を奪ひ傷を負せて死ぬばかりになす)は魔鬼人の善性を奪ひ霊魂を害ことを指せり たとひ善性は失なふとも是非の心存するときは猶救に望みあるべし(祭司とレビ人と盗に遇し者を見て過行り)とはモーセの律法は人を救ことを得ざるを指せり パーロの若人を生しうる律法を賜はりしならば義とせらるるは必ず律法によるべしと云るは〔加拉太三章二十一節〕是その反を言て必ず救はれざることを説るなり 二人とも其重傷を見ながら顧みざるときは傷を受しものは望を絶べし 人の律法を読ていよいよ己れの罪逃れがたきことを知るに似たり 故に聖書に律法は唯罪を知らする而已とあり(サマリアの人)とはイエスを指せり イエス嘗てユダヤの人に罵られてサマリア人とせられしことあり〔約翰八章四十八節〕(サマリアの旅行して此に来る)とはイエス天国の榮を離れ世に降生たまふことを指す(油と酒とを以てその傷に沃ぎ之を裹む)とはイエスの聖霊と福音とを用て罪人を慰め心の中の病を醫すことを指す(己が驢馬に乗る)とはイエス世の人を救ひ我儕をして貧より富を得せしめ不義者は義をなすと称せらるることを得るを指す(旅舘に携行)とはイエスの我儕を導きて教會に入らしむることを指す(銀二銭を與る)とはイエスの恩を指す(舘主にこの人を介抱せよ)とはイエス信者を牧師に交託して教訓しむることを指す むかし主ペテロに対て吾羊を飼よといひたまひしは〔約翰傳末章〕即この意なり (費もし増ば我返りのとき爾に償べし)とは牧師教師の眞の道のために倍力を竭すは徒に労するにあらず イエス再び世に臨みたまふ時は必ず賞を得ることを指す 爰にまた別に一解あり イエス當時果して此意ありや否は知らざれどもかく看来れば甚だ意味ありてよく福音の道に合へり イエス限なき恩典を以て我儕をあしらへり 實に吾等の良友にてこのサマリアの人と恰似たまへり しかれども此の譬の最も緊要なることは爾行てかくの如く行へといふこの末の句にあり イエス這麼によく人を愛たまふことなれば我儕その模様を学びこの心を推廣めて同朋を愛し己に克て厚く世の人をあしらふべし 祗この意味を知れりとて道を盡したりといふべからず 書経に非知之艱行之維艱と 願はこの譬を讀ひとよく意を留よ
脚注 [編集]