新約聖書譬喩略解/第五 畑の宝に遇ふ譬
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第五 畑 の宝 に遇 ふ譬
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- 〔註〕 この
譬 の意 は乱世 に逢 て宝 を身 に懐 くことならざれば畑 の中 に埋 めおきしが日 久 しふして遂 にその埋 めし処 を見 失 ひその人 すでに死 するに及 びて愈 よ人 の知 るものなかりしが偶 農 夫 の畑 を耕 さんとて之 を鋤 きいだせることあるか或 は雨風 を経 て畑 の崩 るることありて埋 めありし宝 の微 しく露 れしを郷人 畑 の間 に往 来 するときふと意 なくこれを見 出 さば必 ずひそかにかくして人 に言 ず泥 を以 て掩 ひ覆 し恐 らくは畑 の主 之 を覚 らば定 めて己 の有 となさんに我 見 出 したりとて若 あらはに往 て取 らば必 ず彼 と紛争 を起 さんと故 にひそかに喜 びて我 家 に歸 り家 産 を賣 てこの畑 を買 ひ我物 となしてその時 意 に任せてこの宝 を取 らば亦 この虞 なしとせり ○此 譬 と上 の通條 の譬 とは相連 なりたりと雖 もまたすこしく分別 あり上 の通條 の譬 は湖 の濱 に於 てあまたの人々 に説 きたまへり この譬 におひては諸人 を散 せし後 に室 に入り弟子 に而已 説 たまへる譬 にて〔本章三十六節〕上 の通條 の譬 は眞道 の日々 に盛 なることを説 たまひ諸人 の為 にかかわりたる眞 理 を示 したまへり この譬 は天国 の福 をいかにして銘々 の一己 に得 んといふ訳 を説 たまひ おもに弟子 の為 に切要 なる譬 なり (畑 )は或人 聖書 を指 すとせり其 意 は人常 に聖書 を読 ば聖霊 その心 に感化 し彼 をして聖書 の奥 義 を暁 しめ天 の父 の鴻恩 を得 てよくイエスに帰依 しかぎりなき福 を望 ましむること農 夫 の日々 畑 を耕 し或時 たちまち至宝 を鋤出 せしが如 きなりといへり また或人 は畑 を以 て諸 の信者 を指 すとせり其 心 は眞 理 を聞 の人 は互 に時々 往 来 し集 りて天 の父 を拝 し安息日 を守 り偶爾 イエス基督 は便 天上 の眞 の神 人間 の救主 なることを醒悟 て一心 に倚 頼 し篤 く信仰 して更 に疑 はざるは郷人 の日々 に畑 に往 来 せしに偶然 宝 の露 れ出 たるを見 しが如 きなりといへるなり すべて人 一 度 聖霊 の感化 を蒙 ればその心 かならずイエスを至宝 となせり故 にペテロは爾 の信者 に於 て彼 宝 となるといへり〔彼得 前書二章七節〕夫 天 の父 の恩典 は原 無価 して施 したまへり我 儕 もまた原 無価 して之 を受 り しかるにイエス返 てその所有 を賣 て買 へといひたまへるは我 儕 すでに其 宝 たるを知 らば盡 く世 の中 の富 貴 と人間 の名誉 と親愛 と平日 誇 る所 の善功 とを棄 てしかる後 救主 の功勲 を分賜 ふなり また天国 の賞賜 を望 むべきなり イエス其 十 字架 を負 はずして我 に従 ふものは我徒 となることあたはず盡 く所有 を舍 ずんば我徒 となることあたはずといひたまへり〔路加 十四章十六節〕ポーロまた曰 く我 さきに益 となる所 のことは基督 によりて損 ありとおもへり しかのみならず我 れわが主 イエスを識 るを以 て尤 も優 れることとするが故 に萬物 を損 となす我 れ彼 のために是 輩 のすべての者 を損 せしかどこれを糞 土 の如 くおもへりと〔腓立比 書三章七節〕この譬 に(見 出 さば之 を秘 す)とあり もし私 の心 ありて盡 く己 に得 んと図 り人 に分 を欲 せざるは福音 の理 に合 はざるに似 たり福音 は廣 く人 に傳 へて己 に秘 すべからず しかるに細 に考 るときは福音 の理 に合 はざることなし イエスの秘 すと言 たまへるは其 初 め福音 をききて心中 に喜 ぶの時 を指 せり一生 かくして人 には知 らしめざるをいふにあらず人 眞道 を篤 く信 ぜば必 ずまづ一己 に獲 てしかる後 他 人 に播 すべきなり