第五 畑の宝に遇ふ譬[編集]
- 馬太十三章四十四節
又天國は畑に藏たる寳の如し 人見出ば之を秘し喜び歸りその所有を盡く賣りてその畑を買なり
- 〔註〕 この譬の意は乱世に逢て宝を身に懐くことならざれば畑の中に埋めおきしが日久しふして遂にその埋めし処を見失ひその人すでに死するに及びて愈よ人の知るものなかりしが偶農夫の畑を耕さんとて之を鋤きいだせることあるか或は雨風を経て畑の崩るることありて埋めありし宝の微しく露れしを郷人畑の間に往来するときふと意なくこれを見出さば必ずひそかにかくして人に言ず泥を以て掩ひ覆し恐らくは畑の主之を覚らば定めて己の有となさんに我見出したりとて若あらはに往て取らば必ず彼と紛争を起さんと故にひそかに喜びて我家に歸り家産を賣てこの畑を買ひ我物となしてその時意に任せてこの宝を取らば亦この虞なしとせり○此譬と上の通條の譬とは相連なりたりと雖もまたすこしく分別あり上の通條の譬は湖の濱に於てあまたの人々に説きたまへり この譬におひては諸人を散せし後に室に入り弟子に而已説たまへる譬にて〔本章三十六節〕上の通條の譬は眞道の日々に盛なることを説たまひ諸人の為にかかわりたる眞理を示したまへり この譬は天国の福をいかにして銘々の一己に得んといふ訳を説たまひ おもに弟子の為に切要なる譬なり (畑)は或人聖書を指すとせり 其意は人常に聖書を読ば聖霊その心に感化し彼をして聖書の奥義を暁しめ天の父の鴻恩を得てよくイエスに帰依しかぎりなき福を望ましむること農夫の日々畑を耕し或時たちまち至宝を鋤出せしが如きなりといへり また或人は畑を以て諸の信者を指すとせり 其心は眞理を聞の人は互に時々往来し集りて天の父を拝し安息日を守り偶爾イエス基督は便天上の眞の神人間の救主なることを醒悟て一心に倚頼し篤く信仰して更に疑はざるは郷人の日々に畑に往来せしに偶然宝の露れ出たるを見しが如きなりといへるなり すべて人一度聖霊の感化を蒙ればその心かならずイエスを至宝となせり 故にペテロは爾の信者に於て彼宝となるといへり〔彼得前書二章七節〕夫天の父の恩典は原無価して施したまへり 我儕もまた原無価して之を受り しかるにイエス返てその所有を賣て買へといひたまへるは我儕すでに其宝たるを知らば盡く世の中の富貴と人間の名誉と親愛と平日誇る所の善功とを棄てしかる後救主の功勲を分賜ふなり また天国の賞賜を望むべきなり イエス其十字架を負はずして我に従ふものは我徒となることあたはず 盡く所有を舍ずんば我徒となることあたはずといひたまへり〔路加十四章十六節〕ポーロまた曰く我さきに益となる所のことは基督によりて損ありとおもへり しかのみならず我れわが主イエスを識るを以て尤も優れることとするが故に萬物を損となす 我れ彼のために是輩のすべての者を損せしかどこれを糞土の如くおもへりと〔腓立比書三章七節〕この譬に(見出さば之を秘す)とあり もし私の心ありて盡く己に得んと図り人に分を欲せざるは福音の理に合はざるに似たり福音は廣く人に傳へて己に秘すべからず しかるに細に考るときは福音の理に合はざることなし イエスの秘すと言たまへるは其初め福音をききて心中に喜ぶの時を指せり 一生かくして人には知らしめざるをいふにあらず 人眞道を篤く信ぜば必ずまづ一己に獲てしかる後他人に播すべきなり