新約聖書譬喩略解/第二十六 富人と拉撒路の譬
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第二十六 富人 と拉撒路 の譬
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- 〔註〕
此 譬 は上 の譬 に属 せざるに似 たれども細 に考 れば一 の意味 にて貫串 り但 しその意味 較 深 によりて一 目 に暁 がたし不忠 操會者 の譬 を説 完 たまひしに法利 賽 の輩 は素 より財 を貪 る故 にその譬 を哂 りし故 にイエスまづその偽 善 を責 て人 の前 に自 ら稱 へて義 となすことは神 の深 悪 たまふことを語 たまひ〔十五章〔ママ〕[1]〕又 ユダヤの旧例 はヨハネに至 て止 りヨハネより以後 は専 ら福音 を傳 へたれば法利 賽 の輩 また律法 の権 を操 て人 の天國 に進 を阻 ること能 はざるを語 りたまひ〔十六章〔ママ〕[2]〕又 福音 の世 に行 るるは神 の律法 を廃 せしにあらざれども自然 旧例 を用 ざることを語 りたまひ〔十七章〔ママ〕[3]〕又 法利 賽 の人 はその口 には律 を守 ると雖 もその実 は律 を犯 し人 の意 に任 せてその妻 を分離 は人 に淫 を行 を教 へ十誡 を犯 すことを責 めたまへり〔十八節〕 この譬 の大意 は世上 の物 を愛 すること眞 の神 の道 を愛 するより過 たるを責 め甚 だ罪 ありと明 たまへるなり富人 の奢 と法利 賽 の貪 と其 心 同 からざるに似 たれども財 を貪 る所以 は蓄積 の豊富 を願 ひ預 め後 の奢侈 を計 ることなれば世 を愛 し戀 ふの情 は同 じことなり イエス富人 の名 を言 ず唯 貧者 の名 を顕 はしてラザロと言 たまふは天國 と世上 と同じからず世上 の富者 をば世 の人 その名 を歯頬 に掛 て言 はやし乞丐 抔 の名 は知 るもの絶 だすくなし されば世 の人 百計 を以 てその名 の顕達 を求 むれども惟 天國 は生命 の簿 ありて生時 富 貴 なりと雖 も私 慾 を専 にするものは其 名字 簿 の中 に記 されずしてみな滅 び生時 貧賤 なりと雖 も其 心 實 に悔改 るものは其 名字 簿 の中 に録 されて永 朽 ざるなり此 譬 の二人 一人 は貧 一人 は富 り都 の事 みな反 なり富者 紫袍 と細布 を衣 て文繍 鮮 なり ラザロは週身 瘡瘍 にて衣服 も体 を蔽 はず富人 は日 に宴飲 を事 として肥甘 に饜飫 りラザロは遺 たる屑 を拾 て腹 に充 んとし富人 は身体 安康 にして数 の僕 ありて事 を服行 り ラザロは患 て独 犬 の跟随 あり富人 の世 を逝 るときは多 の戚友 葬 を送 りラザロの死 せしに其 葬 を言 ざるは屍 を道 路 に暴露 なり富人 とラザロと生時 斯 の如 く反 なれば死後 に至 ても亦 反 なり ラザロの霊魂 は天國 に登 り天使 の来迎 るあり富人 は陰府 に淪 て誰 有 て問 ものなし ラザロはアブラハムに見 て其 懐 に安 坐 し富人 は身 邪魔 に近 て共 に火焔 の中 に居 れり此時 にラザロは変 て富人 となり諸 の福 駢 臻 り何事 も願 の如 くならざるなし富人 は此時 乞丐 となり水 を求 め舌 を凉 さんとすれどもそれさへ遂 難 なり抑 すべて富 貴 なるものは陰府 に落 貧賤 なるものは必 ず天國 に登 るといふにあらず昔 アブラハムは信者 の祖宗 となりたまひしが素 より富 貴 に在 せしなり聖書 に心貧 きものは福 なりと若 し身 貧 とも心貧 からざれば亦 決 して救 を得 ざるなり また此 富人 の苦痛 を受 るを思 ふに其財 を不義 よりして得 たるがためにあらず富 貴 を恃 て人 を凌 がためにあらず貧 ラザロを憐 まざるがためにあらずラザロ常 にこの富人 の門 に至 りしを観 れば彼 必 ず此 富人 より得 ることあればなり しかるにイエス此 富人 を罪 したまふは世 情 にひかされ天 父 の霊魂 を救 たまふ道 を忘 し故 なり富人 喊叫 て(父 アブラハムよ)とはユダヤの人 は毎 に己 れはアブラハムの後裔 なるを恃 みアブラハムを我父 といひ〔約翰福音八章三十九節〕心 にアブラハムの功徳 を頼 み必 ず福 を得 んと思 へるなり富人 はアブラハムを呼 で父 となせども仍 然 く苦 を受 け陰 府 の火 甚 だ熱 によりてラザロを遣 て指 の尖 を水 に浸 してその舌 を凉 さんことをアブラハムに請求 めしにアブラハム答 ていふやう爾 世 に在 しときのことを思 ふべしと すべて人 世 に在 ては利 慾 のために智 を昏 され為 せし悪 は毎 に忘 れしかど陰 府 に落 るときは良心 自 ら責 め従前 に犯 せし罪 は此時 清楚 記 されりアブラハム又 曰 やう爾 前 に諸 の福 を受 今 この苦 を受 り ラザロは前 に諸 の難 を受 今 この慰 を得 たりと (諸 の福 )とは或説 に世上 の諸物 を指 し生時 豊 なる産 を享 て今 困苦 に遇 ひ生時 艱難 に日 を度 り今 安慰 を得 るをいへりと又 或説 に(福 を受 難 を受 る)は報応 を指 しその平生 小善 ありて世 に於 てすでに賞 を受 るときはその大悪 は死 せし後 に罰 を受 く ラザロ平生 小過 あれど世上 に於 て難 を受 し故 にその大徳 は死後 に於 て榮 を受 りと此 両説 倶 に理 あり アブラハム又 曰 やう是 のみにあらず爾 と我 の間 に限 る大 なる塹 ありて彼此 往 来 すること能 はずと蓋 し天國 と陰 府 とは両 ながら相 隔 り善者 は悪人 を憐 むと雖 も往 て救 こと能 はず凡 そ救 を得 んとするものは生時 速 に悔 改 を為 すべし死 せし後 に至 てはもはや力 を為 がたし富 人 のしからば(父 よラザロを我父 の家 に遣 したまへ我 兄弟 五人あり彼 等 が此 苦 の所 に来 ざる為 にラザロを證據 に為 しめよ)といふは仁愛 ある言 に似 たり その兄弟 を救 はんと欲 するなり然 るに細 にその言 を味 はふに否 ずその心 思 へらく我 のここに落 るは世 に在 て人 の天國 と陰 府 との理 を證 す者 なし若 し人 有 て證 をなさば決 て死後 にこの罰 を受 ることをなさずと天 父 の我 をして眞 理 を聞 の機 會 あらしめたまはざるを怨 るは是 悔 改 る心 にあらざるなり アブラハム之 に答 て(モーセおよび預 言者 あれば之 に聴 べし)と是 天 父 すでに方法 を立 たまひ人 に聞 を得 せしめたまふことを指 せり旧約 書 に天國 に進 み陰 府 を避 るの方 を教 られければ再 び人 を遣 て證 據 をなさしめたまはざるなり富 人 弁 じて(然 らずもし死 より彼 等 に往者 あらば悔 改 べし)とは其 意 に耳 に聞 たるは信 じがたく目 に見 てこそ確 なるを信 ずべしとおもへるなり アブラハム復 之 を解 て曰 (もしモーセと預 言者 に聴 ずんば死 より甦 る者 ありとも其 勧 を受 ざるべし)と是 謂 は若 聖書 を信 ぜずんば縦 ひ奇跡 あるとも亦 彼 を悔改 させ難 し聖書 は奇跡 に勝 ること二 あり一 は死 より復活 とは甚 だ駭 くべき事 なり人 もし之 を見 ば必 ず魔鬼 に遇 ひその心 疑惑 ひしと思 はん况 て其 甦 の時 は暫時 にて見 る人 も幾 くなし しかれば聖書 の道 理 極 て明 に言 もみな確実 にして衆人 常 に読 て詳 に考 れば其 證 據 を得 に難 らざるに若 ざるなり二 は後来 に果 てこの事 有 しも人々 信 ぜず イエスのラザロを甦 らせしは誠 に是 死 より復活 せしことなれば正 に信 ずべきにユダヤの人 は之 を信 ぜざるのみにあらず彼 を殺 してその口 を滅 さんとせり又 イエス十 字架 に釘 られ死 せし後 三日 めに復活 たまひ世 に在 こと四 十日 の間 にて多 く見 し人 もあるにユダヤ人 はもとの如 く之 を信 ぜざるなり然 らば聖書 の世 に行 れて今 に至 り読人 をよく感悟 しめ信 じて悔改 るも都 て是 より力 を得 るに若 ざるなり ○或人 の説 に此 譬 の心 はかくの如 しと雖 も其中 にまた此 意 あり(富人 )はユダヤ人 を指 し(ラザロ)は異 族 を指 す(週身 の腫物 )は異 族 の人 の罪 を犯 し満 身 汚穢 たるを指 す(門 に置 れ)とはユダヤ人 異 族 を軽 じ自己 の教 會 に入 るを準 ざるを指 す(ラザロ アブラハムの懐 に坐 す)とは異 族 の人 の将来 に福音 を信 じ天國 に入 るを指 す(富人 アブラハムを呼 で父 となせども救 はれざる)はユダヤ人 は己 れを恃 みアブラハムの後 といひ割 禮 を受 て天 父 の選 たまふ民 となるべしとせり然 に國 亡 び教 廃 せらるることを知 らずイエスすでに在 さず弟子 も亦 散 たれば此時 に至 り福音 を信 じ天國 に入 らんと願 どもその機 會 なく悔 恨 もまた及 ばざるを指 せり イエス曾 てエルサレムに語 て曰 たまふに視 よ爾 曹 の家 は荒 地 となりて遺 れん我 爾 曹 に告 ん主 の名 に託 て来 る者 は福 なりと爾 曹 の云 んとき至 るまでは今 より我 を見 ざるべしと〔馬太二十三章末節〕イエス此 譬 を説 たまふに或 は此 意 ありたまはんか しかれども此説 は未定 がたし イエス我 儕 に常 に警醒 し此 富人 を以 て戒 となすべきを説 たまふことなれば我 儕 世上 にありて大悪 なしと雖 も専 ら世 情 に牽恋 され天情 を忘 なば死 する時 また罰 を受 べし慎 て自己 罪 なしと謂 ひ罪 を犯 すを覚 ざることなかれ