新約聖書譬喩略解/第二十七 無益の僕の譬
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第二十七 無 益 の僕 の譬
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- 〔註〕
此 譬 はイエス弟子 に教 たまふに世間 に在 ては兎 角 迷 る事 ありて他人 の信仰 を阻 ることありと語 たまひまた兄弟 おのれに罪 を得 るとも包容 にして縦 一日 に七次 罪 を得 るも赦 すべしと説 たまふを弟子 聴 て信者 となるは甚 だ難 ことなりと思 ひ恐 くは自己 軟弱 して担当 ことなりがたしと因 て主 に求 めて信徳 を加 へたまはんことを願 へり故 にイエス此 譬 を説 信者 となるは艱難 なりと雖 も勉 めて力 を盡 し急 べからず略 辛 苦 に遇 ばすなわち安慰 を求 んとするものなれば必 ず備 に諸難 を嘗 て救主 に服事 を肝要 とし又 おのれ主 に代 て力 を出 すも自己 の功労 となすべからず謙遜 て自 ら無益 の僕 と謂 べしと諭 たまへるなり すべて救主 の弟子 は救主 の吩咐 を受 ること人 の僕 となりて主人 の吩咐 を受 るが如 し眞 に信徳 あるものは天 父 に敬事 へ惰 て半 途 に廃 ることなく天 父 の賞賜 遅 しとも心 を安 じて之 を待 又 慎 て自 ら功績 に誇 ること勿 れ世上 の艱難 を遍 く歴 たりとも厳 に主 の命 に順 て行 ふべし歴代 の信者 はみな斯 の如 く行 へり或人 曰 (僕 の主 に事 るは極 て勤労 とも亦 自 ら無益 といふべし)とはユダヤ人 の天 父 に服事 るは律下 にありて恩 の下 にあらざれば厳 に誡命 を守 る而已 にては徒 に労 して益 なし故 に弟子 は信徳 を以 て神 の子 となりユダヤ人 の律法 を恃 みて神 の僕 となるを学 ぶべからずといふを指 せりと此 説 理 ありと雖 も恐 くはこの譬 の本 意 にあらず本 意 は前説 の如 く講 ずべし イエス此 譬 を以 て我 儕 に自己 の本分 を知 べきことを教 へたまへるなり我 儕 すでにイエスを稱 へて主 となすときは我 儕 は便 イエスの僕 なり辛勤 て服事 るは理 の素 よりなすべき所 なり命 を受 て辭 まざるは自己 本分 の事 なれば之 を益 ありといふべからず時 としてはイエス我 儕 を友 となし兄弟 なしたまへども是 れは彼 の恩 を以 て斯 謂 たまへるなり されば今日 すでに僕 の作 をなすべきの時機 なり安然 として偃息 べきの時 にあらず