第二十八 不義審司の譬[編集]
- 路加十八章一節より五節
イエス又人の恒に祈祷して沮喪すまじき爲に譬を彼等に語けるは或邑に神を畏ず人を敬はざる裁判人ありけるが其邑に嫠婦ありて我を我が仇より救たまへと曰て彼に至しに彼久く肯はざりしかど其後心の中に思けるは我神を畏ず人をも敬はざれど此嫠我を煩せば彼が絶ず來て我を聒さざる爲に之を救はん
- 〔註〕此譬もまた弟子に説たまへるなり 上章の二十二節より末節に至るまでを観るに末日の艱苦と仇敵のきたり攻るごとく信者の逃避ることとを謂たまへり イエスすでにその事を説完たまひて又此譬を設て弟子に難に遇し時は必ず祈祷をなして倦こと勿と教たまへり 本章の一節にその大意を見して常に祈るといふものは信者は此世にありて時として艱難と試練のあらざることなし 故に生涯祈祷の中に在て生命を保全べしと明したまへり 喩の意は邑の中に一人の審司あり報應を信ぜず天父を畏れず己の権を恃みて民の悦をも求めず人を待にも礼義なかりしがこの同じ邑に寡婦あり 固より家資にも富ざれば官司に賄賂を納るゝこともせず又戚友もなければ情願を外に求ることもならず惟一種の懇切なる心ありて恒にその冤を伸んことを願へり 審司固より彼を憐むの心なければ彼に代て理を伸ることをせざりければ寡婦恒に来て請求めその煩擾を奈何ともしがたし卒に之と冤を伸て救しとなり イエス此審司を借て天父を反形せり 謂は審司斯の如く不義なれども人の請求を允准せり况て天父は慈悲の主にましませば坐視て理たまはざることなしと喩したまへり(嫠婦)は教會を指し(仇)は魔鬼を指せり 彼得前書に謹慎め儆醒れ爾の敵なる悪魔吼る獅子の如く徧行て呑べきものを尋ぬと〔五章八節〕仇敵の寡婦を害に陥るゝは魔鬼の教會を害ことを指す 末日に此戦攻あるのみにあらず平日にもまた此の迫害あり 顕に来て窘逐のみにあらず隠にきたりて迷惑に誘んとすることあり 故にイエス祈祷の文に我を誘惑に置くなかれ我を凶悪より拯たまへと言り(久く肯ざりし)とは天父に祈祷ても即時には允准したまはざることあるを指せり 教會困苦に遇ひ或は信者艱難を受て耐忍がたく急に天父に公法を乗たまひ悪人の毒計を敗り魔鬼の権を除きたまはんことを願ども天父には早より主意ありて急にその求に応じたまはざるも罰したまふべき時至て事を行たまひ決て捨置たまふにあらず 黙示録に祭壇の下に曾て神の道のため及び其立し證のために殺されたる者どもの霊魂あるを見たり 彼等大声に呼り曰けるは聖誠の主よ何時まで地に住者どもを審判せず且之に我儕の血の報をなし給ざるや 之に曰給ひけるは彼等の如く殺されんとする其同に労ける兄弟等の数の盈るまで安んじて暫く待べし〔六章九節より十一節〕といへる如くなり またイエス其友ラザロの病を聞たまひしかど速に往て救たまはず在す處に止りたまふこと二日すでに死たるを俟て往たまひ之を甦らしたまふが如し〔約翰福音十一章一節より十六節〕また弟子ガリラヤの海中にて風浪に揺動極めて危険しときイエス速に往て救たまはず夜のすでに過半に至るを俟て海を履て之に就たまふが如し〔馬太十五章二十四節〕聖書に載する事も斯の如く速に允准たまはざることあり しかれども即時には允准したまはざれども究に必ず凖したまふ時あれば終に至るまで理ざるにあらず ただ聴者の允肯は求者の眞誠なるによれり 若懇切に求ざればその求を聴したまはざるなり 故にイエス曰たまふは神の選たまふ民は昼夜籲禱て久く之に忍たる者には神終にその冤を伸たまふと惜くは弟子の信徳軟弱して熱心するもの少く冷心なるもの多く盡く救主の吩咐に依る能はず主の再臨たまふときに至て眞の信者幾くもなし 故にイエス又曰たまふ但人の子臨時その世に於て信あるを見んやと しからば此譬の大旨は天父を篤信じ常に祈りて倦惰ざることを戒めたまへるなり 神の選たまふ民は必ず之を保護したまへば慎て祈祷のいまだ験あらざるに因て信仰を惰り救主の望に負くことなかるべし