第七 海に網を施の譬[編集]
- 馬太十三章四十七節より五十節
又天國は海に投て各様の魚をとる網の如し 既に盁れば岸に曳あげ坐てその嘉ものを器にいれ悪ものを棄るなり 世の末に於ても此の如くならん 天の使等出て義者の中より悪者を取わけ之を爐の火に投入べし其處にて哀み切歯すること有ん
- 〔註〕従来魚を海に取るものはみな必ず網を用ゆ イエスの十二使徒は多く漁師なりしゆへ網を用て譬を設たまへるは慣て暁やすきに取れり 網を施にその内に獲る所のものは漁師の得んと思ふ所のもの而已にあらず 或は貝の類或は虫の類或は食しがたき悪魚を収むることありて施たびごとに肥鮮を收て人の用に供ふることはなしがたし 網の水中にありては其内に入たるものは漁人と雖もその善悪を別ことあたはず 必ずこれを岸に曳揚て始めてよくその低昻を知り丁寧にこれを分辨べし この譬と稗子の譬とおほむね相近けれどもその中にまた異なる所あり 稗子の譬は眞と僞と混雑して人の之を分がたきことを明されたれば是は目前の事を説たまふこと多し 此譬は善悪あきらかにして揀び難きことなしとありて審判の時を説たまふこと多きなり(海)とは世界を指せり 黙示録に爾が見し水は諸民群集諸国諸舌なりといふ是れなり〔十七章十五節〕(漁人)とは使徒およびすべての傳道者を指せり イエスの使徒に我まさに爾をして人を漁せしめんとすと曰たまふ是れなり〔馬太四章十九節〕(網)とは教會を指せり 網の海中にありては得る所の魚盡くよきものを得がたしといふは教會のこの世に於ては收る所の人はいまだ盡くみな善人ばかりを收ることは成りがたきが如きなり すべて「バプテズマ」を受て教會に入るものまた同く主の晩餐を守るものおよび常に會堂にありて講義をきく者は其心は各同じからず 外貌より視れば眞の悪は分やすく僞の善は識れがたし しかれども是はよく人の耳目を欺けども神の眼をば逃るることあたはず 世の末の時に至りては陰険と奸詐は必ずみな顕れこの時信仰なかりしものは神に悦れがたし(魚の善ものは器に入るる)とあるは眞の弟子は諸族諸舌諸民諸国の中よりして神に歸することに喩へり〔黙示録五章九節〕(魚の悪ものは之を棄る)とあるは假僞の弟子は永刑を受て主の面とその勢の榮光とより逐るることに喩へり〔帖撒羅後書一章九節〕僞善者はこの世にありてはみづから大悪のものとは異なりたれば必ずそれとは類ひ同じからずと思ひしかども天上には唯永なき福と永なき刑との二ありて眞の善者と榮を同することあたはず 必ず大悪なるものと共に辱めを受ることを免れざるなり 但し此譬をかりて教會に人を收るは十分には善悪を擇ばずともよしといふべからず 漁者の網を施て悪劣物を得るは其本意にあらず 已ことを得ざるなり 教會に人を收むるもまたしかなり 本その得んとする所はみな眞の善なるものを欲すれども之を辨別しがたきは我等人の心を深く識ることを得ざれば誠にいかんともなしがたきことなり されば十分心をせめてきびしく擇を是なりとすべし
- ○以上七の譬はイエス一日の内におひて講たまふことにて第一は播種の譬 第二は稗子の譬 第三は芥種の譬 第四は酵種の譬 第五は畑の宝に遇の譬 第六は好眞珠を尋るの譬 第七は網を海に施の譬なり 細にこの譬を察るに各指す所の意異なりて統屬てはなきやうに見ゆれどもよく之を聯合て一体となしその大旨を顕はすべし 七の譬の中には事の相似たるあり 意の相連るあり 理もまた等級をなすあり 第一の譬はすべて神の国の初めて開ることを説きその餘の六の譬は分て三となすべし 第二と第七とは善悪の分辨を説き其内一は世に現在の間は善悪の分難きことを明し 一は終に至れば必ずその善悪は明に知ることを明せり 第三と第四は天國の盛なることを説其内一は天國の顕に興ることを明し 一は神の道のいつとなく廣まることを明せり 第五と第六とは至寳を得ることを説き其内一は心なくその寳に遇ふことを明し 一は其寳をわざわざ尋求ることを明せり
- ○ここに何故にその意味連るといふに七の譬は此より彼に至るまで倶に自然の連合ありて穀に眞の種ありまた僞の種あり 故に播種の後稗子をいひ農夫は穀を種へまた野菜をも種べし 故に稗子の後には芥種をいひ芥種の發生易ことは酵の發大易きが如し 故に芥種の後には酵種をいひ酵の麵に藏るるは寳の畑に藏るるが如し 故に酵種の後に畑の寳をいへり 畑に寳を藏せば海にもまた珠を藏せり 故に畑の寳の後には眞珠を海に尋ることをいふ 眞珠は海に生ずるものなれば眞珠を尋るの後は網を海に施ことをいへり この譬を第七より第一まで倒に推もまた一線に到底まで貫ぬけり○又何故に等級をなせりといふにイエス此譬を語り給ふにまづ眞理の初めて世に傳ることを説たまひ其次に僞の教並起ることを説き その次に教會の顕に興ることを説き 其次に眞道の洪大に及ぶことを説き 其次に異邦に傳り偶然この教に遇ものあるを説き 其次に信者のわざわざ尋きたることを説き 終には末日審判には善者と悪者とをたしかに分ことを説きたまへり この段々等級の正しく備りたることはイエス別に明したまはざれども此の如くに看るに極めて味あり 故に新約の註解を作すものは多く當時イエスこの意ありて説き給るなりといへり