埃及マカリイ全書/第五講話

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第五講話[編集]

<< 「ハリステアニン」とこのひとびととのあひださいおほいなり。いつしんおのれにゆうし、こころおいても、じょうかいけいしばらるれど、いつてんあいこひねがひ、ひとかれもつそのことごとくのがんぼうしょす。 >>

一、 「ハリステアニン」にはじこかいじこせいかつじょうたいとあり、さいげんおのれぞくするものあり、されどこのひとびとせいかつじょうたいさいげんかつどうことなれり。いつは「ハリステアニン」にして、いつへんするものなり、かれこれとのあひだけんかくおほいなり。けだしじゅうしゃこのしょちゅうまきれられたるむぎたるあり、さればうきことよくぼうおほいふんうんさくざつなるぶっしつてきがいねんえずげきどうするにあたり、このてんぺんていなるおもひうちにありて、ふるはるるなり。サタナたましひしんかんし、ふるひもつて、すなはちうきこともつてすべてつみあるにんげんふるはんとす。アダムらくしてかいめいやぶり、かれたいしてけんりたるあくおうぞくせしらいサタナえずゆうわくじょうらんせるおもひもつこのしょふるふて、ちゅうしょうとつせしめんとす。

二、 むぎちゅうにありて、ふるもののためにたれ、えずうちげられて、きんぽんせん、かくのごとかんあくおううきこともつてあらゆるじんるいせんりょうして、これをどうようじょうらんろうばいせしめ、すべてゆうざいなるアダムぞくえずとりこにし、これをみだし、これをとらへて、えきおもひと、きらはしきよくぼうと、じょうけんかんけいとのためたたかはしめん。ゆえにしゅしょうらいしとたいあくしゃほうすべきをげんしていへり、いはく『サタナなんぢむぎごとふるはんことをもとめたり、しかれどもわれわがちちなんぢしんきざらんことをいのれり』〔ルカ二十二の三十一、三十二〕。けだしぞうせいしゃあきらかカインにつげて、『にさまよふりゅうりしとなるべし』〔創世記四の十二〕といはれしが、ことばけっていとは、いんぜんとしてあらゆるざいにんじょうたいまたぞうとなれり、なにとなればアダムぞくかいめいやぶざいにんとなりて、このぞういんぜんおのれにけたればなり。じんるいいくせんりつとすべてのみだれてんぺんていなるおもひためまたよくぼうしゅじゅようなるかいらくためどうようせられん。このきみかみよりうまれざるもろもろのたましひなみおこして、えずちゅうせんてんせらるるむぎごとくし、にんげんおもひしゅじゅさまざまさわがし、すべてをどうようせしめ、ゆうわくにくしんかいらくいくじょうらんとをもつとらへんとするなり。

三、 さればしゅあくしゃゆうわくとそのほつするところとにしたがものカインかんあくたるものをおのれにゆうするをしょうし、かれめていへり、『なんぢはなんぢらのちちよくおこなはんとほつす、かれはじめよりさつじんしゃにしてしんじつたざりき』〔イオアン八の四十四〕。ゆえにすべてゆうざいなるアダムぞくアダムていざいいんぜんおのれにゆうし、しんぎんせんりつして、なんぢふるサタナために、ちゅうどうらんせん。いつアダムよりしてぜんにんげんじょうまんえんせり、かくのごといつあるじょうよくはいはすべてゆうざいなるにんげんとうてつして、きょうあくおうひとてんぺんていなる、ぶっしつてきなる、きょもうなる、じょうらんなるおもひもつて、あらゆるじんるいふるふをたり。たとへばいつかぜがあらゆるくさしゅとをようかんするごとく、またいつあんこくぜんにひろがるごとし、かくのごといつはりおうつみとのしんちゅうあんこくとなりて、かいもうさんれつなるかぜもつて、じょうすべてのにんげんどうようせんてんせしめん、てんぺんていなるおもひよくぼうとをもつじんしんとらへ、すべてうへよりうまれずして、『われすまひてんにあり、』〔フィリッピ三の二十〕といへるごとくおもひもつてももつてもうつらざるたましひむちもうまいぼうやみをみちみたしめんとす。

四、 しんじつなる「ハリステアニン」のいっさいにんげんたくえつするは、このてんにこそあるなれ、さればわれすでぜんぶんにいひしごとく「ハリステアニン」とひとびととのけんかくおほいなり。けだし「ハリステアニン」のさいかいとはてんじょうことふかかんがふるをもつつねめられ、せいしんしんとこれをくるとにしたがひ、えいえんさいはひちょくするにより、かれうへよりかみによりてうまるるにより、またそのじっさいのうりょくおいてはかみとなるをたまはり、おほくのちょうきゅうなるぎょうきんろうとをもつて、こうきゅうけんへいおんあんそくたつするをて、ていえきなるおもひためさんらんぜす、またなみおこさざるにより、これをもつかれよりうへにありて、しょうえつするなり、なんとなればかれさいしんちゅうふかかんがへとはハリストスへいあんかみあいとにればなり、しゅもかくのごとものろんきゅうしていひたまひしごとし、いはかれは『よりいのちうつれり』〔イオアン五の二十四〕。ゆえに「ハリステアニン」のたくえつするはがいぼうにあるにあらず、ひょうめんじょうたいにあるにあらず、おほくのひとはすべてのさいこのてんにありとなし、「ハリステアニン」はがいようぼうじょうたいとをもつそのあひだたくえつすとおもふもののごとし。しかれどもよ、かれさいもつてもかいもつてもどうし、かれにあるものはことごとくのじんるいにもおなじくこれあり、おもひわくふんらんおなじくこれあり、しんじょうどうかくらんいくおなじくこれあるなり。がいぼうと、けんと、またがいこうろうもつてもかれたくえつすといへども、こころとはうきかいけいしばられ、かみよりのあんてんじょうれいかいへいとをそのこころゆうせず、なんとなればこれをたづねずして、これをかみよりたまはるをしんぜざればなり。

五、 あたらしきぞうぶつたる「ハリステアニン」のおいことごとくのじんるいたくえつするは、かくしんすると、おもひへいあんにすると、あいと、しゅたいするてんじょうふくじゅうとにあるべし。しゅきたたまひしもじつしゅしんじたるものこれれいかいこうふくたまはらんがためなり。「ハリステアニン」にこうえいれいもいはれざるてんとみぞくせん、これろうあせゆうおほくのぎょうとをもつもとらるるなり、しかれどもにあらずかみおんちょうりてなり。それじょうおうかほるはすべてのひとこんがんするところならん。たれていきたるあらば、あるひふくそうしょくあるひはくはんこうせきれいようなるしんじゅぜんと、べんりゅうしゅしょくと、おうごうちょうなるにおいて、ただそのれいいっけんするのみなりともすべてのひとねがところなるべし。ただしんてきせいかつするものこれたかこかせざるなり、なんとなればてんぞくしてにくしんかんせざるこうえいじっちこころみ、もいはれざるかんされ、とみわけまへゆうし、ないひとによりせいかつし、しんくればなり。しかれどもしんおのれにゆうするこのひとびとためには、じょうおうことまったこうえいとをるはもっともねがところならん。けだしおうくじかくかくたるこうのもろもろのひとくじよりおほいちょうえつするほどただかれるのみなりとも、すべてのひとえいとしてこんがんするところなり。さればすべてのひとみづからこころにいはん『アゝたれこのさかえこのれいこのそうしょくとをわれにもあたふるあらばいかんぞや』と。かくのごとひとおのれとおなじくぞくするどうじょうものにして、すべきものなるも、いちそうれいいちこうえいとをもつひとがんぼうおこさしむるところものさんせんとす。

六、 しかれどもじょうおうこうえいにくぞくするひとびとためにかくのごとおほいねがはしからんにはしんせいなるせいめいしんつゆしたたりて、てんおうハリストスけるしんせいなるあいもつこころかんせられたるひとびとしんじつしんせいなるえいえんおうハリストスと、もいはれざるこうえいと、きゅうなるそうれいと、じんはかるあたはざるとみとをさらいよいよあいせん。かれハリストスまったむかひつつ、おほいなるがんぼうあいためとりことなり、しんしんにてちょくするもいはれざるこうふくとらへんをこひねがふ、ゆえにこれをもつじょういかなるにも、こうえいにも、そうれいにも、そんけいにも、おうこうとみにもへざるなり。なんとなればかれしんみょうなるかんされて、てんじょうふしせいめいそのたましひしたたればなり。ゆえにかれてんおうどくいつあいねがひ、おほいなるぼうもつかれひとりをもくぜんゆうして、かれためにはのもろもろのあいよりだつし、もろもろじょうかいけいよりとほざかるなり、ただいつがんぼうこころゆうするをて、なにものをもこれにこんぜしめざらんがためなり。

七、 しかれどもおはりはじめがつせしめ、てつせずしてもくてきいたたつし、どくいつかみけるどくいつあいゆうして、すべてをだつしたるものはなはだきんしょうなり。おほくのものちゅうしんかいしょうじ、おほくのものてんおんちょうあづかるものとなり、てんあいかんせらるれども、じょうところしゅじゅなるたたかひぎょうろうあくしゃこころみとにえたへざるなり、けだしひとにはおのおのこのおいなにものをかあいして、そのあいよりまったはなれざらんとののぞみあり、さればしゅようなるうきよくぼうたちかへりて、れつじゃくかつどうにより、あるひじこいしじゃくなるにより、あるひぞくするなにものをかあいするにより、とどまりてそのしんえんしづめり。れどもおはりいたるまでぜんせいかつおくらんとじつこころざところものは、いかなるあいをもしゅうちゃくをもあまんじておのれにけざるべく、またそのわづらはところとならざるべし、これをもつれいかいことさまたげをかざらんがためまたあとしゅんじゅんしてつひいのちをうばはれざらんがためなり。かみやくそくおほいにしてはれず、かつせつめいするあたはざるほどは、われらのためしんぼうろうおほいなるぎょうちょうきゅうこころみとをようするなり。てんこくこひねがひとけんとのぞところこうふくけいしょうなるにあらず。かれハリストスともきゅうおうたらんをねがふ、しかるにいのちみじかじつあひだおいいたまでたたかひろうこころみとをにんたいせんことをねっしんともみづからけつせざるか。しゅんでいへり、『ひともしわれしたがはんとほつせばおのれて、そのじうじかひてわれしたがへ』〔マトフェイ十六の二十四〕。またいへり、『ひともしそのふぼさいけいていまいまたおのれいのちをもにくまずば、もんとなるをず』〔ルカ十四の二十六〕。さりながらひとびとうちてんこくをうけんをこころざし、えいせいがんをねがふといへども、じこほつするままにせいかつして、ほつするところしたがものはなはだおほし、かくげんすればきょえいところものしたがふをせざるものはなはだおほし、しからばかれおのれてずしてえいせいがんとほつするはこれあたはざるなり。

八、 しゅことばしんじつなり。しゅかいめいにしたがひて、おのれまったて、およそよくぼうと、そくばくと、らくと、まんぞくおようつさんかろんじ、どくいつしゅがんぜんゆうして、そのめいおこなはんことをおほいねがところものてつせずしてしんこうせん。ゆえにもしひとじつてんこくをうけ、おのれてんとののぞみおこさずしてかれあいするとともにさらなにものをかあいし、このまんぞくまたよくぼうたのしみ、ゆうなるいしよくためくしるだけ、しゅぜんぷくあいゆうせずんば、おのおのじこゆうによりてみちうしなはん。なんぢいちれいによりてのすべてをかいすべし。すべてひとはそのなさんとほつするところことなにともてきごうなるをときとしてかいりょくによりさつることあらん、しかれどもこれにあいちゃくしてそのあいてざるがために、みづからかちゆづるなり。そのひとこころないあらそひたたかひとありて、あるひかみあいし、あるひあいするのへいきんへんちょうりょうとをしょうぜん。さればそのときひとけいていそうろんすべきやいなやをおもはじめてみづからこころはん、『われかれはん、いなはざらん。かれくちひらかん、いなひらかざらん』と。かれかみおくすれども、おのれめいをもかたまもりて、おのれてざるなり。しかれどももしたいするあいこうこころひょうりょうおいすこしくはかつならば、ただちあくなるおもひくちをもうごかしめん。ついないよりしたもつきんしゃること、たとへばひきつるもつてするごとくし、おのれめいまもらんがためはやいしにはなにきょうせいくはへずして、てきとうなることばはなたん。そののちつみたいみなぎらざらんあひだは、てきとうなることばもつきんしゃすをつづけん、さればときとしてあくなるきょうきゅうたがひくちもつそうろんするたいをしてげきしょういたらしむべく、ときとしてはひききょうこうにもいたらしめ、すみやかにせん。よ、ことなにもつはじまりて、めいあいするは、ひとじこのぞみにしたがひ、こころひょうりょうおいはかちて、いかなるおはりぐるかを。けだしひとおのれてずして、あるものあいするにより、それよりしてことごとくのてきとうしょうきたらん。

九、 おなじくまたかくはんざいあくなるもくろみとをおもふべし、あくしゅうよくぼうゆうわくにくたいたのしみとをもつのぞみへつらひ、これにかたむかしめん。かくてもろもろじゃあくなるこうかんいんとうとうたんかくめいていこうきょえいしっとたんけんおよいかなるしきけいかくなりともよびせらるるなり。あるひいっけんしたるところなるもくろみごとくなれど、めいひとびとしょうさんとのためじっこうせらるることあり、しかれどもこはかみまへにはふぎとうとうおよそのしょざいとひとしかるべし。けだしいへり、『かみねいじんほねちらさん』〔聖詠五十二の七〕。またいっけんしたるところぜんなるこうごとくなれど、これにおいあくしゃおのれきんろうをあらはさんとす、かれしゅようにして、もろもろよくぼうもつひとまんちゃくするなりひとじこのぞみにしたがひ、おのれつなところじょうにくたいあるあいによりてつみひととらふ、さればかれひとためかいけいとなり、れんとなり、ぢゅうやくとなりて、ひとあくせいにおぼらし、かつあつして、ひとそのちからやしなふてかみするをしめざるなり。ひとおいもっともあいするところのものは、ひとくるしめ、これをせんりょうして、これにそのちからをやしなふをゆるさざるなり。あくしゅうへいきんへんちょうりょうもこれにかかり、これによりてすべてのにんげんこころみられ、およじょうちゅうり、あるひやまに、あるひしゅうどういんに、あるひでんかんに、あるひこうところの「ハリステアニン」はこころみらるるなり、なんとなればじこのぞみのためとらへらるるひとは、なになりともあいはじむるや、そのあいそのものむすつけられて、はやかみまったむかはざればなり。たとへばあるものざいさんあいし、またあるものけんせいあいし、またあるものきんぎんとをあいし、あるものにんげんめいためこうはくなるちえあいし、あるものけんせいあいし、あるものめいじんしゃくとをあいし、あるものいかりふんげきとをあいせり、しかれどもこれすみやかじょうしたがふによりてあいするなり、あるものときならざるしゅうかいあいすれど、あるものときあいし、あるものはいうつらくとにぜんじつおくり、あるものえきなるりょためいざなはれ、あるものにんげんめいためきょうほうごときものとならんをあいし、あるものむいらんとをたのしみ、しゃふくためまたらんためこころつながれ、あるものこのおもんばかりふけり、あるものすいみんげんあるひわいせつだんあいす。ひとつながるるほどだいしょうかかはらず、そはひとさへぎりてそのちからやしなはしめざるなり。ひといかなるこうともゆうもつたたかはずんば、それをあいして、ひとせんりょうし、ひとくるしめ、ひとのためにかいけいとなり、そのこころかみけてかみよろこばすをさまたげ、ひとかみにつかへて、てんこくためおほいようようのものとなり、えいせいとらふるににさまたげん。

十、 れどもじつしゅむかところたましひはそのすべてのあいまったかれおよぼし、ちからあるだけじこゆうなるにんもつかれひとりにむすけらるるなり、さればこれによりおんちょうたすけもとて、みづからおのれて、ほつするところにしたがはざるべし、なんとなればわれはなれずしてわれらをいざなふあくためいつはりてしゅうせんすればなり。これにはんしてたましひおのれしゅことばまったしたがはしめ、いしのためにくするだけ、もろもろゆうけいなるかいけいよりだつして、しゅまったしたがはんとす。さればかかるあひおいてはかれたたかひろうかんなんとをたいにんするをん。けだしたましひあいするところそのものおいおのれためたすけをもまたくるしめをもん。もしおいあいするところあれば、そのものひとためしたひきところぢゅうやくまたかいけいとなりて、うへかみのぼるをゆるさざらん。しかれどももししゅと、しゅかいめいとをあいするならば、これにおいおのれためじょをもけいげんをもん、さればしゅたいするおのれあいまったまもるによりて、しゅのすべてのかいめいかれためようなるものとならん。これひとぜんうづむるなり、かくげんすればこはひとかろうして、ことごとくのたたかひことごとくのかんなんとをひとためがたからざるものとすなり、ひとかみちからもつあくしゅうちからとをへんせん、これしゅじゅさまざまなるよくぼうながあみもつたましひあみしてこれをしんたんかこまんとするものなり、かくのごとくなればもしたましひしゅあいするならば、ただちにじこしんこうおほいなるべんれいとをもつかれあみよりうばらるべく、あはせうへよりのたすけもつえいえんくにたまはらん、さればじこゆうにしたがひ、しゅたすけによりてじつにこれをあいして、えいえんせいめいはやうばはれざるべし。

十一、 さりながらおほくのものじこゆうによりてほろび、あるひうみおぼれ、あるひりょとしてうばらるるゆえんわれためじつもつめいはくしょうせんとせば、まづいへけんとするをおもふべし、いっしゃおのれすくはんとほつして、かじるや、ただちにはしりてそとで、いっさいすてて、ただおのれいのちおもんばかるをけっしんしたるによりすくはれたり、しかるにしゃしんともかぐまたなにものをからんとほつしてこれをとりあつめんがためいへりしが、そのとりあつむるあひだせいいよいよさかんになり、かれちゅうおしめてけり。このひとほろびたるはじこゆうしたがあいによる、すなはちしんほかあるものざんあいしたるによるゆえんるか。つぎにこれとどうようひとありうみうかんでげきろうおこるにさいかいするあらんに、いっしゃころもぎてたいになり、ただしんすくはんとのもつみづとうぜん、なみはるるかれは、おのいのちおもんばかるのほかなにもつてもつながれざれば、じょううかんでさんたんたるうみよりのがるるをたり、しかれどもしゃはそのあるふくたすけんとほつしてこころおもふやう、もししんともにこれをらば、これとともうかんでうみよりのがるるをん、とされどそのりしふくかれくるしめて、うみふかみおぼらせり、よ、かれしょうなるよくしんためおのれいのちおもんばからずして、ほろびたり。じこゆうによりせいとなりしをみとむるか。またしゅじんらいしゅうふうせつでんせりとおもふべし、いっしゃはこれをくや、ただちにとうほんして、すこしもちゅうちょせず、ものへずして、みちしゅっぱつせり、しかるにしゃてききたるをしんぜず、あるひしんともぶっぴんらんとほつし、このことけつしてのがるるをえんいんせり、さればよ、てききたりてかれとらへ、りょとしてぞくじんき、かしこにおいゆうとぼしきにより、またあるぶっぴんあいしたるによりりょにせられたるをるか。

十二、 しゅかいめいにしたがはず、みづからおのれてず、どくいつしゅあいせずして、えいえんきたらんとき、あまんじてうきかいけいもつおのれしばものもこれとおなじかるべし、かれりょとなりしものごとく、かくげんすればぜんこうためざいにんとなりしものの如く、おけるのあいちんできし、さんたんたるかんあくうみにおぼれ、しゅじんりょとなり、すなはちきょうあくなるしょしんためとらへられてほろびん。しかれどもしゅたいするかんぜんあいただしきをかみけいれるせいしょによりてらんとほつせば、イオフよ、かれはたとへばすべおのれにゆうしたるぢょざいさんちくしょぼくおよそのしょゆうぶつだつしたることいかなるか、またかれはすべてをだつし、はしりておのれをすくひ、かつそのながしたをさへててサタナあたへ、しゅまへことばもつてもぼうはつせず、こころもつても、くちもつても、へいらさず、かへつしゅさんようしていへり、いはく『しゅはあたへ、しゅりたまふこと、しゅほつするごとくなるべし、しゅほめあげらるべし』〔イオフ一の二十一〕。ひとかれもつむさぼりしおもおもひき、しかれどもしゅかれこころみるにおよび、イオフどくいつしゅほかなにむさぼりしもののあらざりしことあらはれたり。アウラアムもこれにおなじ、しゅかれに『くにで、しんぞくわかれ、なんぢちちいへはなれよ』〔創世記十二の一〕とめいずるや、かれはたとへばせいこくとちしんぞくふぼをすべてただちだつして、しゅことばにしたがへり。そののちかれそうぐうしたるおほくのれんゆうわくうちにありて、あるひつまをうばはれしときもあり、あるひほうじょくこうむりしときもありたれど、のすべてのあひおいどくいつかみことすぐれてあいするをしょうせり。つひおほくのねんしょたるのちかつおほいのぞみたるどくせいを、きょやくごとく、はやおのれにゆうしたるに、かみかれようきゅうするにこのけんさいするのそなへをなさんことをもつてするや、アウラアムだつぜんとしてこれをて、じつみづからおのれをもてたり。けだしどくせいこのけんさいもつかみほかなにものをもあいさざりしをしょうせり。さればかれはかくのごとじゅんして、てしならば、ましてそのざいさんて、あるひはこれをいちひんしゃわかたんことをめいぜらるるもまったくのじゅんことごとくのねっしんとをもつてこれをさん。いましゅたいしてかんぜんなるかつにんなるあいただしきをるか。

十三、 かくのごとくこれらのじんどうしゃたらんことをねがものは、かみほかなにものをもあいすべからず、ゆうにかかるときしゅたいするあいかんぜんまもところゆうようなるものかつじゅくれんなるものとしてあらはれんがためなり。ただじこゆうにしたがひ、どくいつかみつねあいして、のすべてのあいよりだつしたるものおはりいたるまでぎょうまっとうするをん。さりながらかくのごときあいかんとくして、ことごとくのかいらくよくぼうとよりとほざかり、あくしゃほうわくとをたいりょうにんたいするひとのあらはるることはなはだすくなし。これおほくのものかはしょうするとき、みづためひきらるるによるにあらずや、すなはちのもろもろのよくぼうきょうあくなるしょしんしゅじゅなるゆうとをみちみてるこんだくなるかはさひはひもののあらざるによるにあらずや。おほくのたいせんうみかくれてなみぼつするによるにあらずや、すなはちしんたんわたり、なみのまにまにゆきゆきて、へいあんみなとたつするもののあるなきがためにあらずや。これによるおほいなるしんこうと、たいりょうと、ふんとうと、にんたいと、ろうと、すべてのぜんかつかつすると、びんそくと、たいと、さいしんと、ぜんとはつねようようなり。ろうもなく、ぎょうもなく、あせながすこともなくして、てんこくをうけんとほつするものはなはだおほし。しかれどもこれあたはざるなり。

十四、 ひとあり、じんもといたり、しゅうかくときまたゆうさいかれためはたらきて、おのこうためようなるものをうけんをほつす、しかるにそのうちたいなるあそびこのものあり、ひとびとごとくにろうせず、またとうぜんはたらかざるなり、しかれどもかれしゃいへにありておのれろうせず、またつからさざるも、すべてのことすでしおへたるものごとくして、にんたいびんそくとをもつちからつくしてろうしたるものひとしくほうしゅうをうけんをほつす、われこれどうようなり、せいしょよんあるひじんこといたれば、そのいかかみよろこばしめ、いかかみともまたかいだんしゃとなりしかをるべく、あるひはすべてれつこといたれば、そのいかかみともとなりまたどうしゃとなりしをるべく、またかんなんいくばくにんたいし、かみのためにいくばくをうけ、ごうゆうなるおこなひぎょうとをいくばくなしげたるをるあらんに、そのときかれそんそうさんして、かれどうとうたまものかちとをうけんとほつし、かれろうぎょうゆうしょうかんなんとはこれをそくかくし、かれこうえいなるたまものんことをこのんでねがひ、またかれかみよりけたるめいそんとをんことをねっしんねがへども、かれはいろうぎょうとはこれをおのれにになはざるなり。さりながらなんぢげん、およそひとのすべてをねがかつこんがんす、かんいんしゃぜいふぎなるひとびとろうぎょうとなしにかくようてんこくんをほつするなり。さればゆうわくおほくのこころみとかんなんせんとうあせながすことのぜんよこたはるあるは、これがためにして、すべてゆうなるいしにより、ぜんりょくもつて、いたるまでどくいつしゅじつあいして、しゅたいするかくのごときのあいによりおのれためなんねがところのものもはやあらざることのけんぜんとしてあらはれんためなり。これによりかれしゅごとく、おのれて、おのれきゅうよりもどくいつしゅあいして、じつてんこくらん、ゆえにそのこうしょうなるあいのためにてんこうしょうなるたまものもつしょうせらるべし。

十五、 きょやくこうえいてんこうふくせつは、ゆうしゅうかんなんにんたいしんこううちかくるること、たとへばけっかとうぜられたるむぎつぶうちにかくるるごとくなるべく、あるひきずつけられ、またかがめられて、ほうほうがれたるうちにかくるるごとくなるべし。ときふくれいこうえいひゃくばいとをゆうするもののあらはるること、しとごとくなるべし、いはく『われおほくのかんなんてんこくるべし』〔行実十四の二十二〕、またしゅもいひたまふ、『にんたいもつなんぢたましひすくへ』〔ルカ二十一の十九〕、またいふ、『にありてなんぢかんなんをうけん』〔イオアン十六の三十三〕。けだしろうべんれいけいせいおほいなるちゅうびんそくしゅもとむるにまざるとをようするは、われじょうよくぼうよりすくはれ、かいらくあらしあみながあみきょうあくなるしょしんほうくるをんがためまたしょせいじんなほこのおいて、しんあいいかなるけいせいいかなるもうれつとをもつてんたからたるをじつるをんがためなり、すなはちかれたましひおいてんこくへいとなりたるれいしんじょうちからたるをるをんがためなり。けだしふくなるしとパウェルてんたからなるしんおんちょうろんじ、またかんなんじょうなるをあらはし、あはせひとおのおのこのおいたづぬべきものともとめざるものとをしめして、ごとくいへり、いはく『けだしわれわれじょうまくやぶるるときは、われかみよりたまところすまひあり、にてつくられざるいへえいえんにしててんものなり』〔コリンフ後五の一〕。

十六、 ゆえひとおのおのふんとうし、ことごとくのとくこうおほいじょうたつして、まくんことをじんりょくすべく、かつまくこのおいてもらるべきをかくしんすべし。けだしもしわれけいたいまくやぶるるならば、われたましひるべきまくわれにあらざればなり、いふあり、『ただねがはくはたるのちにもなほはだかならざらんことを』〔同上三〕と。これいふこころしんせいなるたましひひとやすんじるべきせいしんとのたいごういつををうばはれざらんことをねがふとなり。ゆえにすべてじっさいおいても、のうりょくおいても、「ハリステアニン」たるものは、にくたいよりでて、の『にてつくられしにあらざるまく』をゆうするをかたぼうしてよろこばん、まくこれすなはちかれしんのうりょくをいふなり。さればもしけいたいてきまくやぶるるあらんも、かれおそれざるべし、なんとなればかれてんじょうれいかいまくきゅうなるこうえいすなはちふくかつおいけいたいまくをもつくりてこれをひょうようせんとするものをゆうすること、しとのいふごとくなればなり、いはく『ハリストスよりふくかつせしめしものわれうちところそのしんもつわれすべきをもかさん』〔ロマ八の十一〕またふ、『イイススいのちもわれらのすべき、にくたいあらはれんためなり』〔コリンフ後四の十一〕、『ものいのちまれんためなり』〔五の四〕。

十七、 ゆえになほこのおいても、しんこうどうとくせいかつもつて、ふくおのれにもとることをつとめん、けいたいいひしたるわれたいにしてあらはれざらんためなり、もしたいなるときは、おいわれにくたいひょうようすべきものはいつもあらざらん。けだしおのおのしんこうべんれいとにより、せいしんあづかるものとなるをたまはるのりょうにしたがひ、おいそのたいひょうようせらるればなり。こんにちたましひないほうあつめたるものはときしんたいそとにあらはれづること、たとへばふゆぎてたいようかぜえざるちからかれをあたたむるや、ようじつうちよりそとはっせいかいして、ふくごとくならん、またときおいてもろもろのやかないふところよりはっせいして、くさとこれをもついひせらるるごとくならん、しゅのいひたまへるゆり花のごとくならん、いはく『ソロモンそのえいきょくおいそのころもなほこのはなひとつおよばざりき』〔マトフェイ六の二十九〕。けだしこれみな「ハリステアニン」がふくかつおけるのひゆとなるべく、しょうようしょうとなるべし。

十八、 かくのごとおよかみあいするたましひためすなはちしんじつなる「ハリステアニン」のためにはだいいちつきたる「クサンフィク」あり、これいまいはゆるがつにして、すなはちふくかつなり。おいたいようちからにより、しょせいしゃたいいひせしむべきせいしんこうえいないよりひきいだされん、これかれれいちゅうぞうしたるこうえいなり。けだしこんにちたましひおのれにゆうするものはそのときしんたいにあらはれん。われふ、このつきすなはち年の月の首にして出埃及記十二の二〕、かればんぶつかんもたらすべく、かれひらきてたいなるいひせしむべく、かれはもろもろのどうぶつかんをもたらすべく、かれしゅうじんあひだらくくべくして、かれは「ハリステアニン」のためだいいちつきたる「クサンフィク」なり、これすなはちふくかつときにして、かれたいこんにちなほかれためみつなるもいはれざるひかりもつて、すなはちしんのうりょくもつひょうようせらるべくして、しんそのときかれふくいんしょくとなり、らくへいあんとなり、せいふくとなり、えいえんいのちとならん。けだしこんにちかれおのれにくるをたまはりししんせいしんそのときかれためてんこうめいと、れいぜんしょくとならんとす。

十九、 ゆえにわれかくじんしんかつたたかひ、すべてのかんけいおいぜんりょうなるせいかつすをじんりょくし、いまなほそのたましひないてんよりのうりょくけて、せいしんこうえいたまはらんことをぼうおほいなるにんたいとをもつつはいくばくかんようなるか、ときけいたいやぶれしのちわれせてわれせいせしむるものをゆうせんがためなり。しるしてごとし、『ただねがはくはたるのちにもなほはだかならざらんことを』、またふ、『われうちところそのしんもつてわれらのすべきからだかさん』。ふくなるモイセイかれかほおほふてひとりかれあたはざるしんこうえいもつてわれらにしょうしめせり、これすなはちじんふくかつおいせいしゃからだひょうようせらるるは、せいにしてしんなるものたましひなほこのおいてもそのないに、すなはちないひとゆうするをたまはるところこうえいもつひょうようせらるべきゆえんしめせるなり。けだしへり、『われみなあらはれたるおもてもつて(すなはちないひともつて)しゅこうえいて、そのぞうへんぜられ、こうえいよりこうえいすすむ』〔コリンフ後三の十八〕またしるしていへるごとく、モイセイは『じゅうにちじゅうぱんをもはず、みづをもまざりき』〔出埃及記三十四の二十八〕。しかれどももしれいしょくをうけざりしならば、ぱんなくしてこれだけかんぞんめいすることはからだせいためにあたはざるべくして、せいしゃたましひれいしょくいまなほえずしてかみよりうくるなり。

二十、 ゆえにふくなるモイセイしんじつなる「ハリステアニン」がふくかつおいしんいかなるこうえいいかなるしんしんたのしみとをゆうせんとするをふたつしょうもつわれしめせり、これこうえいたのしみとはいまなほみつたまはれども、ときにはそのたいにもあらはれん。けだしさきすでにいひしごとく、しょせいじんいまなほたましひゆうするところこうえいもつてそのたいいひせられててんられん、さらばそのときはやたいもつてもれいもつてもしゅともながてんこくあんそくせん。かみアダムつくりて、かれためしんたいよくつくることとりごとくしたまはざりき、しかれどもかれためせいしんよくそなたまへり、これすなはちふくかつおいしんほつするところかれげ、かれらんがためかれあたへんとするよくなり。よくいまなほしょせいじんたましひにこれをゆうするをたまはりて、かれてんちえもつようせんとす。けだし「ハリステアニン」にはかいしょくたのしみしんそうありさまとあり、ゆえにかれことごとくのじんるいよりまされり。のすべてののうりょくかれいませいしんによりてそのたましひないくるをたまはる、ゆえふくかつおいてはかれからだえいえんなるれいかいこうふくたまはりて、そのたましひいまなほじっけんもつこころみたるところこうえいにみちみたされん。

二十一、 このゆえわれかくじんふんとうし、べんれいして、あらゆるとくこうねんごろれんしゅうし、しんじてこれをしゅもとめざるべからず、ないひといまなほこうえいあづかるものとなりて、たましひしんせいとくしんするをためなり、またあくしゅうかいよりきよまるをて、ふくかつしたるわれたいそのみにくきをおほひ、これをせいせしめて、えいえんてんこくやすんぜしむるものをわれふくかつおいゆうせんためなり、なんとなればせいしょるにハリストスてんよりきたりて、およこのりたるアダムしょぞくふくかつせしめ、これをにぶわかちて、そのじこごうすなはちしんしるしゆうするものじこぞくするものとなし、よんでこれをおのれみぎたしめんとすればなり。けだしいふ『ひつじはわがこえをきかん』〔イオアン十の二十七〕、『われぞくするものり、われぞくするものまたわれる』〔同上十四〕、そのときかれからだぜんこうためしんせいなるこうえいいひせられて、かれみづからもいまなほしんちゅうゆうするれいかいこうえいにみちみたされん。かくのごとしんせいなるひかりもつしょうようせられて、てんとりられたるものは、しるしていへるごとく『しゅくうちゅうむかへ、つねしゅともり』〔フェサロニカ前四の十七かれともげんきょうおうたらん。アミン。