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埃及マカリイ全書/第五講話

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第五講話

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<< 「ハリステアニン」とこの人々ひとびととのあひだ差異さいおほいなり。いつしんおのれにゆうし、こころおいても、じょう械繋かいけいしばらるれど、いつてんあいこひねがひ、ひとかれもつそのことごとくの願望がんぼうしょす。 >>

一、 「ハリステアニン」には自己じこかい自己じこ生活せいかつ状態じょうたいとあり、さいげんおのれぞくするものあり、されどこの人々ひとびと生活せいかつ状態じょうたいさいげん活動かつどうことなれり。いつは「ハリステアニン」にして、いつへんするものなり、かれこれとのあひだ懸隔けんかくおほいなり。けだし住者じゅうしゃこのしょちゅうまきれられたるむぎたるあり、さればうきこと欲望よくぼうおほい紛耘ふんうん錯雑さくざつなる物質的ぶっしつてき概念がいねんえず激動げきどうするにあたり、この転変てんぺんていなるおもひうちにありて、ふるはるるなり。サタナ霊魂たましひ震撼しんかんし、ふるひもつて、すなはちうきこともつてすべてつみある人間にんげんふるはんとす。アダムらくして誡命かいめいやぶり、かれたいしてけんりたる悪王あくおうぞくせしらいサタナえず誘惑ゆうわく擾乱じょうらんせるおもひもつこのしょふるふて、ちゅう衝突しょうとつせしめんとす。

二、 むぎちゅうにありて、ふるもののためにたれ、えずうちげられて、掀飜きんぽんせん、かくのごと奸悪かんあくおううきこともつてあらゆる人類じんるい占領せんりょうして、これを動揺どうよう擾乱じょうらん狼狽ろうばいせしめ、すべて有罪ゆうざいなるアダムぞくえずとりこにし、これをみだし、これをとらへて、えきおもひと、きらはしき慾望よくぼうと、じょうけん関係かんけいとのためたたかはしめん。ゆえにしゅ将来しょうらい使徒しとたい悪者あくしゃほうすべきをげんしていへり、いはく『サタナなんぢむぎごとふるはんことをもとめたり、しかれどもわれわがちちなんぢしんきざらんことをいのれり』〔ルカ二十二の三十一、三十二〕。けだし造成者ぞうせいしゃあきらかカインにつげて、『にさまよふりゅう離子りしとなるべし』〔創世記四の十二〕といはれしが、ことば決定けっていとは、隠然いんぜんとしてあらゆる罪人ざいにん状態じょうたいまたぞうとなれり、なにとなればアダムぞく誡命かいめいやぶ罪人ざいにんとなりて、このぞう隠然いんぜんおのれにけたればなり。人類じんるい畏懼いく戦慄せんりつとすべての擾乱みだれ転変てんぺんていなるおもひためまた欲望よくぼう種々しゅじゅようなる快楽かいらくため動揺どうようせられん。このきみかみよりうまれざるもろもろの霊魂たましひなみおこして、えずちゅう旋転せんてんせらるるむぎごとくし、人間にんげんおもひ種々しゅじゅ様々さまざまさわがし、すべてを動揺どうようせしめ、誘惑ゆうわく肉身にくしん快楽かいらく畏懼いく擾乱じょうらんとをもつとらへんとするなり。

三、 さればしゅ悪者あくしゃ誘惑ゆうわくとそのほつするところとにしたがものカイン姦悪かんあくたるものをおのれにゆうするをしょうし、かれめていへり、『なんぢはなんぢらのちちよくおこなはんとほつす、かれはじめより殺人者さつじんしゃにして真実しんじつたざりき』〔イオアン八の四十四〕。ゆえにすべて有罪ゆうざいなるアダムぞくアダム定罪ていざい隠然いんぜんおのれにゆうし、呻吟しんぎん戦慄せんりつして、なんぢふるサタナために、ちゅう動乱どうらんせん。いつアダムよりして全人間ぜんにんげんじょう蔓延まんえんせり、かくのごといつある情慾じょうよくはいはすべて有罪ゆうざいなる人間にんげん透徹とうてつして、凶悪きょうあくおうひと転変てんぺんていなる、物質的ぶっしつてきなる、虚妄きょもうなる、擾乱じょうらんなるおもひもつて、あらゆる人類じんるいふるふをたり。たとへばいつかぜがあらゆるくさしゅとを揺撼ようかんするごとく、またいつ闇黒あんこくぜんにひろがるごとし、かくのごといつはりおうつみとの心中しんちゅう闇黒あんこくとなりて、晦蒙かいもう惨烈さんれつなるかぜもつて、じょうすべての人間にんげん動揺どうよう旋転せんてんせしめん、転変てんぺんていなるおもひ欲望よくぼうとをもつ人心じんしんとらへ、すべてうへよりうまれずして、『われ居処すまひてんにあり、』〔フィリッピ三の二十〕といへるごとくおもひもつてももつてもうつらざる霊魂たましひ無智むち盲昧もうまいぼうやみをみちみたしめんとす。

四、 真実しんじつなる「ハリステアニン」の一切いっさい人間にんげん卓越たくえつするは、此点このてんにこそあるなれ、さればわれすで前文ぜんぶんにいひしごとく「ハリステアニン」と人々ひとびととの懸隔けんかくおほいなり。けだし「ハリステアニン」のさいかいとは天上てんじょうことふかかんがふるをもつつねめられ、聖神せいしんしんとこれをくるとにしたがひ、永遠えいえんさいはひちょくするにより、かれうへよりかみによりてうまるるにより、またその実際じっさい能力のうりょくおいてはかみとなるをたまはり、おほくの長久ちょうきゅうなるぎょう勤労きんろうとをもつて、恒久こうきゅうけん平穏へいおん安息あんそくたつするをて、ていえきなるおもひため散乱さんらんぜす、またなみおこさざるにより、これをもつかれよりうへにありて、勝越しょうえつするなり、なんとなればかれさい心中しんちゅうふかかんがへとはハリストス平安へいあんかみあいとにればなり、しゅもかくのごともの論及ろんきゅうしていひたまひしごとし、いはかれは『より生命いのちうつれり』〔イオアン五の二十四〕。ゆえに「ハリステアニン」の卓越たくえつするは外貌がいぼうにあるにあらず、表面ひょうめん状態じょうたいにあるにあらず、おほくのひとはすべての差異さい此点このてんにありとなし、「ハリステアニン」はがい容貌ようぼう状態じょうたいとをもつそのあひだ卓越たくえつすとおもふもののごとし。しかれどもよ、かれさいもつてもかいもつてもどうし、かれにあるものはことごとくの人類じんるいにもおなじくこれあり、おもひわく紛乱ふんらんおなじくこれあり、しん擾動じょうどう撹乱かくらん畏懼いくおなじくこれあるなり。外貌がいぼうと、けんと、またがい功労こうろうもつてもかれ卓越たくえつすといへども、こころとはうき械繋かいけいしばられ、かみよりのあん天上てんじょう霊界れいかいへいとをそのこころゆうせず、なんとなればこれをたづねずして、これをかみよりたまはるをしんぜざればなり。

五、 あたらしき造物ぞうぶつたる「ハリステアニン」のおいことごとくの人類じんるい卓越たくえつするは、革新かくしんすると、おもひ平安へいあんにすると、あいと、しゅたいする天上てんじょう服従ふくじゅうとにあるべし。しゅきたたまひしもじつしゅしんじたるものこれ霊界れいかい幸福こうふくたまはらんがためなり。「ハリステアニン」に光栄こうえいれいもいはれざるてんとみぞくせん、これろうあせゆうおほくのぎょうとをもつもとらるるなり、しかれどもにあらずかみ恩寵おんちょうりてなり。それじょうおうかほるはすべてのひと懇願こんがんするところならん。たれていきたるあらば、あるひふく粧飾そうしょくあるひ白斑はくはん紅石こうせきれいようなる真珠しんじゅぜんと、冕旒べんりゅう殊飾しゅしょくと、おうごうちょうなるにおいて、ただそのれい一見いっけんするのみなりともすべてのひとねがところなるべし。ただ神的しんてき生活せいかつするものこれたか估価こかせざるなり、なんとなればてんぞくして肉身にくしんかんせざる光栄こうえい実地じっちこころみ、もいはれざるかんされ、とみ分前わけまへゆうし、ないひとにより生活せいかつし、しんくればなり。しかれどもしんおのれにゆうするこの人々ひとびとためには、じょうおうことまった光栄こうえいとをるはもっともねがところならん。けだしおうくじ赫々かくかくたるこうのもろもろのひとくじよりおほい超越ちょうえつするほどただかれるのみなりとも、すべてのひとえいとして懇願こんがんするところなり。さればすべてのひとみづからこころにいはん『アゝたれこのさかえこのれいこの壮飾そうしょくとをわれにもあたふるあらば如何いかんぞや』と。かくのごとひとおのれとおなじくぞくする同情どうじょうものにして、すべきものなるも、いち壮麗そうれいいち光栄こうえいとをもつひと願望がんぼうおこさしむるところものさんせんとす。

六、 しかれどもじょうおう光栄こうえいにくぞくする人々ひとびとためにかくのごとおほいねがはしからんには神聖しんせいなる生命せいめいしんつゆしたたりて、てんおうハリストスける神聖しんせいなるあいもつこころかんせられたる人々ひとびと真実しんじつ信誠しんせいなる永遠えいえんおうハリストスと、もいはれざる光栄こうえいと、きゅうなる壮麗そうれいと、じんはかるあたはざるとみとをさらいよいよあいせん。かれハリストスまったむかひつつ、おほいなる願望がんぼうあいためとりことなり、心神しんしんにてちょくするもいはれざる幸福こうふくとらへんをこひねがふ、ゆえにこれをもつじょう如何いかなるにも、光栄こうえいにも、壮麗そうれいにも、尊敬そんけいにも、王公おうこうとみにもへざるなり。なんとなればかれ神妙しんみょうなるかんされて、天上てんじょう不死ふし生命せいめいそのたましひしたたればなり。ゆえにかれてんおう独一どくいつあいねがひ、おほいなるぼうもつかれひとりを目前もくぜんゆうして、かれためにはのもろもろのあいよりだつし、もろもろじょう械繋かいけいよりとほざかるなり、ただいつ願望がんぼうこころゆうするをて、何物なにものをもこれにこんぜしめざらんがためなり。

七、 しかれどもおはりはじめがつせしめ、てつせずして目的もくてきいたたつし、独一どくいつかみける独一どくいつあいゆうして、すべてをだつしたるものはなはだ僅少きんしょうなり。おほくのもの中心ちゅうしんかいしょうじ、おほくのものてん恩寵おんちょうあづかるものとなり、てんあいかんせらるれども、じょうところ種々しゅじゅなるたたかひぎょうろう悪者あくしゃこころみとに得堪えたへざるなり、けだしひとにはおのおのこのおい何物なにものをかあいして、其愛そのあいよりまったはなれざらんとののぞみあり、さればしゅようなるうき欲望よくぼう立返たちかへりて、劣弱れつじゃく活動かつどうにより、あるひ自己じこ意志いしじゃくなるにより、あるひぞくする何物なにものをかあいするにより、とどまりてその深淵しんえんしづめり。れどもおはりいたるまで善生活ぜんせいかつおくらんとじつこころざところものは、如何いかなるあいをも執着しゅうちゃくをもあまんじておのれにけざるべく、またそのわづらはところとならざるべし、これをもつ霊界れいかいことさまたげをかざらんがためまたあと逡巡しゅんじゅんしてつひ生命いのちをうばはれざらんがためなり。かみ約束やくそくおほいにしてはれず、かつ説明せつめいするあたはざるほどは、われらのためしんぼうろうおほいなるぎょう長久ちょうきゅうこころみとをようするなり。天国てんこくこひねがひとけんとのぞところ幸福こうふく軽少けいしょうなるにあらず。かれハリストスともきゅうおうたらんをねがふ、しかるに生命いのちみじかじつあひだおいいたまでたたかひろうこころみとを忍耐にんたいせんことを熱心ねっしんともみづからけつせざるか。しゅんでいへり、『ひともしわれしたがはんとほつせばおのれて、そのじう字架じかひてわれしたがへ』〔マトフェイ十六の二十四〕。またいへり、『ひともしその父母ふぼさい兄弟けいていまいまたおのれ生命いのちをもにくまずば、もんとなるをず』〔ルカ十四の二十六〕。さりながら人々ひとびとうち天国てんこくをうけんをこころざし、永生えいせいがんをねがふといへども、自己じこほつするままに生活せいかつして、ほつするところしたがものはなはだおほし、確言かくげんすれば虚栄きょえいところものしたがふをせざるものはなはだおほし、しからばかれおのれてずして永生えいせいがんとほつするはこれあたはざるなり。

八、 しゅことば真実しんじつなり。しゅ誡命かいめいにしたがひて、おのれまったて、およそ欲望よくぼうと、束縛そくばくと、らくと、満足まんぞくおよ欝散うつさんかろんじ、独一どくいつしゅ眼前がんぜんゆうして、そのめいおこなはんことをおほいねがところものてつせずして進行しんこうせん。ゆえにもしひとじつ天国てんこくをうけ、おのれてんとののぞみおこさずしてかれあいするとともにさら何物なにものをかあいし、この満足まんぞくまた欲望よくぼうたのしみ、ゆうなる意旨いしよくためくしるだけ、しゅ全幅ぜんぷくあいゆうせずんば、おのおの自己じこゆうによりてみちうしなはん。なんぢ一例いちれいによりてのすべてをかいすべし。すべてひとはそのなさんとほつするところことなにとも適合てきごうなるをときとしてかいりょくによりさつることあらん、しかれどもこれに愛着あいちゃくして其愛そのあいてざるがために、みづからかちゆづるなり。其人そのひとこころないあらそひたたかひとありて、あるひかみあいし、あるひあいするの平均へいきん偏重へんちょうりょうとをしょうぜん。されば其時そのときひと兄弟けいてい争論そうろんすべきやいなやをおもはじめてみづからこころはん、『われかれはん、いなはざらん。かれくちひらかん、いなひらかざらん』と。かれかみおくすれども、おのれめいをもかたまもりて、おのれてざるなり。しかれどももしたいするあいこうこころ秤量ひょうりょうおいすこしくはかつならば、ただちあくなるおもひくちをもうごかしめん。ついないよりしたもつ近者きんしゃること、たとへばひきつるもつてするごとくし、おのれめいまもらんがためはや意旨いしにはなに強制きょうせいくはへずして、適当てきとうなることばはなたん。其後そののちつみたいみなぎらざらんあひだは、適当てきとうなることばもつ近者きんしゃすをつづけん、さればときとしてあくなる強求きょうきゅうたがひくちもつ争論そうろんするたいをしてげきしょういたらしむべく、ときとしてはひき兇行きょうこうにもいたらしめ、すみやかにせん。よ、ことなにもつはじまりて、めいあいするは、ひと自己じこのぞみにしたがひ、こころ秤量ひょうりょうおいはかちて、如何いかなるおはりぐるかを。けだしひとおのれてずして、或物あるものあいするにより、それよりしてことごとくの適当てきとうしょうきたらん。

九、 おなじくまた各般かくはんざいあくなる始計もくろみとをおもふべし、悪習あくしゅう欲望よくぼう誘惑ゆうわく肉体にくたいたのしみとをもつのぞみへつらひ、これにかたむかしめん。かくてもろもろ邪悪じゃあくなるこう姦淫かんいん偸盗とうとう貪獲たんかく酩酊めいていこう虚栄きょえい嫉妬しっと貪権たんけんおよ如何いかなるしき計画けいかくなりとも預備よびせらるるなり。あるひ一見いっけんしたるところなる始計もくろみごとくなれど、めい人々ひとびと賞讃しょうさんとのため実行じっこうせらるることあり、しかれどもこはかみまへには不義ふぎ偸盗とうとうおよその諸罪しょざいとひとしかるべし。けだしいへり、『かみねいじんほねちらさん』〔聖詠五十二の七〕。また一見いっけんしたるところぜんなるこうごとくなれど、これにおい悪者あくしゃおのれ勤労きんろうをあらはさんとす、かれしゅようにして、もろもろ欲望よくぼうもつひと瞞着まんちゃくするなりひと自己じこのぞみにしたがひ、おのれつなところじょう肉体にくたいあるあいによりてつみひととらふ、さればかれひとため械繋かいけいとなり、れんとなり、重軛ぢゅうやくとなりて、ひと悪世あくせいにおぼらし、かつあつして、ひとそのちからやしなふてかみするをしめざるなり。ひとおいもっともあいするところのものは、ひとくるしめ、これを占領せんりょうして、これにそのちからをやしなふをゆるさざるなり。悪習あくしゅう平均へいきん偏重へんちょうりょうもこれにかかり、これによりてすべての人間にんげんこころみられ、およ城中じょうちゅうり、あるひやまに、あるひしゅう道院どういんに、あるひ田間でんかんに、あるひこうところの「ハリステアニン」はこころみらるるなり、なんとなれば自己じこのぞみのためとらへらるるひとは、なになりともあいはじむるや、そのあい其物そのものむすつけられて、はやかみまったむかはざればなり。たとへば或者あるもの財産ざいさんあいし、また或者あるもの権勢けんせいあいし、また或者あるものきんぎんとをあいし、或者あるもの人間にんげんめいため洽博こうはくなる智慧ちえあいし、或者あるもの権勢けんせいあいし、或者あるものめい人爵じんしゃくとをあいし、或者あるものいかり憤激ふんげきとをあいせり、しかれどもこれすみやかじょうしたがふによりてあいするなり、或者あるものときならざる集会しゅうかいあいすれど、或者あるもの妬忌ときあいし、或者あるもの排欝はいうつらくとに全日ぜんじつおくり、或者あるものえきなるりょためいざなはれ、或者あるもの人間にんげんめいためきょうほうごときものとならんをあいし、或者あるもの無為むいらんとをたのしみ、しゃふくためまたらんためこころつながれ、或者あるものこのおもんばかりふけり、或者あるもの睡眠すいみんげんあるひ猥褻わいせつだんあいす。ひとつながるるほど大小だいしょうかかはらず、そはひとさへぎりてそのちからやしなはしめざるなり。ひと如何いかなるこうともゆうもつたたかはずんば、それをあいして、ひと占領せんりょうし、ひとくるしめ、ひとのために械繋かいけいとなり、そのこころかみけてかみよろこばすをさまたげ、ひとかみにつかへて、天国てんこくためおほい要用ようようのものとなり、永生えいせいとらふるににさまたげん。

十、 れどもじつしゅむかところ霊魂たましひはそのすべてのあいまったかれおよぼし、ちからあるだけ自己じこゆうなるにんもつかれひとりにむすけらるるなり、さればこれにより恩寵おんちょうたすけもとて、みづからおのれて、ほつするところにしたがはざるべし、なんとなればわれはなれずしてわれらをいざなふあくためいつはりて周旋しゅうせんすればなり。これにはんして霊魂たましひおのれしゅことばまったしたがはしめ、意旨いしのためにくするだけ、もろもろ有形ゆうけいなる械繋かいけいよりだつして、しゅまったしたがはんとす。さればかかるあひおいてはかれたたかひろう患難かんなんとを耐忍たいにんするをん。けだし霊魂たましひあいするところ其物そのものおいおのれためたすけをもまたくるしめをもん。もしおいあいするところあれば、其物そのものひとためしたひきところ重軛ぢゅうやくまた械繋かいけいとなりて、うへかみのぼるをゆるさざらん。しかれどももししゅと、しゅ誡命かいめいとをあいするならば、これにおいおのれためじょをも軽減けいげんをもん、さればしゅたいするおのれあいまったまもるによりて、しゅのすべての誡命かいめいかれためようなるものとならん。これひとぜんうづむるなり、確言かくげんすればこはひとかろうして、ことごとくのたたかひことごとくの患難かんなんとをひとためがたからざるものとすなり、ひとかみちからもつ悪習あくしゅうちからとをへんせん、これ種々しゅじゅ様々さまざまなる欲望よくぼうながあみもつ霊魂たましひあみしてこれを深潭しんたんかこまんとするものなり、かくのごとくなればもし霊魂たましひしゅあいするならば、ただちに自己じこ信仰しんこうおほいなる勉励べんれいとをもつかれあみよりうばらるべく、あはせうへよりのたすけもつ永遠えいえんくにたまはらん、されば自己じこゆうにしたがひ、しゅたすけによりてじつにこれをあいして、永遠えいえん生命せいめいはやうばはれざるべし。

十一、 さりながらおほくのもの自己じこゆうによりてほろび、あるひうみおぼれ、あるひりょとしてうばらるる所以ゆえんわれためじつもつ明白めいはくしょうせんとせば、まづいへけんとするをおもふべし、一者いっしゃおのれすくはんとほつして、火事かじるや、ただちにはしりてそとで、一切いっさいすてて、ただおのれ生命いのちおもんばかるを決心けっしんしたるによりすくはれたり、しかるにしゃしんとも家具かぐまた何物なにものをからんとほつしてこれを取集とりあつめんがためいへりしが、その取集とりあつむるあひだせいいよいよさかんになり、かれちゅうおしめてけり。このひとほろびたるは自己じこゆうしたがあいによる、すなはちしんほか或物あるものざんあいしたるによる所以ゆえんるか。つぎにこれと同様どうようひとありうみうかんで激浪げきろうおこるに際会さいかいするあらんに、一者いっしゃころもぎてたいになり、ただしんすくはんとのもつみづとうぜん、なみはるるかれは、おの生命いのちおもんばかるのほかなにもつてもつながれざれば、じょううかんで惨憺さんたんたるうみよりのがるるをたり、しかれどもしゃはそのあるふくたすけんとほつしてこころおもふやう、もししんともにこれをらば、これとともうかんでうみよりのがるるをん、とされどそのりしふくかれくるしめて、うみ深処ふかみおぼらせり、よ、かれしょうなる欲心よくしんためおのれ生命いのちおもんばからずして、ほろびたり。自己じこゆうによりせいとなりしをみとむるか。またしゅじん来襲らいしゅう風説ふうせつでんせりとおもふべし、一者いっしゃはこれをくや、ただちに逃奔とうほんして、すこしも躊躇ちゅうちょせず、ものへずして、みち出発しゅっぱつせり、しかるにしゃてききたるをしんぜず、あるひしんとも物品ぶっぴんらんとほつし、此事このことけつしてのがるるを延引えんいんせり、さればよ、てききたりてかれとらへ、りょとしてぞくじんき、かしこにおいゆうとぼしきにより、またある物品ぶっぴんあいしたるによりりょにせられたるをるか。

十二、 しゅ誡命かいめいにしたがはず、みづからおのれてず、独一どくいつしゅあいせずして、永遠えいえんきたらんとき、あまんじてうき械繋かいけいもつおのれしばものもこれとおなじかるべし、かれりょとなりしものごとく、確言かくげんすれば善行ぜんこうため罪人ざいにんとなりしものの如く、おけるのあい沈溺ちんできし、惨憺さんたんたる姦悪かんあくうみにおぼれ、種人しゅじんりょとなり、すなはち凶悪きょうあくなる諸神しょしんためとらへられてほろびん。しかれどもしゅたいする完全かんぜんあいただしきをかみけいれる聖書せいしょによりてらんとほつせば、イオフよ、かれはたとへばすべおのれにゆうしたるぢょ財産ざいさんちく諸僕しょぼくおよその所有物しょゆうぶつだつしたること如何いかなるか、またかれはすべてをだつし、はしりておのれをすくひ、かつその長下ながしたをさへててサタナあたへ、しゅまへことばもつてもぼうはつせず、こころもつても、くちもつても、へいらさず、かへつしゅ讃揚さんようしていへり、いはく『しゅはあたへ、しゅりたまふこと、しゅほつするごとくなるべし、しゅ讃揚ほめあげらるべし』〔イオフ一の二十一〕。ひとかれもつむさぼりしおもおもひき、しかれどもしゅかれこころみるにおよび、イオフ独一どくいつしゅほかなにむさぼりしもののあらざりしことあらはれたり。アウラアムもこれにおなじ、しゅかれに『くにで、親族しんぞくわかれ、なんぢちちいへはなれよ』〔創世記十二の一〕とめいずるや、かれはたとへば生国せいこく土地とち親族しんぞく父母ふぼをすべてただちだつして、しゅことばにしたがへり。其後そののちかれ遭遇そうぐうしたるおほくのれん誘惑ゆうわくうちにありて、あるひつまをうばはれしときもあり、あるひほうじょくこうむりしときもありたれど、のすべてのあひおい独一どくいつかみことすぐれてあいするをしょうせり。つひおほくの年所ねんしょたるのちかつおほいのぞみたる独生どくせいを、許約きょやくごとく、はやおのれにゆうしたるに、かみかれ要求ようきゅうするにこの献祭けんさいするのそなへをなさんことをもつてするや、アウラアム脱然だつぜんとしてこれをて、じつみづからおのれをもてたり。けだし独生どくせいこの献祭けんさいもつかみほか何物なにものをもあいさざりしをしょうせり。さればかれはかくのごとじゅんして、てしならば、ましてその財産ざいさんて、あるひはこれをいち貧者ひんしゃわかたんことをめいぜらるるもまったくのじゅんことごとくの熱心ねっしんとをもつてこれをさん。いましゅたいして完全かんぜんなるかつにんなるあいただしきをるか。

十三、 かくのごとくこれらのじんどうしゃたらんことをねがものは、かみほか何物なにものをもあいすべからず、ゆうにかかるときしゅたいするあい完全かんぜんまもところ有用ゆうようなるものかつ熟錬じゅくれんなるものとしてあらはれんがためなり。ただ自己じこゆうにしたがひ、独一どくいつかみつねあいして、のすべてのあいよりだつしたるものおはりいたるまでぎょうまっとうするをん。さりながら如此かくのごときあい感得かんとくして、ことごとくの快楽かいらく欲望よくぼうとよりとほざかり、悪者あくしゃほうわくとを大量たいりょう忍耐にんたいするひとのあらはるることはなはだすくなし。これおほくのものかはしょうするとき、みづためひきらるるによるにあらずや、すなはちのもろもろの欲望よくぼう凶悪きょうあくなる諸神しょしん種々しゅじゅなるゆうとをみちみてる渾濁こんだくなるかはさひはひもののあらざるによるにあらずや。おほくの大船たいせんうみかくれてなみぼつするによるにあらずや、すなはち深潭しんたんわたり、なみのまにまにゆきゆきて、平安へいあんみなとたつするもののあるなきがためにあらずや。これによるおほいなる信仰しんこうと、大量たいりょうと、奮闘ふんとうと、忍耐にんたいと、ろうと、すべてのぜんかつかつすると、敏速びんそくと、退たいと、細心さいしんと、ぜんとはつね要用ようようなり。ろうもなく、ぎょうもなく、あせながすこともなくして、天国てんこくをうけんとほつするものはなはだおほし。しかれどもこれあたはざるなり。

十四、 ひとあり、じんもといたり、収穫しゅうかくときまたゆうさいかれためはたらきて、おのこうためようなるものをうけんをほつす、しかるに其中そのうちたいなるあそびこのものあり、人々ひとびとごとくにろうせず、また当然とうぜんはたらかざるなり、しかれどもかれしゃいへにありておのれろうせず、またつからさざるも、すべてのことすで仕終しおへたるものごとくして、忍耐にんたい敏速びんそくとをもつちからつくしてろうしたるものひとしく報酬ほうしゅうをうけんをほつす、われこれ同様どうようなり、聖書せいしょよんあるひじんこといたれば、その如何いかかみよろこばしめ、如何いかかみともまた会談者かいだんしゃとなりしかをるべく、あるひはすべてれつこといたれば、その如何いかかみともとなりまたどうしゃとなりしをるべく、また艱難かんなん幾許いくばく忍耐にんたいし、かみのために幾許いくばくをうけ、剛勇ごうゆうなるおこなひぎょうとを幾許いくばくなしげたるをるあらんに、其時そのときかれ尊崇そんそうさんして、かれ同等どうとうたまもの価値かちとをうけんとほつし、かれろうぎょう憂愁ゆうしょう艱難かんなんとはこれを束閣そくかくし、かれ光栄こうえいなるたまものんことをこのんでねがひ、またかれかみよりけたるめいそんとをんことを熱心ねっしんねがへども、かれはいろうぎょうとはこれをおのれにになはざるなり。さりながらなんぢげん、およそひとのすべてをねがかつ懇願こんがんす、姦淫者かんいんしゃぜい不義ふぎなる人々ひとびとろうぎょうとなしにかくよう天国てんこくんをほつするなり。されば誘惑ゆうわくおほくのこころみと艱難かんなん戦闘せんとうあせながすことのぜんよこたはるあるは、これがためにして、すべてゆうなる意旨いしにより、全力ぜんりょくもつて、いたるまで独一どくいつしゅじつあいして、しゅたいするかくのごときのあいによりおのれためなんねがところのものもはやあらざることの顕然けんぜんとしてあらはれんためなり。これによりかれしゅごとく、おのれて、おのれきゅうよりも独一どくいつしゅあいして、じつ天国てんこくらん、ゆえにその高尚こうしょうなるあいのためにてん高尚こうしょうなるたまものもつしょうせらるべし。

十五、 許約きょやく光栄こうえいてん幸福こうふくせつは、憂愁ゆうしゅう艱難かんなん忍耐にんたい信仰しんこううちかくるること、たとへば結果けっかとうぜられたる麦粒むぎつぶうちにかくるるごとくなるべく、あるひきずつけられ、またかがめられて、方法ほうほうがれたるうちにかくるるごとくなるべし。ときふくれい光栄こうえい百倍ひゃくばいとをゆうするもののあらはるること、使徒しとごとくなるべし、いはく『われおほくの艱難かんなん天国てんこくるべし』〔行実十四の二十二〕、またしゅもいひたまふ、『忍耐にんたいもつなんぢたましひすくへ』〔ルカ二十一の十九〕、またいふ、『にありてなんぢ患難かんなんをうけん』〔イオアン十六の三十三〕。けだしろう勉励べんれい儆醒けいせいおほいなるちゅう敏速びんそくしゅもとむるにまざるとをようするは、われじょう欲望よくぼうよりすくはれ、快楽かいらく暴風雨あらしあみ長網ながあみ凶悪きょうあくなる諸神しょしんほうくるをんがためまた諸聖人しょせいじんなほこのおいて、しんあい如何いかなる儆醒けいせい如何いかなる猛烈もうれつとをもつてんたからたるをじつるをんがためなり、すなはちかれ霊魂たましひおい天国てんこくへいとなりたる霊神れいしんじょうちからたるをるをんがためなり。けだしふくなる使徒しとパウェルてんたからなるしん恩寵おんちょうろんじ、また艱難かんなんじょうなるをあらはし、あはせひと各々おのおのこのおいたづぬべきものともとめざるものとをしめして、ごとくいへり、いはく『けだしわれわれじょうまくやぶるるときは、われかみよりたまところ居所すまひあり、にてつくられざるいへ永遠えいえんにしててんものなり』〔コリンフ後五の一〕。

十六、 ゆえひとおのおの奮闘ふんとうし、ことごとくの徳行とくこうおほい上達じょうたつして、まくんことを盡力じんりょくすべく、かつまくこのおいてもらるべきを確信かくしんすべし。けだしもしわれ形体けいたいまくやぶるるならば、われ霊魂たましひるべきまくわれにあらざればなり、いふあり、『ただねがはくはたるのちにもなほはだかならざらんことを』〔同上三〕と。これいふこころ信誠しんせいなる霊魂たましひひとやすんじるべき聖神せいしんとの体合たいごういつををうばはれざらんことをねがふとなり。ゆえにすべて実際じっさいおいても、能力のうりょくおいても、「ハリステアニン」たるものは、肉体にくたいよりでて、の『にてつくられしにあらざるまく』をゆうするをかたぼうしてよろこばん、まくこれすなはちかれしん能力のうりょくをいふなり。さればもし形体的けいたいてきまくやぶるるあらんも、かれおそれざるべし、なんとなればかれ天上てんじょう霊界れいかいまくきゅうなる光栄こうえいすなはち復活ふくかつおい形体けいたいまくをもつくりてこれを表揚ひょうようせんとするものをゆうすること、使徒しとのいふごとくなればなり、いはく『ハリストスより復活ふくかつせしめしものわれうちところ其神そのしんもつわれすべきをもかさん』〔ロマ八の十一〕またふ、『イイスス生命いのちもわれらのすべき、肉体にくたいあらはれんためなり』〔コリンフ後四の十一〕、『もの生命いのちまれんためなり』〔五の四〕。

十七、 ゆえになほこのおいても、信仰しんこう道徳どうとく生活せいかつもつて、ふくおのれにもとることをつとめん、形体けいたい衣被いひしたるわれたいにしてあらはれざらんためなり、もしたいなるときは、おいわれ肉体にくたい表揚ひょうようすべきものはいつもあらざらん。けだしおのおの信仰しんこう勉励べんれいとにより、聖神せいしんあづかるものとなるをたまはるのりょうにしたがひ、おい其体そのたい表揚ひょうようせらるればなり。今日こんにち霊魂たましひないほうあつめたるものはとき身体しんたいそとにあらはれづること、たとへばふゆぎて太陽たいようかぜえざるちからかれをあたたむるや、ようじつうちよりそと発生はっせいかいして、ふくごとくならん、またときおいてもろもろの野花やかないふところより発生はっせいして、くさとこれをもつ衣被いひせらるるごとくならん、しゅのいひたまへる百合ゆり花のごとくならん、いはく『ソロモンそのえいきょくおいそのころもなほ此花このはなひとつおよばざりき』〔マトフェイ六の二十九〕。けだしこれみな「ハリステアニン」が復活ふくかつおけるの比喩ひゆとなるべく、象様しょうようしょうとなるべし。

十八、 かくのごとおよかみあいする霊魂たましひためすなはち真実しんじつなる「ハリステアニン」のためには第一だいいちつきたる「クサンフィク」あり、これいま所謂いはゆるがつにして、すなはち復活ふくかつなり。おい太陽たいようちからにより、しょ聖者せいしゃたい衣被いひせしむべき聖神せいしん光栄こうえいないより引出ひきいだされん、これかれ霊中れいちゅうぞうしたる光栄こうえいなり。けだし今日こんにち霊魂たましひおのれにゆうするものは其時そのとき身体しんたいにあらはれん。われふ、此月このつきすなはち年の月の首にして出埃及記十二の二〕、かれ萬物ばんぶつかんもたらすべく、かれひらきてたいなる衣被いひせしむべく、かれはもろもろの動物どうぶつかんをもたらすべく、かれ衆人しゅうじんあひだらくくべくして、かれは「ハリステアニン」のため第一だいいちつきたる「クサンフィク」なり、これすなはち復活ふくかつときにして、かれたい今日こんにちなほかれためみつなるもいはれざるひかりもつて、すなはちしん能力のうりょくもつ表揚ひょうようせらるべくして、しん其時そのときかれふく飲食いんしょくとなり、らく平安へいあんとなり、聖服せいふくとなり、永遠えいえん生命いのちとならん。けだし今日こんにちかれおのれにくるをたまはりし神性しんせいしん其時そのときかれためてん光明こうめいと、れい全飾ぜんしょくとならんとす。

十九、 ゆえにわれ各人かくじんしんかつたたかひ、すべての関係かんけいおい善良ぜんりょうなる生活せいかつすを盡力じんりょくし、いまなほその霊魂たましひないてんより能力のうりょくけて、聖神せいしん光栄こうえいたまはらんことをぼうおほいなる忍耐にんたいとをもつつはいくばく肝要かんようなるか、とき形体けいたいやぶれしのちわれせてわれせいせしむるものをゆうせんがためなり。しるしてごとし、『ただねがはくはたるのちにもなほはだかならざらんことを』、またふ、『われうちところ其神そのしんもつてわれらのすべきからだかさん』。ふくなるモイセイかれかほおほふて一人ひとりかれあたはざるしん光栄こうえいもつてわれらにしょうしめせり、これすなはちじん復活ふくかつおい聖者せいしゃからだ表揚ひょうようせらるるは、せいにしてしんなるもの霊魂たましひなほこのおいてもそのないに、すなはちないひとゆうするをたまはるところ光栄こうえいもつ表揚ひょうようせらるべき所以ゆえんしめせるなり。けだしへり、『われみなあらはれたるおもてもつて(すなはちないひともつて)しゅ光栄こうえいて、其像そのぞうへんぜられ、光栄こうえいより光栄こうえいすすむ』〔コリンフ後三の十八〕またしるしていへるごとく、モイセイは『十日じゅうにちじゅうぱんをもはず、みづをもまざりき』〔出埃及記三十四の二十八〕。しかれどももし霊食れいしょくをうけざりしならば、ぱんなくして此丈これだけかん存命ぞんめいすることは身体からだせいためにあたはざるべくして、聖者せいしゃ霊魂たましひ霊食れいしょく今猶いまなほえずしてかみよりうくるなり。

二十、 ゆえにふくなるモイセイ真実しんじつなる「ハリステアニン」が復活ふくかつおいしん如何いかなる光栄こうえい如何いかなる心神しんしんたのしみとをゆうせんとするをふたつしょうもつわれしめせり、これ光栄こうえいたのしみとはいまなほみつたまはれども、ときには其体そのたいにもあらはれん。けだしさきすでにいひしごとく、諸聖人しょせいじんいまなほ霊魂たましひゆうするところ光栄こうえいもつてそのたい衣被いひせられててんられん、さらば其時そのときはやたいもつてもれいもつてもしゅともなが天国てんこく安息あんそくせん。かみアダムつくりて、かれため身体しんたいよくつくることとりごとくしたまはざりき、しかれどもかれため聖神せいしんよくそなたまへり、これすなはち復活ふくかつおいしんほつするところかれげ、かれらんがためかれあたへんとするよくなり。よく今猶いまなほ諸聖人しょせいじん霊魂たましひにこれをゆうするをたまはりて、かれてん智慧ちえもつようせんとす。けだし「ハリステアニン」にはかいしょくたのしみしんそう有様ありさまとあり、ゆえにかれことごとくの人類じんるいよりまされり。のすべての能力のうりょくかれいま聖神せいしんによりてその霊魂たましひないくるをたまはる、ゆえ復活ふくかつおいてはかれ身体からだ永遠えいえんなる霊界れいかい幸福こうふくたまはりて、その霊魂たましひ今猶いまなほ実験じっけんもつこころみたるところ光栄こうえいにみちみたされん。

二十一、 是故このゆえわれ各人かくじん奮闘ふんとうし、勉励べんれいして、あらゆる徳行とくこうねんごろ練習れんしゅうし、しんじてこれをしゅもとめざるべからず、ないひといまなほ光栄こうえいあづかるものとなりて、霊魂たましひしん聖徳せいとくしんするをためなり、また悪習あくしゅうかいよりきよまるをて、復活ふくかつしたるわれたいそのみにくきをおほひ、これをせいせしめて、永遠えいえん天国てんこくやすんぜしむるものをわれ復活ふくかつおいゆうせんためなり、なんとなれば聖書せいしょるにハリストスてんよりきたりて、およこのりたるアダム諸族しょぞく復活ふくかつせしめ、これを二部にぶわかちて、その自己じこごうすなはちしん印記しるしゆうするもの自己じこぞくするものとなし、よんでこれをおのれみぎたしめんとすればなり。けだしいふ『ひつじはわがこえをきかん』〔イオアン十の二十七〕、『われぞくするものり、われぞくするものまたわれる』〔同上十四〕、其時そのときかれからだ善行ぜんこうため神聖しんせいなる光栄こうえい衣被いひせられて、かれみづからも今猶いまなほ心中しんちゅうゆうする霊界れいかい光栄こうえいにみちみたされん。かくのごと神聖しんせいなるひかりもつ頌揚しょうようせられて、てんとりられたるものは、しるしていへるごとく『しゅ空中くうちゅうむかへ、つねしゅともり』〔フェサロニカ前四の十七かれともげんきょうおうたらん。アミン。