埃及マカリイ全書/第五十講話

提供:Wikisource

第五十講話[編集]

<< かみはそのしょ聖人せいじんおいせきおこなふ。 >>

一、 たれ天門てんもんざしたるか、イリヤか、あるひイリヤうちりてあめめいじたまひしかみか。おもふにてん有権者ゆうけんしゃとうみづからイリヤたましひして、かみことばかれしたもつあめくだるをきんぜしなるべし、しかるにかれふたたことばはつするや、天門てんもんひらけてあめれり。モイセイもかくのごとし、つえきしに、つえへびとなりしが、ふたたことばはつするや、へびつえとなれり。かれよりはひりてこれをさんぜしに、かさとなれり。さらにこれにめいぜしに、しらみ蟾蜍ひきがへるとあらはれたり。さりながら人性じんせいこれるか。モイセイうみにつげたるに、うみ両分りょうぶんし、かはにつげたるにかはへんぜり。てん能力のうりょくモイセイこころり、かれもつ休徴きゅうちょうおこなひしこと顕然けんぜんたるなり。

二、 いかんしてダワィド武器ぶきなしに巨人きょじんたたかふをたりしか。ダワィドいし族人ぞくじんとうぜしは、ダワィドりてかみいしはつし、かみちからみづからかちそうしててきおどろかしたるなり、けだし身体からだりょくなるダワィドはこれをあたはざりしなり。イイスス ナワィンイエリホンちかづきてしろかこむこと七日なのかなりしも、おのれちからもつては如何いかんともするあたはざりき、さりながらかみめいたまひしや、城塁じょうるいはおのづから陥落かんらくせり。またかれやくりしとき、しゅかれげていへり、きてたたかひのぞめと。さりながらイイススこたへていへり、しゅく、なんぢなくんばわれかずと。またたたかひときあた太陽たいよう二時にじかんとどまるをめいじたるはたれなるか、かれ一天性いちてんせいなるかあるひかれちからなるか。またモイセイアマリクたたかひしとき、てんかみぐるや、アマリク蹂躙じゅうりんしたれども、るるや、アマリクかちたりき。

三、 さてなんぢこれをききてそのとほきにかしむるなかれ。これ真実しんじつなるけんしょうたり、またえいたるにより、これをおのれに応用おうようすべし。なんぢそのみつぎねんとをてんげてしゅくをねがふときは、サタナなんぢねんによりて貶黜へんちゅつせらるべし。さればイエリホン城塁じょうるいかみちからによりかいせられしごとく、いまなんぢためみちぜつする悪習あくしゅう城塁じょうるいサタナみやこなんぢてきとはかみちからもつほろぼさるべし。かくのごとかみちからほうかげおいてさへだんじん存在そんざいして、顕然けんぜんたるせきおこなはしめ、かみ恩寵おんちょうかれないれり。かつしん言者げんしゃにもようし、かれ心中しんちゅうおいげんかつかたるにたすけて、要用ようようのありしときはだいげしめたり。けだし言者げんしゃつねかたりしにあらずして、かれしんがこれをほつしたるときかたれり、さりながらちからつねかれ存在そんざいせり。

四、 しかれども律法りっぽうかげおいてさへ聖神せいしん如此かくのごときりょうもつそそがるるならば、いはんや新約しんやくおいて、じう字架じかのちハリストスきたりしのちおいてをや、しんそそがるるとしんもつはしめらるるとは彼処かしこにもりぬ。けだしいふあり、『われしん一切いっさいひとそそがん』〔イオイリ二の二十八〕。これしゅみづからいひたまひしものとおなじきを意味いみす、いはく『われなんぢともにしておはりまでるなり』〔マトフェイ二十八の二十〕。『けだしおよもとむるものん』。またいふあり、『しからばなんぢしきものなるもなほたまものそのあたふるをる、いはんてんいまなんぢちちこれもとむるもの聖神せいしんあたへざらんや』〔ルカ十一の十、十三〕、使徒しとことばによるに『ちからおいてし、おほくのしょうおいてするなり』〔フェサロニカ前一の五〕といふ。ゆえに適当てきとうにこれをんにはろうおほいなる盡力じんりょく忍耐にんたいかみあいするとをもつてすべくして、ろくしていふごとたましひ感覚かんかくが『善悪ぜんあくわきまふるを』〔エウレイ五の十四はやならひたるときらるるなり、すなはち凶悪きょうあく狡獪こうかい奸計かんけいよう攻撃こうげき埋伏まいふくとについても、またしんはたらきちからとにより種々しゅじゅたまもの種々しゅじゅ様々さまざまなるたすけとについても、これをわきまふるをならひたるときにらるるなり。けだしないひとけがすに情慾じょうよくもつてする有罪ゆうざいなるかさをおのれに認識にんしきすれども、ひとよわきをかため、中心ちゅうしんよろこびもつ霊魂たましひあらたにする真実しんじつ聖神せいしんよりするたすけをおのれに認識にんしきせざるものは、かみ恩寵おんちょうかみ平安へいあんとの種々しゅじゅようなるせつるの認識にんしきゆうせず、弁別べんべつ能力のうりょくをうけずしてそんせん。されどまた一方いっぽうよりればしゅたすけをかうむりて、すでに心神しんしんよろこびと天上てんじょうたまものゆうするものも、もしおのれもつはやつみぞくせずとおもふならば、これまんにおちいりて、悪習あくしゅうこうなるをわきまへず、えいよはひ成長せいちょうするとハリストスおい成全せいぜんするをるとはぜんもつるべきをかいせずして、みづからいざなはるるなり、なんとなればせいなる神聖しんせいなるしんもつてあたへらるるたすけあるときは、これととも信仰しんこう成長せいちょうして、おほい上進じょうしんするにいたるべく、すべてあくなるねんちゅう漸々ぜんぜんかたむはじめて全滅ぜんめついたるべければなり。

五、 ゆえにわれはおのおのたから瓦器がきうち見付みつけたるか、しんこんたるか、おうたるか、おうきんするものとなりてやすんじたるか、あるひなほがいしつおいきんするかを研究けんきゅうせざるべからざるなり。けだし霊魂たましひにはえだおほく、そのふかさもおほいにして、これににゅうせるつみことごとくのしきこころぼくとをはや占領せんりょうしたればなり。其後そののちひと恩寵おんちょうたづぬるとき、恩寵おんちょうひときたりてあるひ霊魂たましひふたつしき占領せんりょうするあらん。しかれども恩寵おんちょうもつなぐさめらるる経験けいけんなるものはそのきたりし恩寵おんちょう霊魂たましひのすべてのしき占領せんりょうしてつみ根絶こんぜつせられたりとおもふ。さりながら霊魂たましひ太半たいはんつみ権中けんちゅうにありて、恩寵おんちょうしたにあるものはいちぶんのみなり。しかるにひとあざむかれてこれらず。

六、 なんぢ誠実せいじつなるあいによりてしょすべきところのものをおほゆうすれども、れい人々ひとびとたるなんぢ少許すこしばかりのものをもつ端緒たんしょあたふるは、なんぢ実行じっこうしてことばしゅ研究けんきゅうし、さらにいよいよしゅおいなるものとなりて、そのこころ正直せいちょくしゅ恩寵おんちょうしんちからとをもつぞうせんためなり、またまったおそるるなうしておのれすくひとらへ、すべてのこうしんてきことごとくのけいとよりまぬかれて、われしゅイイスス ハリストス審判しんぱんつまづかざるものおよ定罪ていざいせられざるものとしてあらはるるをたまはらんためなり。かれ光栄こうえい権柄けんぺいちちおよ生活せいかつほどこかれしんともいま何時いつ世々よよかぎきにす。アミン。