コンテンツにスキップ

埃及マカリイ全書/第三十一講話

提供:Wikisource

第三十一講話

[編集]

<< 信者しんじゃおのれへんし、ことごとくのおもひかみ集中しゅうちゅうせんをようす、かみたいするすべてのつとめじつにこれにあり。 >>

一、 信者しんじゃにがきよりあまきにへんずるこころへんによりて、そのゆうなる意思いしへんぜられんことをかみねがはざるべからず。信者しんじゃ瞽者めしひのいやされしこと、血漏けつろうおんないやしをうけしこと、獅子ししせいしづめられしこと、せいようをとどめられしことをおくすべし、なんとなればかみ最高尚さいこうしょうなるれいなればなり、なんぢおもひかみにあげて、かみんことをのぞむのほか何物なにものをもそんせざらんことをようするなり。

二、 ゆえに霊魂たましひ好走戯いたづらずきなるどうごとく、つみによりて散乱さんらんしたるおもひ集中しゅうちゅうして、これをしづむべし、これをそのからだいへにみちびきれ、だん禁食きんしょくし、あいもつしゅち、しゅきたりてじつ霊魂たましひいつ集中しゅうちゅうするのときつべし。けだしらいるべからざるにより、殊勝しゅしょうにもおのれのぼう舵師だしたくして、いよいよかれらいすべく、またラーフ[1]種族しゅぞくじんとも生活せいかつせしも、イズライリじんしんきて、かれとも生活せいかつするをたまはりしことと、イズライリじんおのれぼうもつ埃及エジプトかへりりしことをおくすべし。族人ぞくじんともりしはラーフすこしもがいあらず、かへつ信仰しんこうかれイズライリじん一員いちいんくはへたりしごとく、つみのぞみしんとをもつ贖罪しょくざいしゅものがいあらず、贖罪しょくざいしゅきたりてこころおもひへんして、これを神聖しんせいなる、てんぞくする、善良ぜんりょうなるものとなし、霊魂たましひ真実しんじつなる、浮戯うかれざる、散乱さんらんせざるとう練習れんしゅうせしむるなり。ふあり、おそるるなかれ『われなんぢまへにゆきて崎嶇きくたひらかにし、あかがねもんをこぼち、くろがねの關木かんのきをたちきるべし』〔イサイヤ四十五の二〕。またふあり、『おのれかへりみよ、おそらくはなんぢ心中しんちゅうにひそかに悪念あくねんおこしていはん』〔申命記十五の九〕、またおのれこころにいふなかれ『たみしげくしてつよし』と〔同上の二十一〕。

三、 もしわれらはみづからおこたらず、みだりがはしきよこしまなるねんためみづからぼくをあたへず、おもひしゅしひむかはしめて、おのゆうもつをみちびくならば、しゅおのれゆうもつわれきたりて、われらをじつにおのれに集中しゅうちゅうたまはんことうたがひなし、なんとなればすべてしゅよろこばすことと、しゅつとむることとはおもひにかかればなり。ゆえにつねにないおいしゅち、おもひおいかれたづね、おのれ意思いしおこしはげまして、そのゆうなるにんだんかれむかはしめ、そのよろこばせんことをつとむべし。しゅはいかやうになんぢきたりて、なんぢうち居所きょしょをまうけんとするか。けだしなんぢそのかれたづぬるにいよいよ集中しゅうちゅうすれば、いよいよかれもそれにおうじて、その善心ぜんしんそのじんとをもつなんぢきたりてなんぢきゅうせしめん。かれちてなんぢおもひ発動はつどうとをけんし、なんぢ如何いかやうにかれたづぬるか、なんぢ全霊ぜんれいよりするか、怠慢たいまんもつてせざるか、等閑とうかんもつてせざるかをかんせん。

四、 しかしてなんぢかれたづぬるに勉励べんれいするをみとむるときはなんぢ公然こうぜんとあらはれて、そのたすけをあたへ、なんぢ其敵そのてきよりすくひて、なんぢのためにしょうをそなへん。けだしかれなんぢかれたいするこうなんぢがすべての待望たいぼうかれむかはしむるの如何いかんとをけんし、なんぢおしへて、なんぢ真実しんじつなるとう真実しんじつなるあいとをあたへたまはん、これすなはちなんぢおいてすべてとなるかれみづからにして、かれなんぢため楽園らくえんなり、生命いのちなり、真珠しんじゅなり、かんむりなり、さいなり、のうなり、くるしみをうくるものなり、よくなるひとなり、かみなり、葡萄ぶどうしゅなり、活水かつすいなり、ひつじなり、新郎しんろうなり、せんなり、武器ぶきなり、すなはちハリストスはすべてにおいてすべてなるなり。たとへばおさなみづからおのれたすけ、あるひおのれことおもんばかるをくせず、ははあはれみてかれをるにいたまでは、ただははくのみならん。篤信とくしんなる霊魂たましひもかくのごとことごとくのしゅして、つねに独一どくいつしゅらいするなり。葡萄ぶどうみきよりはなされたるえだれん、ハリストスなしにしょうせられんをねがものもかくのごとし。ただしきぐちより入らずして、他の處より踰ゆる者は窃盗なり強盗なりイオアン十の一しょうするものなしにみづからおのれしょうするものもかくのごとし。

五、 ゆえにわれ身体からだげ、祭壇さいだんをきづき、われことごとくのおもひ其上そのうえにそなへて、しゅいのらん、てんよりえざるおほいなるくださんためなり、かれ祭壇さいだんをも、すべて其上そのうへにあるものをも焼盡やきつくすべし。しからばワアル[2]ことごとくのさいすなはち反対はんたいなるちからたふれん、其時そのときてんあめ人手じんしゅごとく〔列王記上十八の四十四霊魂たましひくだるをん、これ言者げんしゃもつていひしごとく、かみ約束やくそくわれ応験おうけんするなり、いはく『われダワィドたふれたるまくおこし、そのかい修繕つくろひ、その傾圯くづれたるをおこさん』〔アモス九の十一〕。しゅそのじんによりて、かん暗中あんちゅう無智むち酣酔かんすいむさぼ霊魂たましひてらたまはんことをいのらん、しからば霊魂たましひ覚醒かくせいして白昼はくちゅうおこなひ生命いのちおこなひを成し、はやつまづかずして来往らいおうせん。けだし霊魂たましひあるひこのにより、あるひかみしんによりてむるところのものを以ってやしなはれん。しかしてかみもかしこに存在そんざいし、安息あんそくして、とどまりたまはんとするなり。

六、 さりながらおのおのもしほつするならば、おのおのなにもつてやしなはるるか、何処いづこ生活せいかつするか、なにじゅうするか、みづからおのれこころむべし、かくのごとくにして、精確せいかく弁別べんべつするの能力のうりょくさとり、かつこれをぜんむかふにおのれまった付與ふよせんためなり。しかのみならずとうおこなひて、ねんこういづれよりするか、かみよりするか、あるひ反対者はんたいしゃよりするかをさつし、こころしょくあたふるはしゅなるか、あるひ反対者はんたいしゃなるこのきみなるかをさつして、おのれをかへりみるべし。しからばおのれをこころみて認識にんしきしたる霊魂たましひよ、なんぢろうによりあいもつてんしょくハリストス育成いくせいおよこうしゅねがふべし、いふあり、『われ居處きょしょてんにあり』〔フィリッピ三の二十〕と、しかれどもこれ或者あるものおもごと外形がいけい状態じょうたいとにあるにあらざるなり。けだしよ、ただ敬虔けいけん状態じょうたいのみをゆうするものかいとはん、かれらにはゆうなるにん動揺どうよう擾乱じょうらんつねならざるそう畏懼いく戦慄せんりつとあるなり、いふあり、『吟行さまよりゅう離子りしとなるべし』〔創世記四の十二〕。つねならざるねんしん錯乱さくらんとにより幾時いくとき動揺どうようせらるることことごとくの人々ひとびと同様どうようなるかれことなるはいつ外形がいけいがいひと外見がいけんじょう発達はったつとをもつてして、そうもつてするにあらず、さればこころとはぞくする愛情あいじょうためにいざなひられ、えき煩慮はんりょしばられて、使徒しとのいふごとくなるてん平安へいあんこころざるなり、いへらく『かみ平安へいあんなんぢこころうちつかさたるべし』〔コロサイ三の十五〕。これすなはちかみママとすべての兄弟けいていあいするあいとにより、信者しんじゃこころ主宰しゅさいして、これをあらたにする平安へいあんなり。光栄こうえい叩拝こうはいとはちち聖神せいしん世々よよす。アミン。

脚注

[編集]
  1. 投稿者註:「ラーフ」は文語訳聖書、新共同訳聖書では「ラハブ」。ヨシュア記2章6章ヤコブの手紙2章25節参照。
  2. 投稿者註:「ワアル」は文語訳聖書、新共同訳聖書では「バアル」。