コンテンツにスキップ

古事談/第二

 
オープンアクセス NDLJP:30
 
古事談 第二
 
 
臣節
 
貞信公のひたまゆといふ檳榔車は、代々一の所に伝へてありけるを、知足院の御時、八条大相国与高松中納言同時拝参議、共に申御車の間、ひたまゆをば高松宰相に給之由、内々謁其告。同くはひたまゆをこそ給はらめと思ひて、同日拝賀之間、於陣口雑色奪替云々。件雑色於天下無双、京童部高松之車副等、不敵対云々。件車相伝三条内府、而薨逝之時、葬例可毛車之由依遺言、取寄件車之処、相国禅門聞此由、争可件車哉とて、臨時被他車云々。雖然其料とて、取寄せたりし事なればとて、子孫被置之。或人云、件車在西院云々。

一条摂政与朝成卿共競望参議之時、〈天暦〉、多陳伊尹不中用之由。其後朝成参一条摂政第、為申大納言闕也。丞相良久不相逢、数刻之後適以面謁。朝成立申任大納言条々之理、丞相無答、而奉公之道尤可興。昔競望同官時、多雖訴訟、今度大納言事可予心云々。朝成懐恥成怒退出。乗車之時先投入笏、其笏自中央破裂。其後摂政受病遂薨逝。是朝成生霊云々。依之今一条摂政子孫不朝成奮宅。三条西洞院也。〈所謂鬼殿歟。〉朝成卿為一条摂政悪心之時、其足忽大に成りて、不沓。仍足のさきに懸けて退出云々。

一条摂政薨逝之時、二郎〈堀川殿〉中納言、三郎〈法興院殿〉大納言大将也。摂籙之運人望在大将、而堀川殿閑暇参入御前、取出先后御書、令件状云、関白者次第のまゝに可候云云。円融院御覧之涕泣給、被恩許之由。中納言大称唯下庭、拝舞退出給畢。職事殿上人等、皆悉相従云々。関白之間六ヶ年、薨卒之刻、已閉眼之由以浮説、法興院令参内、堀川殿聞之、存来訪之由関白而無其儀。渡門前参内。堀川殿大怒忽被四人、参内奏事由、譲関白於忠義公、法興院殿をば罷大将治部卿云々。済時卿任右大将云々。

オープンアクセス NDLJP:31東三条院被石山寺之時、中宮大夫〈道長〉権大納言〈頼道〉・宰相中将〈道綱〉・左大弁〈惟仲〉等候御共。内大臣伊周乗車候御共。於粟田口車、属御車轅、申帰洛之由。此間中宮大夫騎馬近立牛角下、人々属目似其故云々。

御堂、師内大臣と同車にて、令一条摂政許〈一条摂政御堂養父云々〉之間、師殿の牛、逸物にて、辻の間などをありき廻りければ、御堂被仰云、此牛はゆゝしき逸物かな。何所に候ひしぞやと云々。帥殿答云、祇園に誦経したりけるを、伝へ得候也云々。御堂かゝる事不承とて、御指貫の左右を取りて、不沓躍り下りて、人の門の唐居敷に、令立給ひたりければ、帥殿はにがりて御座しけり。

御堂召遊女小観童〈観童弟也。〉御出家之後、被七大寺之時、帰洛経河尻。其間小観童参入入道殿。聞之頗頽面、給御衣遣之云々。

法成寺殿金堂供養〈治安二年七月十四日〉日、入道殿執盃進居太政大臣〈公季〉。権大納言行成卿、執瓶子。入道殿被仰云、久無交盃酒座。今日殊有思。愁以勧盃。言未了落涙難禁云々。

宇治殿任太政大臣、申慶給之日、及拝舞之時、内弁左大臣〈大二条殿〉跪地云々。春宮大夫 〈能信〉之難云、未大臣跪地之例云々。大二条殿又聞之云、宇治殿可親之由、入道殿慥所仰也。跪父者常礼也。如春宮大夫、争聞入道殿仰事哉云々。

宇治殿令参内給之間、陽明門内〈左近府前程也〉置道之頭有大袋、秉燭之後也。人落歟、以御随身之、入束帯装束一具〈有文。〉其えり事外広、毎物麁悪也。右大弁宰相経頼、之装束を落す歟。仍還御之後、相具長絹廿疋、経頼之許へ送遣す処、果有実云々。

宇治殿於殿上小板敷、勘発左大弁経頼給。是譏源右府事云々。経頼流汗退出之間、経長相合南殿北庇、経頼体如死灰。云、蒙殿下勘発運已尽也云々。其後不幾程病遂卒云々。

但馬守能道朝臣参宇治殿〈衣冠〉。臨晩被御前時、寄于蔵人所置物厨子許、物を探りて、笏も不置之御厨子哉とつぶやきけり。この能通は、大二条殿の後見也。

宇治殿使土御門右府、令摂籙於大二条給之時、〈入道殿遣言趣云々、〉一度は猶不信受。第二度之時及零涙悦申云々。而老衰之後、延久頃自宇治殿申云、於今者如オープンアクセス NDLJP:32摂籙於左府。存命之時心安可見置云々。返答云、此事私難左右、可天気とて奏聞の処、不許云々。仍宇治殿被遺恨、遂薨給畢。大二条殿又薨逝之時、〈承保、二年〉約束於内府〈信長云々。〉仍左府愁歎欲出家。此間天皇渡御中宮御方。宮御削櫛之間、御涙御はだへをとほりて、御畳ぬれにけり。主上令驚問給。宮令申給云、左府も大納言も倶可出家云々。仍吾も失面目、不祗候之間退出、同可出家云々。依之召宮御方職事、忽被下関白宣旨於左府之由云々。

義親が首を被渡ける時、人々多以見物。仍知足院殿可見物之由、大殿に令申給ひければ、仰云、被貞任首之時、可見物之由令宇治殿之処、仰云、死人之首不見物云々。仍不御覧云々。是又不見物云々。

八幡別当清成者、常に宇治殿へ参りけり。或日参りたりけるに、御料の御おろしを被出たりけるを、蔵人所の台盤の上に置きたりけるを、清成手づかみにつかみ喰ひて、酒の銚子に入れたりけるを、皆飲みたりけり。近来之別当不然歟。

知足院殿令鳥羽院給云。思食御寿命事者、毎月朔日可御精進。是一条左大臣説也云々。後日或人云、此事相叶本説歟。朔日奏吉事、不凶事由、見太政官式。加之殷周之礼祭神之法以月朔最云々。

知足院殿仰云、我若少之時、小鷹狩の料に、水干装束を申しゝかば、大殿仰云、小鷹狩には、不水干装束事也。萩の狩衣に女郎花生衣など脱垂れて、袴は随身水干袴を取りてきて、疲駄に乗りて狩る也。大鷹狩にこそ結水干、末濃の袴などをば着すれ。惣右近馬場などにて馬馳の時、随身の袴を召して着用常事也云々。

師元参知足院入道殿御前之時言上云、陰陽師道信四月二日着冬束帯之由承置候。如何。仰云、有急速召時、衣装不夏冬也。御堂の不例に御座しける十月一日、宇治殿は、夏の直衣のなへたるにて、令参給ひけり。二条殿は冬の直衣にて、令参入給ひたりければ、不例の人の傍に、かくてみゆる白物やあると被仰けり。以件例我も堀川院不例に御座せし時、四月一日冬の直衣にて参入したりしか共、故院も兎も角も不仰也。他人も無云事。我前駈などを奇事あやしげに思ひたりし。又御堂は、四月一日の白重を令置給ひて、極熱の時には取出して令着給ひけり。凡白重は、老オープンアクセス NDLJP:33者のと思ふ時に着也。件時は只綾を白くて着也。又上袴冠なども有文也云々。知足院入道殿被仰云、吾御堂宇治殿大殿などの御昇晋に、一事無相違。大臣大将氏長者、摂政関白牛車輦車、又内弁官奏執筆納言騎馬物詣等、皆無貽事。但直衣布袴といふ事をせざりし。如然装束は、其事に不遇の時は、せでもありしなり。

知足院殿仰云、四条大納言北山抄は神妙の物也。大二条殿を聟に取りて、九条殿の御記をも伺ひ見て候たる間、めでたき物にてある也。江次第に、後二条殿御料に候たる文也。末代之公事、不其歟。但辟事ども少々相交也。

徳大寺大饗宇治左府令向給之時、如法令食給云々。事畢之後、別足之食様見習はんとて、人に群寄て見ければ、継目よりは上を少しわけて切りたりけるを、かゞまりたる方を、一口令食給ひたりけり。

近衛院御時、〈小六条内裏、〉宇治左府参内之間、山上有大袋、其袋動之。以随身見之処、袋中有人、開見之、中将行通朝臣也。出袋共笑退散畢。此事殿上人遊戯のあまりに、於頭中将教長宿所、為通朝臣、鏡を見て、にくしうつくし、為通が鼻はうつくしき鼻かな。后のはなにしたりともねこからん、殊勝々々と被自愛けるを、師仲朝臣、さる后鼻はあらじとぞ、希有のはと也。まがしき后はなかなといはれけるに、行通も口入之間、我様なる小さき人は、袋などに入らばやとて、袋のありけるにつかみ入れて、人に御供にまゐれとて、為通袋を持ちて、山おざまへ出づ。遊行せし扈従入師仲・公重・教長・顕広。〈俊成〉。此間左府被参。驚前声袋於山上逐電云々。仍件日左府日記云、今日参内懈怠、番衣は左着袴立池凶悪。小臣被袋有山云々。冷泉院中納言朝隆、蔵人頭の時、何事とかやに、公卿座末に居たりけるを、宇治左府被追立云々。事詞云、蔵人頭は、有召之時こそ、座末には候へ。推参甚見苦きこと也。早可罷立云々。朝隆不力とつぶやきて退起云々。

永久頃、法性寺殿内大臣にて、令節会給ひて、あげまきと云物を見るに、懸けて引寄せて令食給ひけるを、久我大相国右大臣にて座列の間、奉見申云、是は令誰人説給哉云々。御返答云、慥説侍也。但又令何様給哉云々。右府重申云、旬時懸貝引寄也。主上御おろしを次第取下之故、用浄貝也。尋常節会には、依オープンアクセス NDLJP:34下之儀、以箸可引寄之由相存云々。爰内府被仰云、尤有其謂。自今以後可此説之由御承諾云々。

法性寺殿令所々額給之間、自御室額を一依申請、被書献了。而陸奥基衡が堂の額なりけりと令聞給ひて、争かさることあるとて、御厩舎人菊方を御使にて、被召返けり。基衡雖秘計承引。遂に責取りて、三に破りて持て帰参すと云々。菊方高名在此事

松殿・九条殿左右大将にて、令賭弓拳給之時、共令搔練重給。左大将殿をば裏を打ち、〈法性寺殿御沙汰、〉右大将殿のは裏を張りに、〈中御門内府御沙汰、〉搔練重文色各別云々。以何為文色哉不分明

高家者業平之末葉也。業平朝臣為勅使向伊勢之時、密通於斎宮云々。懐姙生男子、依露顕之怖、令摂津守高階茂範為_子、師〔高イ〕是也。世隠秘不之云々。茂範者神祇伯岑緒孫、兵部少輔令範息也。師尚者従四位下備前守也。高二位成忠者師尚孫、宮内卿良臣之男也。

業平朝臣盗二条后〈宮仕以前〉去之間、兄弟達〈昭宜公等〉追至奪返之時、切業平之本鳥云々。仍生髪之程、称歌枕向関東〈見伊勢物語。〉宿奥州八十島之夜、野中有和歌上句。其詞云、秋風之毎吹般穴目云々。就音求之無人、只有一之髑体。明旦猶見之、件髑髏の目穴より、薄生出でたりけり。毎風吹薄のなびく音、如此聞えけり。成奇怪思之間、或者云、小野小町下向此国、於此所逝去。件髑体也云々。爰業平垂哀憐、付下句云、小野とはいはじ薄生ひけり云々。件所を小野といひけり。此事見日本紀

有国以名簿惟成云々。驚云、藤賢式太往日一双者也。何故以如此。有国答云、入一人之跨、欲万人之首云々。

俊賢為五位蔵人之時、中関白被問云、誰人補頭為公家忠節哉。俊賢答云、無於俊賢。仍為五位頭。今度斉信得理、自必存補之由参内。於明義門下俊賢畢。可頭云々、誰人哉云々。答云、俊賢也云々。斉信頼面退帰畢。斉信後為蔵人頭、所行甚高。召随身於小庭之、毎度如大将。誦鳳凰池上之月之句オープンアクセス NDLJP:35徊禁庭、人莫歎伏為神仙中人

俊賢卿蒙中関白恩、五位而補蔵人頭、越多人。思此恩而入道殿蒙内覧宣旨給日、睡眠云々。傷帥殿事之故云々。空眠りうちしてゐたり、帥内大臣事故云々。

宇治殿少年の時、俊賢卿と遊覧北山辺、於或所堂中。俊賢云、無左右入給。近曽北方不塞、恐有慮外之事歟云々。俊賢先入廻見之処、堂北庇死人入車立之。俊賢自讃云、若入堂中定有穢歟云々。

一条院御時、実方与行成於殿上口論之間、実方取行成之冠、投棄小庭退散云々。行成無繆気、静喚主殿司寄冠、擺砂着之云。左道にいまする公達哉云々。主上自小蔀御覧じて、行成は召仕ふべき者なりとて、被蔵人頭〈于時備前介前兵衛佐也。〉実方をば、歌枕見てまゐれとて、被陸奥守云々。於任国逝去云々。行成補職事弁官、多以失礼、漸尋知之後勝傍倫。已携文書之所致也。

行成卿不沈淪、将出家。俊賢為頭之時至其家。制止曰、有相伝之宝物哉。行成曰、有宝劔云々。俊賢早沽却可祈祷。我将挙達。仍為下臈無官〈前兵衛佐備前介、〉四位被頭、任納言之後、暫雖俊賢上臈、依恩遂不其上云々。

或人夢に、赴冥途たりけるに、可待従大納言行成之由、有其沙汰ければ、或冥官云、件行成は為世為人、いみじく正直の人也。暫不召云々。仍不召云々。正直者冥官の召も遁るゝ事也。

済時大将を、こうばいの大将といふ故は、女子の女御を后にたてんと被申けるを、勅許あるぞと被存て、無左右庭上拝舞畢。然而無立后。仍空き拝の大将と世人いひけり。而不案内の人、紅梅と知る也。

経信卿参円融院御八講之時、北野前不車、成不審問人ありければ、答云、弾正式云、四位は不二位云、神不非礼。若し下らば還て以知礼歟云々。

宗通卿童殿上之時、可官之由、於殿上議定之間、経信卿申云、宇治関白牛飼こそ、土左目には任じて侍りしか云々。于時満坐含咲、仍無沙汰云々。

小野宮の室町面には、古四足ありき。件門常に閉ぢたりけり。是小野宮殿御坐之時、経件之門天神渡御、終夜御対面故云々。又大炊御門面にははた板を立て、穴をオープンアクセス NDLJP:36あけたる処ありけり。それに菓子などを令置給ひければ、京童部集りて、天下の事共を語申しけり。其中に名事ども多く聞きけり。

小野宮左府於女事不堪之人也。如〔対イ〕井、下女等多称清冷水集汲之。相府択其中少年女、被寄於閑所、已有定所。宇治殿聞之、侍所雑仕女中、択顔色之者水。相誠云、先汲水之後、若有招引者、其後棄水桶帰参云々。果如案。後日右府、被宇治殿之次、公事言談之間、宇治殿仰云、彼先日侍所水桶主、今者可返給云々。相府迷惑頳面無申止。

小野宮大臣、愛遊女香炉。其時又大二条殿愛此女。相府香炉被問云、我与髯愛何乎。汝已通大臣二人〈二条関白、髯長之故称之。〉

小野宮殿薨給之時、京中諸人集門前悲歎云々。此事見一条摂政記云々。

九条民部卿顕頼弁官之時、有公事之日、早旦参陣、漸及深更之間、已臨飢。仍於床子座雑色其由了。頃之雑色黒器といふ物に、みそうつく毛立ちたる一盃と、薯蕷の焼きたる二筋とを持来与之云々。黒器物をばひきそばめて、皆啜りくひて、只今ぞ人心地するとて、いもをばつとよそへとて授師光〈大外記〉云々。床子座は腋陣とて、如然事憚之所云々。

中院入道有六ヶ能云々。第一松若と、第二双六、第三末々木、第四舞曲、第五笙、第六職者也と被自称云々。

但馬守隆方は、於任国逝去。然而秘国人重病之由。舎弟の僧の声気色似たりけるを、輿に乗せて上道。死人をば入辛櫃相具云々。是国人之心為変也。仍死人をば摂津国拝東郡内六瀬といふ所に埋畢。今有其墓也。

二条帥長実着水干装束、遊女〈神崎君目古曽〉に、いかゞ見ゆると被問ければ、目出度御坐之由申之。重被問云、水干装束にてよかりし人、又誰をか見る哉云々。遊女申云、肥前守景家と申す人こそ、見え候ひしかと、詞未了、前忽解脱云々。件景家水干装束の時は無双。布衣之時似田舎五位。束帯之時は諸人咲之云々。常は小鳥柿の水干、無文の袴紅衣を着て、赤つかの刀のまふたきに、貝摺りたる差してぞ家中には居たりける。最期に何事か思置く事ある哉と問ふ人ありければ、無別之遺恨、但大殿大饗オープンアクセス NDLJP:37の時、山鳴の醤焦り被召の時、山嶋のなくて、みやま鷯のひしほいりを、まゐらせたりし事なん遺恨云々。

非常の赦は、為人極悦の事なれば、九条殿の御流は、詔書の草を奏る時、清書以前召仰其由也云々。

播磨守経平下向任国之時、反閉置逆鞍、而厩司馬允憲行不人、為試披露、以件馬舎人等忽遣隠岐国了。仍無此事之人。依之在国間、更無其徴。経平任太宰大弐之後、憲行兄憲重語此事云々。

業房亀王兵衛之時、夢に御前を奉追、却門外へ被追出と見て後、朝康頼に、かゝる夢を見つる、年始にふくたのしき事なりといひければ、康頼云、極吉夢也。可靱負尉之夢也。靱負陣門外之故云々。果十ヶ日中拝左衛門尉云々。

伴大納言善男者、佐渡国郡司の従者也。於国善男夢に見る様、西大寺と東大寺とを跨げて立ちたりと見て、妻女に此由を語る。妻云、其股こそはさかれんずらめと合すに、善男驚きて、由なき事を語りてけるかなと恐れ思ひて、主の郡司宅へ行き向ふの処、郡司極めたる相人にてありけるが、日来其儀もなきに、事の外饗応して、円座とりて出向ひて、召し昇せけれは、善男怪をなし、我をすかしのぼせて、妻女のいひ見てけり。而無由人に語りてけり。必ず大位には至るとも、定依其徴、不慮之事出来有坐事歟云々。然間善男付縁京上、果至大納言。然而猶坐事、不郡司言云々。

清和天皇先身為僧、件僧望内供奉十禅師。深草天皇欲之。而善男奏以停之。件僧発悪心、奉法華経三千部。願曰以千部功力、当生宜帝王。以千部功力善男卿其妨。残千部功力当妄執、可離苦得道。此僧命終無幾程、清和天皇誕生給。雖童稚之齢、依先世之宿縁、触事令於善男。善男見其気色得修験之価、令如意輪法。仍則為寵臣。然而宿業之所答、坐事件大納言。坐事之日大納言南淵年名・参議菅原是善等、奉於勘解由使局問之。更以不承伏、即詐令人謂云、息男佐己以承伏畢。何独不然哉云々。善男聞之、口惜き男かなとて承伏すオープンアクセス NDLJP:38云々。

儀同三司配流者、長徳二年四月廿四日事也。宣命云、趣罪科三ヶ条〈奉法皇、奉咀女院、秘行大元法等科云々、〉 左衛門権佐元亮・府生高宗等為追下其所〈中宮御在所所謂二条北宮。〉東門、経寝殿北

西対〈帥住所歟。〉含勅語而申重病忽難配流之由、差忠宗其旨、無許容。載車可追下之由、重有勅命云々。固関等事右大将行之。此間仰左右馬寮、合御馬。堪武芸之五位依宣旨、令鳥曹司云々。

  配流

太宰権帥正三位藤原伊周〈元内大臣〉・出雲権守従三位同隆家〈元右少弁〉・伊豆権守高階信順〈元中納言〉・淡路権守同道順〈元右兵衛佐木工権頭〉

  被殿上簡人々

左近少将源明・藤原頼親〈帥舎弟〉右近少将藤原周頼〈帥弟〉・源方理

  勘事

右馬頭藤原相尹・弾正大弼源頼定〈為平親王男〉

権帥候中宮之間、不使催之由、元亮雖再三奏聞、被猶慥可追下之由。二条大路見物車如堵。中宮与師相双不離。仍不追下由奏之。京中上下挙首乱入后宮中、見物濫吹殊甚。宮中之人々悲泣連声。聞者無涙。隆家同候此宮。両人候中宮出云々。仍下宣旨夜大殿戸之間、不其責、隆家所出来也。依病令網代車配所。但随身可騎馬云々。於権帥者己逃隠。令宮司捜御在所。及所々已無其身云々。被問信順等之処、申云、左京進藤原頼行権師近習者也。以件頼行在所者、即召問頼行之処、申云、帥一昨日出中宮、道順朝臣相共向愛太子山。至頼行者自山脚罷帰了。其乗馬放棄於彼山辺云々。仰云、元亮召具頼行、尋跡可追求。若所申有相違者、可考訊者。仍元亮朝臣・右衛門尉備範・左衛門府生忠宗等、馳向彼山得鞍馬云々。中宮乗権大夫快義之車出給。其後使官人等参上御所、捜検夜大殿及疑所々。放組入板敷等皆実検云々。奉為后宮限之恥也。中宮已落飾出家給云々。信順等四人籠戸屋看督長護之。此間已経十ヶ日。五月四日員外師出家帰本家、尋求之使者尚在オープンアクセス NDLJP:39西山。左衛門志為信〈守護本所之者〉事由之間、権帥又乗車馳向離宮。為信着藁沓清和院辺追留。此間公家差左衛門権佐孝道・左衛門尉季雅・右衛門府生伊遠等、令遣帥所。帰本家翌日発向配所。権師依出家官符云々。権帥隆家等依病難各配所之由、領送使申之。頭弁行成朝臣勅を奉じ、権帥病之間、安置播磨国便〔使イ〕。出雲権守隆家安置但馬国便〔使イ〕。各領国司其請文、可帰参者。被花山院之根元者、恒徳公三女は、伊周之妻室也。而四女を法皇令通給ふを、伊周、四女は僻事也。三女にてこそあるらめとて、相語隆家卿、被合不安之由。爰中納言安き事なりとて、両三人相具して、法皇自鷹司殿騎馬令伺給ふを、奉射之間、其矢御袖より通りにけり。然而還御了。此事見苦事也とて有秘蔵、無沙汰之処、公家聞召して、太上天皇は無止事也、而此院御心不静御坐之間、如此事出来也。雖然不黙止。又伊周私修太元法。件法者非公家者不修之法也。又奉咀女院云々。依此等事左遷云々。

同年十月八日、権帥密々京上、隠居中宮之由、自去夜其聞云々。仍差右衛門権佐孝通、被事由於中宮之処、已被無実之趣。孝通朝臣以下使官人等候彼宮、差季雅・為信等播磨検権師有無。又帥上洛告言。既有其人。彼宮大進生昌云々。帥先日依出家、被官符、而尚不頭云々。播州使等未帰洛以前、権帥候中宮之由已露顕、八旬母氏乍、懇切期今一度之対面、死にやらぬ上、中宮懐姙、今月当産期之間、密々上洛云々。於今度慥被遣太宰府云々。同三年四月、両人被返之。今上一宮誕生給之故云々。長保三年閏十二月十六日、許本座仕公庭、被下可内大臣下大納言上之由。寛弘七年正月卅日薨、春秋卅七。」郁芳門院根合之時、右方有五丈之根云々。件根備前国牟古計の狭戸にある似菖蒲物之根云々。凡菖蒲根の長不〔丈イ〕也。前例尤長、根杜若根也云々。

賢子中宮者、寵愛異他之故、於禁裏薨給也。雖御悩危急、不退出也。閉眼之時、猶抱御屍起避云々。于時俊明卿参入申云、帝者葬遭之例未曽有候。早可行幸云々。仰云、例は自此こそ始まらめ云々。

待賢門院は白川院御猶子の儀にて、令入内給。其間法皇令密通給。人皆知之歟。オープンアクセス NDLJP:40崇徳院は白川院御胤子云々。鳥羽院も其由を知食して、叔父子とぞ令申給ひけり。依之大略不快にて、令止給畢云々。鳥羽院最後にも、惟方〈于時廷尉佐〉を召して、汝許ぞと思ひて被仰也。閉眼之後、あな賢、新院にみすなと仰事ありけり。如案新院奉見と被仰けれど、御遺言の旨候とて、掛廻不入云々。

清少納言零落之後、若殿上人あまた同車渡彼宅前之間、宅体破壊したるを見て、少納言無下にこそなりにけれと、車中にいふを聞きて、本より機敷に立ちたりけるが、簾を搔揚げ、如鬼形之女法師顔を指出すと云々。駿馬の骨をば不買やありしと云云。〈燕王好馬買骨事也。〉

四条宮女房大弐局、栴檀は唐土にもありと云。他之女房達、皆天竺之物也、不然云云。此事相論之間、伊房卿宮司之時、被之処、天竺に有之云々。大弐局猶論之。仍経信大納言許遣尋之処、同伊房之説。女房達弥令指南。然而大弐局者、猶不信伏之間、重令実成卿之処、答云、唐土にもあるなり。赤栴檀は天竺に有之、余紫檀白檀等皆唐土之物也云々。仍大弐局終勝了。于時女房云、此事者参河前司季綱が申しゝを、慥承之也。赤栴檀は本体也。紫檀は栴檀之黒也。白檀は梅之白也。沈者栴檀之沈也。薫陸は栴檀のしるなりと云々。

頼光朝臣遣四天王等、令清監之時、清少納言同宿にてありけるが、依法師殺之間、為尼之由いふ。えんとて忽出開云々。

九条殿遺誡云、凡不信之輩、非常天命前鑒已近。貞信公語云、延長八年六月廿六日、霹靂清涼殿之時、侍臣失色。吾心中帰依三宝、殊無怖。大納言清貫・右中弁希世、尋常不仏法。此両人已当其妖、以是謂之、帰真之力尤逃災。殊又信心貞潔智行之僧多少随堪語之。非唯現世之利、是後生之因也。

中関白以酒宴事。賀茂詣之時、酔而寝車中、冠抜在傍、臨車之期、入道殿被驚申、驚而以扇妻鬢猶如水鬢。以朝光・済時等常為酒敵。仍曰極楽に按察小一条等あらば可詣。不然者不願云々。

白川院競馬之日、頭中将資房之上に、行経朝臣任位次居けり。仍後朱雀院に被愁申しければ、令六借むづかしから給ひて、宇治殿に令尋給ひければ、令申給云、蔵人頭之上に不オープンアクセス NDLJP:41居事は、殿上の事也。他所次第になん居候。且件資房が外祖父の知章も、頭の上にのみこそ居候ひしか云々。

宇治殿関白をば、直に京極殿に奉譲と思して、上東門院にも其由令申給ひければ、女院御くしけづらせて、御とのごもりたるが、此事を聞食して、不受之気色御坐して、俄令起給ひて、御硯紙召寄せて、忽令御書於内裏給ひけり。其状云、おとゞ被申事候とも、不御承引。故禅門慥被申置之旨候也。仍不譲事。遂後冷泉院御宇被大二条云々。

隆国卿於宇県仕宇治殿之時、真実の小馬に乗りて、乍騎馬出入云々。大納言被申云、此は馬には候はず、足駄にて候へば、可御免云々。宇治殿令興給ひて許容云々。

長季は、宇治殿若気也。仍大童まで不首服云々。久不参之時は、いみじく令怨給ひけり。大飲之間依酒事、御おぼえはさがりにけり。

堀川左府、知足院殿を聟に奉取、賞翫之余、常被仕陪膳。毎汁物先づ啜り試みて、気味調ひたるに飲を漬けて被奉ければ、無便とおぼしながら食ひ給ひけり。

其由大殿に被語申しければ、暫御案ありて被仰云、左府も可然之人也、有何事哉云々。

知足院入道殿御座宇治之時、左府之息奉祇候。于御前御物語間、肥前々司頼季参来居右大将〈兼長〉。大将不動、而入道殿勘発被仰云、人の来りて居後之時、不居向事やはある云々。大将恐之、頼季又頽面云々。

師遠任摂津守、参知足院入道殿、申慶賀之時、不笏三度奉入道殿、自中門連子御覧仰云、尚師遠也云々。〈御感之心也。〉禅室之時不笏云々。此謂歟。

惟頼卿被妙音院之時、入道殿被仰云、孝博者自故殿〈知足院〉名参上之時、着紫織物指貫、白髪にて中門廊に候ひけり。侍等奇之云々。近代無然之者、遺恨事也。

宇治七郎こそ、いみじくさやうになりぬべき者なれ。如孝博作立なりたゝばや。

勘解由長官有国、当初父輔道豊前守之時、相具して下向之間、父俄病悩忽逝去。于時有国泰山府君祭を如説勤行。輔道経数刻纔蘇生語云、予雖炎魔庁、依オープンアクセス NDLJP:42麗之饗膳、可遣之由有其定。爰或冥官一人申云、雖遣輔道、於有国者早可召也。其故者非其道者勤行祭、非罪科云々。又在座之人申云、有国不罪科、無道人遠国之境にて、不孝養之情、勤行之輩更不罪科云々。仍冥官併同之、依無為所返遣也云々。

大入道殿被関白何子哉之由。有国申云、町尻殿可宜。〈為花山院御出家之事申歟。〉〈[#底本にある手書きの返り点修正を適用]〉惟仲申云、任次第中関白可宜云々。国平申云、何捨兄用弟哉云々。就両人之許遂被申中関白云々。我以長嫡此任、是理運之事也。何足真悦、只以有国之怨悦耳云々。仍無幾程除名、父子被官職云々。雖然有国長徳以太宰大弐、経廻鎮西之時、帥内大臣下向之間、使広業於事表、丁寧供進種々物等云々。 〈中関白時人称、於関白勝容体云々。〉

俊賢民部卿、為参議定文之時、不斎然之育之字、仍頗黒書之。一条左大臣〈雅信〉一上、見之云、是は斎然之斎字歟、又敦歟云々。俊賢以此事終身之恥云々。

実方経廻奥州之間、為歌枕、毎日出行。或日あこやの松見んとて欲出之処、国人申云、あこやの松と申す所、この国に候はねと申すの時、老翁一人進み出でて申して云、君は、いづべき月のいでやらぬかな〈此歌みちのくのあこやの歌にこがくれて〉と申す古歌を思召して、被仰下候歟。然らば件歌は、出羽陸奥未堺之時、所読之歌也。被両国之後者、件松出羽国方に罷成候也と申しけり。又彼国依菖蒲、五月五日水草は同じ事とて、かつみを被葺けり。其後国習于今如斯。〈新撰陰陽書云、五月五日可水草云々。〉実方中将怨蔵人頭、雀になりて居殿上小台盤云々。

御堂令邪気給之時、小野宮右府為訪令参給。邪気聞前声人云、賢人之前声こそ聞ゆれ。此の人には居あはじと思ふものをとて、示退散之由云々。御心地即平愈。

富小路右大臣、〈顕忠〉時平御子也。毎夜出庭奉天神云々。又以倹約事、銀器楾手洗等永不用。又出仕之時、全無前駈、只車後如形被相具云々。大饗之日、小野宮殿、為尊者殿さたなげなり。無由之所に来にけりとおぼしける程に、車宿に毛づるめなる馬二疋引立之、皆額白云々。尊者自幕隙之、令咲給云々。額白馬オープンアクセス NDLJP:43を、無術令好給ひける。此大臣五十八薨云々。而補任には六十九云々、如何。

実資大臣者、依大入道殿恩、至大位之人也。依其恩、彼御遠忌日、必被法興院。御堂仰云、あつき頃也。何強如此被参哉云々。右府云、なにか令知給。我者依彼御恩此人に成畢。為其御恩参仕也。不知給云々。

俊明卿奉行公事之時、次第忘却して不随身之時は、以今案行けるに、旧儀に塵計も無相違云々。同卿造仏之時、箔料にとて、清衡令砂金云々。彼卿不之即返遣之云々。人問仔細。答曰、清衡令領王地、只今可謀叛者。其時は可追討使之由、可定申也。仍不之云々。

堀川右府は、依四条中納言、談経致練磨〈有元都云々。〉上東門院有好色女房〈或説小式部内侍云々、〉堀川右府与四条中納言共愛此女。然間或時右府先入件女房局、已以懐抱。其後納言 〈于時間弁云々〉件局之処。已知会合之由、納言読方便品帰了。女聞其声感歎、背右府啼泣。丞相枕亦霑。丞相窃思、万事不定頼、不安之事也云々。因之忽発心被悟八軸云々。

定頼卿自禁裏退出、不内方、先誦法華経第八巻之時、四月月影朦朧、樹陰繁茂。小透長尺許物負したる聳樹上、不何正体成、怖畏止声了。又小透ありつるよりもさがりて庭樹の枝中に、如初聳渡之後、即高欄之上有影之者、異香薫室。乍恐問云、彼何。答曰、仙人揚勝に侍る。自本山天台嶺金峯山飛渡之間、遥聞御音参向也。不怖畏云々。只恨不聞給云々。納言依此重誦経。仙感荷之余言云、楊勝の侍る所には御座さん哉云々。納言云、所庶幾也。但何様にして可至哉。仙云、可揚勝背云々。相互承諾畢。爰納言有示承とて入内方。其時仙人、心きたなくいましけりとて帰去畢云々。

近衛大将騎馬之時、番長騎馬先頗令馳之、為払雑人也云々。而八条大将保忠為桃尻、就前馬走出之間落馬、落冠及恥辱之後、件礼永止云々。

源大納言顕行幸供養之時、頗近目之間、馬を引きたるを見失ひて、被尋けるを、忠教卿騎馬して近被打立たりけるが、馬はあめるはとて、頗笑ひ給ふ云々。爰亜相怒云、何事いふ、行家がまらくそめがと云々。戸部頳面閉口云々。行家、忠教之継父オープンアクセス NDLJP:44也。若有実父之疑歟。

大治五年十月五日、参議四人師頼・長実〈中将〉宗輔〈中将〉・師時等任中納言〈去保安四年已後違之死闕于今未任。〉時伊通参議右兵衛督中宮権大夫四人皆上臈也。然而不愁緒、翌日辞所帯等、於大宮大路焼檳榔車、白昼着褐衣水干、貲布袴騎馬被神崎遊女金許。又年来所借置蒔絵弓、返遣中院右府とて、

   八年まで手ならしたりし梓弓返るを見てぞ音は泣かれける

   何かそれおもひすつべき梓弓又ひきかへすをりもありけり

長承二年九月廿一日、自前参議直任中納言〈陣座除目任公卿事、自此始之。又自前官任事、宇治大納言隆国自前中納言直任大納言之例云云。〉 同十二月五日、勅授帯劒云々。

師頼卿多年沈淪、籠居拝任中納言。後勤仕釈尊上卿。作法進退之間、於事成不審、粗問於人。其時成通卿参議之時列坐云、年来御籠居之間、公事御忘却歟。うゐ敷被思食之条、尤道理也云々。師頼卿不返事、顧眄時独言云、入大廟事問者奈云々。〈論語文。〉成通卿閉口止。後日逢人云、無思分之方不慮之言畢。後悔千回云々。

嘉承元年十二月廿七日、右大弁家忠・左大弁基綱・左中将能俊等〈以上三人皆下臈也〉中納言。于時師頼参議右兵衛督第一座也。仍避武衛籠居。大治五年十月五日任中納言〈件頃天変重畳、諸道勘文云、被優才学之沈淪者叶天心歟云々。依之所任也云々〉同七年任大納言

同大臣〈俊家〉除目を大殿に被習。九条太政大臣〈信長〉申云、何令教給哉云々。大殿被仰云、俊家をば誰人と被存哉。然らば我も習ひ給へかし。

花山院右府〈家忠〉仕除目之執筆之時、高松中納言実衡任参議、而衡字忘却之間、奉法性寺殿。被仰云、ゆきの中の魚云々。仍ふる雪の中に魚を書入れんとせられけれども、さる文字もなかりければ、黒字に被書云々。

中院右府禅門与左馬権頭顕定朝臣常会合、多年無隔心。禅閣契約云、雖夢後願並墓談話無変云々。依之顕定逝去刻、禅閣墓所〈久我〉傍掘埋顕定云々。仍于今雨夜深更などには、物語して被咲之声人多聞之云々。

詩之人、昇卿相事、始顕雅卿云々。不消息之人昇卿相事、始俊忠卿云々。〈此事伊通被二条院、造帋中之中有之云々。〉オープンアクセス NDLJP:45師頼卿為淳和院別当之時、彼院鐘不槌鳴五六日。白昼人々行向見之。全無槌人然、而自然有其声云々。大納言聞此事之処、可慶賀云々。無幾程春宮大夫、存符合之由之間、又無程被薨去畢。吉凶之叵量事也。

遠江守盛章朝臣、熊野御山造塔之時、引地之間、大鳥無毛なるを、自地中掘出したりけり。不思議事也。いかゞすべきと評定の処、少納言入道〈通憲〉折節参会したりけるに、云合せければ、彼は猿の事侍るなり。権現の侍者とならんと誓ひたる者、社壇の辺土中などに、受生事侍也。早如元可埋置と被示ければ、即埋畢云々。

小野皇太后宮者、後冷泉院后犬二条殿三女也。生年十四。随舎兄静円僧正、窃受習諸経。其後毎日読誦法華経一部、人敢無知。春秋十六入内。治暦四年四月十九日立后。此夕帝崩。自爾以来偏発道心、念仏転経之外、無他之営。於二条東洞院亭手自書写最勝王経。雲雨俄降霹靂入殿。時奉経奉筆如存如亡。雷騰天晴開眼見経、空昏焼而字残、御身燃而身全。帰法之志自此弥深。承暦元年落飾出家、以良真座主戒師、一従入小野之寒雲、再不長秋之暁月、遂往生之素懐云々。

賢子中宮広寿聖人〈上灯之人歟〉後身云々。件聖人云、順次雖往生、此御山無依怙。仍生於貴人、可汰出依怙云入滅。其節件后所生給也。中宮薨給之後、被御骨於彼山、被立園光院、被越前国牛原庄等云々。

進命婦壮年之時、常参詣清水寺之間、師僧〈浄行八句者也。於法華経転読八万四千部と云々。〉此女房欲心、忽病成己及死門之間、弟子等成奇問云、此御病体非普通事、有思給事歟、不仰者自他無由事也云々。此時僧云、実には自京被参御堂之女房、近き馴れて物を申さばやと思ひ給ひしより、此三ヶ年成不食病。今は已に蛇道に入りなむとする心浮事也。爰弟子一人向女房許、示此由之処、不時刻臨病室。病者不頭送年月之間、鬢髪已如銀針、其児不鬼形。然而此女敢無怖畏之気。年来奉憑之志不浅。雖何事候争奉命哉。如此御身くつほれさせ不給之前、などか不仰哉云々。此時病僧被舁起、執念珠おしもみて曰、嬉しく令来給ひたり。八万余部之転読法華最第一之文、お前にたてまつる。俗を令生給はゞ、関白摂政を令生給へ。女を令生給はゞ、女御后を生み給へ。僧を令生給はゞ、法務大僧正を生み給ふべオープンアクセス NDLJP:46しと、祈畢即以命終云々。其後此女房寵愛于宇治殿之間、果奉京極大殿四条宮覚円座主云々。

惟成弁清貧之時、妻室廻善巧、不恥云々。而花山院令即位給之刻、離別之、為満仲之聟。因玆件旧妻成忿、請貴布禰祈申云、不忽卒、只今成乞食給へといひ、百ヶ日参詣之間、夢に示し給はく、件惟成無極幸人也。何忽成乞食、哉。すこしき有構事云々。不幾程、花山院御出家、惟成同出家、行頭陀云々。爰件旧妻弁入道、長楽寺辺にこそ乞食すなれと聞き得て、饗一前白米少々随身して、隠れ居て抱き入れて談往事。或哭或怨云々。入道承諾云々。

焼檳榔車之事、九条大相国、〈信長〉京極殿之上、拝太政大臣、有公事之日、着装束参仕之間、或人告云、関白被一座宣旨云々。仍今者不出仕とて、横榔車を引出大路之。

頼光於殿上、息男可蔵人之由蒙天気云々。知章云、我子既為進士雑色、乍置あしく被申哉云々。仍頼光忽帰参御前返之云々。

昔惟成之許に、文書之雲客等来集之日、只有四壁而市に餉を交易して、相具甘葛煎指出云々。又無侍件妻を、半物体はしたものていになして出したり。

惟成為秀才雑色之時、花逍遥に、一条一種物しけり。惟成には飯を宛てたり。而長櫃に飯二、外居に鶏子一、折櫃に擣塩一杯納之て、仕丁に令担て取出之。人々感声喧々。其夜与妻臥して、手枕入れて探下髪皆切之。此時驚き問ふ処、其時太政大臣と申す人、御炊に交易して、其長櫃仕丁して令担出云々。件妻敢無歎愁之気

常咲云々。件女後為業舒妻云々。順業は外孫也。高名歌読也。有郭公之名言云云。

 
古事談第二
 
 

この著作物は、1925年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)70年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。


この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。