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古事談/第一

 
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古事談 第一
 
 
王道后宮
 
称徳天皇□□□□□□□に被思召て、□□□□□□令之給之間、□□云々。仍

□□□□□□□小手尼〈百済国医師、其手如嬰児手見云、帝病可癒、手に塗油欲之。爰右中弁百川、霊狐也と云て、抜劒切尼肩云々。仍無療帝崩。

此女帝者、大炊天皇御宇天平宝字六年壬寅、落簪入仏道、法諱称法基尼、春秋四十五。同七年九月、以道鏡法師小僧都。元河内国人俗姓弓削氏也。法相宗西大寺義淵僧正門流也。□□□□□□□□。如意輪法験徳云々。

同八年甲辰十月九日、移大炊天皇於淡路国、国内官調庸等任其所用云々。即日重祚為称徳天皇

オープンアクセス NDLJP:11同九年正月一日即位。〈卅八〉。同七日改為天平神護元年。同十一月癸酉日大嘗会美濃越前供奉之。神護景雲二年正月以道鏡法皇、居西宮前殿、大臣以下百寮拝賀。

同四年八月四日、天皇於西宮前殿崩。〈五十三〉同七日葬之。山陵大和国添下郡。

続日本紀云、光仁天皇御宇、同廿一日皇太子令云、如聞道鏡窃挟詆粳之心、為日久矣。陵土未乾、姦謀発覚。是則神祇所護、社稷攸祐、今願先聖厚恩、不法入 刑、故任遣下野国薬師寺別当、発遣宜之。以正四位下坂上苅田麿、令道鏡法師好計也。同日大納言従二位弓削宿禰浄人配流土佐国。是道鏡之舎弟也。 〈宝亀三年四月於下野国道鏡卒去之由言上之。〉

淳和天皇御宇天長二年乙巳、丹後国余佐郡人、水江浦島子、此年乗松船故郷。爰閭邑浪没物皆不昔日。山川相遷、人居成淵。于時浦島子走四方三族、無敢知者。但有一老嫗、浦島子問云、汝何郷人乎。亦知吾根元哉。老嫗答云、吾生此郷而百有七年、不敢君事。唯吾祖父口伝云、昔水江浦島子、好釣遊海、永不還。其後不幾百年云々。浦島子聞此語。即雖還、神女処敢無。然于時慕神女彼所与之玉匣、紫雲出匣、起上指西飛去云々。但島子辞郷之後、経三百年故郷、其容顔如幼童云々。

此事浦島子伝云、雄略天皇廿二年、水江浦島子、独乗釣船、曳得亀於波上。眠於舟中之間、霊亀変化忽作美女、玉顔之艶、〔布イ〕威障袂而失魂、素質之閑、西施掩面而無色、眉如初月出娥眉山、靨似落星流於天漢水、纎軀雲聳、当散暫留、軽体鶴立将飛未翔。島子問云、神女有何因縁而化来哉。何処為居、誰人為祖。神女答云、妾是蓬萊山之女也。不死之金庭、長生之玉殿、妾之居処。父母兄弟在彼金闕、妾在昔世、結夫婦之儀。而我成天仙蓬萊宮之中、子作地仙於澄江波上。今感宿昔之因、来随俗境之緑也。宜向蓬萊宮、将曩時之志。願合眼。島子唯諾随神女語。須臾之間向於蓬萊山。於是神女与島子携到蓬萊宮。而令島子立於門外。神女先入告於父母、而後共入仙宮。神女衣香馥々似春風之送百和香。颯声鏘々如秋調之韻万籟響。島子已為漁父、亦為釣翁。然而志成高尚、凌雲弥新、心存強弱仙因健。其宮為体金精玉英、数於丹墀之内、瑶珠珊瑚オープンアクセス NDLJP:12於玄圃之表。清池之浪心芙蓉開唇而発栄、玄泉之涯頭蘭菊含咲而不凋。島子与神女共入玉房。薫風吹宝帳而羅帳添香、翡翠簾褰而翠嵐巻蓬、芙蓉帷開而素月射幌。朝服金丹石髄、暮飲玉酒瓊漿。九花芝草駐老之方、百節菖蒲延齢之術、妾漸見島子之容顔、累年枯槁、逐日骨立。定知外雖仙宮之遊宴、而内生旧郷之恋慕。宜故郷訪旧里。島子答曰、久侍仙洞之莚、常嘗霊薬之味。何非楽哉、亦非幸哉、抑神女為天仙、余為地仙、随命進退、当逆旨哉。神女与送玉匣、裹以五綵之錦繍,緘以万端之金玉。誠島子曰、若欲再逢之期、莫玉匣之緘。言畢約成、分手辞去。島子乗舟眠目、帰去忽以到故郷澄江浦

清和天皇嘉祥三年十一月廿五日為皇太子、誕生之後纔九ヶ月也。先是有童謡云、大枝を超えて、奔り超えて騰躍り超えて、我が護る田にて捜りあさる。食志伎雄々志伎十識者以為、大枝謂大兄也。其時文徳天皇有四人皇子。第一〈惟喬〉・第二〈惟条〉・第三〈惟彦〉・第四〈惟仁、清和天皇是也卜云々。〉天意若曰、超三兄而立、故有此三超之謡焉。此事見李部王重明記〈承平元年九月四日夕、参議実頼朝臣来、談及古事談文徳云々。〉

陽成院依邪気普通御坐之時、令璽筥給ひたりければ、自筥中白雲の起りければ、天皇令恐懼給ひて、令打棄給ひて、召木氏内侍、からげさせられたり。木氏内侍は、筥からぐる者也。近代は無之。又令宝劒給之時、夜御殿よんのおとゞの傍の塗籠中、ひらと閃めき光りければ、恐れ御座して、はたと打棄て給ひたりければ、はたとなりて、自らさゝれたりけり。其後更不脱也と云々。

陽成院御邪気、大事御座之時、依座儲君、昭宣公、親王達のもとへ行廻りつゝ見事体給ふに、他の親王達はさわぎあひて、或は装束し、或は円座とりて、奔走しあはれたりけるに、小松帝御許にまゐらせ給ひたりければ、やぶれたる御簾の内に、緑破れたる畳に御座して、本鳥二俣に取りて、無傾動気御座しければ、此親王こそ、帝位には即き給はめとて、御輿を寄せたりければ、鳳輦にこそ乗らめとて、葱花には不乗給りけり。依此事陣定之時、融左大臣有帝位之志云、被之皇胤者、融等も侍ると云々。昭宣公云、雖皇胤、給姓只人に被仕たる人、即位之例如何云云。融巻舌止。

オープンアクセス NDLJP:13小松帝親王之間、多借用町人物。御即位之後、各参内責申。仍以納殿物併被返与云々。

寛平法皇与京極御休所同車、渡御川原院、歴覧山河形勢、入夜月明。令下御車畳仮為御座、与御息所□□□□□□、開塗籠之戸出人声。法皇令問給、対云、融候。欲御息所。法皇答云、汝在生之時為臣下、我天子也。何漫出此言哉。早可退帰者、霊物忽抱法皇御腰、半死御座。前駆等皆候中門外。御声不及達。牛童頗近侍飡御牛。召件童舎人寄御車、令御御息所。顔色無色、足不起立。令扶抱乗、還御之後、召浄蔵大法師加持、纔蘇生云々。法皇依前世行業、為日本之王。雖宝位、神祇奉守護、追退融霊也。件戸面有打物跡、守護神令退入押覆也云々。

延喜聖主臨時奉幣之日、出御南殿、本自有風、笏着〔抱簡差イ〕拝之間、風弥猛。御屛風殆可顛倒。被仰云、穴見苦しの風や、奉神之時、何有此風哉云々。即刻風気俄止云々。

延喜野行幸之時、被腰輿之御劒の石付落失云々。希有事也。古物をとて大に令驚給ひてたかき岡上にて御覧じければ、御犬、件の石付をくはへて参りたりければ、殊に興じて令悦給ひけり。件劒敦実親王伝へ給ひて、身もはなたず令持給ひたりけり。雷鳴の時は自ら脱くと云々。京極大殿伝へ取りて持ち給ひたりけるを、白川院の聞召して召されければ、被進之後には、自脱くる事はなかりけり。大殿は令恐給ひて、一度もぬかせ給はざりけるを、知足院殿若く御座すの時、不堪不審、以或者ぬかせて御覧じければ、頗る峯の方によりて、金にて坂上実劒と云ふ銘ありけり。

延喜頃、上達部時服不美麗。朱雀院御時、或公卿遣消息於内侍許奏達云、先朝御時、恩賜之御下襲、年月推移処々破損。御下襲一領可申下者。

公忠弁頓滅、歴三ヶ日蘇生、告家中之人。我参内。家人不信、以為狂言。然而依事甚懇切、被相扶参内。参滝口戸事由。延喜聖主驚躁令謁給、令奏言、初頓滅之刻不覚悟、到冥官所、門前有一人長一丈余、衣紫袍金書状訴云、延喜聖主所オープンアクセス NDLJP:14為尤不安者。堂上有朱紫者三十余輩、其中第二座者咲云、延喜主頗以荒涼也。若有改元歟云々。事了如夢蘇生云々。因之忽改元延長云々。

貞信公参給朱雀院天皇御前之次、被申云、君をば、世間に頗ゆるく御座之由令申候云々。勅答云、故おとゞ〈昭宣公〉いはれけるとて、先代被仰しは、世間の政は如琴操云々。大絃急時者小絃不堪、我急ならば世以為何云々。

遷都以後、始内裡焼亡者、天徳四年九月廿三日也。人代以後者第三度也。難波宮之時一度、藤原宮之時一度也。

冷泉院の御即位者、於大内紫宸殿行云々。神妙儀也。主上頗例ざまにも不御座。於大極殿以行此事者、定見苦歟。小野宮殿高名此事也云々。

円融院子日の御幸は、寛和元年二月十三日事也。巳刻上皇御御車、令紫野給。左右丞相大納言為光・朝光〈左大将〉・済時〈右大将〉・中納言文範〈布衣〉・顕光・重光・保光・右近中将義懐 〈散三位布衣〉・参議忠清〈右兵衛督布衣〉・公季〈布衣〉・右近中将道隆散〈三位布衣〉・公卿悉騎馬、着直衣下襲以桜柏桃。左大臣進参野口御御駕。右衛門尉惟風・左馬允親平等、為御馬龓。殿上侍臣皆悉布衣、京路野辺見物車如雲。即御座御在所其御装束立幄敷板、又立簾台御簾。其中立軽幄〈南而〉、其東為公卿座〈南而〉、其幄東又立〈子午妻〉侍臣座。御前四方立屛幔、御前植小松。御在所幄後立膳所幄御厨子所。供御膳〈懸盤〉陪膳権中納言顕光、次居公卿及侍臣衝重、一巡之後、大納言為光以下侍臣等起座、執籠物十捧及折櫃四本御前。左大臣於御前之。各称名。〈左大臣所儲也。〉次居檜破子於御前、左大将正清・懐遠・時通・下官〈実資〉等所儲也。次召和歌人於御前〈先給座。〉兼盛朝臣・文時朝臣・元輔真人・重之朝臣・曽根好忠・中原重節等也。公卿逹称指召、追立好忠・重節等。時通云、好忠已在召人内云々。次左大臣召兼盛、仰和歌題之由。即献云、於紫野子日松者、以兼盛和歌序。此之際有蹴鞠事。左大将左衛門督重之・保光・義懐・道隆・藤原公季・余及殿上侍臣等、蹴鞠事及黄昏。仰云、至于和歌院可献云々。秉燭還御本院、召公卿於御前歌遊事。召余為和歌講師。左大臣以下献和歌。左府不献如何。左右丞相賜御衣。納言以下賜白褂。侍臣疋絹又給御随身。深更各分散。紫野之間、従内御使以右近少将信輔御訪、即召御簾外円座、申オープンアクセス NDLJP:15消息。余執禄被之。拝舞之間失礼太多。今日四位五位皆着綾羅如何。下官着白襖薄色奴袴等

円融院大井川道遥之時、御御舟給都那瀬。管絃詩歌各異其舟。公任乗三舟支度也。先乗和歌舟云々。又摂政召管絃船、被大蔵卿時中拝参議之由云々。非主上御前、奉法皇仰参議如何之由、人々多傾奇之云々。

花山院御即位之日、馬内侍為褰帳命婦。進奏之間、□□令入高御座内給、□□□ □云々。

花山院殿上人、冠を令取給ひけり。其中惟成弁奉取、関白参給ひけるに、不冠云々。関白〈頼忠〉問ひ給ひければ、みかどのめしたればと申しけり。仍不便之由被奏ければ、其後不惟成冠云々。

花山院御出家、寛和二年六月廿三日事也。子時許、主上私令御座所給。蔵人左少弁道兼・天台僧厳久候御供〈厳久候車側。殿久同車也。道兼騎馬云々。〉御花山即以厳久御頭給云云。此間右大臣〈法興院殿〉春宮、固諸陣出入云々。権中納言義懐・権右中弁惟成等後朝尋参花山寺、同以出家。未時許頭中将実資参入、即候御前。仰云、是已遂宿念也。全不世間誹謗。但尊号及封等事、更不受容。暫可横川者、中納言法師云、御在位之間、浴涯之朝恩、今遇辞退之時、若改従之誠者、本意相違歟。仍所出家也。〔爾イ〕朝市更無其益歟云々。惟成所陳同之云々。

此御出家之発心とは、弘徽殿女御〈恒徳公女〉鍾愛之間、忽薨逝。仍御悲歎之処、町尻殿得便宜、書世間無常法〈妻子珍宝及王位臨命終時随者等文也〉見、被申御出家事。諸共出家可御共申之由、被契申云々。而令御首給之後、申云、おとゞにかはらぬすがた、今一度みえて可帰参之由申して逐電云々。其時我をはかるなりけりとて、涕泣給云々。亦令御在所給之時、弘徽殿牛車〔手跡イ〕取り忘れにけり。還り入りて取らんと被仰ければ、道兼申云、劒璽已渡春宮御方云々。今はかなひ候はじと申しけり。又已欲出給之時、有明の月隈なき影をさすが、見所に思食して、立やすらはせ給ふの間、村雲の月の面を隠したりければ、我願已満と被仰て、貞観殿の高妻戸より令躍下給ひて、自北陣土御門を東へ令渡給云々。

オープンアクセス NDLJP:16栗田殿五ヶ月内、侍自五位少弁正三位中納言云々。

花山院御出家之時、天下騒動。有人申大入道殿。仰云、けしうはあらじ、よく求めよ云々。不騒給云々。

入道殿賀茂祭見物桟敷間、俄花山院闘乱の事あり。以職事検非違使之由。奏者申云、上卿誰人哉。仰云、如此急速大事、只称内侍宣也云々。此度院被下手人。入道殿仰使庁下部、昇院築垣上。院恐之被下手人云々。

一条院幼主御時、夏公事日、公卿等徘徊露台、披南殿北戸涼風。其時大入道殿為摂政。放袵奉主上、自掖戸指出給。諸卿、皆敬候云々。又云、私云、此儀あまり也云々。

大入道殿一条院御時、令職曹司給。参内之時、烏帽子放御袵、自玄輝門参入給。飛香舎宮御方改着冠、令御殿給云々。如此令参給之時、実資大臣為蔵人頭之時、於門辺奉逢、深〔猶イ〕居、入道殿捨袵令礼節給云々。

師殿参公庭之時、諸卿有敬屈之気、亦入道殿令参給時、皆恐隠云々。件事経任大納言、童殿上之時見之。

一条院御宇、源国盛任越前守。其時藤原為時附於女房書。其状云、苦学寒夜紅涙霑袖、除目春朝蒼天在眼云々。天皇覧之、敢不御膳、入夜御帳涕泣而臥給。左相府参入知其如_此、忽召国盛辞書候。為時令越前守、国盛家中上下涕泣。国盛自此受病及秋。雖播磨守、猶依此病遂逝去云々。

一条院御時、経六位史叙爵之者、其名相尹、春除目望申播磨国。但沙汰之外也。除目始めて執筆人、可播磨国之人を雖書付、其字一切不書付。其時奇怪之由有議定、件国所望の人の申文を、皆取集めて、次弟雖其名尚不書。件相尹之時、鮮被其名字了云々。是以観修僧正成就所望聖天供之霊験云々。或説云、長徳四年八月廿五日、以外記巡、佐伯公行任播磨守云々。件公行元播磨国之生云々。

一条院御時、喚諸卿、於御前渡殿東第一間、立地火炉、於清涼殿東廂庖丁。 〈讃岐守高雅・伊予守明順朝臣奉光等也。〉先供御膳、次給衝重。上達部盃酒数巡、殊召堪能之侍臣、以大乳垸オープンアクセス NDLJP:17云々。其後奏管絃。大納言道綱進出舞之間落冠。衆人解頤。右府〈顕光〉嘲詞云々。仍道綱卿放言右府云々。聴之者、或弾指或歎息云々。其詞いふ、何事云ぞ、妻をば人にくなかれてと云々。道綱密通右府北方云々。是即三位中将母也。人々歎息。道綱所吐不禽獣者也云々。

一条院御時。於清涼殿御酒宴之日、讃岐守高雅朝臣奉仕庖丁。左府抜竹台笋、石灰壇にて焼きて、強ひ申されければ、度々聞食しけるを、高雅朝臣微音に、本自もとより引戸はと云ひけり。

一条院御時、臨時祭試楽、実方中将依遅参、不挿頭花。逐加舞之間、進寄竹台許、折呉竹枝之。優美之由。満座感歎。依之試楽挿頭永用呉竹枝云々。

一条院御時、永延頃、相撲抜出日還御之時、左大臣雅信候御劒。右大臣為光候御筥云々。前頭中将実資朝臣云、内宴及臨時事、乗輿之時、大臣大将持候御劒其例、不大将之大臣、候御劒之事無例歟云々。摂政同有許諾之気云々。 〈寛和七年十月廿二日、還御本殿之時、諸卿候御供。左大将公季内大臣候御劒前行云々。若宮後一候院着袴日事。〉

一条院御時、長保頃、右中将成信・左少将重家、同心示合出家発心之根元、有杖座定之日。両人立聞之。一条左大臣一上にて、中納言面々吐才学きけるを聞きて、致奉公昇進せんと思ひけるは、身の恥を不存なりけりとて、共出家云々。先到霊山寺頭之後、共在三井寺云々。或説於三井寺慶祚阿闍梨室之云々。行成卿夢に、此重家可出家之由談り給ふと見て、御堂之御許に詣で逢ひて、かゝる夢をこそ見侍りつれと、談り給ひければ、少将打咲ひて、正しき御夢にこそ侍るなれと答へ給ひて、翌日剃頭云々。或説に云、此両人、三井寺慶祚の室に往合はんと契りたりけるに、中将はとく往きて待ち給ひけれど、夜更くるまで見えざりければ、自ら猶予の事などあるにやとて、先づ出家して暁帰らんとする時、少将は霜にぬれて来りけり。中将新発意、いかにやよべは待ちかね申してなん。先づ遂げ侍りにしと被示ければ、親にいとま乞はぬは、不孝之由承れば、伺ひ侍りしに、昨日しも便宜あしき事侍りて、暮れにしかば、日を違へじとて、よべ髪をば切り侍るなりとぞ被答ける。一条院崩御之後、御手習の反古どもの、御手筥に入れてありけるを、入道殿御覧じオープンアクセス NDLJP:18ける中に、慕蘭欲茂秋風吹破、王事欲章讒臣乱国と遊ばしたりけるを、吾事を思召して令書給ひたりけりとて、令破給ひけり。

知足院殿仰云、帝王は以慈悲心国也。上東門院の被仰けるとて、故殿〈大殿〉令語給ひしは、先づ一条院は、寒夜にはわざと御直衣を推し脱いで御座しければ、女院、などかくてはと令申給ひければ、国土の人民寒かるらむに、吾ばかりかくあたゝかにて寝たる、不便なればとぞ被仰ける。〈此事或説に、延喜仰云々如何。〉

三条院御時、資平卿殿上人比、参内自無名門之間、主上御于殿上御倚子。仍跪候地上。被仰云、可昇候小板敷者、随仰祗候小板敷。被仰云、御劒鞘有結付之物。是何物哉。汝有聞哉云々。奏云、至愚之身、難此事候云々。重仰云、猶可申者、奏云、不慥説。但或人申云、是若大刀契御辛櫃鑑歟云々。天気有感、後日召景理朝臣、主上被仰云、我問秘事衆人不答、而資平所申已相叶。尤所感思也云々。」三条院御時、入道殿参給、被申請事等不許、攀緑令退出給。以後敦儀親王喚之、親王於小板敷、乍立告勅喚之由。入道殿帰参云、如此之生宮達、立板敷上執柄人乎云々。経任卿説云、不帰参給、罵宮達直出給云々。

上東門院被後一条院御産之時、事外有煩ければ、入道殿さわがせ給ひて、自御所走出給ひて、御産事外令渋給。こはいかゞすべき。御誦経などかさねて可行也と被仰之間、御言未了に、有国申云、御産は已に成候ひぬる也。不重御誦経と申す程に、女房走り参りて、御産已に成り候ひぬと申しけり。事落居之後有国を召して、いかにして御産成りぬとは知りつるぞと、御尋ありければ、御障子を引あけて出で給ひつれば、障子は子を障ふと書きて候に、広くあき候ひぬれば、御産成り候ひぬと存候ひつるなりと申しけり。

後一条院未生給之間、万人入夜参帥殿、依主上一宮叔父也。後一条院生給之後、其事都絶云々。

後一条院御宇、小野宮右府、奉仕除目執筆之時、被於摂籙云、天暦旧臣実資申摂津国闕候。被七代奉公而可給云々。関白被天気。即勅許。国司には猶子資頼をなし候也とて、やがて被書入けりと云々。

オープンアクセス NDLJP:19万寿三年四月頃、女長七尺余、面長二尺余、乗船寄丹後国浦。船中有飯酒過之者、悉以病悩。仍不着岸之間、死去云々。

長元二年七月八日、出雲国降雪事、彼国奏状云。

  雪降状〈但深二寸許〉

右得管飯石郡司今日解状称、以去八日未時当郡須佐郷牧田村忽雪降、殖田三町余並野山草木悉損亡了。至于他所損失者言上如件。謹解。

  長元二年七月十七日

従五位上行守橋朝臣俊孝、正六位上行掾物部宿禰信憲、従五位下行介平朝臣〈朝直〉、依此事外記。仍進勘文状云。

推古天皇卅四年六月雪降者。

貞観十七年六月四日未時、黒雲蓋虚、官庁南門白雪花散者。

右件国史日記等、雖雪降之由、其後仔細旨無所見、仍勘申。

 長元二年八月二日 大炊頭兼大外記主税介助教清原真人頼隆勘申

右大臣〈実資〉一上、奉行此事、被進勘文云、

推古天皇並貞観雪怪、不行之事云々。今令愚案、彼両度六月雪降云云。是宮中令雪也。入秋節山陰道此異。仁王経七難中説、夏雪而入秋節雪、強非大怪歟。給官符於本国読仁王経、且於宮中攘災法宜歟。是内々所懐、彼時無御占。抑又可処分、尚是為彼怪所之異歟。勅云、給官符於出雲国、可読仁王経者。

治暦四年六月廿四日、肥後国阿蘇山降雪、深五六寸云々。

後一条院御時、踏歌節会出御之時、乍置三位中将〈師房〉大納言斉信卿、称驚蹕之事。権大納言行成卿、註其失錯於扇臥内。而子息少将行経取件扇参内。隆国相替自扇之、記父卿失礼事云々。及披露之条、斉信卿怨恨無極云々。行成卿云、為暦先註扇、為彼日事。而行経取之参内、後聞此事極不便云々。本自不快之中也。若作知顔多聞歟。斉信卿所怨尤可然。至失錯者可遁歟云々。」後朱雀院御誕生、五夜産養之時、左少将伊成〈入道中納言義懐息也〉陵礫之間。不其責オープンアクセス NDLJP:20右兵衛佐能信之肩、仍蔵人定輔伊成自緑突落、召集能信之家人髪踏臥、以続松欧陵云々。依之伊成後日出家云々。

後朱雀院御時、公基〈御乳母孫〉御書使之時、為装束、置御書於日記辛櫃上〈例事也。〉退下直廬之間、凶人以油懸御書、仍盗取有御所之薄様、裹替之云々。其後人成恐、或主殿司若令得意人守護之、或随身向直廬云々。勤御書使之人、雖我車、推乗陣人車小舎人云々。

経輔卿被打事は、寛徳二年正月三日、殿上淵酔間事也。頭中将俊家〈大宮右府〉放屁人閉口。其後頭中将橘をとりてならさんと被食けるが、ならざりければ、頭弁経輔微音に、是は不鳴といひたりける時、人々笑之云々。仍頭中将成怒、以笏打頭弁。依之頭中将被除籍云々。宇治殿聞此事、御堂子孫未除籍とて、申さんとて、令参内給ひたりけれども、被除の後なりければ、不申出退出給了云々。七日出御之頃、経長卿少納言之時、主上被仰云、件事非経輔之恥、吾恥也。吾運已尽也とて、令涕泣給云々。経輔卿只今候殿上之由、経長奏しければ、天気快云々。天皇其後不幾程、令腫物給ひて、同月十九日崩給云々。

後一条院御時、清暑堂御神楽、公任卿可拍子にてありけるに、臨時斉信卿の上に被座たりけるに、笏を差遣して、気色計譲る由をせられけるに、やがて笏をとりて被拍子云々。公任あへなく思ひて、始終聞之、無一失ければ、事畢つて後、いつより此事は御沙汰候哉と問ひければ、是までは公事なれば、習ひて候也と被答云々。

顕基中納言者、後一条院寵臣也。天皇崩給之後、忠臣不二君と云て、七々聖忌之後、登天台楞厳院落飾入道云々。発心之根源、天皇晏駕之期、梓宮不灯問其由、主殿皆依新主之事云々。聞此事忽発心云々。尋常之時常に詠白楽天詩、古墓何世人、不姓与_名、化為道傍土、年々春草生。又云、あはれ無罪配所の月を見ばや云々。住大原山決定往生人也。法名円昭。此人先登横川、落飾後住大原云々。出家之時、宇治殿訪問其室、終夜御物語ありけり。一言も今生事をば不申云々。宇治殿後世には、必令引導給へなど示し給ひて、臨暁帰り給ひなんとし給ひけるオープンアクセス NDLJP:21時、俊〔実イ〕は不覚者に候と被申けり。其時は何とも不思分、帰り給ふの後案じ給ふに、させる次もなきに、子息事、よもあしきさまにはいはれじ、不見放之由被命けるなりけりと思取る。雖遁世恩愛者猶難棄事なれば、思ひ余りて被云出たりけりと、あはれにおぼして、触事令芳心給ひけり。美濃大納言とは此人の事也。

後朱雀院御即位、内弁にて、大二条殿寝らせ給ひけるを、宇治殿、大極殿の辰巳の角壇上にて御覧じて、あはれ狛人にもせばやと被仰けり。玉冠にさがりたる玉ども、ちゝりうとなる程に、如法令練給ひけり。

同九月九日、内裏衛〈星第〉焼亡之時、賢所令焼失御了。内侍所女官二人、依夢相事、於焼跡出御体。残玉金之類、件所〔出イ〕新桶置神祇官云々。

後朱雀院依御薬危急、被位於春宮之時、新帝御事并新春宮御事等、宇治殿に被仰置之処、春宮御事被仰之時者、不御返事、有不受之色云々。おろかなるべき事にはあらず。心を不二君之由也。

寛徳二年二月頃、有白鳥〈羽長四尺許身長三尺〉住侍従池〈西七条云々。〉件鳥鳴詞有飯無菜云々。

後冷泉院御時、有卒爾之御遊、及祖楊時大二条殿着半臂。件日記云、今日予一人着半臂、衆人有恥色也云々。

後冷泉院御時、山鳥居竹台〈于時高陽院、〉忽召滝口某丸之、中之射落了。為怪鳥之故、射留之事有叡感、召寮御馬之。経信卿為頭之時、為御使宇治殿之。殿下令申給云。尤神妙。但不御馬、召内蔵寮如疋絹給也云々。経信卿帰参申此旨、天気頗遺恨、然而給疋絹了。

隆国卿為頭奉仕御装束、先奉主上□□□、主上令落隆国冠給。敢不事放〔取イ〕候。是毎度事也。

堀川左府参議之時、前斎院を奉取籠、亭に奉置たりけるを、天皇〈後冷泉〉は、令宇治殿給て、謬り申させ給ひけるを、春宮条院は〈後三条院〉事外令憤給て、あはれ吾一人が妹にてもなきものをと被仰けり。仍受禅之後、依其御意趣追籠給。〈不所帯云々。〉延久之間は 不召仕、六条右府などにも被超越云々。白川院御時被召出、大納言にもなされオープンアクセス NDLJP:22ける。前斎〔院イ〕は、人の妻に成り給へども無子息と云々。

後三条院春宮御時、御持僧成尊僧都奉問云、北斗御拝候哉。被仰云、毎月奉拝也。帝位のことなど非祈申、おもはじとすれども、自即位ある時など、思交事時々出来也。此条おんため不忠、恐申此事拝也云々。成尊聞此御詞涕泣云々。

実政卿為春宮学士之時、拝甲斐国守。赴任之刻、自宮賜餞別之詩歌

  州民縦為甘棠詠 莫多年風月遊

蓋郡伯受領下向之時、国民雲集挙愁、伯下馬分憂、其所有梨木、曰之甘棠〈仍受領曰分憂。〉 毛詩曰、甘棠莫伐、邵伯所宿也云々。

御歌、

   わすれずばおなじ空とは月をみよ程は雲井に廻りあふまで

後三条院春宮御時、末ざまになりては、令御烏帽子給云々。見敦光朝臣抄物。」大嘗会之時、代々令玉冠〈[#返り点は底本では二三一の並び順]〉は、応神天皇之御冠也。〈相具御礼服内蔵寮。〉後三条院御頭にめでたくあはせ給ひたりける。此事を常に御自讃云々。

治暦頃、取人妻、めにしたりける者ありけり。春宮御即位ありければ、此御時は、罪科にもぞ被行とて、返遣本人許了云々。

後三条院於二間御念誦之時、必令女房一人給。若可奏之事者、被二間前奏之由

延久善政には、先づ器物を被作けり。資仲卿蔵人頭にて奉行之云々。升を召寄せて取廻す云々。御覧じて簾を折り、寸法などさゝせ給ひけり。米をば穀倉院より召寄せて、於殿上小庭、貫首以下蔵人出納など見沙汰して、小舎人玉襷してはかりけり。本米をば、加美屋紙に包みてもて参りたりければ、叡覧ありて、被勅封てぞ、御持僧の許などへは遣されたりける。斛器は方櫃を差して、石を括つてさげて、おもしにて跨木に懸けて、於穀倉院、国々米をば被納けり。仍何石とは用石字也。件器石等于今在穀倉院

大宮右府、於後三条院御前、初被仕除目執筆之時、忘却して被前帝御前之由オープンアクセス NDLJP:23御気色似て御坐しけり。然間被出任人事之時、初思出新帝之由、深被恐懼云云。後日希有之事也と被語云々。

宇治大納言隆国、後冷泉院御在位之間、誇朝恩弐之故、奉為春宮、於事頗有奇怪事等云々。而受禅之後、為食多年之御意趣、於彼子息等、以事次罪科之由有叡慮。于時権中納言隆俊卿聞召参祇殿上之由、窃自小蔀覧之処、容顔勝於人、体骨超於倫。着座之後、更不顧眄、只正笏居。惣日々参仕陣中、公事一身奉行、殆如傍人。於末代無双之卿相也。若不召仕者、極朝家之損也と御覧じて、舎弟宰相中将隆綱を令侍事次之処、斎宮寮申。射殺狐。陣定之時、隆綱卿執筆書定文。其詞云、雖羽之号、未丘之実云々。叡覧此事之後、叡感之余、剰被近習了。於今者三男四位少将俊明可御素懐之由思食之処、忽内裏焼亡、主上駕腰輿出、御雑人等群入于南庭、無其隙之間、不御安座于御輿給。于時俊明朝臣頗遅参して、見于御輿給、自執弓走廻、敺雑人退散之時、則令安座御云々。入御之後被仰云、今日依俊明之徳恥。是依運之未_尽、俊明所参入也云々。如此間三人皆以為近臣、無肩人云々。

後冷泉院末、過差事外之間、至上官車用外金物、而後三条院代、始八幡行幸之時、留鳳輩見物、車外金物をぬかせられけり。中の金物は、依御覧之故、今に所用也。賀茂行幸之時、外金物車無一両云々。

後三条院令事倹約給之間、御扇骨、檜にて藍を塗りて令持給ひけり。

宇治殿建立平等院、宇県辺を多く寺領に被打入云々。後三条院聞召此事、争か恣にさる事あるやとて、遣官使検注之由被仰下けり。宇治殿聞召其由、平等院大門前に錦平張など打ちて、種々儲共用意して雖待、官使成恐不参向止畢云々。」後三条院は、犬をにくませ給ひて、内裏にやせいぬの穢なげなるがありけるを、取棄てよと蔵人に被仰たりければ、犬を令悪給ふとて、京中よりはじめて、諸国にて犬を殺しけり。帝きこしめして被驚仰れければ、又殺さずと云々。

或人云、鰯は雖良薬、不公家。鯖は雖賤物供御云々。後三条院は、鯖頭に胡椒をぬりてあぶりて、常に聞食しきと、範時語りけり。

オープンアクセス NDLJP:24後三条院、延久五年二月廿日、御幸八幡并住吉天王寺等〈女院一品宮御同道云々。〉経信卿書

之度也。同廿七日還御。其後御薬、四月廿四日御出家。〈中宮同御出家。〉五月七日崩御。〈御歳四十。〉 其時高房朝臣宅也。〈大炊御門南方里小路東也。〉同十七日御葬送。〈神楽園南也。〉源中納言資綱奉御骨云々。」宇治殿御出家之後、御坐于宇治之間、後三条院崩御之由聞き給ひて、止食立箸而歎息。是末代之賢主也。依本朝運拙、早以崩御也云々。後三条院宇治殿辺、於事殊無挙容。然而猶所歎息給也。

白川院、春宮の宮とて、康平の頃、十歳許にて御参内之時、座籍は何様の所にて可候哉と、春宮に被問ければ、うるせく問はせ給ひたりとて、乍感、孫廂などにてこそあらんずらめと被仰けり。さて自萩戸方参給ひければ、主上昼御座におはしまして、それへと仰事ありければ、広廂に御膝を突きて、ゐんとせさせ給ひけるを、大二条殿〈其時右大臣、東宮伝〉復御前に候はせ給ひけるが、これへと膝上にすゑさせ給ひてけり。後三条院、此事を始終うれしき事に思食したりけり。

白川院、延久四年十二月八日践祚。〈御年廿。〉同廿九日御即位。〈大極殿。〉同五年四月七日、行幸太上皇宮、奉聖躬不予。同廿一百太上皇依御悩、出家入道。此日中宮同落飾為尼。同卅日終日甚雨。然而依御悩危急、重行幸法皇御在所、院司勧賞云々。同五月六日、天皇先妣藤原茂子〈能信女〉皇后位、置国忌山陵。又故権大納言藤原能信卿贈太政大臣正一位。又外祖母藤原社子贈正一位。同七日太上法皇崩。春秋四十。同六年二月二日、宇治入道太政大臣薨。〈八十三。〉同八月廿三日、改延久六年承保元年。同十月三日上東門院崩。〈八十六。〉同十一月廿一日大嘗会、同二年八月十三日、法勝寺立桂上棟。同九月廿五日関白教通薨。〈八十六。〉十月十五日左大臣〈師実〉詔為関白〈依不審。事付之 白川院金泥一切経、於法勝寺供養期、依甚雨延引三ヶ度也。被供養日猶降雨。因之有逆鱗、雨を物に請入れて被獄舎云々。

六条修理大夫顕季卿、与刑部丞義光論所領。白川法皇無何無御成敗。匠作心中奉怨之間、或日只一人祗候御前。被仰云、彼義光之不審事如何。申云、其事候。

相論之習、何輩も我道理と思ふ事にて候へども、至此事者理非顕然候。末断之条無術事候也云々。又被仰云、倩案此事、汝は雖件庄一所、全不事闕。彼は只オープンアクセス NDLJP:25一所懸命之由聞食之、任道理裁許者、不仔細武士、若腹黒などや出来せんずらんと思ひて猶予也。只件所を避けてよかしと思ふ也云々。爰匠作及零涙、畏れ申して退出之後、召義光謁云、彼庄の事倩思ひ給ふに、某は又庄も少々侍り国も侍り、貴殿は一所被憑云々。不便に侍れば欲避也とて、不日書避文、取具券契義光了。義光有喜悦之色、起座移居侍所、忽書二字之退出了。其後無殊入来事。一両年之後、匠作自鳥羽殿夜退出、無共人纔雑色両三人也。自作道之程、帯冑甲之武士等五六騎計、在車之前後。不怖畏之情、以雑色尋問之処、武士等云、入夜無御共人御退出、仍自刑部丞殿、為御送以被_進也云々。爰心中思惟御計無_止。

知足院殿、与久我大相国、於白川院御前盃酌。関白二盃、相国三盃令飲給。其後院、今はさてとて令謝遣給。関白欲起退給之間、相国合眼、於関白申云、猿楽などこそ、給酒ていまはいねといふ事は候へ云々。院令咲給ひて、又被勧盃。其度関白二度相国五度令飲給。各退出云々。大相国猶おそろしき人也と、知足院殿令語給云々。

白川院夕御膳之時、侍従大納言成通卿候陪膳。御寝之間漸漏移、依更発脚気、片膝を立て候ひけり。法皇被仰云、宇治にいはれしは、於人前搔膝して居事、以外白気事也云々。御詞未了、成通卿逐電云々。

白川院為御方違、俄臨幸実季卿家。御引出物に、役優婆塞の独鈷を相伝して持ちたりけるを、殊に勝れたる唐錦一段に裹んで被進けるを、召して令還御了。世人奉謗云々。

白川院為御方違、渡御家保卿家之時、紫檀申の琵琶、〈署所謂食置之琵琶也、〉傍に銀琵琶一面を立並べてありけるを御覧じて、有不受之御気色還御云々。

白川院礼部禅門の事を、鳥羽院に令語申給ひて云、我は能職事共仕たる者也。通俊・匡房などは、近古之名臣也。雖然此雅兼は、更不彼等者也。熟知後性云々。

成通卿語云、雅兼事をば、白川院吐口令感給事、度々承之云々。

白川法皇殺生禁断之時、加藤大夫成家、不厳制、鷹を仕の由聞召して、仰使庁オープンアクセス NDLJP:26召之間、早速参洛、即参上御前、門前自身鷹を居ゑたり。下人二人同之。被召仰云、殺生禁断事宣下之後、及数年了。而何様を存じて、尚鷹をば仕ふなるぞ。已非朝敵哉。早可申仔細云々。成家申云、その事候。やどりにも鷹は今二三候也。然て下人候はでは、不相具。成家は刑部卿殿相伝之家人候。而女御殿供御料に、毎日に鮮鳥を被充召候て、若闕怠者可重科云々。源氏・平氏之習重科と申すは、被頸候也。猟の道は、獲る日も候。獲ざる日も候。決定可刎頸候へば、無甲斐命惜候之故、勅勘は縦雖禁獄流罪、命には依及、乍悦所馳参云々。以此旨奏問之処、仰云、さる白物しれものをは可追放云々。

堀川院御時、可野行幸之由、申白川院給ひければ、御返事云、我時者土御門左府など申す人侍りしかば、扈従をもし、和歌の序などをも書きて、于今有人口。瑶池周穆之昔、策駿馬而無休、汾河漢武之秋、携佳人以不忘などは、誰か書き候べきと、天皇又無申給之旨。左府可注、堀川〔本ノマヽ〕こそはと、独りごたせ給ひけり。右相公此序被合於国成〈師匠也〉之時申云、非和歌序体、似詩序云々。右相被命云、我不書詩、仍吾才学此時欲書云々。

永長〔元イ〕年大田楽事、或人記云、七月十二日参内、祈年穀奉幣定也。今日有殿上人田楽事、卅余人云々。〈頭弁依所労参〉装束或兼被仰定。紅帷有風流、以冠宮蓋笠、差貫有風流、田主蔵人少納言成定〈勅定〉火笠。流事外也。〈上多志目風流事外也。〉已上蔵人所調備〈一足〉顕雅・〈懸皷〉経忠・〈高足〉宗輔・〈懸皷〉 修理大夫顕季朝臣・右中弁宗忠朝臣・左中将顕実朝臣・兵衛佐実隆・侍従師重・少輔懐季・〈銅拍子〉前兵衛佐長忠朝臣・右少弁時範・民部大輔行信・治部大輔敦兼・〈佐々良〉兵衛佐師時・少将顕通・左馬頭師隆・因幡守長実・周防守経忠・蔵人盛家・〈小皷〉権弁重資朝臣・馬権助家定・民部権大輔基兼・美作守基隆等云々。〈吹笛〉右馬頭兼実朝臣・蔵人式部丞宗仲也。暫遊南殿次於上御曹司、数刻成其曲。秉燭之後引参一条院。深更又帰参内裏云々。予偸伺見之、宛如夢。世間事難計難知可以目云々。十三日今日一院殿上人田楽兼内殿上人之輩不供奉。但長実・経忠此二人猶参仕。依堪能云々。装束の風流思思、以籠内裏終夜田楽云々。上達部尻巻四人左兵衛督基忠・治部卿通俊・右兵衛督雅俊・宰相中将宗通等云々。皆直衣持高扇大物忌云々。如此日々夜々在々所々諸オープンアクセス NDLJP:27院諸宮、又殿関白蔵人所已下、郷々村々田楽或被貴所、或参詣神社云々。

堀川院御時、殿上人競馬には、左は打毬の装束、右は狛枠の装束を召してきせられけり。不普通競馬装束云々。

寛治の頃、行幸出御之時、左府已下列立つ。右府〈六条〉南殿の巽の角の右に尻を掛けて被座て、宿老の大臣帝祖などは、かやうにて居たるぞと被云けり。

寛治八年正月三日、朝観行幸。右大臣供奉之間、馬前左衛門尉盛重・左府生行俊等騎

馬超驤、恰如随身之人云々。又侍一人〈着藁沓・小舎人童一人〈入相子於火取之〉従馬後云云。

堀川院の御時、源氏殿上人数輩、於禁裏蹴鞠之事、俊忠列之。于時六条右府被参内。源氏殿上人等、皆以平伏。俊忠又同之。後日右府云、俊忠者若くおとなにてありけり。

鳥羽院法皇、登山御幸之時、前唐院実物御覧之時、諸人不知事有三ヶ事。古老僧徒猶不分明云々。而少納言入道乍三事之。一には杖の先に円なる物の、綿ふくふくと入りたるを付けたる物あり、人不知云々。通憲申云、是は禅法杖と申す也。

禅定之時、僧の所痛あれば、是にて腹胸などをつかへて居る物也。二には鞠の様に円なる物のちひさきが、投ぐれば声あるものなり。又人不之。通憲申云、是禅鞠と申す物也。同修禅之時、眠などするに、頂に置きてねぶり、傾く時は、落ちば鳴る也。それにおとろかん料の物也。今一は本の十文字に差したる物、人不之。通憲申云、是は助老と申す物也。老僧などのよりかゝる物也。大略脇足体の物に候と云々。諸人莫感歎云々。

鳥羽院御前にて有酒宴之日、刑部卿家長朝臣奉仕庖丁之間、可魚頭之由有仰事。其時或人云、魚頭は折櫃尻にて破り候也云々。可然之由有勅定。爰其人〈失其人座、御棚なる菓子中餅の入りたる折櫃をば、餅をば乍入隠之、うつぶせにおきたりければ、其上にて安く破れたりけり。有叡感云々。頓て餅をば、遂に人に見せずして、乍折櫃件人取除けてけり。家長は、此恩いかにして報ぜんと思ひけれど便宜もなかりけるに、件人御前の〔常イ〕灯搔上げんとて、かきけちて、しそくさしに行きオープンアクセス NDLJP:28たりけるまに、家長やをらよりて油をとりて、皆飲みて送り置くに、しそくさして帰参之時、家長寄りて見て、油のつや候はで、消えて候ひけりと被申たり。

鳥羽院御前、有酒宴之日、宰相中将信道、〈寵愛の人なり〉上戸而一両度之後、固辞尚被責仰之時、申云、冠の額のつめ候之間、不叶云々。気色実不便、上皇忽令着御之鳥帽子を取りて、是をせよとて給ひければ、左府御前に候。申伝へ給ひて、自が鳥帽子を取りて出で、小本鳥に着、件の御烏帽子俊房がをこそ、直にはいかゞとて、平礼の烏帽子を給ふ云々。

同法皇御坐白川殿、元日拝礼為織戸中門。御所体凡早拝礼有否沙汰之間、関白殿〈法性寺殿〉参給。顕時卿為院司、申此由。被仰云、非御所君也云々。仍拝礼如常。京極大相国被蜂之事、世以称無益事。而五月頃於鳥羽殿、蜂栖俄に落ちで、御前に多く飛散しければ、人々も、さゝれじとて逃げ騒ぎけるに、相国、御前に枇杷のありけるを一ふさとりて、ことのつめにて皮をむきて、さしあげられたりければ、蜂ある限りつきて散らざりければ、乍付召共人やわら捨てけり。院も賢く宗輔が候てと被仰て、令感仰せけり。

鳥羽院仰云、検非違使別当は、兼六ヶ事之者、任之官也。所謂重代・才幹・成敗・容儀・近臣・富有云々。

保延五年四月廿五日、斎王令本院給之後、次第使左馬助藤原敦頼与肥前権守俊保、同乗退出之間、於一条大宮、馬部数十人搦之、先引落自_車。俊保同被引張云云。然而於俊保者、放棄之。敦頼更返乗馬。馬部等囲繞之時、向中御門西洞院辺、停車申仔細於右兵衛督家成卿〈其時家成在西洞院中御門家云々。〉武衛酒宴之間也。馬部付侍申達云、去年不手振装束、馬助日来雖相尋逃隠不相逢。今日適搦取候、欲其装束如何。答仰云、可取者可取、不取者不取云々。是依中間不委沙汰之意也。馬部走還又引落敦頼、冠襪不一物取其装束。又牛車等同取之、追放敦頼。敦頼拘其摩良入小屋了。尋其由緒之処、去年敦頼奉仕寮使。依先跡手振装束、即可馬部等也。而敦頼云、今度装束依事不_諧、借用他人也。仍可返納。後日以代物、可馬部也。馬部等承諾又畢。其後馬部頻雖責乞、不其弁、或隠不之、オープンアクセス NDLJP:29渋。馬部訴右兵衛督。是依寮頭父也。武衛云、汝等不覚也。何不責取哉。仍馬部入敦頼宅、取立厩之馬。敦頼馳訴主君按察大納言。是依近隣也。 〈大納言三条南高倉東、敦頼三条東洞院。〉大納言家并左兵衛督家、下部等数十人出来、欲留件馬之間、依人数少、馬部二人被敺陵、其残一両逃脱已了。馬部臥左兵衛督門前〈与按察同宿按察差使搦件馬部二人、遣前河内守俊資宅〈後資右兵衛督後見之故也。〉俊資答云、何故可給預哉。可右兵衛督殿也云々。仍又遣右武衛許了。武衛残二人馬部を搦めて、給検非違使季範了。其後無音、而今有此事。廿七日敦頼装束等入其車、被按察許。答云、何可給哉。可主許也云々。敦頼依此事、号はたかの馬助

近衛院御時、宇治左府被内裏〈近衛殿〉直虚之間、於陣座桜人之人。妙音院入道参給直廬、聞之被申云、誰人哉尤有興云々。左府被仰云、成通卿也。依堪能唱哉。聞かんと思はゞ、近寄可聞云々。于時左大弁資信卿、同候直盧云、事違幾如此。於陣座歌事、以外事也。凡不左右、不聞給云々、仍不聞止了。

近衛院崩御之時、後白川院は、帝位韵外に御しけり、八条院をや女帝にすゑ奉るべき。又二条院の宮の小宮とて御座しけるをや、可付など沙汰ありけるに、法性寺殿、今宮の后腹にて御座しまするを乍置、争可異議と令計申給ひ、受禅と云々。

二条院御時、郭公充満京中、頻群鳴。剰二羽喰合落于殿上。取之被獄舎云々。依此怪異、月中天皇避位、次月崩給云々。

平治乱逆之時、師仲卿奉内侍所置家〈姉小路北東洞院西南角云々〉之車寄妻戸中、其体新外居 〈足高〉之上敷薦一枚、乍裹奉置云々。翌日奉出内侍一人・博士已下女官等仕之。奉裹替之後、渡御大内、供奉職事一人・近〔将イ〕二人云々。

白川院被仰云、吾是文王也。必以稽古大才文王。吾抽賞匡房、非文道乎、以尊文道則謂文王也云々。

 
古事談第一
 
 

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