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作者:一条兼良

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作者索引: い 一条兼良
(応永9(1402) - 文明13(1481))
一条 兼良(いちじょう かねよし)は、室町時代の公卿・古典学者。名は一般には「かねら」と読まれることが多い。関白左大臣・一条経嗣の六男。官位は従一位・摂政関白太政大臣、准三宮。桃華叟、三関老人、後成恩寺などと称した。享徳4年(1455年)頃、『日本書紀纂疏』を著す。応仁元年(1467年)9月に応仁の乱が勃発し、一条室町の邸宅と書庫「桃花坊文庫」が焼失した。応仁2年(1468年)8月に奈良興福寺大乗院に子で門跡の尋尊を頼って身を寄せた。奈良でも講書、著作に力を入れ、源氏物語注釈書『花鳥余情』を完成させる。のち斎藤妙椿の招きで美濃におもむき、文明5年(1473年)には『ふぢ河の記』を執筆している。文明9年(1477年)、応仁の乱が終息し、12月に帰京。9代将軍足利義尚や生母日野富子の庇護をうける。富子の前で『源氏物語』を講じ、『樵談治要』を義尚に贈り、政道の指南にあたると共に公武を問わず好学の人々に学問を教えた。— ウィキペディア日本語版一条兼良」より。

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