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三浦郡誌 (新字体版)/田浦町

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位置

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田浦町は、郡の東北隅を占め、三浦半島東部海岸の北極界をなせり。南は横須賀市に接し、北は久良岐郡六浦荘村に連り、西は逗子町葉山村に接す。

面積

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〇、六二方里。

広袤

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東西二十五町、南北一里あり。

区画

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今町内を区画して、浦郷、船越、田浦、長浦の四大字に分つ。

戸ロ

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大正六年十二月末日現在の戸数二千八百三十六戸、人口一万七千五百十六人男八千九百三十八人女八千五百七十八人を有す。

産業

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町は横須賀海軍工廠造兵部の所在地にして、工業地として著はれ、海軍職工その他同所に通勤する戸数は全戸数の半数以上を占む。今職業別戸数の数字上より本町産業の大体を観察するに次の如し。農作業本業二一四副業一九二 飼禽其他動物飼養業本業一副業一九八 漁業本業一二七副業八六 工業本業一、一六四副業六三六 商業本業五三八副業二七五 交通業本業四一副業三 公務及自由業本業四九七副業一六二 其他の職業本業一六七副業五六 にして、生産額は農産物四万六千参百参拾九円、林産物壱万四百円、水産物四万弐百参拾五円、畜産物七千五百六拾八円、工産物弐万五千八百五拾四円、総額拾参万参百九拾六円なり。本町の特種産物として石材あり。高取山より産し、年額四万円を超ゆ。

交通

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本町における道路の幹線は第四十五号国道にして、久良岐郡六浦荘村より浦郷に入り、船越、田浦の山間を通じて、横須賀市逸見に至る。その船越田浦における山路は狹隘崎嶇にして、行旅に便ならず、しかも本路線は横浜及横須賀市を聯絡する主要道路なれば、その便否は直に国防並に地方開発に関す。近時その路線の改修及変更の提唱せらるゝも偶然にあらざるなり。なお横須賀市に通ずる道路に浦郷より船越、田浦、長浦の海岸を経由して横須賀市吉倉に至る一線あり。これまた途中に峻坂ありて交通を阻害す。船越において、国道より分岐して逗子町桜山に至る道路を田浦地内県道と称し、甚だ平坦なり。本郡横貫道路の主要なるものなり。鉄道は横須賀支線逗子駅より来り田浦駅を過ぎ、横須賀駅に至る。町内丘陵蟠屈するが故に各部落の交通は必ず隧道に依る。その浦郷と船越との間にあるを梅田隧道と云ひ、明治廿年三月渡邊富太郎氏の斡旋に係る、浦郷地内榎戸と本浦との間にあるを筒井隧道と称し、深浦鉞切間にあるを鉞切隧道と称し長浦地内長浦田之浦間にあるを長浦隧道と言ひ船越田浦間にあるを田浦隧道と称す。

地勢

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この地は三浦半島の起首部に当り、三面繞らすに山を以てし丘陵到る所に錯雑し、海岸纔に狹長なる市街地をなせり。山に高取山、矢落山あり。高取山は西北方に聳えて最も高く、其脈西南に延びて逗子町及葉山村との間に屏障を成し、東走して海岸に至り、更に二分して、北に天神崎をなして、武相の国境を劃し、南に鉞切の突岬となりて海に入り、夏島となりて終る。矢落山は西南方に在り、高取山に続き、東北に延びて箱崎半島となる。高取山の麓に小流あり。流れて本浦の入江に注ぐ。此を高取川と云ふ。矢落山の麓には高熊川あり、長浦湾に注ぐ。本浦の入江は天神崎と鉞切崎との間に成れる湾曲にして、西に折れて北方六浦江に連る。鉞切崎と箱崎半島との間に長浦湾あり。箱崎半島の溝渠によりて横須賀湾に通ず。長浦湾は横須賀軍港の一部にして、その湾口に一支港あり、榎戸港といふ。榎戸港は回国雑記に其名を伝へたる港にして、半島北部における良津なり。

浦郷

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浦郷は町の最北端に在り。本浦もとうら、鉞切、深浦、日向ひなた、榎戸に別つ。本浦は最も北に在り高取川中央を流れ、東方海に開け、三面山に囲まる。前方に夏島、野島、金沢の風光を望む。鉞切は本浦の東南に在り、源範頼の匿れし地と称せらる。小字追浜には海軍航空隊を置かれ、飛行場を設けらる。日向、榎戸、深浦は榎戸港の沿岸に在り。一聯して市街を成せり、此地における著名なる神社寺院、史蹟は次の如し。

雷神社らいじんじや

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本浦に在り、火雷命ほのいかづちのみことを祀る。本社は雷電明神と称し、苗割ないわりの地に在りしを、天正九年十一月三日領主朝倉能登守景隆現在の地域に社殿を造立し、宝永四年九月酒井雅楽頭忠清修復す。現今の社殿はその後の造営なり。天正十九年十一月徳川家康社領二石を寄進し、代々継承したりしが、維新後社領を上地せり。明治六年村社に列せらる。

良心寺

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本浦に在り。当寺は久遠山大悲院と号し、浄土宗にて、京都智恩院の末寺なり。北条五代記に見ゆる犬也入道朝倉能登守は当寺の開基なりと伝ふ。犬也入道の諱は景隆、北条氏綱の臣にして、頗る馬術に達す。北条氏歿落の後結城秀康に仕ふ、その伝記は詳ならざれども、夫人大悲院(法誉良心)は天正十一年六月十一日に卒去せりと伝ふれば、或はその菩提の為に開基せしか。夫人の墓は境内に存す。維新前寺領十五石を給せられしに徴して、その寺格の盛大なりしを想見すべし。新編相模国風土記稿所載の古文書三通は今亡失して存せず。天正十八年小田原陣の制札を存す。

陣屋蹟

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良心寺の東方に在り。広サ一町五段餘、今陸田となれり。その後方の山を御蔵おくら山と云ひ倉廩の在りし地と伝ふ。西南方に首切塚と称する地あり、刑場の跡なり。又御蔵山の麓の林籔中に牢獄の跡あり。この地は初め朝倉氏居舘の跡にて、後酒井雅楽頭の陣屋となり、寛延三年松平大和守朝矩当地を知行せし後もその陣屋ありしが、文化九年八月松平肥後守容衆海岸防禦の為め本郡を領し、当陣屋を撤して浦賀町鴨居に移せり。その後の沿革は詳ならず。新編風土記には歴然松平大和守矩典陣屋とあり。或は文政四年海岸防禦の方針変更し、従来松平大和守の管理せし観音崎砲台は浦賀奉行の所管に移りたれば、鴨居陣屋の必要を認めざるに至り、撤廃して再び此地に移せしならんか。

夏島

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鉞切の沖合、百餘間の海上に在り。宛然玉を磨けるが如き小島にて。緑樹蓊欝として繁茂し、野島、金沢の風光と映発して近傍の風景に、眼晴を点ず。明治十七年伊藤博文公の帝国憲法の起草に従事するや、この島に別墅を設け、伊東巳代治、平田東助数氏と共に、研鑚の労を積まれしことは、世人の知る所なり。嘉永六年六月、北米合衆国使節コモドル、マツシユー、シー、ペリー氏の江戸湾に入るや、浦賀港の地理不便なるを以て、金沢附近の小柴沖を艦隊根拠地となし、アメリカン、アンコレツヂと命じ、その前面の島、即ち夏島をウエブスター島と名づけたり。ウエブスターは当時米国において、東洋経営を熱心に唱導したる学者なり。この島は冬季積雪を見ざる故夏島の名を得たりといふ。島の附近に有名なる牡蠣の養殖地あり。

亀島

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榎戸港口にあり。此地に明治十年西南役に従軍したる戦死病歿者の墳墓あり。官修墳墓地なり。

共楽園

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日向にあり。町の特志家田川平三郎氏の経営する公園にして、花奔草木の種類極めて多く、散策玩賞して、労を医するに適せり。

(範頼に関する伝説)

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源範頼は、源頼朝の末弟にして、蒲冠者と称す。兄頼朝を援けて、平氏討滅に従ひ、須麿、壇の浦に偉功を樹てしも、後頼朝に疎んぜられ、建久四年伊豆修善寺に害せらる。この地に匿れしこと、史実にあらざるが如し。伝説に依れば、建久四年八月二日、範頼修善寺を逃れ、此地の郷士須田某に寄りしが、二十四日、隣郷金沢の瀬ヶ崎なる太寧寺において自尽せりと云ふ。

 太寧寺は海蔵山と号し、臨済宗の寺にて、寺後の林中に範頼の墓と称するものを置けり。浦郷に蒲ケ谷なる地名及苗字の存するは、蒲冠者に因めるなりと伝ふ。

船越

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船越は田浦町の中央に位し、旧船越新田と浦郷村字駒寄、皆ヶ作、梅田、及田浦村字牛ヶ作、しふはう並に海岸埋立地の合併せる区域にして、その位置は長浦湾に臨み、田浦町役場田浦郵便局警部派出所憲兵分遣所小学校補習学校等ありて、町政上の首区をなせり。又横須賀防備隊横須賀海軍工廠造兵部等の軍衙あり、市街甚だ賑へり。

(新田の沿革)

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新編相模国風土記に言ふ、「当所ハ浦郷田浦二村ノ際ニテ、昔ハ入海ナリシガ、年ヲ追フテ漸ク埋レル地ナリ。宝永ノ頃団右衛門ト云者、新墾ノ事ヲ企、海面ニ浪除ノ堤長八十二間ヲ築キ、高三十四石餘ノ新田トス。田浦村ノ小名船越ニ続ケル地ナレバコレヲ村名トス」と。しかして同書に「村内民家ナク、田浦村ノ民来テ耕作ス」とあり。明治十年の戸籍簿には船越新田に僅かに一戸を記するのみその寒疎なる田園たりし状想見するに難からず、然るに明治十七年海軍水雷営を置かれ、次で兵器工場を設けられしより、急激に発展し、現時においては郡内屈指の熱閙地に変化せり。その初め、不毛の沮洳を拓きて、利用の道を講ぜし、団右衛門とはそも如何なる人か。

 団右衛門一に段右衛門と書す。隣郡久良岐郡六浦むつらさう村泥亀新田の開発者永島祐伯の通称なり。永島氏姓は日下部と称し、その先は但馬の人なり、世々医を業とし、祐伯の父道仙来りて、幕府に仕へ、法眼に任ぜらる。祐伯は泥亀と号し、金沢に卜居す。その他斥鹵多きを見て、平潟及走川の二所を相して開発し、水田及塩田若干町を得たり。六世の孫成卿また入江新田を墾き、総称して泥亀新田といふ。その後来りて船越新田を開墾し、幾くもなく他に譲れり。船越新田の開発は年時明ならず。風土記に宝永とし、浦郷村郷土誌に元禄とす。祐伯の歿後元禄十三年関東に大地震あり。平潟、走川の田堰破れて潰廃す。成卿、勉めて此が恢復を図り、旧田を復し、入江新田を新墾す。天明六年に洪水あり、新旧の田悉く廃す。成卿益々奮励して廃田復興に力を致せしが、寛政三年海嘯の来襲すること再度、田は変じて海と化するに至れり。成卿の孫に亀巣あり。亀巣名は忠篤、通称段右衛門と称し、父を忠高といふ。少時より志気あり、年十七にて名主見習となり、父を輔けて新田を復せんとす。然れども、泥亀新田は寛政の荒廃以来、五十年間一粒をも穫ること能はず、船越新田もまた既に他人の手にありて、家計甚だ困難なり。依りて亀巣は薪を採りて江戸に鬻ぎ、或は鰮を買ふてその油を搾取し、これを販きて僅に飢餲[1]を免る。斯くして艱難に耐えつゝ自ら土を担ひ、堤防を修築すること二十年、官命ありて廃地となるべきを懇願して寛仮を得、隣傍の妨害を排して、拮据十餘年、終に悉く廃地を復し、新に平潟に塩田を開き、船越新田を償還し、克く先志を紹ぎて、これを大成したり。泥亀及亀巣の事蹟は民政志稿殖産経済篇に載す。本文また此に拠れり。

 田浦町立船越工業補習学校。県下の補習教育の施設及成績の優れたるものとして、甞て選賞せられし本校は、明治三十九年四月開校し、初め尋常高等船越小学校に附設せられし実業補習学校たりしがその設備能く土地の状況に適合し、逐年発達して、遂に附設を以て経営すべからざるに至り、大正四年その組織を改めたり。本校は海軍職工及海軍職工志願者に対し、これに必要なる智識技能を授け、併せて普通学の補習を施すを以て目的とし、本科、簡易科、高等科、專修科の四科に分れ、本科は横須賀海軍工廠見習職工及其他の高等小学校卒業者、若くは尋常小学校卒業者にして、此と同等以上の学力を有するもの、簡易科は同く見習職工及其他の尋常小学校卒業者、高等科は本科卒業生及此と同等以上の学力を有するもの、專修科は見習職工以外の尋常小学校卒業者、若くはこれと同等以上の学力を有するもの入学することを得。その修業年限は本科及簡易科は三ヶ年、高等科は一ヶ年、專修科は六ヶ月乃至一ヶ年なり。海軍工廠見習職工教育規程に拠る依托生徒多数にして、本校卒業生は海軍職工として、有望なる将来を有する故、当町及附近小学校卒業生の入学を希望するもの、比年倍加せり。又海軍工廠造兵部の見習職工は全部本校において教育せらるべき内規を定められ、本校における課業は工場内作業の一部と定められし故、生徒の規律甚だ整ひ、優秀なる成績を示せり。

田浦

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船越の東南に連り、小字谷戸及浜に分る。田浦停車場海軍水雷学校海軍工廠兵器庫あり。

長浦

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長浦は田浦の東南に連る。田浦停車場より南に墜道一つ過ぐれば、長浦なり。箱崎半島南方に斗出し、その南側の部落を田ノ浦と云ひ、北側の部落を長浦といふ。

吾妻社

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田ノ浦谷戸と称する地にあり。日本武尊並に橘媛命を祀る。もと箱崎半島の中央吾妻山々上に在りしを、明治三十三年二月現地に遷せり。「お吾妻様」と称して、漁業者及婦人の信仰厚し。村社なり。

神明社

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西ノ浦浜に在り。今無格社なれども、維新前は長浦村の鎮守にして、箱崎明神と称し、箱崎半島に在りき。当社所蔵の棟札に「奉建立伊勢天照太神宮、相州三浦郡長浦之村、文禄四稔五月四日大檀那鈴木雅楽助」とあり。郡内にて創立の古き神社に属せり。

註記

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  1. 「飮のへん+曷」、第 4水準 2-92-63