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三浦郡誌 (新字体版)/浦賀町

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位置

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浦賀町は、三浦半島東部海岸の中央部に位し、横須賀市の東南に連り、西南は久里浜及衣笠の両村に対し、北方及東南方は東京湾に臨む。

面積

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約一方里、

広袤

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東西一里二十一町南北三十五町あり。

区画

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今全町を区画して、宮下、新井、洲崎、新町しんちやう、大ケ谷、築地古町、築地新町、芝生、荒巻、谷戸、高坂、田中、紺屋、蛇畠、浜町、川間、久比里、吉井、大津、走水、鴨居の二十一大字に分つ。

戸ロ

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大正六年十二月末日現在の戸数三千百五十戸、人口一万八千三百四十七戸男九、五一六人女八、八三一人を有す。

産業

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町は浦賀船渠株式会社工場の所在地にして、造船業盛なり。今職業別戸数を通覧するに。農作業本業三一〇副業四八〇 飼禽その他動物飼養業本業五副業二五〇 漁業本業一七〇副業二五〇工業本業一、六六四副業七五〇 商業本業五六五副業二〇〇 交通業本業六〇副業五 公務及自由業本業一一〇副業一五 その他の職業本業一五六副業〇にして、生産総額三十万一千八百十五円、内農産物九万九千百八円、林産物三千円、水産物十八万九千三十円、畜産物九千四十二円、工産物一万六千三十五円なり。本町は古来商港として著名にして、物資の集散盛なりしが、近年浦賀船渠株式会社勃興して、工業地として発展するに至れり。浦賀水飴、鹿尾菜、和布は夙に名産として名あり。

地勢

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本町は、北東方大津の海岸にやや広濶なる平地を存し、その他は概して、低平なる丘陵延亘し、山勢海に迫りて、平地甚だ少し。三浦半島の地勢は、この地において、最も怒張し、東海上に著名なる突岬を為せり。則ち観音崎これにして、三浦半島の極東に当る。観音崎の北に旗山鼻あり。観音崎と旗山鼻との間に小沙湾あり。走水の漁澚[1]なり。その西南辺一帯に小原台の山脈を帯ぶ。観音崎の南に鳥ケ崎あり。それより観音崎に至る間は、海岸の地勢起伏して、その沙浜をなす所に鴨居、腰越等の部落あり。鳥ケ崎の西に明神崎あり。浦賀港の東岸にして、その北角を為せり。浦賀港は港口約一鏈半の幅員を有し浦賀港の西岸にして、南角をなすものを燈明堂の鼻と云ひ、平根山に続く。その南に千代ケ崎あり。千代ケ崎は久里浜湾の北角をなせり。

交通

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横須賀市より来れる三浦県道は、大津の海岸を通じ、矢ノ津坂を越え浦賀港に達し、その西岸において南折し、久比里坂を経て、久里浜村に至る。郡内においては最も交通発達し、横須賀市との間に、自働車、馬車の便あり。人力車の数も極めて多く、又南方三崎町に至る馬車もあり。海上は汽船の便ありて、東京、三崎、房総地方と往来する事を得。

大津

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大津は町の北偏に在り。横須賀海軍監獄海軍射的場陸軍重砲兵射撃学校陸軍練兵場尋常高等大津小学校等あり。街道には人家櫛比して、横須賀市公郷の堀内と云へる地に連れり。東方は東京湾に臨み、海岸に新宿、矢ノ津、馬堀の聚落あり。陸方に竹沢、宿、原、井田、蛇沼へびぬま保込ほうめ、根岸、池田等の部落あり。海は遠浅にして、水清く、夏期海水浴に適せり。

貞昌寺

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竹沢の山間に在り。竹林山と号し、臨済宗にて、鎌倉円覚寺の末寺なり。古は吸江庵と号し、開山は南山士雲にして、正慶二年の創建と伝ふ。寛文年間庵主一翁の時、地頭向井将監正方その母貞昌院高雲素閑尼追福の為、堂宇を再建して一寺となし、法号の貞昌を以て寺号とす。当時は現在の境内よりなお数丁の山中にありしが、安永三年六月寺主天洲地頭向井将監正香に請ひ、今の地に遷せり。貞昌院は寛文三年九月に卒し、墓は寺内の墓地に在り。寺後の山上に正方夫妻の墓あり。

向井正方の墓

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向井正方は徳川幕府最初の船奉行向井将監正綱の後なり。左近将監忠勝の五男にて、寛永十八年十二月父忠勝の遺跡の中、郡内にて千石の地を分賜せらる。大津は正綱以来代々向井氏の領地にて、その隣地走水は江戸城の咽喉に当り、江戸湾防禦の要地なり。向井氏は代々船奉行の職を継承して幕府に仕ふ。故にその邸をこの地に設け、以て急に備へしにあらざるか。正方の墓は貞昌寺の後山俗に御廟所山と云へる山頂に在り。高凡六尺。正面に「大通院義山浄節居士、俗名向井氏将監源正方、相州三浦数ヶ所領之」の文字を刻し、右側面に「向井氏左近将監源忠勝五男」左側面に「延宝二歳七月十日」と刻せり。墓は西北面し、その左方に又一基あり。正面に「霊徳院心鑑自照大姉、服部氏従五位下玄蕃頭源冬(一字不明)女。向井氏将監正方内室、同式部(二字不明)母 」と刻し、左側面に「寛文十年九月十四日」と刻せり。墓は二基共に宝筐院形と称する形式にて、天葢部の下面に銘文を彫りたるも、風餐甚しく能く読み難し。

陣屋跡

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海軍射的場の西方の一廓を云ふ。文政四年川越藩松平大和守矩典海岸防禦の時初めてここに営所を置く、後安政元年細川越中守、万延元年堀田相模守の陣営となり、慶応三年浦賀奉行の司管となり、明治初年海軍提督府の敷地となり久しからずして廃す。山鹿高補の相州浦賀巡覧私記に「大津ノ海岸ニ、三貫目砲三挺、車台ヲ附シ仮屋ヲ設ケテ備フ。新調ノ砲ナリ。此処ニ川越侯ノ陣営アリ。当時司命ノ将多賀谷左近、次将小河原左宮、永山刑部在陣ス、弘化四年五月十五日」とあり。禺干日録にまた「一路高低、崖上の累石、崩墜せる者欹仄せるもの、横列せるもの、直柝せるもの、危険畏るべし。平坦の処多くは芋菽蕎麦を種う。山腹処々に人家を見、遥に瓦屋層起するを望む、旗影風に翻る、即ち川越侯の営所なり。戍士妻子を将ゐて此に舎る。」とあり。以て当時の状を知るべし。

走水

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大津の東に連り、町の東端に在り、西南一帯に丘陵を負ふ。これを小原台と云ふ。東北の二面海に臨み、上総の木更津富津との間三里を隔てゝ相対す。東北に旗山鼻、東南に観音崎突出す。東京湾の潮流は概ね湾の中央に強流し、その強力は富津猿島及観音崎附近において増加す。殊に観音崎附近において奔潮急流せり。地名は蓋しこれに基くならん。天平七年の文書に早く御浦郡走水郷の名あり。古事記日本書紀にもまたその名を載す。郡内の地名中最も古く記録に現はれしものなり、この附近は海岸の眺望優美にして、風色甚だ佳麗なり。

走水神社

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走水中央の山腹に在り。日本武尊、弟橘媛命を祀る。古は走水権現と称し、走水一村の鎮守なり。明治六年十二月郷社に列せられ、四十一年十二月幣帛神饌料供進神社に指定せらる。

(走水神社の由緒沿革)

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祭神日本武尊は景行天皇の皇子にましまして、御幼少より勇武絶倫におはしましき。かつて熊襲の叛けるに、天皇尊に命じてこれを討たしめ玉ふ。尊時に御年漸く十六歳、深く敵地に入り、詳に地理を察し、女装して賊魁に近き、遂にこれを刺殺して、熊襲を征服し玉へり。後天皇の四十年東国の蝦夷叛す。天皇復た尊に命じて討たしめ玉ふ。尊発するに臨み、伊勢大神宮に参拝し玉ふ。姨倭姫命為に宝剣と燧袋とを贈る。相模の国に到りしに、相模国造狩猟に託して広野に尊を導き、四方より火を放ちて害し奉らんとす。尊則ち宝剣を抜き、草を薙ぎ玉ひ、向火を放ち却りて賊を平げ玉ふ。本県愛甲郡小野村はその故地なりと伝へり。宝剣は草薙剣の名を得て、熱田神宮に斎祀せらるゝものなり。それより上総国に赴き玉はんとして、走水の海を渡り玉ふ。偶々暴風起り、波浪狂騰して、御船危し。時に妃弟橘媛命船中に在り。命は穂坂氏忍山宿禰の女なり。進みて尊に啓して言ふ「風起ち浪泌し、御船覆らんとす。是れ海神の心なり。願くば我が身を以て尊に代へ奉らん」と言終りて海中に入る。風浪俄かに鎮まり、御船進むことを得たり。日本武尊の御偉業は、歴史上に赫灼として光輝を放てり。弟橘媛命の貞烈は今に婦徳の模範として欽仰せらる。後世その威烈と美徳とを景慕して、その旧跡に神社を創建して、崇敬せり。

(走水神社に関する伝説)

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古事記に「それより、入りいでまして、走水の海を渡ります時に、その渡りの神浪を興てゝ、御船たゆたひて、御進み渡りまさず、かれ、ろ難読の后名は弟橋媛命白し玉はく、われ御子に代りて海に入りなむ。御子は所遣まけの政遂げて応にかへりごとし玉ふべし。とまうして、海に入りまさむとする時に、菅畳八重、皮畳八重、絁[2]畳八重を波の上にしきて、その上に下りましき。是において、その暴浪自らなぎて御船え進みましき。かれ、その后の歌はせる御歌に「さねさし相模の小野に燃ゆる火の、ほなかに立ちて問ひし君はも」かれ七日ありてのちに、その后の御櫛海辺に寄りたりき。乃ちその櫛を取りて、みはかを作りて納めおきき」と。これ弟橘媛命御入水に関する伝説の最も古きものにして、当地にはこれに関する種々の地名伝説あり。明治六年五月第十五大区長の上申せる走水神社由緒書上に「日本武尊東夷御征伐の刻、当国阿分利山より総の国御渡海の要口御遠見の上、当郡走水村へ入御、日数十日程御止沓、其より上総国木更津村へ渡御、洋中の御危難、橘媛御入水の古事偏く知る処、古事記に地名走水、日本書紀に走井馳水の誤と相見へ候由、口碑に御座船(走ること)速なるを以て、水走ると御意あり、故に走水と名く云云御滞在中、御旗の御居場を今に旗山と唱へ、同山絶頂に旗立松の称、数代の今に至り植続有之候。土人渡御の御名残惜慕により、御冠を下賜、右御宝冠を御座所に埋め、走水神社と勧請し奉り、往古よりこれを拝せし者とては無之との事に候へども、今に神殿下に石櫃蓋と称し、現に有之候。又橘媛命御入水の後、御衣帯諸浦に漂着、御櫛木更津浦へ流着き勧請の由、因て御二神を御夫婦神と唱へ、起元何の謂なるは不知、当方出火すれば、彼方に火災あり、彼方出火の時は此方火災ありと、因て一方出火之節は相互に篝を焚くの古習今に存在す。走水、木更津の両村を夫婦村と里俗申伝の口碑に御座候」とあり。旗山は北方に在り。海岸に突出せる小山にて、その岬を御所崎といふ。旗山は尊の旗樹てられし所、御所ケ崎は御座所を設けられし所と伝ふ。旗山には旗立松と称する老松ありしが、砲台築造の時伐採せられ、その一片は故海軍大将上村彦之亟氏によりて鎌倉田辺の日蓮雨乞堂の扁額に用ゐられたり。御所崎より海中に数島あり伝島つたしまと云ふ。伝島の最端をむぐりの鼻と云ふ。命の侍女伝島を伝はり、むぐりの鼻より海中に入りて命に殉じたりと伝ふ。御所崎の北に皇島あり。尊の乗船せられし所と伝へ、走水神社正面の海中に御座島あり、これ尊と命と御訣別ありし所と伝ふ。

弟橘媛命紀念碑

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走水神社の後背丘上に在り。位地高燥にして、近く走水の漁港を俯瞰し、遠く房総の諸山の靉靆たるを望む。碧波静かにして白帆緩く眺望甚だ佳適たり。碑は伊豆石にて作り、高さ一丈四尺、正面に「さねさし」の御歌を鐫る。御歌の文字は竹田宮昌子内親王殿下の御染筆なり。碑は明治四十三年六月五日に幕を除かれたり。その建設せられし動機には一場の佳話あり。もと走水神社は日本武尊のみを祀り、弟橘媛命は橘神社とて旗山に祀りたり。その祭祀も維新後の事に属し、それ以前には弟橘媛命を祀れるは、郡内においては、田浦町の吾妻神社ありしのみ、明治十八年旗山が陸軍用地とあ難読りたれば、橘神社を遷して走水神社に置き、四十三年同社を走水神社に合併するに及びて旧社殿を撤廃せり。時に掌侍小池道子刀自煙霞療養のため葉山村に在り。一夕男爵高崎正風氏に会し談半島の史蹟に及び、懐古の情頻りに起り、他日共に携えて走水神社に詣で、橘神社の倭陋見るに忍びざるを慨き、帰途横須賀鎮守府官舎に時の司令長官海軍中将上村彦之亟氏を訪ひ、その遺蹟顕彰のことを議りしが、あたかも神社合併の行はるゝに際したれば、記念碑建設に决し、海軍大将東郷平八郎氏委員長となり、海軍大将伊東祐享、陸軍大将乃木希典の諸将軍発起の下に建設せらるゝに至りぬ。碑の裏面にその由来を記す。「嗚呼、此は弟橘比売命、いまはの御歌なり。命夫君日本武尊の東征し給ふに伴はれ、駿河にては危き野火の禍を免れ、走水の海を渡り給ふとき、端なく暴風に遭ひ、御身を犠牲として、尊の御命を全からしめ奉りし、このいまはの御歌なり。御歌に溢るゝ真情は、すべて夫君の御上に注ぎ、露ばかりも他に及ばず、其貞烈忠誠まことに女子の亀鑑なるのみならず、また以て男子の模範たるべし。平八郎等七人相議り、同感者の賛成を得、記念を不朽ならしめんと、御歌の書を常宮昌子内親王殿下に乞ひ奉り、彫りて此石を建つ」と。発起人七人は海軍大将伯爵東郷平八郎、海軍大将伯爵伊東祐享、海軍大将子爵井上良馨、陸軍大将伯爵乃木希典、枢密顧問官兼御歌所長男爵高崎正風、海軍中将男爵上村彦之亟、陸軍中将藤井茂太の諸名士にして、その一人一字に成れる忠貞節義耀万古の扁額は、走水神社の社宝として珍蔵せられ、又有栖川宮大妃殿下及び宮中女官数氏の献詠を蔵せり。

有栖川大妃宮殿下
わたつみの底より深き御心はなきにし浪にあらはれにけり
あたなみに身を沈めてもとこしへに花たちはなの香こそしるけれ 有馬頼寧氏夫人
身をすてゝ波をしつめしをゝしさはますらたけをにおとらさりけり 柳原典侍
君かため花たちはなのみをすてゝあらき波をもしつめけるかな 高倉典侍
あはれ身はさかみのうみに沈みても世にたちはなの香こそ高けれ 小倉権典侍
あらなみに身をしつめてやむくひけんほなかにとひしみこのなさけを 小池掌侍
うかひけんその爪櫛やあたなみをしつめしたまの行方なるらむ 生源寺権命婦
今も血に啼きてそ惜むほとゝきす花たちはなの散りしむかしに 高崎正風
みこのため水に入りしはむかひ火の神のいさをにおとらさりけり 同氏
身を捨てし君か誠によりてこそ皇子の御船は岸に着きけれ 坂正臣
橘のみを沈めけり相模の海波はやまとそ立ちまさるべき 千葉胤明
燃ゆる火のほなかに問ひし御心の深き海にや身を沈めけん 大ロ鯛二
身を捨てゝ皇子に代りし真心に深さ比へむ海なかりけり 遠山英一
つまのため沈みましけん御心は水より清きかゞみなりけり 安東菊子
あづまはとなげきしみこの言のはに沈みしたまも世にうかひけむ 遠山稲子
よろづよの人のかゞみと仰ぐかな君かまことになぎしあらうみ 高崎恒子
人妻のかゞみとなりし君かため建つる石ふみかけじくづれじ 弘田由紀子
いしふみにこけはむすともたちはなのたかきかほりはうもれやはする 岩佐稲子

走水番所跡

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走水の北御所崎はもと走水海関の跡なるべし同崎の南麓に同心町の地名の存するはその遺跡ならんと云へり。走水海関は已に元和元年四月大坂夏陣の起りし時、徳川秀忠命じて向井政綱、小笠原信盛、同広信等をして、三崎及走水に警備せしめしことあり。これ徳川氏の江戸湾海防の濫觴なり、後寛永元年正月十一日徳川幕府三崎及走水に海関を設け、向井将監忠勝船奉行にて兼帯し、同九年七月七日三崎奉行一員を置かれ、安部次良兵衛之に補せらるゝに及び、向井氏は走水奉行を兼管せり。預る所与力六騎、同心三十人なり。正保元年七月七日初めて専任の走水奉行一員を置かれ、田村助太郎長衛之に補せられ、爾後正保四年朝岡八太夫泰直、承応一に明暦八年佐野与八郎政宣、寛文二年坂井八郎兵衛成之一に成令寛文三年大岡次兵衛直政、貞享三年青山藤蔵幸隆等交替し、元禄九年二月二十一日に至りて廃せられ、その跡勘定奉行の支配する所となれり、史家この期間を称して徳川氏江戸湾海防の第一期とす、番所の敷地は総反別一町一畝十六歩、番所、陣屋、代官屋舗、船蔵与力同心の居宅等ありしが、番所停廃の後悉く廃毀せられ、今はたんだ同心町の地名を存するのみ。

旗山砲台

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郡内沿岸の砲台は多く徳川幕府の外寇防禦の必要上設備せられし遺跡にして、旗山砲台は創設最も古し。徳川幕府の江戸湾防備は、寛政四年露国軍艦の蝦夷地侵掠により老中松平越中守定信の献策に基きてその方針全く確定するに至りぬ。後ち文化五年四月浦賀奉行岩本石見守幕命により、豆相房総の沿海を巡視し、伊豆下田、相模城ヶ島、同走水、上総富津、同百首、安房洲の崎に砲台を設く、これ東京湾及その近海に固定防備の設けられし最初なり。しかしてここに走水といへるは位地不明なれども、恐らく旗山なるべきは、その地勢と当時の情况及その後の沿革に徴して、毫も支牾する所なきものゝ如し。文化七年会津藩相模国警衛を命せられ、三浦郡を守る。文政三年会津藩任を解かれて海岸警備は浦賀奉行の管理する所となり、翌四年走水砲台を廃す。天保十年江川太郎左衛門英龍江戸湾を視察し、砲台新設の地勢を述べて、鴨居三軒屋、走水十石峠、同旗山岬を候補地とし、特に「旗山岬は尤可然地勢なり」と推称せり。弘化三年五月米船浦賀に来るや、川越藩走水畑山御備場、十石峠御備場に守れり。畑山は則ち旗山なるべし、爾後廃止の年時を詳にせず、

小原台の伝説

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大津馬堀より起り、走水鴨居に連亘し浦賀港の東岸に障壁を作れる一帯の岡陵を小原台といふ。頂上平坦にして、地味肥沃なる陸田をなす、小原大根とて有名なる大根の産地なり。陽春四月風和ぎ雲穏なる日立ちて展望すれば、秀々たる麦浪の末、疎松の参差せる間を透して、房総の連山を併せて、その下銀龍の如き富津洲を望む。海上には海堡、猿島等星散し、遠く本牧、羽田は淡靄の裡に隠くる。常の筑波、野の日光、上武の諸峰悉く双眸の裡に落つ。さらに回頭俯瞰すれば、江一碧水光り帆動かざるは浦賀港なり。雲雀高鳴く碧空を仰げば、眼底忽に映ずる白芙蓉、相の雨降、豆の天城、武相の山脈起伏して、波濤の如く、海に入りては望洋限りなし。古来この地に一の伝説あり、元暦の古、上総の国に悍馬生ず、海を渡りて小原台に来る。その毛並甚だ美しかりければ、里人美女鹿毛と名けたり。この馬渇して水を求るに無し。乃ち台の中腹を一蹴して清水を得たり。清冽白露の如き冷水滾々として涌出し、早天といえども涸るゝことなし。里人これに名けて馬の水又は蹄の井と称し、その郷に名けて馬堀と云ふ。則ち大津の馬堀これなり。馬堀に浄林寺といへる寺あり、この寺より小原台に上る坂の中途に小池あり、傍に馬頭観音の祠を置く、謂ふ所の蹄の井これなり。馬は後領主三浦氏擒へて源頼朝に献ず。頼朝秘蔵して生唼[3]と名けしといふ。

鴨居

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走水の南に連れる漁村なり。観音崎灯台あり、西北山を負ひ、東京湾に臨み、風景甚だ美しき地なり。

 観音崎は部落の北部に在り。古走水観音と称せる祠堂ありたれば、仏崎とも呼べり。水路志に言ふ観音崎は陡[4]峻にして、樹木繁茂し、最も著明なり、富津の海堡と北々東より南々西に相対し、相距る三海里半。東京海湾の咽喉を扼す。

観音崎灯台

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灯台は観音崎の崎頭に在り。主灯下三十二呎の一窓に副灯あり、主灯は不動赤色にして、浦賀港口の海獺島を照らし、晴天光達十七海里、副灯は赤色にして、光達七海里、上総国富津洲の浮標を照示す。灯台は横須賀海軍工廠の前身、横須賀造船所首長仏国人ウユルニーの設計に係り、明治二年正月元日西暦一八六九年二月十一日初めて点火す。副灯はその後十一年八月十五日より点火す。

観音崎砲台

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観音崎砲台は文化九年松平肥後守容衆の築造に係り、文政四年以降浦賀奉行の所管に移り、慶応四年江川太郎左衛門英武の支配に属し、維新後暫く海軍省管轄し、後陸軍省に移管し明治十四年五月十八日 明治天皇臨幸あらせられ、親しく工事を臠はせ玉ふ。維新前における砲台の模様は、風土記に「大筒台場、小名観音崎ノ山ニテ、船見番所ヲ置キ、大砲五挺ヲ備フ、傍ニ陣屋アリ。文化九年始メテ建テラレ、領主松平肥後守容衆持トナル。此頃ハ陣屋ノ構八千百十坪餘アリ。文政四年ヨリ浦賀奉行ノ進退トナリ、其手ニ属スル与力同心及足軽等カノ番所ヨリ代ル来テ守レリ」とあり。文政五年九月十七日浦賀奉行小笠原長保の日記東福寺詣に言ふ「かくて八幡宮の御前を畏み過ぎて、漁家ならび居ける間を行き尽し、左は磯伝ひ五六町ばかりに御備場の門あり、こゝは観音崎の御備場なり。門の内には組の武士ども案内として出居たり側には武具厳しく取飾り、番の足軽なん備へ居たる、左右は山高く聳え幽邃なる所なり。一町ばかり行きて山に登る。又二三町上に木戸あり、このほとりの山は皆松生ひ茂りて、常磐の色もいと興あり。木戸の内には組の武士ども、数多出迎ひ居る。七八間ばかりの小屋あり、上に又遠方を見やるもありけり。岨の方には大きなる鉄砲あまた並べて如何なる数万の軍船寄せ来らんとも、此をもて打払はんにはいと心易かるべう思はる。向は安房上総の山々のたてるが、青く白く日の光のうつろひにて、曇りみ晴れみ、見所おほかなり。中にも鹿野山、鋸山はいと大きやかになんありける。左に向へば富津村の越中守定永白河の備へ設けしたる家居もきらしく云云」と、その大概を知るべし。

観音崎陣屋跡

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観音崎の南西にあたり、字腰越にあり。今広濶なる陸田となれり、陣屋はもと浦之郷に在りしを文化九年会津藩ここに移し田浦町参照文政四年一度廃せられ、天保十三年川越藩相模国を警衛するに及び、大津に本営を置き、ここに支営を設けたり。慶応四年江川太郎左衛門英武観音崎防備の任に当りし時、陣営を設け、草高百石に就き一人の農兵を徴募し、仏国兵制に傚らひて訓練せり。維新の後廃す。西北部サンマイダウと称する地に会津藩士の墓地あり。山鹿高補の浦賀巡覧私記弘化四年 五月二十日には当時の観音崎附近の防備状態を説くこと詳なり。「二十日早天武平喜多ヲ嚮導トシテ田戸横須賀市ヲ発シ、大津ノ浜ヲ過ギ、馬堀ト云フ処ヨリ山路ニ入ル登ルコト十七八丁ニシテ小原台ト云フニ至ル此台甚ダ勝地ナルガ故ニ川越侯戍兵ノ営ヲ此処ニ設ケラルベキノ議アリシガ、水乏シクシテ営ヲ中設ケ難ク今大津トナリタル由ナリ。此台ヲ下リ左へ廻リ行ク出崎ニ旗山ト号スル独立ノ小山アリ、其高キ所ニ見切ノ場ヲ設ケ其出崎ヲ切下ゲ大礟[5]六門ヲ連懸ス、猿島卯ノ出崎ノ砲台ト犄[6]角シ、其間二十五町ナリ、此出崎ノ前六七十間ノ処ハ磯根巌石連リタレバ、此上へ築キ出シタランニハ通船ノ水路ニ近ク、大ニ砲勢ヲ夷船ニ及スニ足ルベシ。此処ヨリ少シ下レバ走水村ナリ。漁家観音崎マデ連続ス旗山ヨリ左ヘ廻リ下ル処ヲ十石ト号シ、此処ニ又砲台アリテ大礟[7]五門ヲ連懸ス。此処少シ入込ニナリ、船路ヘハ遠シト雖、観音崎ヲ廻リ出タルヲ払ハンガ為ナリ、是ヨリ磯ヲ伝ヒ観音崎ト言フニ至ル。観音堂アツテ仏崎山ノ扁額アリ路ヲ左ニ取リ海岸羊腸ノ巌石上ヲ伝ヒ、右ノ山路ニ上ル、夏草道ヲ掩ヒ、辛クシテ観音崎砲台ノ下ニ出ル、山上ノ砲台ハ至テ高ク遠侯ノ台眺望限ナク、遠眼鏡ヲカクル、下ニ大礟[8]七門ヲ連懸ス。高クシテ放発ニ便ナラズト雖、遠ク海面ニ現レ、吾威武ヲ示スニ足ルヘキノミ観音堂ノ側ニ灯明堂アツテ大洋ヨリノ目当ニナル此処ヨリ三四町行ニ右ニ川越侯ノ陣営中アリ。山ニヨリ甚ダ要害ノ地ナリ、此営会津侯ノ鎮タリシ時ノ営ナリ。今川越侯ハ大津ニ本営ヲ設ケ此処ハ万一ノ時出張ノ兵卒ノ屯トナスナレバ常ニハ戍兵至テ少シ。営門ノ左右会津侯ノ時ノ士屋敷ノ跡多シ。右ノ方海岸ニ近ク一ノ先船備ト標ヲカケタル炮営アリ。其右ニ舟倉四個所立並ビタリ

亀崎砲台址

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観音崎の南西にあたり、今観音寺の境域なり。嘉永四年川越藩主松平大和守斉典徳川幕府の命を奉じて築造す。廃毀の年時詳ならず。

鳥ケ崎砲台跡

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小字鳥ケ崎に在り、嘉永四年亀崎砲台と同時に築造せらる。沿革また同じ。

観音寺

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亀崎に在り。仏崎山と号し、曹洞宗にて逗子町海宝院の末寺なり。慶長十七年海宝院二世霊屋禅英の中興にて、堂領三石天正十九年徳川家康これを給す。旧時観音崎に在りしを、明治十三年現地に移さる。古来走水観音とて有名なり。古事記伝に言ふ「相模国浦川より三十町許り北に走水と云ふ邑ありて、其海辺の山上に走水の観音とて寺あり、諸国往来の船此前の海を過ぐるに必ず初穂米とて其観音に献ることありとぞ、思ふに観音と云ふはもしくは弟橘媛などの御像にて、其由縁故海路を祈りしかたの遺れるにはあらざるか地名辞書引」、と云ひ。吉田東伍博士地名辞書に「按するに走水社と観音とは今各別なれども元は相関係したる者か」と記す。この観音鴨居に在りて走水観音と称せられ、新編相模風土記に載する各郡の弟橋媛命を祀る神社の本地仏を千手観音とするも、この関係の密接するを感ぜしむ。

浦賀

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浦賀港は町の東南部にあり。その港岸に発達したる市街は旧来の浦賀なり。東岸に新井洲崎、新町、大ケ谷、築地古町の五ヶ町。西岸に芝生、築地新町、荒巻、高坂、谷戸、宮下、田中、紺屋、蛇畠、浜町、川間の十一ヶ町あり。この市街地と一山を隔てゝ南西に久比里、吉井の聚落あり、汎称して浦賀と云ふ。享保六年の村絵図に拠れば、東岸に新井、洲崎、新町、大ケ谷町及大ケ谷新屋敷あり。西岸に浜町、蛇畠、紺屋、田中、宮下、谷戸、新地の地名を載せ、川間、荒巻、芝生は全然人煙稀薄なる田間の村落に過ぎずして、今の築地古町、築地新町附近は海面なりき。新編相模国風土記にもこの二町名を載せざれば、その埋立てられしは、恐らく天保以後なるべし。港の発達は古き歴史を有し、文明十八年七月聖護院淮后道興この地を過ぎ、その回国雑記に「こゝは昔頼朝卿の鎌倉に住ませ玉ふ時、金沢、榎戸、浦河とて三つの港なりけるとかや」と記せり。浦河は浦賀の古名なり。戦国時代には後北条氏この地に海賊衆を置き、海上警備の地となしたり。永禄年間には伴天連、異留満等来りて耶蘇教を伝道し、当時己にヂエゴ、デ、サンフランシスコなる教会堂も存したりといふ。徳川家康覇権を柄るに及び、海外貿易の利を察し、外国船を関東に招致するの策を講じ、慶長五年豊後国に漂着したる英国人ウイリアム、アダムスを顧問とし、呂宋、新西班牙に書を贈りて通商を求む。浦賀は実にその開港場なりき。慶長十三年七月呂宋大守ドン、ロドリゴ、デ、ビヘーロの使船浦賀に到り、国書を幕府に献ず。幕府浦賀港に掲示して、衆庶の呂宋商船に対して、乱妨狼藉するを禁じたり。慶長十四年九月呂宋の前大守ドン、ロドリゴ帰国の途中暴風に遭遇し、その乗船上総国夷隅郡田尻に漂着したれば、幕府はウイリアム、アダムスに命じて駿府に迎へしめ、滞留年を越え、翌十五年幕府の使節伴天連、フライ、アロンソ、ムニセス新西班牙に到る。ドン、ロドリゴの一行も船を同じくし、かつ京堺の商人田中勝介、朱屋王成、山田助左衛門等邦人二十三人も便乗したり。船は六月十三日浦賀を解纜し、太平洋を横断して、九月十一日にカリフオルニア洲のマタンチエル港に着せり。新西班牙は今のメキシコにて、これ実に邦人の太平洋横断の最初の記録なり。翌十六年六月十日には新西班牙の商船浦賀に入港す。前年新西班牙に赴きし田中勝介以下同船にて帰国せり。斯の如く浦賀は当時関東唯一の貿易港として発達し、後日英通商の行はるゝに及び、慶長十八年五月四日我国に渡来したる最初の英国船クローブ号は肥前の平戸に着し、船長ジヨンセーリスは直に江戸に到り国書を将軍に呈し、日英修交の使命を終へ、九月二十一日には、アダムスの案内にて、浦賀を視察し、その地理の平戸に勝れることを看取し、後平戸に英国商舘の設けらるゝや、浦賀にはその代理店を置かれたり。その後幕府の外交方針に変革あり。通商国を和蘭、支那、朝鮮の三ヶ国に限り、貿易地も長崎一港と定められたれば、浦賀における外国貿易は自然廃滅し、東岸洲崎の東林寺と云へる寺院の坂下に、アンジンヤシキと称する一画に名残を留るに過ぎず。貿易地としての運命斯の如かりしも、江戸の発展と国内海運事業の勃興とは、なおこの天然の良港を衰微の影に葬るには至らざりき。浦賀事跡考に言ふ「浦賀は天正文禄の頃より漸く戸口増加し、寛永より元禄の頃までには干鰯問屋、茶問屋、煙草問屋等も既に存したり」と。然して房総より内海に入漁せる網船七八月には網を終りて入港するもの夥しく、東岸洲崎より大ケ谷に至る海岸に船を繋ぎ、上陸して土産を求むる故、夜初更までは喧噪を極めたりといふ。享保五年十二月に至り幕府は従来伊豆下田に置きし下田奉行を廃し、新に浦賀奉行を置き、翌六年二月一日より廻船の検査を浦賀にて行ふに至り、諸国の廻船は必ず浦賀に寄港したれば、港内は船舶輻輳し、市中には問屋、船宿、商人等瓦屋連比して、頓に繁盛を加へ、殷富三都に亜ぐと称せられき。斯くて徳川幕府の末期においては、外国防禦の枢要地点となり、諸外国の通商を求むるもの概ね浦賀港を望みて入港し、外交折衝の地となり、天下の視聴を鍾めしが、維新の後廻船検査廃せられしより、市況やや振はず、後海軍屯営置かれてやや恢復したれども、その廃せられし後はまた衰へ爾後唯昔日の餘勢を保つに過ぎざりき。明治三十年浦賀船渠株式会社設立せられしより、やや挽回したりしが、一時同社の経営困難の際に当りて再び衰頽の兆あり、大正三年欧洲大戦勃発以来造船界の大発展に伴ひ、頗る好況を呈し来れり。町役場は荒巻にあり。役場の後山に大衆帰本塚と題せる石碑あり。碑は元治元年の建設にして、浦賀与力中島三郎助の文を彫れり。その文に「此わたりの、むかしのさまをおもふに、沢の辺の田ところにして、葦蟹なともすみけむ。からに、かに田としも、呼そめしにやあるらん。ちかくは薪こる老翁おうな、うしをふわらはも、ゆきかふ道の、たよりあしき片山かけの、あら野にしあれは、あしたの露、ゆふべのけふりの、空しき跡を、とふ人ならでは、わけいるべくもあらぬ、草むらになむ有ける。さるを、大御代のさかゆくに随ひ、湊のにぎはひ、いやまさりつゝ、野にも山にも家居たちこみ、ゆくも、かへるも、ところせくなれゝば、かのたちのぼる煙の末の、里中かけてたなびきくるを、人皆いふせく、おもひわひてありしに、このひと浦の事とり給ひし、大久保土佐守忠董朝臣の、えもいひしらぬおほしたちにて、其墓ところをも、はふりのにはをも、いと遥かなる山辺に退け、なほ朽のこれる古きからをば、みなひとゝころにつとへ埋みて、大衆帰本の塚とよぶべし、そのしるしをものこすべしと、ことさだめたまひしかば、浦人こぞりて尊みあへる。中にも川嶋平吉といふもの、ことさらに、此おきてをかしこみ、其ゆゑよしを石ふみにゑりすへ、千年の後忘れさらしめ、またそこはくの桜をうえなへむかし人のたまをも慰めんとなり。云云」と言ふ。荒巻は今町役場の他に横須賀区裁判所出張所警察分署等あり、町政上首区の観あり、かつ料亭、妓楼もこの一廓に在りて、絃歌日夜に絶えざる地なり。然るに既往六十年に満たざる古はこの碑文に表はれしが如き状態なりき。桑滄の変驚かざるを得ず。小学校郵便局海事部出張所税関監視署等あり。所在の名所旧跡また少からず。

叶神社

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当地には叶神社と称する神社二社あり。一は東岸新井に在り、一は西岸宮下に在り。共に村社にして、応神天皇を祀り、伝へて養和元年僧文覚の勧請とす。記録によれば、叶神社はもと叶明神と称し、西浦賀に在りて浦賀一村の鎮守なりしが、元禄五年浦賀村分村して、東西の二ヶ村となりしより、東浦賀に叶明神を勧請したりしと云ふ。旧幕府時代の地誌は東叶神社を若宮と書せるにても事情察し難からず。西叶神社は歴代の浦賀奉行毎歳春秋二季に幣帛を献ずるを例とせり。

東福寺

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田中に在り、延命山と号し、曹洞宗にて、逗子町海宝院の末寺なり。その創立は明応九年にして開基は明応と伝ふ。慶長九年四月海宝院三世一機直宗中興せし以来海宝院末寺となれりといふ。旧幕府時代寺領二石を給せられ、東照宮の影像を安置し、浦賀奉行時によりて参拝せり。

浦賀船渠株式会社

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港の底部、築地新町、同古町、荒巻、谷戸に亘れる海岸に煉瓦の障壁にて区画せる工場を本工場とし、港口の西岸川間に在るを分工場とす。創立は明治三十年六月にして、子爵榎本武揚、荒井郁之助、塚原周造等諸氏の発企に係る。大正六年十二月末日の調査によれば、資本金五百万円にして、技術員は五十餘名、職工五千六百餘、本工場の面積一万六千四百四十九坪、分工場の面積二万二千七百七十六坪あり。船渠は長四万六千呎のものと四万三千七百呎のもと二あり。造船台は一万噸二台、四千百噸台一、四千噸台二、計五台あり。然して本工場においては二万頓級の船舶を製造するに材料蒐集に一ケ年、竣工までに半歳を要すといふ。大正六年十一月進水したるメカニシアンドンゼル号は従来製造したる船舶中最大のものにして、排水量約一万六千噸といふ。

明治天皇御休憩所跡

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字宮下に在り、尋常高等浦賀小学校仮教室の一室にして、現に玉座と標示して、鄭重に保存せり。明治十四年五月十八日先帝観音崎砲台及横須賀造船所に行幸あらせらる。当日午前八時二十分、横浜駅に御着車あらせられ、野村神奈川県令以下官民の奉迎の間を、御馬車に召され東海鎮守府に入らせ玉ふ。有栖川宮殿下、東伏見宮殿下、北白川宮殿下、岩倉右大臣、山県、西郷、大隈各参議、川村海軍卿、大山陸軍卿、杉宮内大輔、米田侍従、山口侍従以下諸員扈従す。九時十五分桐号に乗御、沖合にて御召艦迅鯨に移らせ玉ふ。供奉の諸員は軍艦扶桑、金剛の二艦に分乗し、金剛の御先導にて横浜港を発し、零時三十分恙なく浦賀に着かせ玉ふ。西岸叶神社前面に新設したる桟橋より御上陸、御乗馬にて西岸学校に入らせ玉ふ。西岸学校は則ち現在仮教室の前身なり。御小憩の後再び御馬にて庶民の奉迎を受けさせられつゝ、東海水兵分営を御通過ありて、鴨居村に入らせ玉ひ、同地の素封家高橋勝七邸にて御休憩、さらに観音崎砲台に臨幸、親しく工事の模様を叡覧あり、午後四時三十分同所御出発、東浦賀より横須賀に向はせられ、同六時湊町なる行在所藤倉五郎兵衛の邸に着かせ玉ふ。町民歓喜し、全戸軒灯を掲け、国旗を飾りて敬意を表せり。

東海水兵分営跡

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船渠会社本工場の敷地中、築地に属する部分は、維新後久しく海軍屯営を置かれしが、明治二十二年四月廃せられ、その跡に陸軍要塞砲兵幹部練習所を置かれたり。練習所は後要塞砲兵射撃学校と改め、明治三十年大津に移れり。則ち現在の陸軍重砲兵射撃学校これなり。

浦賀奉行邸址

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字川間に在り。里俗御屋敷と称し、近年まで廃墟となり、広濶なる原野なりしが、今は私人の所有となり、家屋の建設を見るに至れり。明治初年の調査によれば、東西百五十間、南北百二十間、面積千八百坪あり。周囲に溝渠を繞らし、東北方に正門あり、門址は廃滅に帰したれども、門前の石橋は現存せり。浦賀奉行は江戸に出入する船舶を監視し、奥羽より大坂に回漕する送米及諸荷物を検査し、海上を警戒し、又近辺在町の政治を掌る。享保五年十二月二十一日徳川幕府初めて浦賀奉行一員を置き、下田奉行堀隠岐守利雄を補し、次で同月廿五日下田奉行の職を廃す。下田奉行は元和二年五月八日初めて置かれし職にして伊豆下田の廻船番所において、往来の船舶を改検するを任とせり。然れども、下田は港口浅く、風波の際には船舶の出入便ならざるを以て、諸廻船問屋、荷主組合等幕府に訴へて移転を乞ひしかぼ、幕府は享保五年四月十九日船手頭向井将監及下田奉行堀隠岐守に命じて、武相の沿岸を視察せしむ。将監は鳳凰丸にて海上を江戸より下田に至り、隠岐守は陸路金沢街道より浦賀三崎を経由して下田に至り、両者共に浦賀を以て候補地と指定し、五月隠岐守将監共に来浦して、東西両岸の地を物色して、東岸新井の地を適当と認めしか、干鰯問屋の嘆願によりてこれを措き、さらに八月勘定方齋藤喜六郎、丹澤久左衛門等出張調査して、川間の地に奉行所を置くことに決定せり。翌六年一月堀隠岐守属員を従へて来り移り、同二月一日より改船を開始す。

「老中達、浦賀奉行へ」

下田にては来二月朔日より改無之於浦賀二月朔日より有之筈之事
一、船改之儀御法度之趣、無相違様に念入可被申付、尤廻船無滞難儀之品無之様可被計専要之事
一、与力同心并家来之儀不及申地下之者に至迄回船之者共より賄賂を受け依怙ひゐき無之様に可被申遣候事
但し支配所之者御用之外一切人夫遣申間敷候事
一、諸国浦々にて自然諸回船及難儀候事又は非儀之輩於有之は可申出旨兼々船頭問屋共へ可申付置候
一、往来の諸回船米穀其外油酒塩薪炭材木之類又は年中上下之船員数之書付并荷物刎捨候船之事問屋又は船頭より書付取之置年中壱度つゝ可被差出早速其品可被致注進候事
一、自然海上堅め之儀被仰付候節は下田湊相応之場所に候条彼地江引越御番可被相勤候、其為下田浦方浦賀奉行支配に被仰付候事
但し当分之儀は浦賀表へ追船相廻し御番可被申付候尤奉行江戸在勤におゐては早々御役所へ可被召越候事
一、浦水主之事、走水、内川新田、鴨居、久比里、久村、佐原、長沢、大津、浦賀、三崎、右十一(?)ケ所浦賀御関所自然御用之節相勤船役可申付候事
一、略
右被存此旨諸事入念相改且又通船無滞之様可申付候事、仍執達如件
享保六年丑正月三日

和泉寺

山城寺


浦賀奉行

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浦賀奉行は老中の支配にて、その格式は初め芙容間詰、佐渡奉行の次席にて千石高、役料五百俵なりしが、元文三年三月千石以下の者には向後千石高の足高を給せられ、文政三年十二月役知千石を給し、五千石の預地を賜はる。弘化四年七月二十八日席次を陞せて長崎奉行次席諸大夫の場所とし、嘉永六年十一月十四日戸田伊豆守氏栄、井戸石見守弘道在職の時職俸を加増して、役高二千石役料千石とす。当時外国船の浦賀に来るもの頻繁にして、浦賀奉行は海岸防禦の任に当り、かつその応接に従ふ。故にこの職最も要劇となりたれば、地位を高めて従五位下朝散大夫の格式を与へられ、長崎奉行の上に列するに至りぬ。その員数初め一人役にして時を以て浦賀及江戸に在りしが、文政二年正月二十五日より二人役となり、浦賀在番一人、江戸在府一人にて毎年三月交代して参府す、天保十三年十二月廿四日下田奉行再興により一員を减[9]ぜられしが、弘化元年五月廿四日再び二人役となり、明治維新に及び、慶応四年四月十一日奉行土方安房守引退し、佐賀藩士下村三郎左衛門浦賀表御用掛となり、旧来の事務を継承し、次で神奈川県浦賀出張所置かれて、その事務を継続管理したりしが、明治五年四月一日に至りて廃せり。これ浦賀奉行の沿革の大要なり。歴代の奉行左の如し。

堀隠岐守利雄 三千五百石 享保五-享保九
妻木平四郎 三千五百石 享保九-享保一八
一色 宮内 三千五百石 享保一八-延享元
青山 斎宮 三千石 延享元-宝暦四
奥津能登守 二千二百石 宝暦四-宝暦七
久永修理政温 四千石 宝暦七-明和四
松平藤十郎定旧 千五百石 明和四-安永三
久世平九郎 三千石 安永三-安永四
林藤五郎 三千石 安永四-天明元
久世斧三郎 五千石 天明元-天明七
初鹿野伝右衛門 千二百石 天明七-天明八
仙石次左衛門政寅 二千七百石 天明八-寛政九
山本伊予守 千石 寛政九-寛政一〇
秋元隼人 四千五百石 寛政一〇-寛政一二
水野伯耆守 二千五百石 寛政一二-享和三
仙石彌兵衛久功 四千七百石 享和三-文化二
酒井近江守 三千石 文化二-文化四
一柳献吉 五千石 文化三-文化四
岩本石見守 二千石 文化四-文化八
佐藤美濃守 三千二百石 文化八-文化一〇
内藤外記正弘 五千七百石 文化一〇-文政五

これより奉行二人となる

 築紫佐渡守 三千石 文政二-文政四
 小笠原弾正 五千石 文政四-文政八
内藤十二郎 五千石 文政五-天保二
 勝田帯刀 三千石 文政八-文政一〇
 大久保四郎左衛門 六千石 文政一〇-文政一三
 渡辺甲斐守 三千百石 文政一三-天保七
秋田中務 五千石 天保二-天保八
 大田運八郎 三千石 天保七-天保一〇
池田将監頼方 三千石 天保八-天保一二
 伊沢美作守 三千二百石 天保一〇-天保一三
坪内左京 五千五百石 天保一二-天保一四
 小笠原加賀守 五千石 天保一三-天保一三
遠山安芸守 六千五百石 天保一四-天保一五
 田中市郎右衛門 千六十二石 天保一五-天保一五
 大久保因幡守 五千石 天保一五-弘化四
土岐丹波守 三千五百石 天保一五-弘化二
一柳一太郎 五千石 弘化二-弘化四
戸田伊豆守 五百石 弘化四-嘉永七
 浅野中務少輔 三千五百石 弘化四-嘉永五
 水野甲子二郎 四百石 嘉永五-嘉永六
 井戸石見守 五百石 嘉永六-嘉永六
 伊沢美作守 三千二百石 嘉永六-嘉永七
 松平伊予守 四千石 嘉永七-安政三
土岐豊前守 七千石 嘉永七-安政四
 溝口讃岐守 五千石 安政三-安政六
小笠原長門守 三千石 安政四-安政五
 小笠原彌八郎 四千五百石 安政六-万延元
 渡辺肥後守 三千百石 万延元-文久二
 大久保土佐守忠董 三百石 文久二-
坂井右近将監 八百石 安政五-元治二
土方出雲守 千六百二十石 元治二-慶応四

(本表ハ地方所在ノ旧記ニヨル。過誤ナキヲ保シ難シ)


与力同心屋敷

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一に御組屋敷と称し、奉行邸址の前面、字川間及浜町の一街を成す。奉行配下の与力同心は初め与力十騎、同心五十人なりしが、後増員あり、与力十二騎同心五十人柳営秘鑑与力十六騎同心七十四人天保武鑑与力二十騎同心七十五人吏徴附録与力二十騎同心百人慶応武鑑に至る。支配組頭は高百五十俵、役料二百俵、役金百両、引越料五十両の俸録にて、焼火間詰の格を有し、与力同心を指揮して奉行を輔佐す、中島三郎助、香山栄左衛門は嘉永六年米艦渡来の時応接掛となり、その名最も著はる。維新の際中島三郎助以下一部は函館に赴き五稜廓に拠り官軍と戦ひ、他は静岡附近に移住帰農せり。

回船番所址

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字蛇畠の海岸に在り。今廃墟にして、浦賀船渠会社の用材置場となれり。旧記に依れば、番所は享保五年十二月十日に竣工し、翌六年二月一日より回船の検査を初む。与力二人同心六人昼夜勤番し、回船入港毎に問屋職を指揮して船中の在荷を改め、その数類を記して手形を交付す。番所の敷地は明治初年の測量によれば東西十九間、南北四十間、面積七百九十九坪あり。構内に回船問屋会所あり。番所の南に船庫、西に倉庫あり。問屋は回船の世話役にて、水夫一人に就き三匁三分の口銭を徴し所属の回船の保証をなすを業とせり。三方問屋とも称し、下田、東、西問屋の別あり。下田問屋は伊豆下田より移れるもの、東問屋は東浦賀に在るもの、西問屋は西浦賀にあるものなり。

明神崎砲台址

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東岸新井の突岬に在り。嘉永六年秋徳川幕府の築造に係る。禺干日録に記あり「中嶋三郎助ヲ訪フ。疾ヲ力メテ出テヽ見ユ、今夏米艦ニ入リテ上命ヲ伝フルノ事ヲ談ズ。語語着実ニシテ言論ノ間稍気概ヲ帯ブ。又一束ヲ作リテ神明崎砲台ヲ見セシム。台ハ山ヲ背ニシ海ニ面ス。環堰両層アリ。下層ハ厚板ヲ以テ屋トナシ、土ヲ其上ニ敷キ二門ヲ鑿チ大砲ヲ列ス。上層ハ屋ナク門ナク大砲五樽ヲ設ケ、其側ニ堰ヲ築ク。高七八尺、竇屋アリ、兵士身ヲ匿クス所ナリ。架上大小銃丸ヲ閣ク。山背硝薬庫ヲ設ク。」

平根山台場址

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平根山は浦賀港の西岩東南方にあり。文化八年会津藩主松平肥後守容衆の建設する所に係り、文政四年浦賀奉行の管轄する所となり、与力二人、同心十人交代して在番す。当時浦賀港口を扼守せる主要の防禦地なりしが、弘化四年に至りて廃せらる。

千代崎

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千代崎は平根山に続き浦賀港の南角をなす弘化四年徳川幕府海岸防禦のためこの、地に台場を築きしことあり。この地附近に見魚崎、鶴崎、亀甲河岸等の台場の名あれども地理明ならず。

燈明堂跡

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字川間地先に在り。千代崎の突岬にして、俗に燈明堂の鼻と称せらる。徳川時代浦燈明を置かれし地にて、慶安元年石川六左衛門重勝、能勢小十郎頼隆の築造する所、初め勘定奉行の所管なりしが、享保六年二月以後浦賀奉行の管轄となり、明治元年四月より神奈川府の管轄となり、同年九月神奈川県に移り、五年四月船改番所廃止と同時に廃灯す。風土記に灯台の構造を記して云ふ。「高五尺の石垣を築き、上に楼方六を建て、灯を点じて夜中回船の標とす。」

沼田城址

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字吉井に在り。内川新田に面せる突岬にして、俗称城山と云ひ、また台崎の名あり。源平盛衰記に記せる奴田の城はこれなりと伝ふ。西南佐原の城址に対し、衣笠城正面の守備たる位置を占む。

介殼畑

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字久比里に在り。久比里坂の南方琴平山の背面に在り。今耕作せられ、地上には現はれざれども地中には牡蠣、蛤等の介殼及土器石器の破片等埋伏せり。帝国大学人類学数室の発表したる江戸坂貝塚はこれなり。

浦賀園

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浦賀港の西岸中央に在り。山を愛宕山と称し、桜花を以て名高し。その頂を陣屋山と称し、文禄年間郡奉行長谷川七左衛門長綱の陣屋を置きし所と称す。

註記

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  1. 「さんずい+奧」の「大」に代えて「朽のつくり」、U+6F9A
  2. 「糸+施のつくり」、第 3水準 1-90-1
  3. 「口+妾」、第 4水準 2-4-1
  4. 「こざとへん+走」、第 4水準 2-91-68
  5. 「石+(馬+爻)」、U+791F、ページ数-行数
  6. 「特のへん+奇」、U+7284、ページ数-行数
  7. 「石+(馬+爻)」、U+791F、ページ数-行数
  8. 「石+(馬+爻)」、U+791F、ページ数-行数
  9. 「冫+咸」、U+51CF、ページ数-行数