三浦郡誌 (新字体版)/総説
三浦郡誌
神奈川県三浦郡教育会編纂
総説
[編集]一、三浦郡の地理
[編集]位置 境界
[編集]三浦郡は神奈川県の管轄に属し、相模の国の東南部に位す。北は鎌倉神奈川県相模国、久良岐神奈川県武蔵国の二郡に接し、東は横須賀市に界する部分を除きて東京湾に面し、西は相模湾に臨み、南は太平洋に面す。地理上この地を三浦半島と称す。
区画
[編集]明治十一年郡区町村編制法の施行せられし時、三浦半島の全地域を以て三浦郡なる行政区画を設けられしが、同四十年横須賀市設定せられて、半島は自ら二個の行政区画を有するに至れり。横須賀市は半島の東北部を占め、横須賀軍港の所在地として著名なり。三浦郡はさらに十三ヶ町村に分れ半島の大部分を占む。則ち田浦、浦賀、逗子、三崎の四町及久里浜、衣笠、葉山、北下浦、南下浦、
面積 戸口
[編集]半島の面積は九方里六三五にして、郡の面積は八方里九〇二あり。広袤は半島と郡と共通にして、東西三里十五町、南北五里二十四町、周囲は半島三十三里二十二町、郡は二十九里十五町神奈川県統計あり。人口は横須賀市八万五千八十四人、三浦郡は十万三百八十一人、戸数横須賀市一万五千百四十五戸、三浦郡一万六千五百四十二戸戸口は大正六年十二月末調あり。
地勢
[編集]半島の地たる関東山脈の支派
山岳
[編集]半島における著名なる山岳は、概ね中央部に駢列して顕著なる隆起帯をなし。南北に連亘して半島の脊梁を成せり。則ち北境に近く
海岸
[編集]海岸は頗る屈曲に富み、海岸線の延長は二十九里四町郡 二十四里七町市 四里三十三町あり。古来海岸を分つに北浦、下浦、西浦の別を以てす。北浦は田浦町より浦賀町に至る間の海浜にして、下浦は北下浦、南下浦両村の沿岸、俗に下浦六ヶ村と称する野比、長沢、津久井、上宮田、菊名、金谷の海岸にして、西浦とは三崎町より逗子町に至る間の海岸を指称す。然しながらこれは慣習的区画にして 稍地勢に副はざるものあり。近時地理的に妥当なる区画を附して、東浦、南浦、西浦の三区に分つものあり。東浦は半島の東部海岸にして、天神崎田浦町を北界とし、剣崎南下浦村を南界とす、則ち田浦町、横須賀市、浦賀町、久里浜村、北下浦村及南下浦村の一部此に瀕み、長浦湾、横須賀湾、浦賀港を控へ、商工業並に水産業甚だ盛なり。南浦は剣崎より西方三崎港の西端に至る間にして、三崎町の一部及南下浦村の一部此に臨み、三崎の漁港を有し、商業及水産業盛大なり。西浦は三崎港の西角より起り、北方半島の西北界なる飯島崎逗子町に至る間、則ち半島西部海岸の区域にして、逗子町、葉山村、西浦村、武山村、長井村、初声村、三崎町の一部此に臨めり。小網代、長井の二港を有し、水産業及商業盛なり。しかして、半島の全沿岸は岬湾の出入参差し、島嶼巉岩その間に点在し、東に房総の諸山、南に大島、西に豆相の連巘難読及富嶽の秀麗を望み、碧波漾蕩して、景趣頗る秀抜、半島三浦の風光江湖に喧伝せらるゝ所以なり。
港湾
[編集]半島の港湾は特に東部海岸に顕著にして、北に長浦湾、横須賀湾、中央部に浦賀港あり。長浦湾及横須賀湾の海面は横須賀軍港の区域に在り。則ち横須賀軍港とは、横須賀市の西南部なる田戸崎より、その前面海上に横はれる猿島の南岸を廻り、さらに北方に至り、田浦町海上の烏帽子島と結び、それより東南鉈切崎に終れる画線内の海面を言ふ。長浦湾は田浦町の南部に位置する単口複澳港にして、港口に榎戸なる支港を有す。横須賀湾は横須賀市の西北端に位する単口複澳港にして、その北方長浦湾との間に突出せる箱崎半島に設けられし小運河によりて互に航通することを得。浦賀港は半島のほゞ中央に在り、歴史ある商港にして、近時造船地として頓に盛名を馳す、単口単澳港にして港口末広形を呈せるが故に一に扇港と呼ばる。浦賀港の西南に久里浜湾、久里浜の西南に下浦湾あり。共に砂浜にして鰮の漁利多し。前者は嘉永六年北米合衆国使節コモドル、ペリー氏が国書を交付したる地にして、後者は優婉なる景色を有せる海水浴場として有名なり。南部海岸には県下屈指の漁港三崎港あり。前面の城ヶ島を天然に防波堤となせる双口単澳港にして、豊富なる相模湾近海の海産物の集散地として名あり。風景また絶佳にして遊覧の客常に絶えず。江奈湾は三崎港の東方にあり。東京湾内航行の汽船の寄港する小港なり。西部海岸には
岬角
[編集]海岸に岬角多きは、地勢上然る所にして、これがあるが為め、半島の美観は一層の光彩を発揮す。今、東部海岸よりその著名なるものをば列序せんに、北方田浦町に天神崎あり、久良岐郡六浦荘村と田浦町との境界をなせり。天神崎の南に鉈切崎、鉈切崎の南に箱崎半島あり。両者の抱擁する海面は則ち長浦湾なり。箱崎半島の南に勝力崎あり、地は横須賀市に属し箱崎半島と相対して、横須賀湾を抱く、勝力崎の南に田戸崎あり。田戸崎より遥か南に浦賀町旗山鼻あり。その南に突出するは観音崎にして、対岸上総の富津洲と猗角して、東京湾の内口を扼す。観音崎の南方浦賀湾口の南角に千代ヶ崎あり、千代ヶ崎の南に北下浦村千駄崎あり、千駄崎の南、下浦の曲浦尽くる所に南下浦村の松輪崎あり、松輪崎は崎頭さらに分れて北部に剣崎南部に
南部海岸は、それ自身半島の尖端を成すが故に特に較著なるものなく、大小の突起鋸歯状をなして錯列す。西部海岸においては、北方逗子町に飯島崎あり。鎌倉郡鎌倉町に界す。飯島崎の南に小坪崎あり小坪崎の南に鳴鶴崎あり。逗子町と葉山村との境界をなす。鳴鶴崎の南、葉山村と西浦村との界に長者ヶ崎あり。長者ヶ崎の南に佐島の突岬あり。その南方に長井村の荒崎あり。荒崎より遥かに南方に網代崎突出し、網代崎の南に諸磯鼻及歌舞島あり。網代、諸磯の諸岬及歌舞島は皆三崎町の管内にして歌舞島は三崎港の最西端をなせり。
島嶼
[編集]岬角と相応じて海岸美を構成するものは島嶼の布置なり。しかして島嶼に富めるのは、沿岸水産物の豊饒なる所以なり。半島の沿岸またこの例に漏れず。その特に顕著なるは、先づ指を城ヶ島に屈すべし。城ヶ島は三崎港の南壁を成して頗る風致に富む。周回一里餘。県下最大の島嶼なり。(城ヶ島と三崎との間の水道を三崎瀬戸と称す。)この他東部海岸に田浦町の海上に夏島、横須賀市の海上に猿島あり。西部海岸には初声村の
岩礁
[編集]半島の沿岸は概して砂岸なれども、岬角及港口、港岸は磯岸に属し、岬角及港口の附近には岩礁数多隠見す。就中著名なるは、東京湾における
河川
[編集]半島の河川は地勢に応じ、既述せる中央山脈を分水嶺として、東西南の三方向に流る。則ち東は東京湾斜面にして、西は相模湾斜面、南は太平洋斜面なり。しかして地勢上いずれの斜面においても大なる河川及急流はこれを見ること能はず。殊に南部においては、川流と称し得るものたんだ三崎町の宮川あるのみ。比較的顕著なるは、西部に多く、就中
湖沼
[編集]半島には淡水湖なく、平作川の吐口、久里浜村八幡と浦賀町久比里との間に、入江と称する潟湖を有す。沼には観音堂沼、轡の堰、小松池等あり。観音堂沼は平作川の下流久里浜村内川新田にあり、濶さ東西百五十間、南北百二十間あり、附近の耕地の水利を調節するのみならす、鯉鮒鰻等の淡水魚を産す。轡の堰は長井村にあり、小松池は南下浦村にあり。いずれも灌漑用に供せらる。
瀑布
[編集]葉山村木古庭に籔滝あり。一に不動滝と言ふ、一丈七尺許。又北下浦村津久井に七尋滝あり。
鉱泉
[編集]半島のほゞ中央部において、浦賀港より西浦村大崩に至る横貫線を中心とせる一帯の地域には鉱泉の湧出せるを見る。則ち浦賀町芝生鉱泉、田浦町田浦鉱泉、衣笠村湯之沢鉱泉、武山村竜塚鉱泉西浦村秋谷鉱泉、葉山村一色鉱泉、同村下山口鉱泉此なり。皆硫黄泉に属し。アルカリ性を呈し、低温度を有す。
地質
[編集]半島の地質は、ろ難読の系統第三紀層及第四紀層に属し、土性は埴土及礫質壌土を含む。乃ち前述せる北三浦地方において比較的広濶なる面積を有する耕地は第三紀層によりて構成せられ、その土性は概ね埴質壌土なり。この状態は平作川、下山川、森戸川、田越川の流域において著明に認め得らるべし。南三浦地方は主として第四紀古層により構成せられ、土性は壌土を含めり。半島の全沿岸は総べて第四紀新層の砂礫に覆はれ、所謂海成沖積地を成せり。
しかして、半島を構成する岩石は、主として水成岩に属し、凝灰岩、頁岩方言ドタン、蛮岩、砂岩等を含み、一部火山砂岩の地表を被覆するを見る。又古生紀に属する蛇紋岩、及石灰岩の表在せるを見ることあり。蛇紋岩は衣笠村、葉山村に著明にして、石灰岩は浦賀町鴨居、久里浜村久村、逗子町小坪に露出し、殊に逗子町小坪には著明なる鍾乳洞あり。
気候
[編集]半島の気候は、その地理的状態により、一般に海洋性気候に属し、四時概して中和なり。気温の最も高きは八月にして、極暑平均八十五度内外、その最も低きは一月にして、極寒平均三十六度内外を示す。雨量は晩春より初夏に亘る候に最も多く、秋期二百十日前後これに亜ぐ。雪は主として一月、二月に見れども積雪は稀なり。霜は十一月中旬より三月初旬に至る時期において此を見る。凍氷も此の期間なり。風は春夏の二期は南風若くは東北風にして、夏時往々暴風雨の襲来することあり。
二、三浦郡の沿革
[編集]三浦郡は古書御浦郡に作り、日本書紀持統天皇六年五月の条に「辛末相模国司献㆓赤鳥雛二隻㆒言㆑獲㆓於御浦郡中㆒」とあり。同七月の条に「賜㆚相模国司布勢朝臣色布智等御浦郡少領欠姓名与㆘獲㆓赤鳥㆒者鹿島臣櫲[2]樟㆖位及禄㆙服㆓御浦郡三年調役㆒」とあるは、本郡名の国史に現はれし初にして、爾後中古に至るまで復た史に見はれず。天平七年相模国
和名抄に拠るに、上古の地方制度に従ひて、本郡に設けられし郷名五を載せり。則ち
逗子町、葉山村は当時鎌倉郡に属し、殊に逗子町小坪は鎌倉時代は明に鎌倉の南界とせられ尚下りて康安二年の文書に鎌倉郡小坪とあり、いずれの時代本郡に編入せられしや明ならず。新編風土記所載の三浦道寸書状に「郡内久野谷郷の内中之村就㆓領分之事㆒此方成敗之間云云」と記す。久野谷は小坪の西北に位し、同じく逗子町に属す。道寸時代既に本郡に入りしは明なり。和名抄鎌倉郡の郷名に沼浜郷とあるは、則ちこの地方の概称にして、逗子町沼間はその遺称なり。
以上記述せる外、本郡地名の比較的早く典籍に現はれしは、東鑑に載れるものを以て推すべし。則ち小坪、佐賀岡、衣笠、矢部、三崎、栗浜、森戸、横須賀等にして、又当時本郡に蟠居せる三浦党の苗字の地なる津久井、佐原、和田、大田和、武、逸見、佐野等あり。建武二年の文書には、松和、金田、菊名、網代、諸石の名あり。鹿王院記至徳元年の条に長沢あり。小田原役帳には、稍々詳細に郡内の村名を記せり。乃ち浦之郷、田浦、横須賀、佐野、不入斗、公郷、田津、宗源寺、大津、走水、鴨居、浦賀、九里浜、佐原、岩戸、衣笠、矢部、池上、森崎、平佐久、山口、木古葉、葉山、長柄、池子、沼間、山根、久野谷、柏原、小坪、秋屋、佐島、長阪、蘆名、荻野、林、長井、太田和、和田、矢作、三戸、宮田、網代、三崎、毘沙門、松輪、金田、菊名、津久井、野比の諸村にして、後徳川時代に入り、正保元年の調査に従へば、本郡の石高二万千四百四十二石餘、村数五十九。元禄の調査にては、石高二万千六百二十七石餘、村数七十六。元禄五年浦賀は分村して東西の二ヶ村となり。万治三年には内川新田、元文三年には入江新田、宝永年間には船越新田開墾せられ、天保年度においては、石高二万千六百二十七石餘、村数七十六を数ふるに至りぬ。則ち浦之郷、船越新田、田浦、長浦、逸見、横須賀、中里、不入斗、佐野、深田、公郷、大津、走水、鴨居、東浦賀、西浦賀、西浦賀分郷、内川新田、八幡久里浜、久村、岩戸、佐原、森崎、大矢部、衣笠、小矢部、金谷、池上、上平作、下平作、木古庭、上山口、下山口、一色、堀内、長柄、桜山、逗子、小坪、久野谷、柏原、山之根、池子、沼間、野比、長沢、津久井、上宮田、菊名、金田、松輪、毘沙門、原、宮川、向ヶ崎、城ヶ島、城村、三崎町、仲町岡、東岡、二町谷、諸磯、小網代、三戸、下宮田、入江新田、高円坊、和田竹之下、和田赤羽根、本和田、長井、林、太田和、須軽谷、武、荻野、長阪、佐島、蘆名、秋谷の諸村此れなり。
しかして本郡の統治は上古国郡制度の行はれし時代においては御浦郡司の管轄する所なりしが、中古荘園時代の現出するに及び豪族三浦氏累世割拠し、永正十三年北条早雲三浦道寸を亡ぼすや、本郡は北条氏の領国となり、天正十八年徳川家康北条氏の旧領を襲ふに及び本郡も其領する地となり。後幕府の政策確定するに及び、本郡の大半は幕府の直轄地となり、若干の社寺領及旗本の釆邑を交へたり。幕末外国関係起るに及び、文化八年六月郡内の御領私領悉く上地の上、浦賀奉行及会津藩領とし後ち永くこの制により相模国海岸防禦の諸侯に加封せらるゝを例としたりき。慶応四年三月横浜に横浜裁判所を置かるゝに及び、浦賀奉行の管轄せる事務はその管理に移り、九月神奈川県の置かるゝや郡内の幕領はその治下に入り、浦賀に神奈川県出張所を置かれ、十二月前に韮山県に属したりし私領の地も全部同県の管内に編入せられたり。
明治三年七月東西浦賀を合併して浦賀村と称し、六年四月大小区制を施行せらるゝに及び、本郡は二大区十四小区七十八ヶ村(石高二万四千七百五十四石餘)を数へたり。乃ち南部三浦を以て神奈川県第十四大区とし、第一小区野比村、長沢村、津久井村 第二小区上宮田村、菊名村、金田村、松輪村、毘沙門村 第三小区三崎町城村、二町谷村、仲町岡村、東岡村、原村、宮川村、向ヶ崎村、城ヶ島村 第四小区諸磯村、小網代村、三戸村、下宮田村 第五小区高円坊村、須軽谷村、武村、太田和村林村 第六小区入江新田、和田村、赤羽根村、竹之下村、長井村 第七小区長阪村、荻野村、佐島村、蘆名村、秋谷村にして、北部は第十五大区と称し、第一小区浦之郷村、船越新田、田浦村、長浦村、第二小区逸見村、横須賀村、中里村、不入斗村、佐野村、深田村、公郷村 第三小区大津村、走水村鴨居村、浦賀村 第四小区内川新田、八幡久里浜村、久村、岩戸村、佐原村 第五小区森崎村、小矢部村、大矢部村、衣笠村、上平作村、下平作村、池上村、金谷村 第六小区木古庭村、上山口村、下山口村、一色村、堀内村、長柄村 第七小区桜山村、逗子村、小坪村、久野谷村、柏原村、山之根村池子村、沼間村に区画す。後各村に合併行はれ、地方行政区画漸く整理せらるゝに至れり。則ち
- 明治七年十二月 三崎町及三崎城村を合併して三崎町とす。
- 同年同月 二町谷、仲町岡、東岡、原、宮川、向ヶ崎の六ヶ村を合併して
六合 村とす。 - 同八年七月 上平作、下平作、池上の三村を合併して平作村とす。
- 同年十月 本和田、赤羽根、竹之下の三村を合併して和田村とす。
- 同九年三月 横須賀村を改め横須賀町と称し、元町、汐留町、汐留町新道、汐入町、港町、旭町、諏訪町、山王町、若松町、稲岡町、楠ヶ浦町、泊町、坂本町、谷町の十五町に分割す。
- 同年同月 浦賀村を改め浦賀町と称し、新井町、洲崎町、新町、大ヶ谷町、築地新町、築地古町、芝生町、荒巻町、谷戸町、宮下町、田中町、紺屋町、蛇畠町、浜町、川間町、久比里町、吉井町、高坂町の十八ヶ町に分割す。
斯くして、十一年七月郡区制実施せられ、大小区制廃せられ、前の第十五大区々長小川茂周氏初めて三浦郡長を命ぜられ、同年十二月一日当時橫須賀汐留新道に在りし旧第十五大区々務所を三浦郡役所と改称して、同日開庁せり。
翌十二年十一月、三崎町を分割して、日ノ出町、入船町、仲崎町、花暮町、海南町、西野町、宮城町、西浜町の八ヶ町に分ち、十五年五月、横須賀町海岸埋立地に小川町なる字名を附して、横須賀町に編入し、三浦郡は公称四十一ヶ町六十四ヶ村となり。十七年七月聯合戸長制実施せられて、郡内戸長役場数十五を算し聯合町村の区域は、現今の初声村高円坊が武山村に属したる他、総べて現在町村の区域に同じ。
明治二十二年四月、町村制の実施に伴ひ、新に設定せられし町村十四。則ち浦郷村、橫須賀町、
此において維新後暫く地理上の名辞に過ぎずして、郡区町村編制法実施せられて十一年七月官治主義の行政区画たりし町村も、現実に自治団体となり、次で二十三年五月郡制施行せられて、郡また自治体の実を具ふるに至れり。
爾来各町村は隣保団結して、共同の利益の為め、砥礪発奮し、益々その良能を発揮し、時勢に適応して、順当なる発達を遂げしが、就中橫須賀町は維新以来海軍造船所及軍港の所在地として、人口の増加、町勢の伸展他の能く匹儔する所に非ず。しかのみならずに十七年海軍鎮守府を置かれ、東海唯一の軍港地となり、これよりその発展頗る顕著なるものあり。後ち帝国海軍の拡張に伴ひまた昔日の制度に置くべからざる事情を来し、隣接せる豊島町を合併し、遂に四十年二月十五日市制を施行せらるゝに至りぬ。則ち
- 明治二十四年 橫須賀汐留新道を廃す。
- 同 三十六年十月 豊島村を改めて豊島町と称す。
- 同 三十九年十一月 横須賀町及豊島町を廃し、その区域に新に横須賀町を設定す。
- 同 四十年二月 橫須賀町を橫須賀市と改む。
斯くて、三浦半島に二個の行政区画を生じ、三浦郡の管轄は二町十一ヶ村なりしが、後町制を布かるるもの二ヶ村を生じ、現在の如く四町九ヶ村を数ふるに至りぬ。今その沿革を示せは左の如し。
- 明治四十四年七月 中西浦村を改め西浦村と称す。
- 大正二年四月 田越村を改め逗子町と称す。
- 同三年三月 浦郷村を改め田浦町と称す。
しかして、本郡長は明治三十一年二月小川茂周氏足柄下郡長に転じ、足柄下郡長中山信明氏代り、爾来三十三年十二月高座郡長石川疏氏、四十年四月津久井郡長若林良之氏、四十五年五月群馬県利根郡長前田多門氏、大正二年六月鎌倉郡長北野右一氏、四年五月本県理事官芝辻一郎氏相継ぎて在職せられ、五年一月現任郡長佐川福太郎氏愛甲郡長より転任せられて、今日に及べり。 庁舎は開庁以来久しく、旧橫須賀町汐留に在りしが明治三十六年四月現在の横須賀市公郷に移れり。
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三、歴史年表
[編集]紀元 | 年号 | 御宇 | 記事 |
---|---|---|---|
七七〇 | (無)四〇 | 景行 | 皇子日本武尊御東征、浦賀町より上総国に渡り玉ふ。時に妃弟橘媛命走水海に沈み玉ふ。 |
一八四〇 | 治承四 | 安徳 | 八月二十六日衣笠合戦。三浦大介義明戦死。 |
一八五四 | 建久五 | 後鳥羽 | 八月一日源頼朝三崎に山荘を設く。 九月二十九日源頼朝三浦義明の忠死を吊ひ、衣笠村大矢部に一寺を建立す。 |
一八五九 | 正治元 | 土御門 | 六代禅師田越川に斬らる、平維盛の嫡男なり。 |
一八七三 | 承久元 | 順徳 | 三浦胤義の孤児田越川に斬らる。 |
一九一四 | 建長五 | 後深草 | 五月僧日蓮米ヶ浜橫須賀市深田に着す竜本寺伝 |
二〇六三 | 応永一〇 | 後小松 | 八月三日唐船三崎に着す。 |
二一五四 | 明応四 | 後土御門 | 九月三浦義同養父時高を新井城に攻む。 |
二一七二 | 永正九 | 後柏原 | 八月三浦義同北條長氏と住吉城に戦ふ。 |
二一七六 | 永正一三 | 同 | 七月十五日新井城陥り三浦氏亡ぶ。 |
二一八一 | 大永元 | 同 | 三浦木綿初めて栽培せらる。 |
二二一六 | 弘治二 | 後奈良 | 北条氏康里見義弘と三崎海上に戦ふ。 |
二二二六 | 永禄九 | 正親町 | 春、明船三崎に来る。 |
二二三一 | 元亀二 | 同 | 北條氏政里見義弘と三崎海上に戦ふ。 |
二二五〇 | 天正一八 | 後陽成 | 北条氏亡び三崎城の守将山中上野介城を朝比奈彌太郞に交付して退去す。 九月徳川家康向井政綱、小浜景隆、間宮高則、千賀孫兵衛をして三崎に屯し水軍を管せしむ。 |
二二六〇 | 慶長五 | 同 | ウイリアム、アダムス浦賀に上陸す。 |
二二六八 | 同一五 | 同 | 七月呂宋大守ドン、ロドリゴ、デビベーロの使節浦賀に来る 徳川幕府浦賀に掲示して呂宋商人に対し乱妨するを禁ず。 |
二二七〇 | 同一五 | 同 | 六月十三日徳川幕府の使節伴天連フライ、アロンソ、ムニセスの一行浦賀を解纜して「ノビスパン」に向ふ、田中勝介以下邦人二十三人随行す。 |
二二七一 | 同一六 | 後水尾 | 六月十日 ノビスパン答礼使セバスチヤン、ビスカイノ浦賀に着す。 |
二二七四 | 同一九 | 同 | 十月徳川秀忠向井政綱に命じて三崎及走水を警戒せしむ。 |
二二七五 | 元和元 | 同 | 四月徳川秀忠向井政綱に命じて三崎及走水を警戒せしむ。 |
二二七六 | 同二 | 同 | 紀州加田浦の漁夫浦賀より上総に赴き初めて干鰯業を創む(口碑) |
二二八四 | 寬永元 | 同 | 正月十一日徳川幕府三崎及走水に海関を設く。 |
二二九二 | 寬永九 | 明正 | 七月七日初めて三崎奉行を置く。 紀州の漁夫本郡下浦に来りコマセ網を創む。(口碑) |
二三〇四 | 正保元 | 後光明 | 七月七日初めて走水奉行を置く。 |
二三二〇 | 万治三 | 後西院 | 砂村新左衛門内川新田を開発す。 |
二三五六 | 元禄九 | 東山 | 三月二十一日三崎及走水奉行を廃す。 |
二三八〇 | 享保五 | 中御門 | 十二月二十一日初めて浦賀奉行を置く。 |
二三八一 | 同六 | 同 | 二月朔日浦賀港において回船の検査を初む。 |
二三八二 | 同七 | 同 | 五月志州鳥羽菅島及三崎城ヶ島篝火経費として浦賀港出入船舶より石銭を徴収す。 |
二四六八 | 文化五 | 光格 | 三崎城ヶ島及走水に砲台を設く。 |
二四七一 | 同八 | 同 | 六月一日松平肥後守容衆本郡を領す。 |
二四七二 | 同九 | 同 | 六月会津藩郡中に布令して非常に警しむ。 |
二四七八 | 文政元 | 仁孝 | 五月十四日英船浦賀に入り二十一日出港す。 |
二四七九 | 同二 | 同 | 正月二十五日浦賀奉行一員増加。 |
二四八〇 | 同三 | 同 | 十二月松平肥後守容衆辞任。 |
二四八二 | 同五 | 同 | 四月二十九日英船浦賀に入る。 |
二四九七 | 天保八 | 同 | 六月二十八日米船モリソン号浦賀に入る。 奉行太田運八郎此を撃退す。 |
二五〇二 | 同一三 | 同 | 十二月十四日浦賀奉行一員削減。 松平大和守齋典三浦郡を警衛す。 |
二五〇四 | 弘化元 | 同 | 五月二十四日再び浦賀奉行を増員して二名とす。 |
二五〇五 | 同二 | 同 | 二月外船浦賀に来る。 |
二五〇六 | 同三 | 孝明 | 五月北米合衆国使節ビツトル軍艦二隻を率ゐて浦賀に来る 六月丁抹船浦賀に来る。八月英船浦賀に来る。 |
二五〇七 | 同四 | 同 | 四月千駄崎に砲台を設く。 松平大和守及井伊掃部頭三浦郡を警衛す。 |
二五〇九 | 嘉永二 | 同 | 四月英国軍艦浦賀に来る。 |
二五一三 | 同六 | 同 | 六月三日北米合衆国使節ペリー浦賀に来る。 六月九日徳川幕府浦賀奉行に命じ久里浜海岸において国書を受領せしむ。 |
二五一四 | 同七 | 同 | 正月十四日米国軍艦マセドニアン号長井村沖に坐礁。 |
二五二二 | 文久三 | 同 | 三月生麦事件に関し浦賀奉行令して浦賀港に戒厳す。 |
二五二四 | 元治元 | 同 | 十一月二十六日徳川幕府製鉄所創立委員小栗上野介忠順の一行長浦湾を調査す。 |
二五二五 | 慶応元 | 同 | 九月横須賀製鉄所鍬入式を行ふ。 |
二五二七 | 同四 | 明治 | 四月一日横須賀製鉄所を横浜裁判所の所轄とす。 |
二五二七 | 同 | 同 | 四月十日浦賀奉行土方出雲守退任。十一日佐賀藩士下村三郎左衛門浦賀表御用掛となる。 |
二五二九 | 明治二 | 同 | 正月元日初めて観音崎灯台に点火す。 |
二五三〇 | 同三 | 同 | 八月十三日城ヶ島篝火を廃し灯台に点火す。 |
二五三二 | 同五 | 同 | 四月一日浦賀港における通船改及石銭徴収を廃す。 四月二十八日明治天皇松輪灯台叡覧の為海上御臨幸。 十二月神奈川県浦賀出張所廃止。 十二月二十一日横須賀、浦賀、松輪、三崎に郵便役所を設けらる。 |
二五三三 | 同六 | 同 | 浦賀に海軍屯営を置かる。 |
二五三四 | 同七 | 同 | 浦賀に神奈川県教員養成所を置かる。 |
二五三六 | 同九 | 同 | 三月廿日横須賀に電信分局を置かる。 十二月横須賀水兵屯集所を新築す。 |
二五三七 | 同一〇 | 同 | 九月横須賀水兵屯集所を改め東海水兵本営と称し、浦賀水兵屯集所を東海水兵分営と称す。 |
二五三七 | 同一〇 | 同 | 十二月横須賀港近海西北夏島より東南猿島に至る海面を海軍港と定め海軍省の所轄とす。 |
二五三八 | 同一一 | 同 | 十二月一日三浦郡役所開庁。 |
二五四一 | 同一四 | 同 | 五月十八日明治天皇観音崎砲台に行幸。 |
二五四四 | 同一七 | 同 | 十二月東海鎮守府横浜より横須賀に移転横須賀鎮守府と称す。船越に水雷営を置かる。 |
二五四九 | 同二二 | 同 | 四月十七日東海水兵分営廃さる。 |
二五五〇 | 同二三 | 同 | 六月東海道鉄道横須賀線開通。 |
二五六〇 | 同三三 | 同 | 一月浦賀船渠株式会社の開渠式を行ふ。 |
二五六三 | 同三六 | 同 | 四月私立逗子開成中学校開校。 |
二五六七 | 同四〇 | 同 | 二月十五日横須賀町に市制を施行せらる。 |