ニネベのイサアク神秘論文集/第1論文
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第1論文
[編集]神への畏れは、道徳の始まりである。なぜなら、道徳は信仰から生まれると言われているからである。それは、世の中の気を散らす事柄から離れ、未来に起こる物事の順序について継続的な瞑想にさまよう衝動に集中することを彼の心に許すとき、人の心に蒔かれる。道徳の基盤に関して言えば、その特有の要素の一つ目は、実用的な事柄から自己を解放し、まっすぐで聖なる道という啓示された言葉、つまり霊感を受けた詩篇〈聖詠〉作者が「教師」と呼んだ言葉に自己を集中させることである。
名誉を担うことができる人はほとんど見つからないか、あるいはおそらくそのような人は存在しない。なぜなら、人間は、たとえ天使に等しいような人であったとしても、間違いを犯しやすいからである。
生命に至る道の始まりは、神の言葉を学ぶことと、忍耐力の実践に心を慣らすことにある。なぜなら、前者から得られた知識は、後者の実践において完璧を獲得するのに役立つからである。さらに、後者〈忍耐力の実践〉の達成に向けた発展が進むと、前者〈神の言葉を学ぶこと〉への欲求が高まる。そして、両者の協力により、道徳の家屋全体が急速に立ち上がる。
この世から遠く離れた人を除いて、誰も神に近づくことはできない。世から遠ざかるというのは、身体から離れることではなく、身体的な物事から離れるという意味である。
道徳とは、人が心の中で世の中に対して無欲であるということにある。 感覚が[外側]のものに占領されている限り、それらの妄想から心を休めることはできない。砂漠や荒野以外では欲がなくなることも、邪悪な考えがなくなることもないであろう。
魂はまだ神への信仰に心酔しておらず、〈世における〉その力の印象を受けているので、感覚の弱さは癒されず、内側にあり、[感覚によって]認識されない目の前にある障壁を力強く踏み倒すこともできない。
理性は自由の原因であり、間違いを犯す責任の結果でもある。最初のもの〈世から遠ざかること〉がなければ、2番目〈信仰への心酔〉はあり得ない。そして、2番目があれば、まるで馬の端綱のように、3番目の結果〈自由〉が結びつき存在する。
人の中に恵みが豊かにあるとき、義への愛のゆえに死の恐怖は軽視される。彼は自分の魂の中に多くの理論を見出し、神への畏れのために困難に耐えるようになっていることを[証明]している。そして、身体を傷つけ、不当に自然を遠ざけ、その結果として苦しみを引き起こす性質のものであると考えられているものは、未来の希望と比べれば、何でもないものと彼の目には映る。そして彼は、誘惑の経験を積まなければ真実を認識することは不可能であること、神が人間に多大な配慮をし、人間は偶然に放任されたものではないという事実をしっかりと確信する。特に、主に祈る訓練を受け、主のために苦しみに耐える人々は、[これらの真理]を色ではっきりと[まるで絵で描いたかのように]見ることができる。しかし、私たちの心に神への信仰がほとんど根付いていないと、これらすべてのことは私たちを試すものとしてではなく、反対のものとして感じられる。
そして、私たちが常に神を信頼することに成功するとは限らず、神は期待されているほどあなたを気にかけてくれていないという暗示は、暗闇の中で待ち伏せして矢を射る者たちによってしばしばほのめかされる。
真の人生の始まりは神への畏れである。このことは[外部の]物事への気遣いが存在する限り、魂の中に安住することはできないことを示している。なぜなら、心は感覚に奉仕することによって、神への喜びから遠ざかってしまうからである。
内向きの衝動は、それらの感覚能力とそれに影響を与える感覚とに結びついているのである。
心の疑いは人の魂に恐怖をもたらす。しかし、信仰はたとえ手足を切断されても、心を人間らしくすることができる。あなたの中に肉体への愛が強くある限り、愛されている人の周囲には常に多くの敵が存在する。そのため、人は勇気を持って恐れることなくいることができない。
名誉を好む人であれば、苦悩の原因がないということはあり得ない。
それがどのような観点であっても物事の変化に同じように心が悩まされない人はいない。
エヴァグリオスが言うように、感覚に第二の知覚があり、それが欲望を生み出し発生させるのであれば、疑いを抱いている人は沈黙を保ち、心を平穏に保つことを約束しなければならない。
自分に戦いを挑む邪悪な衝動が抑制されている人が純潔であるのではなく、心の正しさが心の視線を純潔にしており、大胆にもみだらな考えに走らない人が純潔なのである。そして彼の心の聖性は、彼の瞳が忠実に守られている視線によって証明されており、そのため内気な気持ちが彼の思考の隠れた場所をカーテンのように覆い隠している。そのため、彼の純粋さは貞淑な処女の純潔のように、キリストのために忠実に守られる。
教えへの愛のために燃え上がるのと同様に、身体の激しい炎を燃え上がらせる記憶を刺激することを抑制し、聖書の言葉の意味を調べ探求することほど、みだらな習慣を魂から追放するのに適したものはない。
[神の]言葉からその意味を理解する能力によって、その言葉に含まれる知恵を[味わった]後、その衝動的な喜びに浸るとき、人は誰でも我を忘れるだろう。世界とその中にあるすべてのものを忘れ、彼はまた、物質世界の想念の元となるすべての記憶を魂から追放する。そして、多くの場合、神秘体験の最中に想いの中で魂は、聖書の神秘の海から辿り着く新たな[経験]によって通常の思考をしりぞける。
心が水面に浮かんでいるとき、(その深淵にあるすべての宝物を見ることができるように)その衝動を水の深さまで透徹することができずにいるときでさえ、静寂な瞑想は、その愛の力によって、思考を神秘体験の思考としっかりと結びつけるのに十分な力を持ち、肉体的ものごとについて考えたり、追求したりするのを阻止することができる。神をまとった、ある人はこう言う、「心は弱いので、外から届く邪悪な影響にも、内なる葛藤にも耐えることができない」。したがって、心が教えに満たされていなければ、肉体の邪悪な考えによる身体の煩悩に耐えることができない。
載せる物の重さが、急な揺れや、強い風の中での天秤の振動を[妨げる]のと同じように、内気さと恐怖は心の動揺を[妨げる]。 そして、前者の欠乏の兆候は、後者における自由の支配の[兆候]でもある。同様に、物の重さが減少すれば、天秤がより簡単に揺れたり揺れたりする原因となり、この場合、確固たる基盤がないので、自由のために魂から恐怖を取り除くことによって心のバランスが保たれる。つまり感情の機能は自由の結果として生まれる。そして精神の不安定さはその能力が脱落した結果である。神の道におけるあなたの歩みの基盤となるように十分に賢明になりなさい。そうすれば近い将来、曲がりくねった道もなく王国の門の前にあなたを連れて行くだろう。
教師から教育を受けた人々のやり方で、あなたの行動を高めることを目的とした聖書の言葉を単なる勉強として見てはならない。それは、その言葉の中にある崇高な意味を理解することによってあなたの魂が成長するためである。あなたが聖書の中で見つけたすべての物語の中で、その言葉の意味を正しく理解しなさい。そうすれば、あなたは自分の魂を深くして、光に満たされた人々が待っている偉大な知恵を魂に宿らせることができるだろう。
恩寵によって、霊的な照らしに向かって行動するようになった人は、[聖書の]言葉の間を理解しやすくする光線が走っているかのように常に知覚する。この光線は、単純な発言と、魂を拡大するために霊的に高尚に語られる事柄を識別する。
高尚な言葉をただ読んでいるだけの人は、その心も単純なままで、魂を呆然とさせるような意味によって心に甘い味を与える神聖な力を欠いているだろう。
すべてのものは、似たものに向かって進むことに慣れている。そして、霊の何かを持っている魂は、霊的な力が隠されているものを聞くと、聞いたものを熱心に抱きしめる。しかし、霊的に語られ大きな力が隠されている物語は、すべての人を賞賛に導くことはできない。
道徳に関する言葉には、地上や地上の業務から自由な心が必要である。
もし人の心が一時的なものに気をとられているなら、道徳に関する物語がその人の思考を刺激して、それを所有したいという欲求を抱かせることはないだろう。
物体からの解脱の成立は神との結合に先行する。あたかも恩寵の摂理によるかのように、愛が愛を覆うように後者が前者に先行する人もいるとはいえ、一般的な摂理の順序ではそうではない。したがって、あなたは共通の秩序を守らなければならない。あなたの内にある恩寵が第一であるなら、それはそれ自体のためである。もしそうでないなら、誰もが伝統に従ってゆく、その道に沿って霊的な塔に登りなさい。
精神的に行われるすべてのこと、またその戒めが履行されることはすべて、肉の目にはまったく見えない。一方、実践的に行われるあらゆることは、複合的な性質を持っている。これら二つ、理論と実践を要求するのは一つの戒めだけである。なぜなら、実体性と非実体性、この二つの適応はすべてに属するからである。したがって、照らしを受けた知性は、モーセによって昔、命じられた通りではなく、[理論と実践の根底にある] 戒めを二重の方法で理解する。つまり、複雑さと同様に単純さも理解される。
浄化された人によって慎重に行われた行為は、過去の非難すべき事柄の記憶の印象を取り除くことはない。 しかし、それらは回想による苦痛な哀しみを心の中で取り除き、その結果、十分に頻繁に心を通過したものが、今では有徳なものになるのである。
優れた徳を獲得したいという魂の切望は、目に見えるものに関連する欲望を打ち消す。
すべてのことには意味がある。それが欠けていると、たとえそれを使用すれば助けになりそうなものであっても、何の障害にも遭遇せずに脇に追いやられ害を及ぼす可能性がある。
感覚に左右されない喜びの印象を得ることで、神との精神的な交わりを持ちたいのであれば、慈悲と繋がりなさい。なぜなら、神聖な美はあなたの中にある憐れみに似た要素によって形成されるからである。そして憐れみの実践はすべて、魂を即座に神の栄光が持つ特有の輝きとの交わりに導く。
霊的な統一とは、燃えるような愛とともに、変化することなく心に鮮明に残る永遠の記憶である。常に戒めに固執することによって、それは統一を保ち続ける力を獲得する。そして、二次的でも自然的でもない形で、魂が絶対的に信頼することができる霊的ビジョンのための事柄が見出される。したがって、人は、肉体の感覚と魂の感覚の二つの種類の感覚を閉じることによって神秘体験に引き寄せられる。目に見えない霊智を生み出す霊的な愛に向かうには、御父の完全さ、その基盤に関連して主に従う者たちに命じられた御言葉に従って、憐れみをもって最初から始める以外に方法はない。
実践の言葉と美しい言葉は大きく異なる。経験がなくても、知恵は言葉を飾り、知識がなくても真実を語り、[実際の] 実践の経験がなくても道徳について自分自身を表現する方法を知っている。実践から生まれた言葉は、信頼できる宝物である。しかし、怠惰な知恵は恥をもたらす手駒である。
それは水で喉の渇きを癒す経験がないまま壁に水を描く芸術家、あるいは美しい夢を見る人のようなものである。
実際の経験に基づいて道徳について語る人は、いわば自分の商売で勝ち取った利益からのようにその言葉を聞き手に伝える。そして、彼の魂の倉から出すように、聴衆の耳に彼の教えを蒔く。彼は、貞淑なヨセフを前にした年老いたヤコブのやり方で、霊的な息子たちの前で自由に口を開き[言う]:「私はあなたに兄弟たちよりも第一の分け前を与えた、それは私が剣と弓でアモリ人の手から奪ったものである。」(創世記48:22)
したがって、日常生活が汚れている人は皆、この世の生活を愛するはずである。 知識が不足している人も同様である。 ある人はこう言った、「死の恐怖は肉なる人間を苦しめる」。 一方、自分の内に善き証明を持っている人は、生命と同様に死をも望む。
この世の生活のせいで心が恐怖にさらされている人を真の賢者だと考えてはならない。
肉体に降りかかるすべての善と悪は、あなたにとって夢としてみなされるものであり、あなたがそれらから逃れることができるのは死によってだけでなく、死の前にも、あなたからそれらの善と悪が消滅することがしばしばある。
もしあなたの魂がそれらのいくつかに結びついているのなら、それらは永遠にあなたの所有物であり、あなたが存在する世界にもあなたとともにあると考えなさい。それらが美しい場合は、心の中で喜び、神に感謝しなさい。それらが邪悪である場合は、申し訳なくため息をつき、肉体にいる間にそれらから解放されるために尽力しなさい。もし何か良いことがあなたに行われたなら、それが公にされているか、隠されているかにかかわらず、あなたの仲介者は洗礼と信仰であり、それによってあなたはイエス・キリストにあって善い行いに召されたのである。彼に光栄、尊敬、感謝、敬拝は、父および聖霊と共に帰す。今も何時も世々に、「アミン」。
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