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シリヤの聖エフレム教訓/第13講話

第13講話

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温柔(おんじゅう)なる人(ひと)は実(じつ)に福(さいわい)なり、三倍(さんばい)して福(さいわい)なり。救(きゅう)世主(せいしゅ)、主(しゅ)は彼(かれ)の為(ため)に此(こ)の事(こと)を證定(しょうてい)していへり、『温柔(おんじゅう)なる者(もの)は福(さいわい)なり、彼(かれ)らは地(ち)を嗣(つ)ぐべければなり』〔マトフェイ五の五〕。さらば此(こ)の楽園(らくえん)の地(ち)を嗣(つ)ぐの祝福(しゅくふく)より福(さいわい)なるものあるべけんや、此(こ)の許約(きょやく)より高尚(こうしょう)なるものあるべけんや、此(こ)の喜(よろこ)びよりよろこばしきものあるべけんや。故(ゆえ)に兄弟(けいてい)や、許約(きょやく)の富(とみ)の非(ひ)常(じょう)なる事(こと)をききてこれを獲(え)んが為(ため)に熱心(ねつしん)せよ。いそぎて此(こ)の徳行(とくこう)の光明(ひかり)に入(い)るべし、此(これ)をききて心(こころ)に深(ふか)く感動(かんどう)すべし、汝(なんぢ)らの中(うち)誰(たれ)も此(こ)の地(ち)を嗣(つ)ぐより省(はぶ)かれざらんが為(ため)、又(また)後(のち)に至(いた)りて無智(むち)なる悔恨(かいこん)によりいたく哀(かな)しまざらんが為(ため)に、力(ちから)のあらんかぎり勉(つと)め厲(はげ)むべし。真実(しんじつ)無妄(むぼう)なるイサイヤが聖神(せいしん)により此(こ)の事(こと)に言(いい)及(およ)ぶをきき、急(いそ)ぎて温柔(おんじゅう)を獲(え)よ。主(しゅ)の目(め)は誰(たれ)に止(とど)まるか。『主(しゅ)はいへらく我(われ)はただ温柔(おんじゅう)沈黙(ちんもく)して我(わ)が言(ことば)におそれをののく者(もの)を顧(かえり)みるなり』〔イサイヤ六十六の二〕。此(こ)の許約(きょやく)に驚(おどろ)かざらんこと豈(あに)得(う)べけんや、けだしかくの如(ごと)きの尊敬(そんけい)より栄(えい)誉(よ)なるものあらんや。故(ゆえ)に兄弟(けいてい)や、慎(つつし)めよ、此(こ)の幸福(こうふく)と此(こ)の無(む)量(りょう)の喜(よろこ)びと楽(たの)しみとを失(うしな)はざらんが為(ため)なり。故(ゆえ)に我(われ)は切(せち)に汝(なんぢ)らに願(ねが)ふ、いそぎいそぎて温柔(おんじゅう)を獲(え)よ、いかんとなれば温柔(おんじゅう)なる者(もの)はもろもろの善行(ぜんこう)を以(もつ)てかざらるればなり。温柔(おんじゅう)なるものはもし辱(はずかし)めらるるも喜(よろこ)び、もし哀(かな)しませらるるも感謝(かんしゃ)せん、怒(いか)る者(もの)をば愛(あい)にて鎮(しず)めん、身(み)に打(だ)撃(げき)をうくるも堅固(けんご)にて存(そん)せん、争闘(そうとう)の時(とき)には平然(へいぜん)たるべく、従属(じゅうぞく)せしめらるるには楽(たの)しむべく、驕傲(きょうごう)のために傷(きず)つく所(ところ)とならざらん。卑(いや)しめらるるには喜(よろこ)ぶべく、功労(こうろう)を以(もつ)て自(みづ)からほこらずたかぶらず、衆人(しゅうじん)と共(とも)におだやかに居(お)らん、すべての首長(しゅちょう)に服従(ふくじゅう)し、すべての事(こと)に用(よう)意(い)し、すべてに於(おい)て賛成(さんせい)を得(う)べく、衆人(しゅうじん)は彼(かれ)を嘉(か)賞(しょう)せん。彼(かれ)は兇悪(きょうあく)の外(ほか)に立(た)ち、偽(ぎ)善(ぜん)に遠(とお)ざかるなり。彼(かれ)は奸計(かんけい)にたすけざるべく、嫉妬(しっと)の為(ため)にしたがはされざらん、悪言(あくげん)をさくべく、讒言(ざんげん)を容(い)れざらん、非(ひ)難(なん)する者(もの)をさけん。アア福(さいわい)なる富(とみ)はそれ温柔(おんじゅう)なるかな。彼(かれ)は衆人(しゅうじん)に讃美(さんび)せられん。