シリヤの聖イサアク全書/第十二説教

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第12説教[編集]

<< 老人ろうじんこと。 >>


いづれときなりしかいつしんそのいおりへり。聖者せいしゃためにもひらくことを屡々しばしばせざりき。しかれどもいたるをまどよりみとむるや、げてへり『らんとほつするか』と、こたへり『しかたふとちちよ』と。しかしてりしのちとうおこなひてわれ種々しゅじゅだんをなしけるが、おはりにのぞみ、かれふてへり『ちち如何いかにすべきか、或者あるものきたれど、なにところあらず、かれだんよりなんえきをも引出ひきいださず、しかれどもかれげてきたるなかれとはんことはみづからづ、かれつうじょうそくおこなふをさまたぐることさへ度々たびたびこれあり、ゆえこれかなしむ』と。ふくなる老人ろうじんこれこたへてしもごとへり『かくのごと閑散かんさんこのものなんぢきたるあらば、そのしばらするや、とうたんとするのじょうかれしめせ、しかして叩拝こうはいしてげてふべし、兄弟けいていよ、われとうせん、けだしためこころぐるしくして、こはためじょうらんいんとなる、ゆゑにきはめて必要ひつようことにあらずば、そくつるあたはず。されどいまとうふべきむをざるのことあるなしと、かくのごとふべし、此事このことなくしてかれなんぢともとうせずにらしむるなかれ。もしとうせよ、われらんとはば、かれ叩拝こうはいげてふべし、あいためいつとうなりともわれともたまへ、なんぢとうによりえきけんと。もしかれとどまときは、なんぢとうつうじょうよりもながおこなへ。かれをかくのごと待遇たいぐうせば、そのなんぢきたるや、なんぢかんしょうせざると閑散かんさんこのまざるとをり、なんぢ彼処かしこにあるをききて其所そこちかづかざらん。

ゆゑにつつしめよ、おそらくはなんぢ偏愛へんあいによりかみぞくするのこうやぶらん。されどもししんまたつかれたる旅行者りょこうしゃきたるあらば、かくのごとものしばらるはなんぢためながとうかはりとならん。されどもしその旅行者りょこうしゃ閑談かんだんこのものいつならば、出来できるだけかれやすんじ、へいにしてらしむべし。』

しんへり、いはく『或者あるものあんちゅうおい工作こうさくじゅうするも、自己じこそくゆるべず執行しっこうしてじょうらんせざるをべし、といふをき、これあやしむ』。かれまたおどろくべきげんはつしていへり、いはく『じつはん、水濱すいひんづるならば、慣習かんしゅうそのじゅんじょとに錯乱さくらんかんせい成全せいぜんするのさまたげをおぼゆ。』