<< 知識の尺度と信仰の尺度は如何程大なるか。 >>
信仰に先だつ知識と信仰を以て生ぜらるゝ知識とあり。信仰に先だつ知識は天然の知識にして、信仰を以て生ぜらるるものは霊的知識なり。善を悪より別つ天然の知識あり、名づけて天良是非の心といふ、これにより学問を待たずして善と悪とを天然に識別するなり。此の是非の心を神は霊智ある天性に賦与し、学問の助によりて彼は成長と増加を受くるなり之を有せざらん人はあらず。是れ聡明なる霊魂に賦与せられし天然認識の力にして、霊中に不断活動し、善と悪とを識別するなり。此力を奪はれたる者は霊智ある天性より下くなれども、之を有する者に於ては霊性は緊要なる状態にあり、ゆえに彼等は霊智ある人間の尊敬の為に神を以て天性に與へられしものを一も害はれざるなり。善を悪より別つ此の認識の力を失ひし者を豫言者は責めて言へり、曰く『人は貴きに在りて知らず』〔聖詠四十八の十三〕。霊智ある天性の貴きは善を悪より識別する分別心にありて、之を失ひし者を豫言者が霊智と理性とを有せざる無智の動物に比するは当然なり。此の分別心を以て我等は神の路を看破するを得べし。是れ天然の知識なり、彼は信仰に先だち神に至るの路程なり。之を以て我等は認識を求め得て、善を悪より分別し、信仰を受けん。而して人が此の万物を造りし者を信ぜざるべからざる所以とその誡命の言を信じて之を実行せざるべからざる所以とは、天性の力も之を証明して、之を信ずるにより神を畏るゝの心は生ずべく、信仰が行為を伴ひて漸々に活動し来る時は、霊的知識を生ぜん。これ我等信仰により生ずと言ひし所のものなり。
天然の知識即ち我等が性に神より賦されたる善と悪との分別心は自然に我等を勧誘して、万物を存在せしめたる神を信ぜざるを得ざらしむるなり。然して信は我等に畏れを生ぜしめて、畏れは我等を悔改とその行為とに要するなり。かくの如く、人には霊的知識即ち奥義を感ずるの感覚を與へられて、此感覚は真実なる直覚の信念を生ずるなり。かくの如くなれば霊的知識は単に一片の裸体的信念より生ずるには非ずして、却て信念が神を畏るゝ心を生みて、神を畏るゝ心と共に活動し始むるときは、此の畏の作用により霊的知識の生ずることは、聖金口イオアンの言ひし如し、曰く『誰か神を畏るゝ心と思想の正しき状態に相副ふの意思を受る時は、彼は神秘なるものの啓示を直に受けん』と。彼は霊的知識を名づけて神秘なるものの啓示とはいへり。
しかれども神を畏るゝ心が此の霊的知識を生むにはあらず。けだし天性に賦与せられざるものは生ずることも能はざればなり。返つて此の知識は神を畏るゝ心の作用に恩賜として與へらるゝなり。神を畏るゝ心の作用を注意推究する時は、其作用は即ち悔改なるを発見すべくして、此よりして霊的知識は生ずるなり。これ我等先にも述べし如く、此聘質を我等は洗礼に於て受れども、其賜物は悔改によりて受けんといへるもの是なり。悔改により受けんと我等が言ひし此賜物は是即霊的知識にして、此賜物は畏の霊能により與へらるゝなり。霊的知識は神秘なるものを感ずるなり。若し誰か此の見えずして大に超絶する所のものを感ずる時は、其感は之により霊的知識の名をうくべくして、此の感知により最初の信仰に反対せずして却て其信仰を堅むる他の信仰は生ずるなり。之を名づけて直覚的信念といふ、此時に至る迄は聴覚なりしも、今は直覚なり、而して直覚は聴覚よりは更に確実なり。
是れ皆善なるものと悪なるものとを識別する天然の知識より生るゝものにして、此知識は道徳の良善なる種子たることは我等既に言へり。然れどももし此の天然の知識を自己の放蕩なる望みを以て暗ます時は、此のすべての幸福は奪はれん。それ此の天然の知識と與に之に随て人に生ずるものは、良心の不断の刺戟と、死の間断なき記憶と、世を去るに至る迄続く或る苦しき配慮とにして、其後生ずるものは悲哀なり、煩悶なり、神を畏るゝ心なり、天然の羞耻なり、既往の罪の為に哀むなり、緊要なる注意なり、一般の行路を忘れざる記憶なり、己を此に支度することの配慮なり、あらゆる人性の通過せざるべからざる此門に安んじて入らんことを涙を以て神に願ふなり、世を軽んずると、徳行の為に烈しく奮闘することなり。これ皆天然の知識を以て求め獲らるゝなり。故にすべての人は其行を之と対照すべし。けだし人が之を獲たるを認めらるゝ時は、是即人は天然の路に由りて行くを示すなり。然れども之を超越して愛に入る時は、天性より上に立ち、奮闘、畏懼、困難及び疲労はすべて人の為に終を告ぐるなり。視よ是れ天然の知識の結局にして、自己の放蕩なる望みを以て此知識を暗まさざる時は、此を自己に発見すべくして、我等を此のすべてのものより免れしむる愛に達するに至る迄は、此階段に止まらん。すべての人は此の我等が述る所のものに拠り、之と対照して己を試むべく其進行は何れにあるか、天然に反対するものにあるか、或は天然なるものにあるか、或は天然に超越するものにあるかを試むべし。此の進行の方針によりすべての人は其一生を如何に統治せらるゝを明白迅速に看出すを得ん。されど我等が定めたる如く、人は謂ゆる天然と適合するものに於て顕れず、又天然に超越するものに於てもあらはれざる時は、彼は天然と反対なるものに衝落されしものなること明なり。我等が神に光栄は世々に。「アミン」。