<< 知識の他の方法と其種々なる意味。 >>
有形なるものを学び、或は有形なるものより傳へらるるを五官にて受る知識は、自然的知識と名づけらるるなり。然して思想する者の力を以て無形なる霊物の性を内部に於て学ぶ知識は霊的知識と名づけらるべし、何となれば精神を以て感受して、五官を以てせざればなり、而して此二種類はその観察の時に際し、外より霊中に来るなり。之に反して神聖なる力を以て與へらるる知識は超自然的と名づけられ、殊に不可思議なるものにして、知識よりは一層上にあり。而して此知識の直覚を霊魂の受るは、初め二知識に於る如く霊魂の外にある物体より之を受るにあらず、却て此直覚は自己の内部に於て物体に拘はらず、忽然、迅速、且は望外にその内面より顕はれ来るなり、何となればハリストスの言ふ如く『天国は汝らの衷にあり』〔ルカ十七の二十一〕、前表を以て希望を養ふによるに非ず、顕然として来るにあらず、神秘なる智力に印せられたる形象の内部に於て思ふことなく自然に顕はるるなり、何となれば智は彼に於て物体を尋ぬるに非ざればなり。
第一の知識は不断の研究と勉焉たる学習の結果なり、第二は良善なる生涯と合理的信仰の結果なり、然して第三は唯一の信仰に䰗を以て與へらる、何となれば信仰を以て知識は空うせられ、活動は終を告げ、五感は贅物となりて不用に属すればなり。ゆえに此界限より降れば降る程知識は尊ばるべくして、いよいよ降ればいよいよ尊ばるべし。而して地と地に属するものに達する時は、知識は悉くを管理し、知識なくんばすべての行為は悪しく且不十分なるべし。しかれども霊魂がその直覚を高く挙げ、その概念を上天の事に及ぼして、有形の目に見えざるものと肉体の権にあらざるものとを考ふる時は、すべては信仰により組織せらるべくして『世々に讃美せらるる』〔ロマ九の五〕主イイスス ハリストスは此信仰を我らに賜ふべし。「アミン」。