<< 種々なる事項に就て問答。>>
問 此の行為、即黙想の行為のすべての労に於て首要なるものは何なるか、けだし此に到達したる人は最早其生涯に於て完全に達したるを知るを得ん。
答 人が連綿として断えず祈祷に止まるを賜はるとき是なり。けだし此に達せしならば、人はすべての道徳の高点に昇り、最早聖神の住所となれるなり。之に反してもし誰か撫恤者の此恩寵を疑なく受けざりしならば、此の祈祷に止まることを自由に遂ぐる能はざるべし。何となればすでに言ひし如く人類中何人にか神の住する時は、彼は祈祷を止めざるのみならず、神自らも常に祈祷すればなり〔ロマ八の二十六〕。其時は人は睡眠の状態に在るも、覚醒の状態に在るも、祈祷は其心中に於て断えざるべく、食するか、飲むか、寝ぬるか、何を為すか、且は深睡の中にありとも、祈祷の馨香と其薫蒸の気は其心中に易すく発出せん。其時は人より祈祷は離れざるべく、如何なる時も祈祷せざるなかるべく、たとひ外部は沈黙すとも、之と同時に人は神の奉事を窃に行ふなり、けだしハリストスを懐抱する人士の一人は清き者の沈黙を名づけて祈祷といへり、何となれば彼等の思念は神聖なる活動にして、清き心と智との活動は神秘なる者を神秘に讃頌する物静なる声なればなり。
問 霊的祈祷とは如何なるか、且如何様に之を苦行者に賜はるか。
答 心霊上の活動は厳重なる無玷と浄潔との為に聖神の能に與るものとなるを得べし。而して之を賜はるものは数千人中一人ならん、何故なれば是は未来の状況と其生涯の奥秘なればなり。性は挙げられて、此処にあるものには何等の感動もなく、記憶もなく、無動作なるものとなりて存せん。霊魂祈祷を以て祈願せず、然れども其感覚に於ては、人間の理解に超越して、ただ聖神の力を以て了解し得らるべき彼の世の霊に属する物を感知せん、是れ即聡明なる直覚なり、こは其始を祈祷より借るといへども、祈祷の働にはあらず、又其穿鑿にもあらざるなり。けだしかくの如き人々の中、或は之によりて最早浄潔の完全に達したる者ありき。而して我等上文に述べし如く、彼等が内部の活動は祈祷にあらざるの時あるなし。ゆえに聖神の来り臨むときは斯の如き者等を常に祈祷に於て発見すべくして、此祈祷により彼等を霊的現象と名づけらるる直覚に昇せん、けだし彼等は長き祈祷の方法にも、其起立にも、又其勤行の順序にも必要を有せざるなり。彼等の為には神を想起するを以て足るべくして、直に神を愛するの愛に捉へらるるなり。さりながら祈祷を尊敬するを為すや、祈祷に立つことをも彼等は全く等閑視せずして、連綿として已まざる祈祷の外に、指定せられたる時間には起立するなり。
けだし我等は聖なるアントニイが第九時の祈祷に立ちて、其智力の上昇を感じたりしを知る、又他の或神父は祈祷に立つや、手を挙ぐると共に無限の悦に達して、之に止ること四日間なりき。其他多くの人々も、かくの如き祈祷の時に當り、神を念ふ強き記憶と、神に対する大なる愛とに捉へられて無限なる悦に達したりき。然れども人の之を賜はるは罪に反対する主の誡命を守るにより、内部に於ても、外部に於ても罪を脱するの時にあるべし。もし誰か此誡命を愛して、秩序正しく之を益用するならば、其者の為に人間許多の行為より免れて自由を得るは緊要の事となるべし、是即言はば体を脱して体の外に居ることにして、是は性につきて言ふにあらず。要求につきていふなり。誰か立法者の模範にしたがひて生活し、其誡命に導かるるならば其者は罪に止まること能はざるべし。ゆえに主は福音経に於て誡命を守りし者を住所となさんことを其者と約束し給へり。
問 神の多くの果の完全は如何なるか。
答 人が神の完全なる愛を賜はる是なり。
問 之を得たるを人は何により確知するか。
答 人の智覚に神を念ふ記憶の起るあるや、其時人の心は直に神を愛するにより喚起せられて、其目は豊に涙をそそがん。けだし愛は愛せらるる者を想起するにより感涙を起すを例とす。然して神の愛に居る者は決して涙を奪はれざるべし、何となれば神の記憶を涵養する所のものに決して乏しきを告げざればなり、故に夢中にも神と談話す、けだし愛は通常かくのごときものを生じて、彼は此生活に於る人類の完全なればなり。
問 人が求め得たる多くの労苦、衰弱、及び奮闘の後にも、驕傲の念慮は人を攻撃するを憚らざらん、何となれば彼は人の徳行の美を借りて己の食となし、人が任ふ所の労の大なるを計算するによる、然らば人は如何にして其念慮に勝ち、之が為に征服せられざる程の堅固を其心に求め得べきか。
答 誰か神より離れ落ること、枯葉の樹より落つる如くなるを認識する時は、己の霊魂の力を了解せん、即主が其助を止め、彼をして独り魔鬼との戦に入らしめ、通常奮闘者と関係して其戦に助くる如く彼と共にするを為さざると同時に、彼は自己の力を以て此徳行を求め得たるや、其の悉くの戦を耐忍し得たるや否を認識する時は。彼の力は顕はれん、之を確言すれば打撃と彼の困苦とは明了にあらはれん。けだし諸聖人を保護して之を固むる神の照管は常に彼等と偕にするなり。もし苦行と、致命的の苦と、其他神の為に遭遇し神の為に大に忍耐する患難に居るならば、此照管を以て人類の種々なる階級に打勝たん。此事は明白顕然疑なきなり。けだし人々の肢体に不断起りて、之に憂をかうむらしめ、之を打負すが為に最も強き肉痒の力を性は如何にして征服するを得るか。それ他の人々は勝利を願ひ、且之を愛すれども其有力なる抵抗に際しては勝を奏する能はずして、返つて肉体上の療感より日々に打撃を受け、其霊魂の為に困んで苦労と悲哀と衰弱とに居れども、汝はかくの如き困苦なる肉体の引力を易く忍耐して、之が為に大なる錯乱に至らざるを得るは何故なるか。されば他の場合には苦を感じ易く、荊棘の刺の爪を刺したる疵にさへ堪ふる能はざる肉体は、もし天然の力以外に其苦みを反拒する他の力の他所より来るあらずんば、鐵の断割に打勝ち、肢体の挫折と種々なる苦痛とを耐忍し、人性に常なる如く、痛苦の中に在て其差別をさへ感ずるあらずして、苦難の為に勝たれざることを如何にして能するか。我等は神の照管の事に言及したるにより、奮闘を以て人に超絶する一報道の霊に益あるものを記憶の為に引證するを懈らざるべし。
フェオドルと名づくる一少年あり、酷刑に処せられて、全身に苦みを受けたり、人あり問ふて「汝は苦痛を感じたるか」といひけるに、彼は答へて次の如くいへり、「最初は感ぜり、然れども後に至り、余は或る少年を認めたり、彼は我が奮闘の汗を拭ひ、我を堅めて、苦行の時我に爽快を得しめたり」といひき。吁神の惠は何ぞ大なるや。神の名の為に奮闘する者に臨む神の恩寵は、彼をして神の為に苦難を喜んで忍耐せしむる為に幾許接近するか。
故に人よ汝に於る神の照管に感謝せざる者となるなかれ。畢竟汝は勝利者にはあらず、ただ器械の如きのみにて、主は汝に於て勝ち、汝は勝利の名を無報にして受くることの顕然明白ならば、何れの時にも同様の力を願ひ、勝ちて賞讃を受けて、神を承認するを誰か汝に禁ぜんや。人よ、汝は世の造成より以来幾多の苦行者が此恩寵に感謝せざる者となりて、生命の高きとより落たるを聞かざるか。人間に於る神の賜は本来数多にして、種々同じからざる程は、受くる所の賜にも同じからざるありて、之を受くる者の等級と適合するなり。神の賜には縮小と卓越とあり、其賜は皆高尚にして奇異なりと雖も、光栄と尊敬とに於ては一は他に優越し一の等級より高し、而して己を神に献げて道徳上に生活することも亦同じくハリストスの大なる賜の一なり。けだし多くの者は此恩寵により、人々に抽んじて神に献げられし者となり、神の賜に参與して之を受る者となり、選ばれて神に奉事し、聖務を行ふに相當する者となるを賜はりしを忘れ、其口を以て不断神に感謝するに代へて、驕傲と高慢に離去りぬ、而して彼等は己を以て清き生活と霊的行為とにより神に奉事を勤むる為に聖務を行ふの恩寵を受けし者とは思はず、却て神に恩恵をあらはす者の如く思ふ、然らば神が人々の中より彼等を抜きて、神の奥義を識るにより其眞子となせるを彼等の當然に思慮するは何の時なるべきか。而してかく思慮するも彼等は其全心を震攝せざるべし、矧んや彼等の先にもかく思慮せし者等が突然尊位を奪はれたると、主が彼等を其有したる大なる光栄と尊敬とより瞬間に貶黜したるを見るに於てをや、而して彼等は不潔と放蕩と耻づべき行為に離去りて禽獣の如くなりぬ。けだし彼等は己の力を識らざるのみならず、神の前に奉事を行ひ、其國に入るを得て、天使の共住者となり、天使の如くなる生涯を以て神に接近するの恩寵を與へし者を不断其記憶に存せざりしにより、神は彼等を其勤より、黜けり、而して彼等黙想を棄てて其生活の有様を変ぜしは是れ神は之を以て彼等が生涯に善き秩序を守り、自然と魔鬼と其他の反対の圧迫も彼等を驚かさざりしは、彼等の力に依るには非ずして、神の恩寵の力なるを彼等に證示するものにして、此事の至難なるにより、世は容るる能はず或は聞く能はざる所のものに彼等が久しく止まりて、之を守り、勝つ所とならざりしを證したるなり、故に彼等には或る力の伴ふありて、すべてに於て彼等を助け、彼等を保護するが為に充分なりし、ことは論を俟たざるなり。しかれども彼等は此力を忘れたるにより、使徒の言ふ所は彼等に應ぜり、曰く神的勤務の為に塵を配合せし主宰たる「神を其念に存するを願はざりしにより、彼等を戻れる心を懐くに任せり」〔ロマ一の二十八〕されば其迷謬の為に彼等が汚辱を受けしは當然なりき。
問 人々と同住するを俄に全く辞して、善なる熱心の為に人の居らざる恐るべき野に突然離れ去るを敢てする者は、之が為に被覆又は其他の需要を有せざるに依り、飢ゑて死するの時あらざるか。
答 無言なる動物さへ之を造るに先だち、住所を備へて、其需要の為の慮る者は其造成を軽んぜざるべし、特に神を畏れ、正直にして彼に従ひ、好奇の心を以てせざる者を彼は軽んぜざるなり。己の意思を神に全く犠牲にする者は、肉体の必要や艱難不幸の事は最早慮らざるべく、隠れたる生涯に居り、卑しき生活を送らんことを願ふべく、患難を懼れずして、却て清き生涯の為に全世界より遠ざかるを以て愉快甘美なる事と思ひ、丘陵山嶽の間に己を労らして、無言なる動物の中に漂泊者の如くして居るべく、肉体を安んじて汚穢に充たさるる生活を送ることを肯ぜざるべし。而して己を死に付して、神に属する清き行為を奪はれざらんことを毎時毎刻悲んで祈祷する時は、神より助をうけん。神に光栄と尊敬は帰す。彼は我等を清潔に守り聖神の恩寵の聖なるを以て我等を聖にして、彼の名を栄せしむべし、彼の聖なる名は清潔を以て世々に讃美せられん。「アミン。」