ほるたれざといふ強き心の事
去 ( され ) ばほるたれざの善と云ば◦強き心は善の障 ( さは ) りとなるほどの事を打切り◦如何程の妨 ( さまたげ ) ありといふともそれに拘 ( かゝは ) らずして◦輙 ( たやす ) く先へ行く事を為す善也。学者のいへる如く◦善は難行なれば◦是を勤めうる為に◦常に強き心を伴はずして叶はず。鉄石は堅き物なるが故に◦それを和 ( やはら ) ぐる為には鎚 ( つち ) を添へずして叶はず◦又敵陣の中を通らんとする者は兵 ( ひやう ) 具 ( ぐ ) を帯 ( たい ) せずして叶はざる如く◦善のかなづち◦兵 ( ひやう ) 具 ( ぐ ) となる強き心なくんば◦難行なる善を和 ( やはら ) げ◦妨 ( さまたげ ) を防ぐこと叶ふべからず。汝言へ◦何 ( いづ ) れの善か難 ( かた ) からずといふ事ありや。諸 ( もろもろ ) の善の上をよく見よ。或は天狗 ( てんぐ ) ◦或は世界◦或は私 ( わたくし ) の大切より妨 ( さまたげ ) ずといふ事なし。然るに強き心の善なくして望み計りを以ては◦争 ( いかで ) か求め得る事叶ふべきや。是を持 ( もた ) ざる時は◦其外 ( そのほか ) の善は◦手足を搦 ( から ) められたる者の所作をする事叶はざるが如し。故に汝◦善事の徳を求めんと思はゞ◦天狗◦世界◦色身 ( しきしん ) より為す所の妨 ( さまたげ ) にかち◦真の道に至るべき具足となる強き心を持たずして◦利運を開く事叶はざれば◦常に此 ( この ) 兵具を手より放つ事勿れ。去 ( され ) ば右の強き心の善を持 ( もた ) ざる人は◦求めんとする善を得 ( う ) べからずとよくよく心得よ。汝の心を改めざる内には◦それを見 ( み ) 付 ( つく ) る事叶ふべからず。甘露は辛苦をもて求め◦冠は合戦を以て戴 ( いたゞ ) き◦悦びは悲みより求め◦でうす の御 ( ご ) 大切 ( たいせつ ) は身を椄 ( しよう ) するを以て求むる者也。故に貴 ( たつと ) き経文 ( きやうもん ) に◦解 ( け ) 怠 ( たい ) ◦無所作をしば〳 〵 諫 ( いさ ) め◦強き心と誠精 ( せいぜい ) を尽 ( つく ) す事を大 ( おほい ) に挑 ( かゝ ) げ給ひて◦善の道に解 ( け ) 怠 ( たい ) 無性は大なる妨 ( さまたげ ) となり◦強き心は大なる便となる事を◦でうす より知らせ給ふ者也
§一 ほるたれざといふ強き心の善を求むる道の事
此強き心の善といふも◦余善に斉 ( ひとし ) く求め難き善なれば◦如何にしてか求むべきぞといふに◦先 ( まづ ) 其価 ( あたひ ) ◦諸 ( もろもろ ) の財にも越へ珠玉にも勝 ( まさ ) りたりと思へ。其故は善の宝 ( たから ) を求むる便となるは◦其価 ( あたひ ) の高き事を見知る事也。世界の人の善より退く事は◦懈 ( け ) 怠 ( たい ) 臆病にして難き所を逃 ( のが ) るゝにあらずや。然るに強き心の善を以て此難儀に勝 ( かつ ) にをひては◦則 ( すなはち ) 天の国をとるべき事疑ひなし。是に付て◦御主の御辞 ( ことば ) に Regnum caelorum vim patitur, et violenti rapiunt illud. Mat. 11 天の国は強精 ( かうせい ) なる者◦押 ( おさ ) へてそれを奪ひ取ると宣ふ也。故に善に強き者より外 ( ほか ) に◦此国に至る事なし。然 ( しから ) ば此善を求むる今一ツの便と云 ( いふ ) は◦善人達の鏡を見る事也。いくばくの人か世を厭ひ◦身を椄 ( しよう ) し◦古郷 ( ふるさと ) を去り◦山林に分 ( わけ ) 入 ( いり ) ◦樹 ( じゆ ) 下 ( げ ) 石上の栖 ( すま ) 居 ( ゐ ) をなし◦其身にかへて他人のあにまの扶 ( たす ) かりを歎き◦万事不如意を本 ( もと ) とし給ふ事◦是皆強き心の善を帯 ( たい ) し給ふにあらずや
右の鏡をもても未 ( いまだ ) 達せずと思ふにをひては◦まるちれすの鏡を見よ。ゑけれじやよりは◦日としてまるちれすの上を顕 ( あらは ) し給はずといふ事なし。是欽 ( あが ) め給はんとの事のみに非ず◦我等に明鏡 ( みやうきやう ) を顕し◦其道を学ばせんが為也。然るに貴 ( たつと ) きまるちれすの御身といふも◦今の我等が色身 ( しきしん ) に替 ( かは ) り給ふ事なし。まるちれすに御力をそへ給ふ でうす も今更替 ( かは ) り給はず。人々の眼をかけ奉る天の快 ( け ) 楽 ( らく ) も◦古今かはる事なしといへども◦如此 ( かくのごとく ) の人々は◦永き世の命を保ち給はん為に◦かほどの辛苦を堪へ給へば◦是を鑑みて我等も天の寿命を保つ為に◦争 ( いかで ) か骨肉の邪 ( よこしま ) なる望みを捨 ( すて ) まじきや。善人達深き飢渇を堪へ給へば◦争 ( いかで ) か汝一日のぜじゆんを為すまじきや。くるすの上に打付られ給へども◦おらしよを止 ( とゞ ) め給はざるに◦争 ( いかで ) か汝◦膝を立て片時のおらしよを為すまじきや。御身命を惜み給はず。悪人どもより害を為し奉る事をも◦輙 ( たやす ) くうけ堪へ給ふに◦争 ( いかで ) か汝の妄りなる望みを截 ( き ) らざらんや。肉村 ( しゝむら ) をば熊手にてかきさかれ給ふに◦争 ( いかで ) か汝◦御 ( おん ) 主 ( あるじ ) きりしと に対し奉りて◦少 ( すこし ) の行 ( ぎやう ) 体 ( たい ) をすまじきや。多くの善人◦籠 ( こもり ) の内に年月を送り給ふに◦汝争 ( いかで ) か暫時の閑居を為すまじきや。如此 ( かくのごとく ) の明鏡 ( みやうきやう ) を以て◦未 ( いまだ ) 足 ( たん ) ぬせざるにをひては◦貴 ( たつと ) きくるすに眼をかけ◦汝が為に荒けなき苦 ( く ) 患 ( げん ) を凌ぎ給ふ御方は◦誰 ( たれ ) にて在 ( まし ) ますぞといふ事を見よ。是に付て*さん◦ぱうろ◦ゑべれよ十二に◦汝等辛労に労 ( つか ) れざらんが為に◦悪人より莫太 ( ばくたい ) の苦 ( く ) 患 ( げん ) をうけ給ふ御方を見奉れ◦と宣ふ也。誠に此御鏡といふは◦いづくに向 ( むかひ ) て見奉るといふ共◦不可思議微 ( み ) 妙 ( めう ) に在 ( まし ) ますべし。御辛苦を見奉れば◦是に勝りたる苦 ( く ) 患 ( げん ) なし。又是を堪へ給ふ御方を見奉れば◦是に勝り給ふ方も別になし。又其御苦しみの謂 ( いは ) れをいはゞ◦御身の御科 ( とが ) 一微塵も在 ( まし ) まさゞれば◦他より勧 ( すゝ ) められ給ひて受給ふにも非ず◦只御自由の御上より我等を扶 ( たす ) け給はんが為に◦量りなき御 ( ご ) 大切 ( たいせつ ) と御憐みを以て◦堪へ給ふ者也。而も御あにま御色身 ( しきしん ) にうけ給ふ御苦しみは◦諸 ( もろもろ ) のまるちれすの苦しみを一ツにしても未だ及び奉らず。誠に其時に当 ( あたり ) ては◦天も驚き地も震 ( ふる ) ひ◦岩石も砕 ( くだ ) け◦心なき万像 ( まんざう ) も悲 ( かなし ) み奉る程也。何ぞ人として◦心なき天地の悲しみにも劣るべきや。争 ( いかで ) か是ほど照し給ふ御鏡に向 ( むかひ ) て◦少なりとも学び奉らんとは歎かざるぞ。御 ( おん ) 主 ( あるじ ) きりしと 世界に天 ( あま ) 降 ( くだ ) り給ふ事は◦我等を天 ( てん ) に導き給はんが為也。其行くべき道といふは◦即 ( すなはち ) くるすなれば◦御 ( おん ) 身 ( み ) 先 ( まづ ) 御導師として◦それに掛り給ふ者也。是則 ( すなはち ) ◦主人の進むを見て◦臣下に力をそへんとするが如し。爰 ( こゝ ) を以て◦御言葉に きりしと 苦しみを凌ぎ給ひて◦御身の御 ( ご ) 快 ( け ) 楽 ( らく ) に至り給はん事肝要なりと見へたり。加程広大の御威光の源にて在 ( まし ) ます御主◦御身の御寵愛の臣下ともに◦辛苦の道を通り給ふを見て◦我身を撫 ( なで ) 養 ( やしな ) ひ◦憍慢 ( けうまん ) を本 ( もと ) とし◦存 ( ぞん ) 生 ( じやう ) の限り遊山翫水のみに暮 ( くら ) さんと思ふ事◦恥 ( はぢ ) ても余りある事也
誠に諸 ( もろもろ ) の善人達の御生涯のみならず◦分 ( わかち ) て善人の上の善人と欽 ( あが ) め奉る御 ( おん ) 主 ( あるじ ) きりしと の御 ( ご ) 行跡 ( かうせき ) ◦如此 ( かくのごとく ) 在 ( まし ) ます時は◦何たる御免許を持 ( もち ) てか◦汝は歓喜歓楽の道より天の国に至らんとは思ふぞ。如何に兄弟◦天の快 ( け ) 楽 ( らく ) の御友となるべきとは思はゞ◦御辛労の御友となる事を歎 ( なげ ) け。ともに御国を保ち奉らんと思はゞ◦ともに痛み奉るべし◦是皆汝 ( なんぢ ) に強き心を勧 ( すゝ ) むる道也。
然るに今茲 ( こゝ ) に◦御 ( おん ) 主 ( あるじ ) ぜすゝ の御金言 ( きんげん ) を◦この一部の極 ( きはめ ) として書をはるものなり。 Si quis vult post me venire, abneget semetipsum, et tollat crucem suam et sequatur me. Luc. 9 わが跡を慕 ( した ) はんと思ふ輩は◦常に身をすさみ◦色身 ( しきしん ) の望みに任せず◦其身のくるすを担 ( かたげ ) て我を慕 ( した ) へ◦と宣ふ也。去 ( され ) ば天の尊 ( たつと ) き御師匠にて在 ( まし ) ます ぜすきりしと 御 ( おん ) 教 ( をしへ ) の束 ( つか ) ねとして此御 ( み ) 辞 ( ことば ) を示し給へば◦是を修善 ( しゆぜん ) の目 ( め ) 宛 ( あて ) と用ひ◦悪を懲 ( こら ) し徳を累 ( かさ ) ねん事を歎 ( なげ ) かば◦即 ( すなはち ) 達したる善人となり◦内には心の無事を保ち◦外には常にくるすを担 ( かた ) げ◦心に甘露を含み◦競ひ来 ( きた ) る辛労を輙 ( たやす ) く懐 ( いだ ) き取るをもて◦現在より天の快 ( け ) 楽 ( らく ) をうけ初 ( はじ ) むべきもの也
巻末附録「第三 欧語抄」より
○あにま Anima 「たましひ」 霊魂
○ゑけれじや〔さんた〕 Ecclesia 教会
○ゑべれよす Hebraeos 希伯来人
○おらしよ Oratio 祈念、経
○くるす Cruz 十字架
○ぜじゆん Jejun 「食をひかゆること」
○ぱうろ〔さん〕 Paolo, S. 人名
○ほるたれざ Fortaleza 「善事の妨げを堅固に防ぎ、その道に届く力と頼母敷心をおこさせ給ふおん與へ」なる「強き心の善」Fortitude
○まるちる、まるちれす Martyr, Martyres 「でうすの御奉公に対して苛責をうけ命を捧げられたる善人」証拠人、証跡人、致命者
巻末附録「第四 聖書引用文句索引」より
194頁 6行以下 馬瓄11章12節
196頁 6行以下 希伯来12章3節
198頁 7行以下 路9章23節、馬瓄16章24節
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原文:
この作品は1929年1月1日より前に発行され、かつ著作者の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)100年以上経過しているため、全ての国や地域でパブリックドメイン の状態にあります。
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翻訳文:
この作品は1929年1月1日より前に発行され、かつ著作者の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)100年以上経過しているため、全ての国や地域でパブリックドメイン の状態にあります。
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