ゑうすたきよの御作業
去程にとらやのと申す帝王の御代に◦ぷらしいどと申す將軍あり。武邊にとつても◦世に超へ人に勝れて並ぶ方なし。この人大將として向はるゝほどの虎口には◦敵更にたまらず◦戰の度每に究竟の敵數輩を打取られずといふ事なし。これに依て手强い朝敵をたやすく亡し◦諸國の惡黨を誅伐して無事太平の御代を治められし事◦たゞこの御仁體一人の忠功なり
同じく御簾中も亦◦女體なれどもおん智慧たけて◦萬づに正しきおん身持れる賢女に在ます。御子を二人持給ひけるが◦大人なれどもわが乳房を以て◦手づから抱き育て給ふ也
されば*ぷらしいど◦弓矢をとるには◦健き武士諸人の恐るゝ精兵なれども◦又內心はいかにも慈悲柔軟にして◦殊更貧なる輩をはごくみ◦萬事について他を憐れむ志深きが故に◦でうす 深く御賞覽なされ◦まことの道に引き入れ光を與へ給ふ也。ある時狩へ出給ふ所に◦鹿一群山を分け出でゝ走り行く。そのうちにすぐれてふときをじか一つありしを目懸けて◦早馬を以て追付け給へば◦その鹿いかにも聳えたる高みに昇り◦逃去らずして立向ひたるを見給へば◦二つの鹿の眞中に◦くるすにかゝり給ふ ぜすきりしと のおん姿の輝き給ふを見て◦大きに驚き敬ひの心起て馬よりこぼれ落ちらるる。然れば其時 ぜすきりしと かの鹿の口を以て◦いかに*ぷらしいど何とて我を追つむるぞ◦汝しひしんを以て我を崇めける故に◦この鹿を狩取らんと思ふ如く◦この鹿を以て汝を狩取るべき爲に◦天下るなりと宣ふ。其時*ぷらしいどさても御身は誰にて在ますぞ◦なほ明かに知らせ給へと申上げらるる。ぜすきりしと 宣く◦我はこれ天地を作り萬物をおさめ◦人間を扶くる爲にくるすに懸りし ぜすきりしと 也と宣へば◦さて扶かる爲には何と致すべきぞと尋ね申さるゝに◦ぜすきりしと 扶かりたく思ふにをひては◦ばうちいずもを授かるべし。汝が妻にもこの由を知らせ◦同じくひいですにうけさせよ。明日この所へ來れ◦この後あるべき事を吿知らすべし◦との示現也
*ぷらしいど御言葉のまゝに妻にかくと語られ◦則夜半程に夫婦二人ともに御子を召連れ◦家來のものどもにも知らせず◦その在所の*じよあんと申すびすぽの御方へ參られ◦右の仔細を委く語り給へば皆々にばうちいずもを授け給ふ也。先*ぷらしいどの御名を*ゑうすたきよと付給ひ◦御妻は*ておひすた◦一人の御子は*あがぴと◦今一人は*ておひすとと付給ふ也。その翌日早天に御狩に事よせて◦馬上の御供纔にてかの山へ入り給ふ。その御供の衆をば鹿垣の爲にとこゝかしこにまくばりておき給ひ◦たゞ御自身昨日尊體を見奉られける所へ參り給へば◦再び ぜすきりしと 現はれ給ひ◦ばうちいずもを授かり申されける事を御感なされ◦この以後古への*じよぶといへる聖人の如く◦世界にをひて堪忍の鏡と爲すべきために◦樣々の難儀折角を以て其身を試み給ふべしと吿知らせ給ひ◦來るべき苦痛逼迫をつぶさに仰せ含められて◦强き心を以て確かにこらへ屆くべしとおん諫めなされ◦お力をそへ給ふ也。*ゑうすたきよは地上にひれふしておん禮を申上られ◦いかなる難き事なりとも計らひ與へ給へと身を捧げ奉り◦その上にては御力をそへ給へと深く賴み申さるゝと共に◦ぜすきりしと は見へ給はず*ゑうすたきよおん舘へ歸り給ひて◦かの由かくとおん妻へ委しく語り給ふ也
去程に日數を經ずして御家內に不思議の病ひおこり◦從類眷屬のこらず死す。又程なくして財寶と用ゆる數千匹の羊其外數多の牛馬◦こと〴〵く種を絕つて死し果る。其時*ゑうすたきよ◦その家の難病を免れん爲に◦おん妻と二人の御子を召連れ山中へ退き給へば◦おん舘へは盜賊打入つて恣ひまゝに金銀珠玉を始めとして◦あらゆる財寶をこと〴〵く取盡せば*ゑうすたきよ重ねては故鄕へ歸り住み給ふべき御便もなく◦又人々に面をむけ給ふべき樣もなくして◦ゑじつとといへる遠國の知人因み一人もなき所へ◦無緣の旅人となつて流浪し給ひ◦難艱の光陰をおくり給はんと思召し定め給ふ也
去ればある港へ出で給ひ◦おん舟に召してはるか波濤を凌ぎ給ふところに◦船中に在ます御臺は比類なき美人にて渡らせ給ふことを◦かの船頭見まいらせて◦靜心なくあこがれ◦いかにもしてこの御方を奪ひとり申さんと隙なく思ひたくむ也。さてその國につき給ひ◦おん舟より上り給はんとし給ふに◦船賃に渡さるべきもの少しもなければ◦事を損によせて御簾中を奪ひ取る也。一應わび給へども◦いかでか同心いたすべき。却て御身をも海に沈め申さんといたす體なれば◦力に及び給はずして◦御兩人の御子と共にためしなきおん悲しみの堪えがたきおん淚を抑へ◦詮方なくて御夫婦別れ給ふ◦でうす のおん計ひを以て◦御簾中は終に御身を汚し給ふ事もなし。それより*ゑうすたきよは二人の御子とともにいとゞ弱りて行給ふ。されば◦其途に渡り給はで叶はぬ大河あり。御二人の御子いとけなく在ませば◦先なほ幼き御弟一人を肩にかけ給ひて向ひにつき給へば◦おろしおきて今御一人を渡し給はんとて◦河の半ばを渡り給ふ所に◦さきに渡し給ふおん子きびしく泣きいでゝ◦切りに叫び悲しまるゝ聲◦次第に遠ざかるを顧み給へば◦狼來りさしくはへて走り去る。こはいかに◦さても無殘なり◦口惜しき事かなともだえ給へども◦はや何處へか行きつらん。御力に及ばずして御後に殘り給ふ今一人の御方へ行給へば◦御父の渡りつき給はぬ間に◦それをも又獅子王來つておつとりゆき◦先も見へず◦おはへて行き給はん事も更に叶はざれば◦詮方なくてあきれ給ひしが◦餘りの御悲みに御心亂れ◦その河にて自害し給はんとのてんたさん切りに競ひ來り◦とやせんかくやせんと御內心もだへこがれ給ふ所に◦でうす おん力をそへ給へば◦そのがらさを深く感じ給ひて◦難儀悲しみをば却て喜びとなして◦はたと强き堪忍のおん心いでき◦御恩の御禮を申上げ給ふ也
然ればさきの狼の取りて行きたる御子をば〈その途田畠なれば〉◦小作人出合ひて追落して見れば◦只人とは見へず◦勝れていつくしき御姿なれば◦その在所の人深くいたはり育てつる也。又御一人獅子王のとりて行きけるをば◦ぱすとる數多ゐたる所なれば◦道具を取合せきびしく追つむるを以てすてゝゆく。いづれも御衣裳をくはへて打かたげたる計りなれば◦少しも御身に傷をばつけ申さず◦こゝ又世の常の人にあらずと皆々申し合ひ◦いかにもいつきかしづきて育て申す。されどもおん父はこれらの事をば知り給はず◦恩愛の別れの御悲み◦一方ならぬ御歎き◦夜晝肝に銘じ給ふ。されば恨めしきは浮世の習ひ也。此身を育つる爲日々の營みを歎かで叶はぬ習ひなるに◦この御仁體は流浪の御一人身なれば◦いかんともし給ふべきやうなくして◦終に人の奴となり給ひ◦十五年を限つて◦その間は樹木を育つるその役を受取つて勉め給ふ也。二人の御子の在ます所は程近けれども◦互ひに少しも知給はずして年月を送り給ふ。又御簾中のおん上に◦新たなる奇特あり。その身は人に奪はれ給ひて◦しかもおん姿◦比類なき美人にておはしけるが◦でうす の御計ひなれば◦あんじよ守護し給ふを以て◦いづくに何時までおはしますとも◦いかでか御身に一微塵ほどのおんけがれをも受給ふべきや。これに依て御夫に別れ給へば◦たちまちかの船頭はにはかに深き謹みいでき◦大きに恐れおのゝき奉る
さればろうまの大王より◦御進退の數多の御分國近年かつて治らず◦逆臣いやましにして分國亂れ◦從ひ申す國これなき體になりゆきければ◦大王の御歎きには◦さても過にし方*ぷらしいどわが臣下にてありつる時代には◦たやすく惡黨を亡して朝家治まり◦諸國靜謐にして民豐かにありつる事を◦今更かつて忘却せず。いかにもしてこの*ぷらしいどに尋ねあひたき望み千萬なり。朝家再興の爲に*ぷらしいどを求め出したらん輩には◦重き恩賞を與へ玉ふべき由仰せ出さるゝ也
然れば勅諚といひ◦又は國家の治手◦萬民の扶手となり給ふべき御仁體なれば◦方々へ手分をして海陸ともに遠きをいはず◦山の奧◦谷の底◦浦々里々をこまやかに尋ね申す也。しかればこの*ぷらしいどの武士にて渡らせ給ひし時◦召使はれたる侍二人相伴ひて尋ね申しけるが◦不思議の仕合せにて*ぷらしいどの在ます所へ尋ねてまゐり◦しかもかの*ぷらしいどの御宿をかりてゐければ*ぷらしいどはその者を見知り給ひて◦その古へを思ひいだし◦忍び〳〵に御淚を流し給ふと雖も◦二人の旅人は未だ思ひもよらずして申しけるは◦この十四五年先きより◦かやう〳〵の御仁體の御妻と御子を召連れて都より下り給ひしが◦もしこのあたりなどには在まさずやと尋ね申されければ◦左樣の人をば更に知らずと宣ふ。かくて互ひ樣々の言葉を申しかはさるゝを以て◦二人の旅人あやしめ申しけるは◦この宿の主の聲色こそ◦我等が尋ね申す主人の御聲なれ◦それのみならず◦御顏形をつく〴〵と見申せば◦おん脊のほど◦少しも變り給はざれば◦二人の武士かつうは驚き◦かつうは喜びて曰く◦又その實否を知るべき爲にたゞし申すべき事ありとて◦一年虎口にて御頭に傷を受け給ふその御跡の◦かくれなかりしを見申しければ◦卽ちそのおん傷を見付けて◦今こそ我等が主人にあひ奉りたれ◦これは夢か現かとも覺へず抱きつきて◦歡喜の淚を止めえず。その時あたりの人々この由を承りて驚き◦さやうの御仁體とはかつて存ぜざりし故に◦萬事麁相にあつかひ申したる事を深く悲しみ◦にはかに皆々恐れを爲す
かくて御歸洛の用意をば◦その所は申すに及ばず◦そのあたりの人々より馳走いたして◦着し給ふべきおん裳束又皆具を飾りたる馬の同じくのりがへ◦その路次銀と都までの御用意をも潤澤にとゝのへて◦その國人等◦我も我もと馬上のおん供數輩打連れ◦美々しき馳走奔走にて都も近くなりぬれば◦この由かくと叡聞あつて大きに喜び給ひ◦忝くも帝は直に路次まで出向はせられ召連れ給ふを以て*ぷらしいどは並びなく面目を施し◦喜びの參內を遂げ給ふ
去れば卽ち◦もとの如くに諸軍勢の司に任ぜられければ◦時を移さず諸國へ觸を爲さるゝ也。それに依て國々より諸軍勢を揃へ◦帝都へ差のぼせらるゝその中に◦二人の御子も在ますなり。この二人器量骨柄人に勝れ◦並びなき仁體也。其時*ぷらしいどこの人々を見給ひ◦誰とは知り給はざれども◦親しく思ひつき給ひて◦每日御相伴に召使はるる。然れば諸國の軍勢何萬騎とも數を知らず。殊更一人づゝを選びすぐつて召上せられたるつはものなれば◦容易く惡黨を攻亡し◦御歸陣の時◦三日の間を身の御妻の在ませし所に軍兵を休め給ふ也。されば二人の人々は思ひもよらずに御母の宿を陣所と定め◦夜晝親しく起臥までも同じ座になし給ふについて◦心の底を殘さず語り給ふ。これ眞實の御兄弟なれども◦その儀をば互ひに少しも知給はざる也
或時御舍兄より御舍弟に語り給ひけるは◦それがし幼少の時の事を僅かに覺へけるが◦我父はこの大將軍の如く都より◦いつも軍陣の時は總大將として諸軍勢を連れていづくへも赴き給ひし事を◦今思ひ出したり。そのおん父何の仔細かは知らず◦御母と諸共に◦わが弟一人ありつるに◦二人の子を召連れて◦夜の間におん舟に召し◦はるかなる海を渡りて他國の港につき給ひしが◦仔細は知らず御母君はそのまゝ船に止り給ふ。互ひに深きおん悲みにて別れ給ひ◦おん父は二人の兄弟を召連れて◦いづくとも知らず行き給ふ道に◦漲り流るゝ大河ありしに◦行きかゝり給ひしが◦二人の兄弟を一度に連れて渡り給ふ事叶はざれば◦先我弟を肩にかけられ◦早き瀨を渡りて向ひにつき給ひ◦河原におろしおき給ひて◦又わがむかひに來り給ふとて◦河中を渡り給ふ折節◦わが弟わつと叫び◦切りに悲しみの聲をあげ泣叫びしが◦程なく聲遠ざかる。何事ぞと見給へば◦狼一匹來つてさしくはへ◦行き方知れず失せければ◦御父もだへ給ふ御景色なれどもおはへて走り給ふべき事も叶ひ給はざれば◦詮方なくて御淚とともに我を渡し給はんと急ぎ給ふ所に◦さも恐ろしき獅子王來つて我をおつとり◦飛走つて行く。中々おん父の追付給はん事も叶ひ給はず。折節その所にぱすとる數多◦獅子◦虎を防ぐ道具をそろへてなみゐけるが◦我獅子王にくはへられて泣叫ぶを見きいて◦獅子王をおつとりこめて攻めければ◦我をすてゝ獅子王は山へ逃げさる。その所の人我を大きにいたはりて◦宿所に連れて歸り◦家內の人々にその有樣を語りければ◦不思儀に難儀を逃れけると◦皆人申合へり。それより今日に至るまでは◦わがおん父母のおん行衞をも◦又わが弟の成果をも知らずと語り給へば◦御舍弟この由をつく〴〵と聞き給ひ◦さては御身と我は兄弟かと存ずる也。その故は我幼少の時狼に取られしを◦のがしてかくの如くなりと◦我を養ひし人常々語られける也。今は疑ふ所もなく御身と我は兄弟なりとて◦互ひに抱付き喜びの淚を御兩人共に止めかね給ふ。これは不思議の仕合也。諸共に力を得たりとて◦先大きなる喜び也
やゝあつて又互ひに語り給ふ。御身と我は兄弟の宿緣朽ずして◦只今まゐりあひたりと互ひに語り給ふを◦御母つくづくと聞き給ひ◦これは不思議の沙汰かな。若き男子兄弟と名のり合ひ◦父母の由來を語るも皆我上なり。是は正しく我子ならんと思召し◦その翌日ろうまの大將の御前へいで給ひて◦御身の由來をくはしく語り給ひ◦ろうまへ我を召連れてたび給へと宣へば◦將軍之を聞き給ひ◦大きに驚かれつく〴〵と見給へば◦正しく御身の御妻なり。こは如何にと驚き給ひつゝ◦並びなき御喜びにて◦我こそ*ぷらしいどなれ◦見忘れ給ふかと名のり給ひて◦互ひの御喜びはなのめならず。暫しは御言葉もなく淚を止めかね給ひしが◦やゝあつて御妻より◦二人の子供はいづくにあるぞと尋ね給へば◦御父の御心に悲しみおこつて◦又泣く〳〵答へ給ふやうは◦さればその二人の子供の事を思へば◦わが悲しみたとへん方も更になし。その有樣を◦かやう〳〵にありつると淚にむせびて語り給ひ◦我は流浪の國より召歸され◦前の如く皇恩を蒙る也。再び御身に會ひもしければ◦たぐひなき喜び也。此上の不足には◦二人の子を失ひたる事也と◦深く歎き入り給ふところに◦御妻宣ひけるは◦でうす の御計にて我等を再び會はせ給ふ如く◦二人の子供にも會はせ給ふべしと宣へば*ぷらしいど◦其故は如何にと驚き上りて尋ね給ふところに◦先に聞き給ひつる二人の人々の上を語り給へば◦はたと喜び◦かの陣所へ人を遣はし召寄せ給ひ◦二人にその謂れを問ひ給へば◦細かに語り申さるゝ也。その時*ぷらしいど今こそ直の御子なりと知り給ひ◦御喜び淺からず◦さればその國にこもりし朝敵を亡ぼされ◦一方ならぬ御喜びにて御歸洛ありし也。然る所に◦先王ははや崩御にて◦當今をば*あどりやのと申しけるが◦朝敵を亡ぼされし功勞を喜び給ひて*ぷらしいどに御襃美なのめならず◦御祝言の御振舞とり〴〵にてありつる也
さればその當今は◦ぜんちよの本尊に深き信心あるを以て◦朝敵亡びて諸國治まり◦天下太平になりけるその喜びとして◦かの本尊に大法事をなして供養せられ◦かの大伽藍に行幸あつて◦男女によらず尊敬しおがみうやまふべしとの勅諚なり
すでにその日帝王本尊に近く參り給ひ◦慇懃に拜せらるゝ時*ぷらしいどを別して賞翫せられ◦堂の內へ呼び給ふ所に*ぷらしいどは其身をはじめ二人の御子息◦御妻伴ひ◦堂の內へは思ひもよらず◦却つて大きに嫌ひその庭へいたる事をさへ◦ひんしよ至極なりとて◦知らず顏にてゐ給ふ也。その時帝王◦何とて*ぷらしいど堂に入つて本尊を拜せぬやと宣へば*ぷらしいど我等はきりしたんなる故にかくの如くなりとありける時◦惡王甚しく逆鱗あつて◦いや〳〵わがうやまふ本尊なれば急ぎ拜すべしと◦切りに宣ふなり。其時*ぷらしいど◦なる義にをひては◦たちまち一身を捧ぐべければ◦何かは以て勅諚を辭し奉る事あるべきなれども◦この義に限つて些かも叶ひ奉らず◦拜むことは申すに及ばず◦本尊の方へは一足すゝむ事も致すべからずと申上らるれば◦いよ〳〵怒り甚しくして◦その場を急ぎ立ち給ひ◦重罪に行ふべしとて◦猛き獅子王の牢屋のうちへ*ぷらしいど御夫婦と二人の御息子ともに入れて◦かの獸に與へらるゝ所に◦獅子王はいかにも柔軟になり◦そのあたりへよりてひれふし◦頭をかたむけ結句足をねぶりて深く敬ふ景色を現はす也。帝王の瞋恚なほ勝りて◦それよりなほ重き苛責を與へんとて◦赤金にて大きに作りたる牛を火の色になるほど燒立て◦そのうちへ入れよとありけれども◦かの人々は帝王に少しの恨みもなきのみならず◦大きに喜びを現はし◦火焰の色にやけたる赤金の大牛のうちへ入れられ◦いかにも心安く皆々座してしんかんに でうす を敬ひ奉り給ひ◦そのうちにて御色體を離れ◦おんあにまぱらいぞへ到り給ふ也
其時の有樣◦尊きとも言ふべき言葉なし。四人の御死骸死人とは見へ給はず◦御顏色美はしく眠りたる人の如くにして座し給ひし也。きりしたん集り御死骸を見奉れば◦火焰の內に久しく座し給ふといへども◦御身の毛一筋も燒け給はず◦御容顏さもいつくしく在ますことを見奉る故に◦信心深くなつて◦さても先御代にはこの善人を朝家の御寶と宣ひて◦故鄕となるろうまへ再び召還され◦爵禄は申すに及ばず◦世間に餘光を顯はし◦萬事に身の思出を與へ給ひしが◦當今は引換へ給ひ◦大忠節をも思召し知られず◦御襃美未だ聞へざるその上に◦あまつさへまことの道に心を磨き◦勝れたる人なりしを知り給はずして◦本尊を拜せよと宣へども*ぷらしいど四人の衆は◦ひいですを堅固に保ち給ふ事は申すに及ばず◦その御返事の御言葉を◦少しも濁らじと明かに申し離し給ふを以て◦惡王の逆鱗甚しくして◦恐しき苛責を樣々に加へ◦深くあたをなして◦かの色身を攻めはたされけると言合へり
さればこのこと◦まことの光より見れば◦先御代の御懇切は世間の喜びにて◦後生の爲には必ず妨げとなるべし。今引換へてこの帝より與へ給ふ苛責の苦患は◦先皇の御恩賞よりもなほ勝りたる御大切也。その故は◦ぜんちよの本尊を拜まざるとて◦この善人達に甚しき苦しみを與へ給ふ道より◦御色身を離れ給ふ故にすぐれて深き功力となり◦大德を得給ふを以て◦上下萬民の願ひ望む上天のぱらいぞへ◦今日速かに至り給へば◦終りなき命の上に量りなき喜びの冠をかうむり給ひ◦終りなき大果報に極まり給ふ也。その御死骸は◦御出世より百四十年目に建立せられしゑけれじやのありしに◦丁寧に納められ給ふと也
巻末附録「第三 欧語抄」より
- ○あがぴと Agapito 人名
- ○あどりやの Adoriano 人名
- ○あにま Anima 「たましひ」 霊魂
- ○ゑうすたきお Eustachio 人名
- ○ゑけれじや〔さんた〕Ecclesia 教会
- ○がらさ graça 聖寵
- ○くるす Cruz 十字架
- ○とらやの Trajano 人名
- ○じよあん Joan 人名
- ○じよぶ〔さん〕 Job, S. 人名
- ○ぜすゝきりしと Jesu Christo
- ○ぜんちよ Gentio 異教徒
- ○でうす Deus 「真の主」「天主」「天帝」
- ○ておひすた Teofista 人名
- ○ておひすと Teofisto 人名
- ○てんたさん Tentação 誘惑
- ○ばうちいずも Baptismo 洗礼
- ○ぱすとる Pastor 「牧師」
- ○ぱらいぞ Paraiso 天国
- ○ひいです Fides 「でうすの御教をまことに信じ奉る善」
- ○びすぽ Bispo 司祭
- ○ぷらしいど Pracido 人名
- ○ろうま Roma 羅馬
この文書は翻訳文であり、原文から独立した著作物としての地位を有します。翻訳文のためのライセンスは、この版のみに適用されます。
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原文:
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この作品は1929年1月1日より前に発行され、かつ著作者の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)100年以上経過しているため、全ての国や地域でパブリックドメインの状態にあります。
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翻訳文:
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