コンテンツにスキップ

甲陽軍鑑/品第五十七

 
オープンアクセス NDLJP:251甲陽軍鑑品第五十七

織田の信長きりほこり、播磨国を取て信長家老の木下藤吉を羽柴筑前守と申付播磨一国を右筑前守にくれ安芸毛利にさし向らるゝにかの筑前守信長に謀こと劣らぬ侍大将にて候故、信長金子を過分に申うけ、毛利家へ手を入無事にと申、其もやうは信長東の敵、武田を何様にも倒し給ふべきと有故、中国毛利家とは、無事に仕つれと仰こされ候と筑前方より毛利家へ申越、毛利家の弓矢も末に成る故是れを誠と存ずる所へ、見事なる金子の十両吹をさしこし八木をかひとり舟にて駿河の国へまはし候といへば毛利家の衆八木をうるに城米まで悉く売候毛利家の隆景是れをきゝ但馬半国をばおさへて米をうらせオープンアクセス NDLJP:252ず候去る程に、羽柴筑前守手人数一万五千をはらつて出因幡、伯耆、但馬半国をせめ取に城米なき故悉く城をあけ迯て羽柴筑前守にとらるゝさ、候へば信長のもちは、山城、大和、河内、和泉、摂津国、丹波、播磨因幡、伯耆、但馬、若狭、丹後、越前、加賀、越中、能登、伊賀、其年せめ取伊勢、志摩、近江、美濃、尾張、信長国也、当三月高天神家康にとられ候へば家康も三河遠州二ケ国也両大将の持合せ二十四ケ国の大敵に関東小田原北条氏政伊豆、相摸、武蔵、上総、下総、常陸、下野まで発向して七ケ国へ手を懸らるゝ大将三人を敵に被成勝頼公御備へあやうきと申はおろかなり

其年七月穴山殿御異見に、信長家康次第にふとり、遠州きとうぐんもはや当三月家康にとられ給ふ其上小田原北条氏政敵にて候へば以来は、信長家康氏政ひとつになり、はたらき申され候はゞ諸方の御敵蜂起いたし候はん事うたがひなし、左様に候はゞいづれの敵に向ひ給ふ事もなるまじく候越後と御一和にても謙信の時ならば信長家康氏政三人にも勝なさるべく候へども今景勝は若く候間なきも同意に候当方によき御城を一ツ御かまへあるべく候、信玄公御武勇私ならざる故御屋敷かまへまでにて御座被成候甲州四郡の内に御城無之候儀は、信玄公御武勇と申内に戒力をもつて如件、乍去信玄公御臆意にも一とせ輝虎と信長と家康と氏康御存生の時、小田原より使ひをまはし給ひ、四人申あはせたると、きこしめし駿河に久能、甲州郡内にゆり殿ゆり殿ハ岩殿ナルベシ、信濃にあがつま三所の名城を信玄公御覧じ立られ候は御籠城有べきとの事なり、其時謙信武き弓取故へ四人組て信玄一人を倒しても信玄は四人がけと末代までいはれてはとて、謙信無事を破り候に付て何事なく候次の年氏康他界也、今は輝虎の様なる弓取諸方の大将にも無之候と、穴山殿仰らるゝに付勝頼公尤もと思召同年七月より甲州にら崎に新府中を取立給ふは武田の家滅却のもとなりとは後ちこそしられたれ仍如

七月甲府の諸寺新府中へこす、善光寺最前に御屋敷を申受け御屋形の御判形を取其うつしこれなり

        定

善光寺小御堂坊小并に町屋数等之儀可栗田計候上者不いろひ候事

 付但仕置等有相違之儀者可下知之事

同町屋敷諸役の儀向後令免許之事

六月之高棚上町有之者、諸法度以下、可栗田計

仏前拝趨之僧上下共不普請但於拠儀者為如来崇敬候之間若輩之人者可相動之事従信州本善光寺集来之僧俗或罪科人等、出過銭等之役儀一切停止之畢、但有侫人置盗賊又者背国法者可厳科之事

右条々以法性院殿御直判定置候上者、自今以後弥不相違者也、依如

 天正九辛巳年七月四日

 栗田永寿殿

 其外善光寺衆

天正九辛巳年に典厩、長坂長閑、跡部大炊介、大龍寺の麟岳和尚四人の分別をもつて、信玄公の御時御取候信長人質織田の御坊を典厩のむこにと約束有て、信長へ御返候也信長返事にいかにもおほへいに、内々迎ひをつかはすべき所に、其方より差上らるゝ儀能き分別也、武田四郎殿へと月付の下、日付の通りに結句少しさげて返事なるは武田滅却のしるしなり

勝頼公御料人を、穴山殿御子息勝千世殿へ御約束なれども、長坂長閑跡部大炊介大龍寺の麟岳和尚へ典厩音物をつかひなさるゝ故、穴山勝千世殿とは御相生あしきとて典厩の次郎殿をむこになさるべきと有故、穴山殿御前殊の外御腹立は御尤もの事にて候何に付てもよき事一ツもなく候、如

天正十壬午年正月六日の夜、阿部加賀守方へ木曽の御こしぞひ、茅村飛脚をたて木会殿信長へ随身あり勝頼公へ逆心申され候と申来る、典厩長坂長閑跡部大炊三人は此事虚言なりと申され、かの飛脚をめしこめに仕り候へ共次第に此儀つよる故典廐木曽へはたらき木曽を討取りなさるべきと仰らるゝ阿部加賀守申すは木曽路さやうにむたとはたらく事ならず候間、先我等参りて勝頼公御妹子は木曽殿御前にて候間御前をもつて木会殿をなごめ申内に五騎十騎づゝ典厩の御人数を差越給へといへども長閑分別に加賀守申事それは悪き儀なりとて典厩御はたらきありて悉く仕負給ひ旗本よりの検使神保治部其外典厩衆、信州鳥井峠にて多くうたれて、ひきかへす、勝頼公は、上野、信濃、甲州の人数二万をもつて信州諏訪に御馬を立らるゝ、朝夕の御談合一円埓あかずさるうちに叔父にてまします、武田逍遥軒伊オープンアクセス NDLJP:253奈郡を引払ひ早々甲府へのき給ひ諏訪に御座候勝頼公へ音信もなく御用なきふりを被成候、典厩も五度の御談合に三度は煩ひとて出給はず候故、何れもあやかしのつきたる勝頼公御備へ也然れども伊奈の城へ御舎弟仁科殿、小山田備中、高天神牢人渡辺金太夫、山県三郎兵衛、従弟の小菅五郎兵衛をさしこさるゝ其外方々の城へ御人数をこし給ふ、御旗本侍大将、馬場民部、足軽大将、多田治部右衛門、横田甚五郎などをふかしへさしこさるゝ駿州まりこへ信州先方もろが兵部駿河もちぶねへ駿河先方朝比奈駿河守加勢に長坂長閑、同心衆、信州屋代旗本足軽大将関甚五兵衛、駿州田中へ信州侍大将あした、各へさし越給へと其上にても勝頼公御人数は二万余りにて信州諏訪において、種々評議ありといへ共御運つき終に不調候、足軽大将城伊庵子息織部の介其年三十二歳なれども弓矢に利発なる故合戦の体、勝頼公へ申上る其摸様は二万あまりの御人数五千横田甚五郎と我等に御渡し下され候はゞ一番合戦を仕り申べし又五千を小山田八左衛門と初鹿野伝右衛門に御預けなざれ候はゞ彼両人今の中老にてわかき我等に劣るまじきと持き申すべく候、残りて一万余の御人数をもつて、小山田兵衛、真田安房守、小幡上総に仰付られ、御屋形御旗本にて御一戦被成候はゞ今度は懸て参る敵にて柵の木もいかに信長勢なり共ゆひ申まじく候と申候へ共、勝頼公尤もと仰られ、長閑に御談合候へ共わかき者の申事を御取上あるは御運の末かなとてさまたげ候也其後阿部加賀守も申上るは我等同心のすつばを以て敵の人数を見きり候に爰かしこに陣をとり、みだりに候へば造作もなく信長方川尻与兵衛、滝河伊予守を先づ夜合戦にしてきり取申べきとみな一手づゝ申候へ共、長坂長閑御勿体なき儀と申故、勝頼公長閑諫めを聞給ひ其外の人の申事、取上給はず候ほどなく二月末になり候、かくて穴山殿一両年前より家康と内通あり其上駿河先方岡部二郎右衛門も家康と内通有故此衆逆心なされ、穴山梅雪の御前勝頼公姉子なれども子息勝千世殿を勝頼公むこにきらわれたると有御恨みにて古府中より下山へのき給ふ下山へ東道三十里行ば穴山殿知行なる故造作もなく引とり申候諏訪にて是れを聞、勝頼公惣御人数穴山殿別心を聞くやいなや御屋形勝頼公をすて典厩を始め皆居舘へ引籠り給ふゆへ勝頼公御旗本も、大形ちり、千計にて新府中迄引籠り給へ共前年秋よりの御普請有故半造作にて更に人数百と籠るべき様無之此上又御談合はじまる然れば、御曹子太郎信勝其年十六歳なれどもかしこくまして仰らるゝは勝頼公此新府中を取立給ふ事、甲州一国の内に能き城のなき事、信玄公御無分別にて、堀一重の屋敷搆へに御座候とて日本にはゞかり唐国まで御覚ゆゝしき大将の法性院信玄公を、非に御覧せられ、勝頼公をはじめ奉り、長坂長閑跡部大炊の介、秋山摂津守、典厩各信玄公の是ばかり御あやまりなどゝ御議被成て、此城を取立半造作と有てこゝをすて給ひ、古府中へ御帰りある事、弓矢取ての悪名なり、其上古府中の御舘をば悉く引破り武田二十七代信玄公迄の泉水の植木共に一かひ二かひある名を付たる松の木なとをきりてすて給ふは跡へ御心残されすして此城へ早く御越有べきとありての事なれば古府中にてもいづかたにも籠りなさるべき所有間敷候、山小屋などへ入給はんより半造作の新府にて御切腹被成候へかし此段になりいづくへ行て世のさかへをなさるべく候や御旗楯なしを焼そこにて尋常に御切腹尤もに候但しケ様の砌りには達て我等中にくき儀にて候子細は此信勝母に付信長にも又城介にも又従弟なれば諫申事成難しと信勝公仰られ候へ共勝頼公を始め申いづれも挨拶も仕らず候所へ真田安房守あがつまへ御籠城なさるゝ様にと申越候長閑分別にて、真田は一徳斎より三代召仕はるゝ侍大将也、只御譜代の小山田兵衛申こす甲州郡内の岩殿へ御籠城然るべきと、長坂長閑諫申にまかせ、勝頼公新府を御立あり古府中へ引いれ給ふ路次にて長坂長閑を御小人衆鑓を以てたゝき候はんと申、子細は日来巳れに切符をおさへられたるとて如件、さて古府中へ御着あり、一条右衛門太夫殿屋敷に御座候さ有て三月三日の朝地下人尽く地焼を仕り山ごやへ入とて西郡東郡北はおびなのいり帯那の入御岳さては穴山殿逆心の地へ退もあり旗本衆の事は申に及ばず在々所々の奉公人侍衆知行の百姓共色をたてすまはゞ女房子供をとり、強盗いたすべき、もやうあらはれてみゆる故、情けなくも譜代の御主勝頼公へ御届け申すべき儀も、わきへなり男子のもたずしてかなはざる、女房子供をかたつけ申べきと仕るに、西郡に知行もちたる者は東郡の山へ入、東郡に知行持たる人は逸見へと心懸る子細は我所領の百姓共日来年貢をとられたるに此時地頭の財宝かすめ、取返へさんと申に付如件、さるによりて勝頼公も三月三日に東郡勝沼まで御座候はんとて古府中を御立あるに、御供衆御父子に、七百ならではなし、一条小路を過わだびら和田平と云町にて駿州先方侍勝頼公へ向つて申は駿河氏真は信玄公の御旗さきをみて、とき山家へ迯こみ給ふそれをわらひ給ひて信長の旗先少しもみへざるに如件郡内へあしにて、御退ある事、今川氏真十双倍、武田勝頼公オープンアクセス NDLJP:254御なりはみぐるしく候と申て高笑ひ仕り候、勝頼公仰らるゝは侍と云ふ者は一度はさかへ一度はおとろへ候事むかしが今に至るまで武士にめづらしからざる儀にて、既に源義朝の武勇は平の清盛に五双倍もましの人なれ共、義朝うち負給ふ、新田義貞も武勇は足利尊氏より倍なれ共義貞打負けらるゝ運尽て時節到来なれば如此と仰られ御中間衆それうてとありて即時に御成敗なり、山県同心三科広瀬、辻弥兵衛、御供仕るを、太郎信勝公御供申べしと仰付らるゝは、又家中同心ともにはや御心をかるゝもやうなり、次に小幡豊後守善光寺前にて土屋惣蔵を奏者に頼み御目見え仕り、豊後己の年霜月より煩ひ積聚しやくじゆ張満ちようまんなれ共籠興にのり、今生の御いとまごひと申、勝頼公御涙をながされケ様に時節到来の時其方なども病中、是非に及ばず候と仰下さるゝ豊後も籠輿にて御供仕り候へ共、歩だちて二町ほど御供申いさめ申は、郷人の逆心もいかゞに候、今夜は柏尾まで御座被成候へ勝沼は必らず御無用心と申すに付柏尾へ御急ぎなさるゝ其後小幡豊後も黒駒へ行也如

小山田兵衛郡内岩殿へ入奉らんと申に付鶴瀬まで御座なされ鶴瀬に七日御逗留なり柏尾のぢんくわをきりておとせとある、子細は柏尾源氏調伏の寺也とあれ共、山伏共さやう仕るまじきと申す、此体に御足本より敵対の様に御座候、小山田兵衛鶴瀬より郡内の方に城戸を際限なく仕る是れはいかゞと人々尋候へば小山田被官共申は岩殿へ御うつり候即時に小口を持べく候と申す、又小山田八左衛門と申其比中老のほまれある武士参り候へば、此侍は勝頼公御秘蔵の武士なる故よろこび給ひ、すはだにて参り候に付、勝頼公めしがへの御具足を下され、御次にて八左衛門其御具足を着申候初鹿の伝右衛門は参らず候やと、御尋あれば伝右衛門かわうら川浦と申、恵林寺の奥山へ入候に鶴瀬へ参るべきと申候へば郷人共伝右衛門、内方を是非共人質に取候て越申まじく候、若し無理に御越候はゞ二度と此方へよせ申まじく候とことはりて、それにてもゆかばころすべき摸様なる故、伝右衛門、鶴瀬へまいらず候いづれの山小屋にても皆如件、さるほどに三月九日の夜右の小山田八左衛門と、勝頼公御従弟武田左衛門佐殿とくみて小山田兵衛人質をうばひ取、早々郡内へのくとてこしらへたる小口より、鉄砲を打出す左衛門佐殿は小山田兵衛妹聟なり、小山田八左衛門は兵衛丞従弟なり、是を見て悉くちり御供衆四十三人ならでなし鶴瀬のむかひ田野と云ふ、在家七ツ八ツある所へ勝頼公十日の朝御つぼみ有に、御馬の鞍置人なくて侍大将の土屋惣蔵と、秋山紀伊守をきて引出す、亀の甲の御持鑓など、阿部加賀守と勝頼公御守おもり、温井常陸守としてかづく、もとより十一日巳の刻に田野のおく、天目山の郷人共六千人余り別心して、其中に侍は辻弥兵衛大将になり、勝頼公へ矢鉄砲を打懸け奉る、信長よりの討手は、川尻与兵衛、滝川伊予、都合五千にてせめかゝる、郷人案内を仕りうらへまわす三度つきちらし給へ共、かなはずして遂にほろびうせ給ふ、爰に武田の御譜代父は小宮山丹後守とて、上野松枝の城代なるが信玄公御代に、遠州二俣の城せむるとて鉄砲にあたり討死仕る丹後嫡子小宮山内膳、父丹後におとらぬ武士なるを、長坂長閑、跡部大炊介、秋山摂津守三人の出頭衆と中悪き故、勝頼公小宮山内膳をにくみ給ひ御詞もかけ給はず候、殊に其時分は、小山田彦三郎と申侍と、ちと申分候ひつる、彦三郎は出頭衆と中よき故、勝頼公御前よし、小宮山内膳は御前悪敷候十日の朝田野へ参り物まうと案内申、土屋惣蔵に向て勝頼公聞召候様に、内膳申さるゝ三代相恩の御主の御目をあて候はんや、又御目をちがへ候はんや、其仔細は、御用に立まじきと思召我等をば押籠て置給ふに、御供仕り候へば御屋形の御目をちがふる道理なり、御目をあて我等爰をはづし候へば武士の義理にそむく、所詮辱なき事もなきに、御供申べきと申さるゝ、土屋惣蔵秋山紀伊守を始め各涙をながして小宮山内膳をほむるはことわりなり、内膳弟又七をば土屋にことはり、母子女房ども引のけてくれ候へと申されて、無理に越給ふ又七も帰るまじきと申候へ共、土屋惣蔵小宮山又七にことはりに、我子共女房をばそれがし同心、脇又市を頼み差越し候、かならず又七も内膳の母子女房衆をかこはれ候へとて、無理にすゝめておしかへす其後内膳土屋に向て、長坂長閑はと尋ね申し候へば昨日鶴瀬にてはづし申され候、跡部大炊介はと問へば是も昨日はづし申され候、秋山摂津守はととへば十日己前にはづし申され候我等のあひて、小山田彦三郎はと問へば十日己前にはづし申され候と申すそこにて内膳なみだをながし、扨も勝頼公御運のすへにてまします儀かな、御目がねちがひ御出頭仕る衆尽くはつし申すとなげくなり、さて又十一日には、御前の御供申すべきと申切たる女房衆二十三人其外皆御いとま下され候、新舘御料人をば石黒八兵衛御同朋何阿弥に仰付けられ、天目山おくのこやへおとし給ふ勝頼公仰らるゝ、信勝はお旗楯なしを持て山通り武蔵国へ出で、奥州までものがれ候へとあり、信勝聞召し勝頼公は北条氏政の妹聟にて御座候間、氏政馳走申さるべく候程に、勝オープンアクセス NDLJP:255頼公御退候へ、我等は当年十六歳にて、十年己前信玄公御遺言のごとく、御家督を申うけ是にて腹を仕り申すべきと仰られのき給はん気色少しも無御座候、かくて敵の旗先みゆるとある時御女房達介錯には小原丹後守弟下総、金丸助六郎三人なり、此介六は元来より金丸名字にて土屋惣蔵兄なり残て四十三人は勝頼公信勝公合奉りて如件、左に土屋殿弓をもつて射給ふに、敵多勢故か無の矢一ツもなし、中に勝頼公白き御手のごひにて鉢巻をなされ、前後御太刀うちなり御右は信勝公十文字の鑓をすて御太刀うちなり、土屋殿矢尽きて、刀をぬかんとせらるゝ時敵鑓六本にてつきかくる、勝頼公土屋を不便に思召し候や走寄り給ひ、左の御手にて鑓をかなぐり六人ながらきりふせ給ふ勝頼公へ鑓を三本つきかけ、しかも御のどへ一本、脇の下へ二本つきこみおしふせまいらせて、御頸を取り候阿部加賀守は最前のせり合に川ばたにて討死する是に付て勝頼公御頸はじめはみへず候、仔細は小原丹後御女房衆を介錯仕り、其御毛氈をしき腹をきりたる頸を取て勝頼公の御しるしと申して小原が頸を公卿にすへ候へ共、尾張牢人関甚五兵衛と中す者信玄公の御代より足軽大将仕り、武田の奉公人なるが駿河もちぶねの御番手に罷有り、惣別三年以前より城介殿へ内通して其節召出され能く見しりて勝頼公の御頸をゑり出し、小原丹後が頸をすて候、公卿にすゆる勝頼公常に御申候国持大将なりとも、おしつめられ腹を切るは口惜しき儀なり、相手さへあるに付ては切り死と仰られ候其ことくきり死なされ候様子、太郎信勝公御納戸奉行の侍、我山小屋より田野へ山づたひに参り候が少し遅き故山中の郷人共、とをさゞるに付御最期の場、田野のうしろの山にかくれ居て是を能く見てかたるなり

天正十壬午年三月十一日に、勝頼公三十七歳、御曹司信勝公十六歳、土屋惣蔵二十七歳にて、生害なされ御供の侍四十四人は、土屋惣蔵、秋山紀伊守、小山田平左衛門、同掃部子息弥介、同おちこ十六歳、土屋源蔵金丸介六、秋山民部、同むすこ坊主円首座、阿部加賀守、温井常陸、小宮山内膳、小原丹後、小原下総、岩下惣六郎、小原下野、多田久蔵、大龍寺麟岳和尚此外尋御鷹師斎藤作蔵、山居源蔵、御歩案山下杢の介みない小分、ぬきな新蔵、此次猶尋可書之歩の二十人衆迄、かように御供ありといへどもたゞ四十四人なり仍如件

三月十一日に、勝頼公信勝公の御証を取、都へ上するとて信長は道にて此御頸を実検なされ則ち勝頼公御証に向つて御申候、其方親父信玄、我等嫡子城の介聟に約束あり、天下を望み縁者を変改し其外度々の表裡いたされ候故天罰をもつて都へきつて上るとて俄かに煩ひつのり死給ふ信玄の在世の時頸にて成共都へ上り参内を遂げ度とねがはれ候ひつるよしに候へば、勝頼父子都へのぼり参内有て其後獄門にて京童べにみしられ給へ、信長もやがてあとより参るべしと仰られ、勝頼公御証し都へさしのほせ給ふなり