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海道記

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海道記

源光行


白河の渡り中山の麓に閑素幽栖の侘士あり。性器に底なければ。能をひろひ藝をいるゝにたまるべからず。身運は本より薄ければ。報ひをはぢ命をかへりみて。うらみをかさぬるに所なし。徒に貪泉の蝦蟇となりて。身を藻によせてちからなきねをのみなき。むなしく窮谷の埋木として意樹に花たえたり。惜からぬ命のさすがに惜ければ。投身の淵は胸の底に淺し。するかひなき心はなまじゐに存じたれば。斷腸の棘は愁の中に茂り。春は蕨を折て臨る飢をさゝふ。伯夷が賢にあらざれば人もとがめず。秋は菓を拾て貧き病をいやす。美子が藥もいまだ飢たるをば治せず。九夏三伏の汗は拭てくるしまず。手中に扇あれば凉を招くにいとやすく。玄冬素雪のあらしは凌ぐにあたはず。身のうへに衣なければ寒をふせぐにすべなし。窓の螢も集ざれば目は暗がごとし。なにを見てかこゝろざしをやしなはん。樽の酒も酌事を得ざれば心に常に醒々たり。いかが憂を忘れんや。然間歲の水はやく流れて生涯はくづれなんとす。留とすれども留まらず。五旬のよはひの流車坂に下る。朝に馳暮に馳す。日月の廻りの駿駒のひま。かゞみの影に對居てしらぬ翁に耻。鑷子を取て白絲をあはれむ。是によりて佛のうへにはよはひをおどろかす老をつげ。鶴鬢のほとりに早落をいとふ花。露におどろき霜をいとふこゝろざしたちまちに催して。僧を學び佛に歸する念漸におこる。名利は身にすてつ。稠林に花ちりなば覺樹の菓は熟するを期すべし。薛蘿は肩にすがり法衣の色そみなば衣のうらの玉は悟る事を得つべし。只暮の露の身は山かげの草を置所とすれども朝霞は望み絕て天を仰にむなし。世をいとふ道は貧道より出たれども。佛を念する思は遺怠とをこたる。四聖の無爲を契りしも。一聖なを頭陀の道にとゞまりき。ひとへにをのれが有爲をいとひむさぼり。をのれい よいよ座禪の窓にいそがし。然而曹腊が酒も人をえはしてよしなし。子罕が賄は心に賄て身の樂とせり。鵝眼なけれど天命の路に杖つきて步をたすく。麞牙はかけたれども地恩の水に口すゝぎて渴をうるほす。空腹に一盃のかゆをすゝれば餘味あり。薄紙百綴の衿寒に服すれば肌をあたゝむるにたれり。檜笠をかぶり裝とす。出家の身なり。わらぐつをふんで駕とす。遁世の道なり。抑相摸國鎌倉の郡は。下界の鹿澁苑天朝の築渦州なり。武將の林をなす。萬榮の花萬にひらけ。勇士道にさかへたり。百步の柳百たびあたり。弓は曉月に似たり。一張そばだちて胸をたをし。剱は秋の霜のごとし。三尺たれて腰すゞし。勝鬪の一陳には爪を楯にしてあだを雌伏し。猛豪手にしたがへて直に雄搆す。干戈威をいつくしくして梟鳥あへてかけらず。誅戮にきびしくして。虎おそれをまし。四海の潮の音は東日にてらされて浪をすませり。貴賤臣妾の往還するおほくむまやのみち隣をしめ。朝儀國務の理亂は萬緖の機かたに織り。去年質耳外に聞をなして。おほくの歲をわたり。舌の端唇していくばくの日をか送るや。心のふね洋爲に漕。いまだ海道萬里の波に掉さゝず。乘馬あらましにはす。いまだ關山千程の雲にむちうたず。今便人の芳緣に乘じて俄に獨身の遠行を企り。貞應後堀河二年卯月の上旬五更に都を出で一期に旅立。昨日はすみわびていとはしかりし宿なれども今立わかるれば名殘おしく覺えてしばしやすらへども。鐘のこゑ明行はあへずして。いつまたあはた口の堀道を南にかいたをりてあふ坂山にかゝれば。九重の寶塔は北のかたにかくれ。又相坂を下に松をともして過行ば。四宮河原のわたりはしのゝめに通りぬ。小關を打越て大津のうらをさして行。關寺の門をだにかへりみれば。金剛力士忿怒のいかる眼を驚し。勢田の橋を東に渡れば。白浪瀧落て流眄とながれ。又身をひやす湖上にふねをのぞめば心興にのり。野庭に馬をいさめて手に鞭をかなつ。漸に行ほどに都を遙にへだてぬ。前途林幽なる纔に靑薺梢に見ゆ。後路山さかりて白雲路をうづむ。既に斜陽景くれて。暗雨しきりに笠にかゝる。袖をしぼりて始て旅のあはれをしりぬ。其間山館に臥て露よりをく曉の望蕭々たり。煙高旱子巖の路をうづみ。水に望みて又水に望む。波の淺深長堤の汀にすゝむ。濱名の橋の橋下には往事をちかひてこゝろざしをのべ。淸見關のせきやにはあかぬ名殘をとゞめて步をはこぶ。富士の高根にけぶりをのぞめば。臘雪宿して雲ひとりむすび。うつの山路につたを尋れば昔の跡夢にして風の昔おどろかす。木々の下には下ごとに翠帳をたれて。行客の苦みをいこへ。夜々の泊りにはとまりごとにこもまくらをむすびてたび人のねぶりをたすく。行々として重て行々たり。山水野塘の興こそみものをまし。歷々として更に歷々たり。海村林邑の感いやめづらかなり。此道若四道の間に逸興のすぐれたるをかね。又孤身が斗藪の今旅はじめなれば。遇孤たる舊客猶ながめを等閑にせず。况や一生の新賓なれば感思おさへがたし。感思の中に愁傷の交事あり。所謂母儀の老を□又幼を都にとゞめて不定の再覲を契おく。無狀かな愚子が爲躰。浮雲に身を乘て旅天にまよひ。朝露の命にて風のたよりにたゞよふ。道をおなじうするものは我をしらざる客なり。語は親昵に契りていづちかはなれなんとする。長途に疲れて十日あまり。窮屈頻に身をせむ。湯井の濱に至りて一時半假息しばらく心をゆるぶ。時に萍實西にしづむ。舊里を忍て後を期し。桂花東にひらけ。外鄕に向て小懷をなやます。仍三十一字を綴りて。千度思ひ萬度懷て旅のこゝろざしをのぶ。これは是文を以てさきとせず。歌を以て本とせず。只興にひかれて物のあはれを記するのみなり。四月四日の曉。都出し朝より雨にあひて。勢田の橋のこなたにしばらくとまりてあまじたくしてゆく。けふあすともしらぬ老人を。ひとり思ひ置てゆけば。

 思ひをく人にあふみのちきりあらは今歸りこん勢田の長橋

はしのわたりより雨まさりて。野徑の道芝露殊にふかし。八町なはてを過れば行人たがひに身をそばめ。一邑のさととをれば亭犬頻に形をほゆ。今曰しもならはぬ旅の空に雨さへいたくふりて。いつしか心のうちもかきくもるやうに覺えて。

 旅衣またきもなれぬ袖の上にぬるへきものと雨はふりきぬ

田中打過民宅打過てはると行ば。農夫竝び立てあら田をうつこゑは行鴈のなきわたるがごとし。卑女うちむれ前田の面にゑぐつむ。存外本ノマヽしづくに袖をぬらす。そともの小川には川ぞひ柳に風たちて鷺のみの毛うちなびき。竹の編戶の垣根には卯花咲すさびて山時鳥忍びなく。かくて三上の嶽をのぞみて野洲河をわたる。

 いかにしてすむやす川の水ならんよわたる計苦しきやある

若椙と云所を過て橫田山を通る。此山は白楡のかげにあらはれて綠林の人をしきる所ともきこゆれば。益なく覺えていそぎゆぐ。

 はや過よ人の心のよこた山みとりの林かけにかくれて

夜景に大岳といふ所にとまる。年比うちかなはぬ有さまにおもひとりて髮をそりければ。いつしかかゝるたびねするも哀にて。彼廬山の草庵の夜曲は情ある事を樂天の詩に感じ。此大岳の柴の宿の雨には何事を貧道の歌にはづ。

 墨染の衣かたしき旅ねしついつしか家を出るしるしに

五日。大岳を立て遙に行ば。內の白河外の白河といふ所を過て鈴鹿山にかゝる。山よりは伊勢の國にうつりぬ。重山雲さかし。越れば千丈の屛風彌しげく。群樹烟ながし。褰は又萬尋の帷帳ますあつし。峯には松風かたに調べて嵆康が姿しきりに舞。林には葉花稀に殘て蜀人の錦は纔にちりほふ。是のみにあらず。山姬の夏の衣は梢のみどりにそめかけ。樹神の音の響は谷の鳥にこたふ。此路を何里ともしらず越行ば。羊腸坂きびしくして駑馬石にあしなえたり。すべて此山は一山の中に數山をへだてゝ千巖の峯にさはり。一河のながれ百瀨に流て衆客の步みに足をひたせり。山里江複は當路にありといへども。萬里の行者はなかばもいたらず。

 すゝか川ふるさと遠く行水にぬれて幾せの浪をわくらん

薄暮に鈴鹿の關崖にとまる。上弦の月峯にかかれり。虛弓いたづらに歸鴈路にのこり。下流の水谷に落。奔箭すみやかにして虎に似たる石にあたる。爰に旅驛漸にかさねて。枕を宿緣の草にむすび。雲衣曉にさむし。袖をいはねのこけにしく。松は君子の德をたれて。天のごとくおほへり。竹は吾友の號あれば。かぜにふしてよをあかす。

 鈴鹿山さしてふる里おもひねの夢路の末に都をそとふ

六日。孟嘗君の五馬の客にあらざれば函谷の雞の後夜をあかしてたつ。山中なかば過て漸下れば巖扉けづりなせり。仁者の栖しづかにして樂み。澗水堀ながす。智者の砌うごけどもゆたかなり。かくて邑里に出て田中の畔を通れば。左に見右に見立田眇々たり。或は耕しをのれがひさに論じ。畦畝あぜを竝て苗を我とりに藝たり。民のけぶりは父君心躰の恩火よりにぎはひ。王道の德は子民稼稷の土器より開けたり。水龍は本より稻榖を護て夏の雨をくだし。電光はかねてより九穗をはらみて三秋をまつ。東作の業力をはげます。西收の稅たのもしく見ゆ。劉寬が刑を忘れたり。蒲鞭定て螢になりぬらん。

 苗代の水にうつりて見ゆる哉いな葉の雲の秋のおもかけ

日數ふるまゝに古鄕も戀しくて立歸り過ぬる跡をみれば。いづれか山いづれか水。雲より外に見ゆるものなし。朝に出て夕に入。東西を日の光にわきまふといへども晚ればとまり明れば立。畫夜を露命に論ぜん事はかたし。をのづから一步を捨て萬步をはこばゞ。遠近かぎりありて往還を期しつべし。只あはれむ。遙に都鄙の中路に出て前後のおもひに勞する事を。

 ふる里は山のいくへにへたてきぬ都の空をうつむしら雲

夜陰に市腋と云にとまる。前を見おろせば海さし入て河伯の民うしろにやしなはれ。見あぐれば峯崎て山祇の髮風にけづる。磐をうつ夜の浪は千光の火を出し。木々になく曉の鼯は孤枕の夢を破る。此ところにとゞまりてこゝろはひとりすめども。明行ば友にひかれ打出ぬ。

 松かねのいはしく磯のなみ枕ふしなれてもや袖にかくらん

七日。市腋を立て。津嶋の渡と云所を舟にて下れば。蘆の若葉あをみわたりて。つながぬ駒も立はなれす。菱の浮葉に浪はかくれども。難面かはづはさはぐけもなし。とりこすさほの雫袖にかゝりたれば。

 さして物を思ふとなしにみなれさほみ馴ぬ浪に袖は濡しつ

渡はつればおはりの國にうつりぬ。片岡には朝陽の影うちにさして。燒野の草に雉なきあがり。小篠が原に駒あれて。泥しけしき引かへて見ゆ。又園中に桑の下宅あり。宅には蓬頭なる女。簀にむかひて蠶養をいとなみ。園には僚倒たる翁鋤を持て農業をつとむ。大かた禿なる小童部といへども。田を習心ざしたゞ足をひぢがごとするおもひのみあり。わかくしてより業を習ふありさまあはれにこそ覺れ。實に父兄のをしへつゝしまざれども。主孝の志をのづからあひなるものか。

 山田うつ卯月になれは夏引のいとけなき子も足ひちにけり

幽月景あらはれて。旅店に人しづまりぬれば。草のまくらをしめて萱津の宿にとまりぬ。

八日。萱津を立て鳴海の浦に來ぬ。熟田宮の御前を過れば。示現利生の垂跡にひざまづきて一心苒拜の謹啓に頭をかたぶく。暫く鳥居に向ひて阿字門を觀ずれば。權現の砌ひそかに寂光の色に□夫土木霜降て瓦上松風天に吹といへども。靈驗日新にして人中の心花春のごとくにひらけたり。しかのみならず。林の梢枝をたるゝ幡蓋社頭の上におほひ。金玉の檐端をうつ金色を神殿の面にみがく。彼和光同麈は來際をかざる期なき事を憐む。羊質未參の後悔に向前のうらみあり。後參の未來に向方のたのみなし。願は今日の拜參をもちて必當來の良緣とせん。路次の便詣なりといふ事なかれ。此機感相叶時也。光をまじふるは冥を導誓ひなり。明神定てその名に應じ給はゞ。長夜の明曉は神にたのみ有ものをや。

 光とつるよるのあまの戶早あけよ朝日戀しき四方の空見ん

此うらをはるかに過れば朝には入海にて魚にあらずば游べからず。晝は鹽干潟なれば馬をはやめてゆく。酉天は冥海漫々として雲水蒼々たり。中上には一葉の舟かすかに飛て白日の空にのぼる。彼侲男の船中にてなどや老にけん蓬萊の嶋は見ずとも。不死藥をばとらずとも。波のうへの遊興は一生の歡會なり。是延年の術にあらずや。

 老せしと心をつねにやるひとそ名をきくしまの藥をもうれ

猶此干潟を行ば小蟹どもをのが穴々より出て蠢きあそぶ。人馬のあしにあはてゝ橫にをどり平さまに走りて。我あなへ迯入をみれば。足の下にふまれて死べきは外なる穴へ走りて命いき。外に恐なきは足の下なる穴へ走來てふまれて死ぬ。憐べし煩惱は家の犬のみにあらず。愛着は濱の蟹ふかき事を。是を見てはかなくおもふ我々。かしこしやいなや。生死の家に着する心は。かににもまさりてはかなき物か。

 誰もいかに見るめ哀とよる波のたゝよふうらに迷ひ來に鳬

山重りて又かさなりぬ。河へだたりて又へだたりぬ。ひとり舊里を別而遙に新路におもむく。しらずいづれの日か古鄕にかへらん。影をならべゆく道づれはあまたあれども。心ざしは必しも同じからねば。心に准する氣色は友をそむきて似たれども。折にふるゝ物のあはれは心なき身にもさすがに覺えて屈原が澤に呻ひて漁夫が嘲を耻。楊岐が路になきて騷人のうらみをいだきけんも。身のたとへにはあらねども。逆旅にして友なきあはれには。なにとなく心ぼそくそらにおもひしられて。

 露の身をおくへき山のかけやなきやすき草葉もあらし吹つゝ

湖見坂といふ所をのぼれば。吳山の長坂にあらずといへども。周行の短息はこゝにあへたり。數步を通じてながき道にすゝめば。宮道二村の山中を賖に過て。山はいづれも山なれども。優興は此山にひく。松はいづれも松なれども。木立は此松にとゞまれり。翠を含風の昔に雨をきくといへども。雲に舞鶴のこゑに晴の空を知。松の性松の性。汝は千年の貞あればおもがはりせじ。再往再往。我は一時の命なれば後見期しがたし。

 けふすきぬかへらは又よふたむらのやまぬ名殘の松の下道

山中に堺川あり。身は河上にうかんでひとり渡れども。影はみなそこに沈て我とふたりゆく。かくて三河國にいたりぬ。雉鯉鮒が馬場を過て。數里の野原に一兩のはしを名づけて八橋といふ。砂に睡る鴛鴦は夏を辭去り。水にたてる杜若は時をむかへて開たり。花はむかしの色かはらず咲ぬらむ。橋もおなじ橋なれども幾度つくりかへつらん。相如が世をうらみしは肥馬に乘て昇僊にかへり。幽子身を捨る。窮鳥に類て當橋を渡る。八橋よ八橋よ。くもでに物おもふ人は昔も過きや。橋柱よはしばしらよ。をのれも朽ぬるか。むなしく朽ぬるものは今もまたすぐ。

 すみわひて過る三河のやつ橋を心ゆきてもたちかへらはや

此はしのうへにおもふ事をちかひて打渡らば。何となく心もゆく樣におぼえて。遙に過れば宮橋といふ所あり。數雙のわたし板は朽て跡なし。八本の柱は殘て溝にあり。心のうちにむかしをたづねてことのはしに今をしるす。

 宮橋の殘るはしらにこととはん朽て幾世かたえわたりぬる

けふのとまりをきけば。前程なを遠しといへども。暮の空を臨斜脚旣に酉金に近づく。日の入程に矢橋の宿に落つきぬ。

九日。矢橋を立て。赤坂の宿を過。むかし此宿の遊君花顏春こまやかにして。蘭質秋かうばしき女有けり。頁を潘安仁が弟妹にかりて。契を三州吏の妻妾に結べり。妾は良人に先て世を早し。良人は妾にをくれて家をいづ。しらず利生のぼさつの化現して夫を導けるか。又しらず圓通大士の發心して妾をすくへるか。互の善知識大なる因緣なり。彼舊室妬が咒咀に挊舞惡怨かへりて善敎の禮をなし。異域朝嘲の輕仙に鼻酸持鉢忽に智行の德にとふ。巨唐に名をあげて本朝に譽を留る上人誠に貴。誰かいはん初發心の道に入聖なりとは。是則本來佛の世に出て人を化するにあらずや。行々昔を談じて猶々いまにあはれむ。

 いかにしてうつゝかみちを契らまし夢驚かす君なかりせは

かくて本野が原を過れば。懶かりし蕨は春の心を生替りて。秋の色うとけれども。分行駒は鹿の毛に見ゆ。時に日重山にかくれて。月星躔に顯れぬ。曉をはやめて豐河の宿にとまりぬ。深夜に立出てみれば。此川はながれひろく水ふかくして。まことにゆたかなる渡也。河の石瀨に落る浪の音は月の光にこえたり。川邊に過る風の響は夜の色白し。又みぎはひなのすみかには月よりほかにながめなれたるものなし。

 しる人もなきさに浪のよるのみそなれにし月の影はさしくる

十日。豐河を立て野くれ里くれはるとすぐれば。峯野の原と云所有。日野の草の露より出て若木の枝にのぼらず。雲は峯の松風にはれて山の色天とひとつに染たり。遠望の感心情つきがたし。

 山の端は露より底にうつもれて野末の草に明るしのゝめ

やがて高志山にかゝりぬ。石利を踏て大敵山を打過れば燒野が原に草葉萠出て。こずゑの色煙をあぐ。此林地を遙に行ば山中に堺川あり。是より遠江國にうつりぬ。

 くたるさへたかしといはゝいかゝせんのほらん旅の東路の關

此山のこしを南にくだりて遙に見おろせば靑山浪々として白雲沈々たり。海上の眺望は此ところに勝れたり。漸山脚に下れば匿穴のごとくに堀入たる谷に道あり。身をそばめ聲を吞で下る。くだりはつれば北は韓康獨往の栖。花の色夏の望み貧して。南は范蠡扁舟の泊り。波の聲夕の關に樂しぶ。鹽屋にはうすきけぶり靡然となびきて。中天の雲片々たり。濱膠には决れるうしほ溳焉とたまりて數條の畝磩々たり。浪によるみるめは心なけれども黑白をわきまへ。白洲にたてる鷺は心あれども毛砂にまとへり。優興にとゞめられて暫く立れば。此浦の景趣はひそかに行人の心をまとふ。

 行過る袖も鹽屋の夕けふりたつとてあまのさひしとや見ん

夕陽の影の中に橋本の宿にとまる。此泊は鼇海南に湛て遊興をこぎゆくふねにのせ。驛路ひがしに通りて譽號を濱名の橋にきく。時に日車西に馳て牛漢漸あらはれ。月輸峯に廻りて兎景初て幽なり。浦ふく松風は臥もならはぬ旅の身にしみ。巖をあらふ浪の音は聞もなれぬ老の耳にたつ。初更の間ひごろのくるしみにわかれて。七編のこもむしろにゆるめるといへども。深漏はこよひのとまりのめづらしきに目ざめて數雙の松の下にたてり。磯もとゞろによる波は。水口かまびすしくのゝしれども。晴くもりゆく月は。雲のうす衣をかうぶりて忍びやかにすぐ。彼釣魚のかげはなみの底に入て魚のきもをこがし。夜舟の棹のうたはまくらのうへに音づれて客のねざめにともなふ。夜も旣に明ゆけば。星のひかりはかくれて宿立人の袖はみえ。餘所なる聲によばれてしらぬ友にうちつれて出づ。しばらく舊橋に立とゞまりてめづらしきわたり興ずれば。橋の下にさしのぼるうしほは。かへらぬ水をかへし上さまにながれ。松をはらふ風のあしは。かしらをこえてとがむれどもきかず。大かた羇中の贈答は此所に儲たり。誰か水驛の跡をいはん。

 橋本やあらぬ渡りと聞しにも猶過かねつまつのむら立

 浪まくらよろしく宿のなこりには殘してたちぬまつの浦風

十一日に橋本をたつ。橋のわたりより行々たちかへりみれば。跡にしらなみのこゑはすぐるなごりをよびかへし。路に靑松の枝はあゆむもすそを引とゞむ。北にかへりみれば湖上はるかにうかんで。なみのしは水の顏に老たり。西にのぞめば湖海ひろくはびこりて。雲のうきはし風のたくみにわたす。水鄕のけしきは。かれも是もおなじけれども。湖海の淡鹹は氣味これことなり。浥のうへには浪に翥みさごすゞしき水をあふぎ。舟の中には唐櫓おすこゑ秋のかりをながめて夏の空にゆく。本より興望は旅中にあれば。感膓しきりに廻りておもひやみがたし。此所をうちすぎて濱まつのうらにきたりぬ。長汀砂深して行はかへるがごとし。萬株しげくして風波こゑをあらそふをみれば。又湖を吞は則曲浦の曲より吐出し。濱漪珠を沙汰は則疊巖の疊に碎きしく。優なるかな艷なるかな。忘難く忍がたし。命あらば□年か再び來て此うらにすぎん。

 波ははま松には風のうらうへに立とまれとや吹しきるらん

林の風にをくられて廻澤のやどをすぎ。はるかに見わたして行ば。岳の邊にはもりあり。野原には澤あり。峯にたつ木は枝をうへにさして生たれども。水にうつるかげはこすゑをさかさまにして互に相違せり。水と木とは相生中よしときけども。うつるかげは向背して見ゆ。時旣にたそがれになれば。夜の宿を向へて池田の宿にとまる。

十二日。池田を立てくれ行ば。林野おなじさまなれども。ところみちとなれば見るにしたがひてめづらしく。天中川をわたれば大河にて水面三町ばかりあれば舟にて渡る。はやく波さかしくてさほもさしえねば。大なる扒をもちてよこざまに水をかきてわたる。かの王霸が忠にあらざれば滹沱河澌むすぶべきにあらず。張轉望が牛漢浪にさかのぼりけん浮木のふねのかくやとおぼえて。

 よしさらは身をうきゝにて渡りなんあまつみ空の中川の水

上の野原を一里ばかりをすぐれば。千草萬草露の色なをあさく。野煙徑風の音またよはし。あはれおなじくは。此道の秋のたびにてあれな。

 夏草はまたうらわかき色なから秋にさきたつ野邊の露かな

山口といふ今宿を過れば。路は舊に依て通ぜり。野原を跡にしさとむらをさきにして打かへ打かへ過行ば。事のまゝと申社に參詣す。本地をばしらず。佛陀にもいますらん。薩陲にもいますらん。中丹をば神かならずあはれみ給ふべし。今身もおだやかに後身もおだやかに。すぎのむら立は三輪山にあらずとも戀しく。尋てもまいらん。願はたゞ畢竟空寂の法味を納受して。眞實不虛の感應をたれたまへ。

 思ふ事のまゝにかなへは杉たてる神のちかひのしるしとそみん

社のうしろに小川をわたれば。佐夜中山にかかる。此山口をしばらくのぼれば。左に深谷右も深谷。一峯ながきみちはつゝみのうへに似たり。兩谷の梢を眼下に見て。群鳥の囀を足の下に聞。谷の兩片はたかく。又山のあひだをすぐれば中山とは見えたり。山はむかしの九折のみちふるきがごとし。こずゑはあらたなる抄千條のみどりみなあさし。此ところは其名ことに聞つるところなれば。一時のほどに百般立どまりてうちながめゆけば。秦蓋の雨の音はぬれずして耳をあらひ。商紘の風のひゞきは色あらずして身にしむ。

 わけ登るさよの中山なかにこえて名殘そ苦しかりける

時に胡馬ひづめつかれて。日烏翅さかりぬれば。草命をやしなはんがため。きく川の宿にとまりぬ。或家のはしらに故中御門中納言宗行卿かく書付られたり。彼南陽縣の菊水下流を汲でよはひをのべ。此東海道の菊河西涯にやどりて命を全くせん事を。ことにあはれとこそおぼゆれ。身は累葉の賢枝にうまれ。其官は黃門のたかき階にのぼる。雲のうへの月のまへには冠の光をまじへ。仙洞のはなの下には錦の袖の色をあらそふ身たり。榮分にあまりて時々はなと匂ひしかば。人それをかざしてちかきもしたがひ遠きもなびきしも。かゝるうきめ見むとは思ひやはよるべき。さてもあさましや去承久三年中旬天下風あれて海內のなみさかへりき。鬪亂の亂將は花城よりみだれ。合戰の戰士は夷國より戰。暴雷雲をひゞかして日月光をおほはれ。軍慮地をうごかして弓釼威をふるふ。其あひだ萬歲の山のこゑ。風わすれて枝をならし。ー淸の河の色波あやまつてにごりをたて。茨山汾水の源流たかくながれ。はるかに西海のにしにくだり。卿相羽林の花族とをく落て東關の東にちりぬ。これのみにあらず別離宮の月のひかり所々にうつりぬ。雲井をへだてゝ旅のそらにすみ。鷄籠山の竹の聲方々にうれへたり。風のたよりをたえて外土にさまよふ。ゆめかうつゝか。むかしもいまだきかず。錦帳玉端の床は主失て武客の宿となり麗水蜀川の貢數をつくして邊民のたからとなりにき。よるひるたはぶれて衿をかさねし鴛鴦。千歲比翼ちぎりいきながらたえ。朝夕にうやまひて袖をおさめし僮僕も。たねん知恩のこゝろざしおもひながらわかれぬ。實に會者定離のならひ目のまへに見ゆるに。刹利も首陀もかはらぬ奈落のそこのありさま。あはれにこそおぼゆれ。今はなげくともたすくべき人もなければ淚をさきだてて心よはくうちいでぬ。其身にしたがふものは甲冑の兵こゝろを一騎の客にかく。其目にたつものは釼戟のつるぎ。魂を寸神のむねにけす。せめて命のをしさにかく書付られけんこそ。するすみならぬ袖の色もあらはれぬべく覺ゆれ。

 心あらはさそなあはれと水くきの跡かきわくる宿の旅人

妙井渡と云所の野原をすぐ。中呂の節にあたりて。小暑の氣やうもよほせども。いまだ納凉のころならねば手にむすばず。

 夏深き淸水なりせは駒とめて暫しすゝまは日はくれぬへし

播豆藏の宿をすぎて大堰河をわたる。此川は川中に渡りおほく。又水さかし。ながれをこえ嶋をへだてゝ。瀨々かたにわかれたり。此道を二三里行ば四望かすかにして遠情をさへがたし。時に水風例よりもはげしくて。白砂きりのごとくにたつ。笠をかたぶけて駿河國にうつりぬ。前嶋を過るになみはたゝねども。藤枝の市をとをれば花はさきかゝりたり。

 前嶋の市には波の跡もなしみな藤枝のはなにかへつゝ

岡部の里邑を過てはるかにゆけば。宇都の山にかゝる。此山は山中に山を愛するたくみのけずりなせる山也。碧岸の下に砂ながうして巖をたて。翠嶺の上に葉おちて壤をつく。肬を背におひ面を胸にいだきて漸にのぼれば。汗肩袒のはだへにながれて。單衣かさぬといへども。懷中の扇を手にうごかして。微風の扶持可也。かくて森々たる林をわけて峨々たる峯を越れば。貴石の譽は此山にたかし。大かたおちこちの木立にこゝろをわけられて。一方ならぬ感望におもひみだれて過れば。朝雲峯くらし。虎李將軍が栖をさり。暮風谷寒し。鶴鄭太尉が跡にすむ。旣にして赤羽西にとび。まなこにさへぎるものとては檜原槇の葉。老のちからこゝを疲れたり。あしにまかするものは苔の岩ね蔦の下道嶮難にたへず。暫うちやすめば。修行者一兩客繩床そばにたてゝ又休む。

 立かへるうつの山ふしことつてよ都こひつゝひとりこえきと

行々おもへばすぎきぬる此あひだの山河は。夢に見つるかうつゝにみつるか。昨日とやいはんけふとやいはん。むかしを今とおもへば我身老たり。今をむかしとおもへば我心わかし。古今をへだつる物はわが心の中懷なり。生死涅般猶如昨夢といへるもあはれにこそおぼゆれ。昨日過にしあとはけふの夢となり。今日此所をすぐる。明日いづれの所にして今はきのふといはん。誠にこれ過ぬるかたの歲月を夢よりゆめにうつりぬ。昨日今日の山路は雲よりくもにいる。

 あすや又きのふの雲に驚かんけふはうつゝのうつの山こえ

手越の宿にとまりてあしをやすむ。十三日手越を立て野邊をはると過。こずゑをみればあさみどりの夏のはじめなりといへども。くさむらをのぞめば白露まだきに秋の夕に似たり。北に遠ざかりて雪しろき山あり。とへば甲斐の白峯といふ。としごろきゝしところ命あれば見つ。をよそ此あひだ數日のこゝろざしをやしなひて。百とせのよはひをのべつ。かの上仙のくすりは下界のためによしなき物をや。

 おしからぬ命なれ共けふはあれはいきれるかひのしらねをも見つ

宇度のはまをすぐれば。浪の音かぜのこゑ殊にこゝろすむ所なり。はまの東北に靈地の山寺あり。四方たかくはれて四明天台の末寺たり。堂閣繁盛して本山中堂の儀式をかり。一乘讀誦のこゑは十二廻中に聞絕る事なく。安居一夏の行は採花汲水のつとめ驗をあらそふ。修する所は中道の敎法論談を空假の頤に决して。利する所は下立の衆生歸依を遠近のさかひにいたす。伽藍の名をきけば行基ぼさつの建立。土木の風情。本尊の實を尋れば觀世音と申。補陁落山の聖容出現の月あきらかなり。大形佛法興隆のみぎり。數百筒歲の星漢霜ふりたり。僧俗止住のみね。三百餘字の禪房霞ゆたかなり。雲船の石神山腰に護て惡障をふせぎ。大形の木容は寺內に納て善業をなす。千手觀音かの山より石舟に乘て此地にくだり給ひけり。其舟善神となりて山路の大坂に石舟護法と號す。彼海岸山の千眼は南方より北を飛て有緣を此山に導。宇渡濱の品天面を地に得て舞樂を此濱にまなべり。むかし稻河大夫といふ人。天人の濱松の下に樂をしらべて舞けるをみてまなび舞けり。又人のみるをみて鳥のごとくに飛て雲に隱にけり。其跡をみれば一の面形を落せり。大夫これを取て寺の寶物とす。よつて其寺に舞樂をしらべて法會を始行す。其大夫が子孫舞人氏とす。二月十二日常樂會とて寺中の大營なり。そののち天人歸り。廻雪は春の花の色みねにとゞまり。恕風は歲月のこゑはよつて此濱をすぐれば。松に雅琴有てなみにつゞみ有。天人の樂今聞に似たり。

 袖ふりし天津をとめか羽衣のおも影にたつあとの白波

江尻の浦をすぐれば。靑苔石におひ黑布磯にはる。南は澳の海淼々と波をわかして孤帆天にとび。北は茂松欝々と枝たれて一道つるをなす。漁夫の網をひく。身をたすけんとして身をくるしみ。游魚の鈎をのむ。命をおしみて命をほろぼす。人いくばくの利をか得たる。魚いくばくの餌をかもとむる。世をわしるおもひ。命をたばふこゝろざし。かれもこれもともにおなじ。これのみかは。山にあせかく樵夫は北風をになひて夕にかへり。野にあしなへく商客は。白露をはらふてあかつきに出。面々のたのしみまちなりといへども。各々のくるしみは。みなこれ渡世の一事なり。

 人ことにはしる心はかはれとも世をすくる道は一つ成けり

此うらをはるかに見渡して行ば。海松はなみの岩ねに根をはなれたる草。海月は潮のうへに水にうつるかげ。ともにこれうき世を論じて人をいましめたり。

 浪のうへにたゝよふ海の月もまたうかれ行とそ我を見る覽

淸見がせきを見れば。西南は天と海と高低ひとつにまなこをまどはし。東北は山と磯と嶮難おなじく足をつまだつ。磐の下には波の花風にひらきて春のさだめなく。峯のうへには松の色みどりを含て秋をおそれず。浮天の波は雲を汀にて月のみふね夜出てこぎ。沈陸の磯は磐を道にて風の使脚あしたにふきてすぐ。名を得たる所かならずしも興をえず。耳に耽る所かならずしも目にふけらず。耳目の感ふたつながら得るは此うらにあり。浪にあらひてぬれや□に道をとへば松風むなしくこたふ。岸柳にくるしみを尋れば橦花變じて石あり。

關屋の邊に。布をたゝみといふ所あり。むかしせきもりの布を取たるが。つもりて石になりたるといへり。

 吹よせよ淸見うら風わすれ貝ひろふ名殘のなにしおはゝや

 變らはやけふみるはかり淸見潟おほはし袖にかゝる浪ちは

海老はなみにおよぎ。愚老は汀にたゞよふ。ともに老て腰かゞまる。汝はしるや生涯うかべるいのち今いくほどと。我はしらず幻中の一瞬の身。かくておきつのうらをすぐれば。しほがまのけぶりかすかに。うら人の袖うちしほれ。邊宅には小魚をさらして屋上に鱗をふけり。松のむら立なみのゆるいろ。心なき心にもこゝろあらん人に見せまくほしくて。

 たゝぬらせゆくての袖にかゝる波ひるまのほとは浦風も吹

岫崎といふ所は風飄々と飜て砂をまはし。波浪々とみだれて人をしきる。行客こゝにたづさはりて。しばらくよせひくなみまをうかゞひていそぎとをる。左は嶮岳の下と岩のはざまをしのぎ行。右はかすかなる浪のうへをのぞめば眼うげぬべし。はるとゆくほどに。大わだのうらに來て。小船の沖中にたゞよへるをみる。飄帆飛で萬里風便をたのみて白煙にいり。鼇波うごきて千雲夕陽をあらひて紅藍にそむ。海舘のうちに此所をのみとめて身をばとゞめず。

 わすれしな波の面影立そひてすくるなこりのおほわたの浦

湯居の宿を立てはるかに行ば。千本の松原といふところあり。老のまなこは極浦のなみにしほれ。朧なる耳は長松のかぜにはらふ。晴の天の雨には翠蓋のかさあれば袖をたくらず。砂の濱の水には白花ちれども風をうらみず。行々あとをかへりみれば。前途いよゆかし。

 聞わひぬちゝの松原吹風の一かたならすわれしほるこゑ

蒲原の宿にとまりぬ。すがごものうへにふせり。十四日蒲原を立てはるかに行ば。前路にすすみさきだつ賓は。馬に水かひて後河にさがりぬ。後程にさがりくるをのれは。野に草しきてまだこぬ人をさきにやる。先後のあはれは行旅のならひにもおもひしられてうちすぐる程に富士川をわたりぬ。此河中にこそ石をながす。巫峽の水のみなんぞ舟をくつがへさんや。人のこゝろは此水よりさかしければ。老馬をたのみてうち渡る。老馬老馬。なんぢは智有ければ。山路の雪のみにあらず。川のそこのこころもよくしりにけり。

 音にきゝし名高き山のわたりとてそこさへ探し富士川の水

うきしまが原をすぐれば。名はうきしまときこゆれど。まことは海中とは見えず。野徑とは見つべし。草むらあり。木の林あり。はるかに過れば人煙片々と絕て又たつ。新樹程をへだてゝ隣たがひにうとし。東行西行の客はみな知音にあらず。村南村北のみちにたゞ山海を見る。〈山の頂に二泉あり。湯のごとくわくといふ。むかしは仙女が此みねにあそびて常にあり。ひがしふもとに新山と云山あり。延曆年中に天神くだりてこれをつくといへり。〉すべて此みねは。天漢の中に沖て人衆の外にみゆ。眼をいたゞきて立。魂恍々とほれたり。

 幾としの雪つもりてかふしの山いたゝき白き高ねなるらん

 問きつるふしの堙は空にきえて雲になこりの面かけそたつ

むかし採竹翁と云ものあり。女を赫奕姬といふ。おきなが家の竹林に鶯の卵子の形にかへりて巢の中にあり。翁養て子とせり。ひととなりてかほよき事たぐひなし。光ありてかたはらをてらす。嬋娟たる兩鬢は秋のせみのはね。婉轉たる雙娥は遠山の色。一たび咲ばもゝのこびなり。見きく人みなはらわたをたつ。此姬は先生に人として。翁にやしなはれたりけるが。天上にうまれて後は。宿世の恩を報ぜんとして。しばらく此おきなが竹に化生せるなり。あはれむべし父子のちぎりの他生にも變ぜざる事を。これよりして靑竹の世の中に黃金出來て。貧翁たちまちに富人となりにけり。其間英花の家。好色のみち。月卿ひかりをあらそひ。雲客色を重して。艷言をつくし。懇懷を抽て。つねにかくや姬が室屋に來會して。絃をしらべ歌を詠じてあそびたりける。されども翁姬難詞をむすびてうちとくるこゝろもなし。時のみかど此よしを聞しめしてめしけれども參らざりければ。みかど御狩あそびのよしにて。鶯姬が竹亭に御幸し給ひて。鴛のちぎりをむすび。松のよはひをひきたまふ。翁姬おもふところ有て。後日をちぎり申ければ。みかどむなしくかへり給ひぬ。かたへの天これを知て。玉のまくら。金の釵。たまきはまだ手なれざるさきに飛車くだりて天にあがりぬ。開城のかためも雲路にゑきなく。猛子がちからも飛行にはよしなし。時に秋の半。月のひかりくまなきころ。夜半のけしき風をとづれ。ものをおもはぬ人もものおもふおりふし。きみのおもひ臣の懷舊。おなじく袖をうるほす。彼雲をつなぐにつなぎ得ず。雲の色慘々としてくれのおもひふかし。風を追ともおはれず。風の聲颯々としてよるのうらみふかし。花民は奈木の孫枝なり。藥の君臣として萬民やまひをいやす。鶯姬は竹林の子葉なり。毒の化女として一人の 心をなやます。方士が大眞院をたづねし。貴妃がさゝめごと。二度唐帝のおもひにかへり。使臣の富士のみねにのぼり。仙女がわかれの書。なか和君の情をこがせり。翁ひめ天にあがりける時。帝の御ちぎりさすがにおぼえて。不死のくすりに歌をかきぐして。とゞめをきたり。其歌に云。

 今はとてあまのは衣きる時そ君をあはれとおもひ出ぬる

みかどこれを御覽じて。わすれがたみは見るもうらめしとて怨戀にたへず。靑鳥をとばし鴈札をかきそへてくすりをかへし給ひけり。其返事。

 あふことの淚にうかふ我身にはしなぬ藥もなにゝかはせん

使節智計をめぐらして。天にちかきところは此山にしかじとて。富士山にのぼりてやきあげければ。くすりも文もけぶりとむすぼまれて空にあがりけり。これより此みねに戀の煙をたてたり。何この山をば不死の峯といへり。しかるを郡の名に付て富士とかくにや。彼も仙女なり。これも仙女なり。ともに戀しき袖にたまれる。彼は死てさり。これはいきてさる。おなじく別てよるのころもをかへす。すべてむかしも今も好女は國をかたぶけ人をなやます。つゝしんで色にふけるべからず。

 あまつひめ戀しおもひのけふりとてたつやはかなき大空の雲

車返といふ所をすぐ。此ところは。もし蟷螂がみちにあたりて行人をとめけるか。又若遊兒が土城をつくりて孔子に答けるか。〈昔小童部の路中に小家を造て遊びけるに。孔子のとをるとて。車にあやうしそこのけといさめられけるに。小童部の云。車は家の有所をよぎて過べし。いまだ聞ず家の車にさる事をと。孔子これを聞て。くるまをめぐらしてかへりにけり。〉若又勝母の閭ならば。曾子にあらずとも誰もいかゞとをらん。〈曾子は孝ふかき人にて。不孝の者のゐたる所は。車をかへしてとをらず。〉嶮岨の地なれば大行路といひつべし。〈よの道はさかしくてよくくるまをくだく。〉されども騎馬の客なればうちつれて通りぬ。

 むかしたれこゝに車のわつらひてなかえを北にかけはしめけん

木瀨川の宿にとまりて萱屋の下にやすむ。又彼中納言和歌一首よみて。一筆の跡をとゞめられたり。

 けふすくる身を浮嶋か原にきてつゐの道をそきゝ定めつる

これを見る人心あればみな袖をうるほす。夫北州の千年はかぎりを知て壽をなげく。南州の不定は期をしらずして命をたのむ。誠にけふばかりとおもへどもこゝろのうちを推すべし。おほかたはむかしがたりにだも。あはれなるにはなみだをのごふ。何ぞいはんや。我も人も見し世のゆめなれば。おどろかすにつきてあはれにこそ覺ゆれ。さてもみねの梢をはらひしあらしのひゞきに。およばぬ谷の下くさまでもふきしほられて。かずならぬ露の身もをき所なくなりにしより。かくいひて命を惜みて。うせにし人のこと葉を存す。厭身は今までありてよそにみるこそあはれなれ。此歌の心をたづぬれば。納言浮嶋が原を過とて。ものをかたにかけのぼるもの逢たりけり。とへば按察使光親卿の僮僕主君の遺骨を拾て都にかへるとなくいひけり。それをみるに。身のうへの事なれば。魂はいきてよりさこそはきえにけめ。本より遁まじきとは知ながら。をのづから虎口より出て龜毛の命もやうると。なをまたれけんこゝろに。今は終にときゝさだめて。げにうきしまが原より。我にもあらず馬の行にまかせて此宿に落つきぬ。こよひばかりの命。まくらの下のきりすとともにちぎりあかして。かく書留て出られけんこそあはれをのこすのみにあらず。無跡まで情もふかく見ゆれ。

 さそなけに命もおしのつるき羽にかゝるあはれは浮嶋か原

十五日。木瀨川を立て遇澤と云野原をすぐ。此野何のさとともしらず。遙々とゆけば。納言はこゝにてはやく暇候べしと聞えけるに。心中に所作ありとしばらくとこひうけられければ。なをはるかに過行けん。まことに旅の空はいかゞものあはれなるべき。况や馬嵬のみちに出て。牛頭のさかひにかへらんずる淚の底にも。都におもひをく人々や心にかゝりて。ありやなしやのことの葉だにも。今一度きかまほしかりけん。されどもすみだ川にもあらねば。こととふ鳥のたよりだにもなくて。此原にてながく日の光にわかれ。冥道にたちかくれにけり。

 都をはいかに花人はるたえてあつまの秋の木の葉とはちる

やがて按察使左兵衞督有雅卿。おなじく此原にてすゑの露もとのしづくとをくれさきだちにけり。夫人つねの生なし。家つねの居なし。これは世のならひ事の理なり。されども期來て生て謝せば。理をのべて忍つべし。緣つきて家をわかれば。ならひを存してなぐさみぬべし。わかれし所はうき世なり。ミヤコの外の荒々たる野原のたびのみち。沒せん時はいまだしき時なり。うらみをふくみし悄々たる秋の天の夕の空。誠に時の災孽の遇にあへりといへども。こゝにこれ先世の宿業のむくゆる酬なり。抑かの人々は官班身を名譽のきゝをあぐ。君恩あくまでうるほして降雨のごとし。人望かたにひらけてさかりなる花に似たりき。中に黃門都護は家の貫首として一門の間に捷をおしひらき。朝の重臣として萬機の庭に線をとゝのへき。誰かおもひし天俄に炎をくだして天命をほろぼし。地たちまちに夭をあげて地望をうしなはんとは。あはれなるかな入木のとりの跡は千とせの記念にのこり。歸泉の靈魂は九夜のゆめにまよひにき。されども善惡こゝろにつよくして生死はたゞ恨なりとおもへりき。つゐに十念相續して他界にうつりぬ。夏の終秋のはじめ人醉世にごりし。其間の妄念はさもあらばあれ。南無西方彌陀觀音。そのときの發心なをざりならずは來迎たのみあり。これやこの人々の別れし野邊とうちながめてすぐれば。淺茅が原に風たちて。なびく草葉に露こぼれ。無常の鄕とはいひながら。無慚なりける別れかな。有爲のさかひとおもへども。うかりける世中かな。官位は春の夢。くさのまくらにながく絕ぬ。樂榮はあしたの露。苔のむしろにきえはてぬ。死出山路には隨はぬならひなれば。後世のうらみもいかゞせん。東のみちにひとり出て。あやうき武士にいざなはれ行けんこゝろのうちこそあはれなれ。かの冥吏呵責の塲には。ひとり自業自得の斷罪に舌をまき。此妻息別離の跡には。各不意不慮の橫死に淚をやる。生てのわかれ死てのうらみ。ふたつながらをいかゞせん。眞をうつしてもよしなし。一生いくばくならぬ。魂を訪て足ぬべし。二世のちぎりむなしからじ。

 おもへはなうかりし世にもあひ澤の水の泡とや人のきゆ覽

けふ足柄山をこえて關の下の宿にとまるべき日。暮烏むらがりとんで。林頭に鷺ねぐらをあらそへば。山の此方竹の下といふところにとまる。四方は高山にて一川谷にながれ。嵐落て枕をあらふ。聞ばこれ松の音。霜さえて袖にあり。はらへばたゞ月のひかり。ね覺のおもひにたえず。ひとりおきゐてのこりの夜をあかす。

 見し人にあふ夜の夢の名殘かなかけろふ月に松風の聲

 更る夜のあらしの枕ふしわひぬ夢もみやこに遠さかりきて

十六日。竹の下を立て。林中をすぎてはると行ば。千束のはしを獨粱にさしこえて。足柄山に手をたてゝのぼれば。君子松いつくしくて。貴人の風過る笠をとがめ。客雲梢にかさなりて故山のいたゞきあらたに高し。朝の間雨ふりて松のかぜ聲の虛名をあらはす。程なく日岳□の東にのぼりて雲はやく驛路の天にはれぬ。彼山祇のむかしのうたに。遊女が口につたへ。嶺猿の夕のなきは。行人の心をいたましむ。〈昔靑墓の宿の君女此山をこえける時。山神翁に化してうたををしへたりけり。あしがらといふはこれなり。〉時に萬仭みねたかし。樹根にまとふてこしをかゞめ。千里巖さかし。苔の鬚をかなぐりて脛をのゝく。山中を胡馬がへしといふ。馬もしここにとゞまらましかば。此山をば鞍馬とぞいはまし。これより相摸國にうつりぬ。

 秋ならはいかに木葉のみたれまし嵐そおつるあしからの山

關下の宿をすぐれば。宅をならぶる住民は人を宿して主とし。窓にうたふ君女は客をとゞめて夫とす。あはれむべしちとせのちぎりを旅宿の一夜のゆめにむすび。生涯のたのみを往還の諸人の望にかく。翠帳紅閨萬事の禮法ことなりといへども。草庵柴戶一生の觀念これおなじ。

 さくらとて花めく山の谷ほこりをのか匂ひもはるは一とき

道は順道なれども。宿を逆川と云所にとまる。〈鹽のさすとき。水の上ざまにながるれば。さかはといふ。〉北は片岡田疁うちすきみて薄の燒おれ靑葉にまじり。南は滿海蒼波わきあがりて。白馬ならびわたる。しかのみならず。前汀東西素布を長疊の浪にあらそひ。後園町段綠衫を萬きやうの竹にかり。時に暮行日脚は景を遠嶋の松にかへし。來宿踈人は契を同驛のむしろにむすぶ。彼草につなぐ疲馬は胡國を忍びて北風に嘶へ。野にやすむ群牛は吳地にならひて夜の月に喘。掉歌數聲舟船を明月峽のほとりによせ。松琴萬曲琵琶を尋陽江の汀にきく。一生のおもひ出今夜の泊りにあり。

 行とまる磯邊のなみのよるの月旅ねの袖にまたやとせとや

十七日。逆川を立て平山を過て。高倉宰相中將範茂。笘峯山のうみじり急河と云淵にて底のみくづとしづみにけり。つら其むかしをおもへばあはれにこそおぼゆれ。日本國母の貴光をかゞやかす光の末に身をてらし。天子聖皇の恩波をそゝぐ波の雫に家をうるほす。羽林のはなあらたにひらけ。はるにあへるにほひ天下に薰じ。射山の風あたゝかにあふぐ時にあたるひゞき遠近にふるふ。圖らざるや榮木山風たゝきて其はなちりとなり。逝水ながれ急にして其身泡ときえんとは。連枝の契かたえはやくおれぬ。家苑の地あとむなしくのこれり。魮𩶖のむつび一頰をならべず。他鄕の水おちてかへらず。一生こゝにつきぬ。此河は三家の水口たるか。いふことなかれ水こゝろなしと。なみの聲鳴咽して哀傷をなす。

 なかれ行てかへらぬ水のあはれにも消にし人の跡と見ゆ覽

此つぎにあひ尋れば一條の宰相中將〈信能卿。〉美濃國遠山といふところにて露の命をかしてける。夫洛中にわかれて維し日。家をはなれしうらみいよ惡業のなかだちたりしかども。たびのみちに手をひらけしときに家を出しよろこび還て善緣のすゝめにあへり。たなごころをあはせ念をたゞしくして。魂ひとり去にけり。臨終の義を論ぜば往生ともいふべし。西方には聖衆定て九品の寳蓮にみちびくらん。彼羽化をえて天闕にあそびしは。八座のむしろ家門のちりをうちはらひ。虎賁を兼て仙洞にわしる。累葉の花寶枝の風に綻びき。傷哉平日のかげ盛にして。未西天の雲にかたぶかざるに。壽堂の扉ながくとぢて。北邙の地にうづむことを。花の床をなにかざりけん。跡にとまりて主なし。親族はかなしめどもよしなし。旅に出てひとり心ざしぬ。楊國忠が他界にうつりし。しらず人のうらみをなすことを。平章事の遠山にほろびし。おもひやりき身のかなしみをふくみなんことを。彼東平王の舊里をおもふ墳上の風雨になびく。誠にさこそとあはれにこそは覺ゆれ。

 おもひきや都を夜半にわかれ路の遠山野へに露きえんとは

夫人のうまれたるは。庭におつる木葉の風にうごくがごとし。風やみぬればうごかず。死と思へば旅に出る行客のやどにとまるがごとし。こゝにわかれぬといへども。かしこにはうまれぬ。たゞ煩惱のうらみのみさる事をかなしみ。愚痴の心をしらざる事をうらむべし。はやく別れをおしまん人は。再會を一仙の國に約し。恩をこひんひとは。追福を九品のみちに訪べし。

 今更になになけく覽末の露もとよりきえん身とはしらすや

大磯のうら小磯のうらをはるとくれば。雲のかけはしなみのうへにうかみて。かさゝぎのわたしもりあまつ空にあそぶ。あはれさびしきたびの空かな。ながめなれてや人はゆくらん。

 大磯やこいそのうらのうら風にゆくともしらすかへる袖哉

さがみ川をわたりぬれば懷嶋に入。砥上が原を出。南のうらを見やればなみのあやをりはへて白き色をあらひ。北原をのぞめば草の綠そめなし淺萸さらせり。中に八松と云所あり。八千歲のかげにたちよりて。十八公の榮をさかりにす。

 八松のやちよのかけに思ひなれてとかみか原に色も變らし

固瀨川をわたりて江尻の海汀をすぐれば。江の中に一峯の孤山あり。孤山に靈社あり。江尻大明神と申。威驗ことにあらたにして。御前を過る下り船は上分を奉る。法師はまいらぬときけば。そのこゝろをたづぬるに。むかし此邊の山寺に禪僧有て法華經を讀誦して夜をあかし日をくらす。其時女の形出來て夜ごとに聽聞して。あくれば忽然としてうせぬれば其行方をしらず。僧これをあやしみて糸を搆てひそかに裾につけにけり。あくる朝に糸をたゞしてみれば。海上にひかれてかの山にいたりぬ。巖穴に入て龍尾につけたり。神龍顯形して後。僧にはぢてこれを入ずといへり。夫權現は利生のすがたなり。化現せば何ぞすがたにはばからん。弘經は讀誦の僧なり。經を貴みば何ぞ僧をいとはんや。ふかきちかひはうみにみてり波にたるゝあとは慈悲。鉢は天に知れたり雲にひゞくこゑ。されども神慮は人しらず。きねがならはしにしたがひて。ふしおがみてとをりぬ。

 江のしまやさして鹽路に跡たるゝ神は誓ひの深きなるへし

路の池に高き山あり。山のみねかぶろにて貴からずといへども。恠石ならびゐて興なきにあらず。步をおさへて石をみればむかしかの堀うがちたる磐どもなり。うみも久しくなればひるやらんとみゆ。腰越といふ平山のあはひを過れば稻村といふ所あり。さかしき岩のかさなりふせる濱をつたひ行ば。岩にあたりてさきあがる浪のはなのごとくにちりかゝる。

 うき身をはうらみて袖をぬらすともさしもや波に心くたかん

申の斜に湯井の濱に落着ぬ。しばらく休みて此所をみれば。數百艘の舟どもつなをくさりて大津のうらに似たり。千萬宇の宅軒をならべて大淀のわたりにことならず。御靈の鳥居の前に日をくらして後。若宮大路より宿所につきぬ。月さしのぼりて夜も半に更にければ。をきたる老人おぼつかなくおぼえて。

 都には日をまつ人を思ひをきてあつまの空に月を見る哉

鷄鳴八聲のあかつき。旅宿一寢のゆめさめて。たち出見れば。月の光屋上の西にかたぶきぬ。

 思ひやる都は西にありあけの月かれふけはいとゝこひしき

十八日。此宿の南の軒ばに高き丸山あり。山の下に細き小川あり。峯のあらしこゑ落て夕の袖をひるがへし。灣水ひゞきそゝぎて夜の夢をあらふ。年比ゆかしかりつる所か。いつしか周覽相もよほし侍れども。いまだ旅なれば今日はむなしく暮しつ。相知たる人は一兩人侍るを賴て。物など申さんとおもふ程に。たがひてなければ。いとゞたよりなくて。

 賴めつる人はなきさのかたつ貝逢ぬにつけて身を恨みつゝ

さらぬ人はおほけれども。うとければ物いはず。其中にふるき得意ひとりありて。不慮の面談をとぐ。往事の夢に似たる事をあはれみて。次にむかしにかはる事をなげく。たがひに心懷を述て暫相語る。其後立出てみれば。此ところの景趣は。うみあり山有水木たよりあり。廣きにもあらず狹にもあらず。街衢のちまたはかたに通ぜり。實に此聚おなじ邑をなす。鄕里都を論じて望まづめづらしく。豪をえらび賢をえらぶ。門㨯しきみをならべて地又賑り。をろ將軍の貴居を垣間見れば。花堂たかくおしひらいて翠簾の色喜氣をふくみ。朱欄妙にかまへて玉砌のいしずへ光をみがく。春にあへる鶯のこゑは好客堂上の花にあざけり。あしたををくる龍蹄は參會門前の市に嘶ゆ。論ぜず。本より春日山より出たれば。貴光たかく照て萬人みな瞻仰。士風麈をはらふ威驗遠く誡て四方ことく聞きにおそる。何ぞ况や。舊水源すみまさりて。淸流いよ遺跡をうるほし。新花榮鮮にひらけて。紫藤はるかに萬歲をちぎる。凡座制を帷帳の中に廻て。徵集郡國の間につゞめたり。しかのみならず。家室は扃をわすれて夜の戶をおしひらき。人倫は心を調てほこるともほこらず。愚政の至り治りて見ゆ。

 夜の戶ものとけき宿にひらく哉曇らぬ月のさすにまかせて

此緣邊に付ておろ歷覽すれば。東南の角一道は舟檝の津。商賣の商人百族にぎはひ。東西北の三方は高卑の山風のごとくに立廻て所をかざれり。南の山の麓に行て大御堂新御堂を拜すれば。佛像烏瑟のひかり瓔珞眼にかゞやき。月殿畫梁のよそほひは金銀色をあらそふ。次にひがし山のすそに臨て二階堂を禮す。是は餘堂の踔躒して感歎をよびがたし。第一第二の重檐には。玉のかはら鴛の翅をとばし。兩目兩足のならび給へし臺は。金の盤鶴燈をかゝげたり。大方魯般意匠窮て。成風天に望むにすゞしく。毗首手功をつくせり。發露人の心にもよほす。見れば又山に曲木あり。庭に恠石あり。地形のすぐれたる佛室と言つべし。三壺雲に浮べり七萬里の浪池邊によせ。五城霞に峙り十二樓の風階の上にふく。誤て半日の客たりうたがふらくは七世の孫に逢ん事を。夕にをよんで西に歸りぬ。鶴岡にとて鳩宮にまいらず。あけの玉がき金鏡に映じ。白妙のにしき幣風にそよめき。銀の鐺は朱濫をみがく。錦のつゞれははなにひるがへる。しばらく法施奉て瑞籬に候すれば。神女がうたの曲は權現垂跡の隱敎にかなひ。僧侶の經のこゑは衆生成道の因緣を伸。彼法性の雲のうへに寂光の月老たりといへども。若宮の林の間に應身の風あふぎてあらたなり。

 雪のうへにくもらぬかけをおもへとも雲より下に曇る月哉

月のひかりにたゝずみて。石屋堂の山のこずゑはるかにながめていぶせくかへりぬ。適下向なれば遊覽のこゝろざし切々なれども。經廻わづか一旬にして。上洛すでに五更になりぬれば。なごりのむしろをまきて出なん事をいそぐ。時に晚鐘のうちおどろかせば。永しとおもひつる夏の日もけふはあへなく暮ぬ。一樹のかげの宿緣あさからず。拾謁のむつび芳約ふかき人あり。

 きてもとへけふはかりなる旅衣あすは都にたちかへりなん

返し。

 旅衣なれきておしき名殘にはかへらぬ袖もうらみをそする

五月のみじか夜。時鳥の一聲の間にあけなんとすれば。菖蒲の一夜のまくら。再會不定のちぎりをむすびて出ぬ。

 かりふしのまくらなりとてあやめ草一よの契思ひわするな

湯井の濱をかへりゆけば。なみのおもかげ立そひて。野にも山にもはなれがたき心ちして。

 なれにけりかへる濱路にみつしほのさすか名殘にぬるゝ袖哉

人をたのみてくだるほどに。たのむ人にはかにのぼりなんとすれば。身を無緣のさかひにすてゝ。こゝろざしを有緣のうちに〈便宜あらば善光寺へ參るべきよしおもへり。〉とげばやと在れども。花京に老たる母あり。嬰兒にかへてぬ愚子をしたひ待。異鄕にうかれたる愚子は。萬里をへだてゝ母をおもひをく。斗藪のためにいとまをこひて出しかども。我をすつとやうらむらん。無爲に入ば眞實の報恩なれども。有爲のならひはうときにうらみあり。本よりおもはず東鄙の經廻を。今はいよ急ぐ西路の歸願。彼最後の今に逢事は先世の緣なれば。座したりとも違ひなん。違ともきたりなん。たゞちぎりの淺深に依てこゝろざしの有無にまかせたり。悲らくは親も老たり子も老たり。いづれかさきだちいづれかおくれん。たゞなげく所は母山の病木八旬の涯に傾て一房の白花いまだひらけざるに。子石のがれたる苦み。半白の波におぼれて一滴の零いまだ汲ざることを。朝に看夕にさだむ。こゝろざしとげずしてやみなば。佛に祈り神に祈る。功それいかゞせん。我きく佛神は孝養のために擁護のちかひをおこし。經論は報恩のために讃嘆のこと葉をのべたりと。壯齡のむかしは將來をたのみて天に祈りき。衰邁の今は先報をかへりみて身をうらむ。もしこれ不信の雲におほはれて感應の月顯れざるか。もしこれ過去の福因をうへずして現在の貧果を得たるか。先報によるべくは。佛のちかひたのむやいなや。誓願によるべくは。我孝なんぞむなしき。信否ともに感じて妄恨みだりにおこる。天眼あひなだめて哀みをたれ給へ。悲母の目前に中懷を謝して白髮をおとし。愚子が身のうへには本望をとげず黑衣をきる事を。夢の間の笋はたとひ一旦の雪にもとめうしなふとも。覺路の蓮はかならず九品の露にひらきをくらん。子養は子のこゝろざしにつくす。風樹は風の恨のこす事なかれ。

 いかにせん結ふ此身をまたすして秋にはゝそのおつる山風

東國はこれ佛法の初道なれば。發心の沙彌ことさらに修行すべき方なり。この故に木方初發の因地より萠して。金刹極證の果門を開かんとおもへり。觀夫けがらはしき濱路を過行だにも。白砂なをおもしろく見ゆ。まして極樂金繩のみちにおもひやるもゆかしけれ。銀樹七重の風無苦のこゑをしらべ。紫蓮千葉の色に染。功德の池には水煩惱のあかをあらひ。善根のはやしには樹菩提のこのみをむすぶ。ゆゐたる宮殿は十方に飛て居ながらすぐ。ことに利生を約諾す。生る人はみな說法集會の場にまじはりて無量の命を延年し。來るむかしは悉見佛聞法の室に誇て不退の樂に世會す。久遠世々の父母は珍本覺の如來に顯れ。過去生々の妻子はなづかしくて新來菩薩にむすびたり。法喜禪悅の味は口のうちにみち。端嚴殊妙のかざりは身のうへにそなはれり。をよそ三十一金の月胸にはれ。第一義空の水心にすめり。此故に無始來のねぶりはゆめながくさめ。六趣輪の冥は盲眼ひらけたり。彼無常念王の古鄕を忍ぶちぎり娑婆にあつく。法藏因位の舊臣を顯れんこゝろざし我等にふかし。此に依て九品覺王の善政をたるゝ一念。奉公の輩ならびに平等引接の賞にあづかりて。諸天薩埵の僉議をなす。六賊重罪の犯却而皆空無漏の旨を奏す。七寶の高臺には四十八願の主五刧思惟のひかりをはなちて念佛のものをてらし。二脇片座には三十三尊大悲弘誓のあみをたれて苦海の沈沒をすくふ。故に三世の佛の濟度にもたれる五逆の罪人も。願海不捨の舟に棹さして彼岸にわたり。十方土の淨刹にすてられたる此界の惡從も。大雄起世翅にかかりて西天に飛ん。あはれとく生れてみちに入ばやな。

 なみ風もみのりの聲をとく聞て見るめくるしき海を出はや

 迷ひきて又まよひこんかりのやとになかくかへらん道にかへ覽

束國にさまよひ行子あり。本のみやこを別てかりのやどにふせり。西刹に訪尋る母います。あはれもとめて彼國に導を其母といます。佛は三字の名號を子どもにさづけて。三因佛性のかくれたるをよび出し。十念の來迎を最期にちぎりて。十地證王の位につく。信力よはきものには他力をあたへてこれをすくふ。たをれふしたる赤子を親のいだくがごとし。念緖つよき願緖にすがりてみづからすゝむ。驥につく蠅の千里に翔るがごとし。されども具[縛力]の浮身は一榮の肴にすゝめられて三毒の酒に醉ふす。世路の嶮難につかれて佛界の正道にまよはず。妻子をおもふ心冥にくらまされて心佛のひかりをへだてたり。菩提の鹿は罪業の山にかくれて駈どもいまだ出す。煩惱の虎は功德のはやしを別て追どもかへらず。睡眠の閨にはあかつきのかねの聲うちおどろかせども諸行無常の吿をさとらず。遊戲の床には暮の日さしおどろかせども分段の有爲のことはりわきまへず。老少不定の悲は眼にさへぎりて雲のごとくにさはげども心空にしておもはず。先後相違のわかれは耳にみちて風のごとくにひらけども聞つれなくしてあはれまず。老たるは老たればいよ餘命をおしみ。わかきは若ければ實に將來を期す。其間山水邈にながれて依に泉にかへる。風煙命滅て忽に冥途にまどひ。又貯持財はおしめどもになはず。養居僮僕は哭すれども隨はず。終に天使にめされて地獄に落ぬれば冥路山さかし。嬰兒のあゆみにたゞよひてひとり行黃泉水はやし。單己のわたりに溺て身をながす。かなしきかなかなしきかな。獄卒の呵責にかゝりて後悔魂をくだき。琰王の斷罪にをのゝきて前非の舌をまく。惡行はぢをあらはす鏡の中の影。自業のむかへは陳じがたし机上の文。鳴呼十八猛鬼の忿怒といかれる聲。天雷のおちかゝるがごとし。六十四眼の睚眦とにらめる。熟鐵のほどばしるに似たり。迯とすれども迯るにむなし刄のふるところ。よけんとすれどもよけられず焰にむせぶとき。心うきかな猛火の薪となりて萬億歲罪根山の林夏ひさし。寒嵐の水に沈で無量刧業報池の水春に別たり。我等が前罪こゝに謝せずば。後悔またいかゞせん。こゝろあらん人たれかかなしまざらんや。

 見ねはにやいたき心もなかるらんきくも身にたつ劔はの枝

但極樂西方にあらずをのれが善心のますにあり。泥梨地のそこにあらずをのれが惡念の心地にあり。彌陀うとき佛にいまさずみづからが本有の眞性にあり。獄卒しらぬ鬼にあらずみづからが所感の業胤にあり。雪つもりて山をなす春の日にあたればきえてのこらず。金くだけて灰にまじる水に入て汰はうする事なし。罪雪ならば善心あらはれぬべし。まよへる時は目をふさぎてわが身をだにも見ず。さとるときは眼をひらいて人の躰をみる。障子をへだてゝあなたは十萬億土とおもへども。ひきあけたればたゞ一間のうちなり。佛性の水煩惱の風に氷れども。おもひとけば水とは誰かしらざらん。貧とも嗟べからず。電泡の身にいくばくのなげきぞや。たのしめどもおごるべからず。幻化の世にはいくばくのあやまりぞや。たのしみは大憍慢のあだなり。あだはすなはち惡趣に引おとす。貧は又道心のさまたげならず則善所に引あげ。たのしみは先生の怨敵なり。貧着身をしばりて四生の牢獄にこむ。貧は今生の智識なり。愛欲心をゆるして三界の樊籠を出す。此故に世をいとふ人は沙門となづけてたのしめる人とす。我等八苦のやまひはおもけれども念佛のくすりにいへぬべし。名利の敵はうかゞふとも非人の身を敵とせじ。上界天人の快樂もこゝろにくからず。過去生々にいくたびかうけたる。國王大臣の果報もうらやましからず。流來世々のいくたびか得たる。六趣の栖はうとみはてたるところなり。九品のみやこぞいまだ見ねば戀しけれ。こひしくばたれか參らざるべき。たま人身をうけたるは梵天の糸に針をつけえたる時なり。佛法の敎木龜眼の語に信じ得る時なり。これだにもありがたしと思はゞ。十方佛土に又ふたつなき一乘妙法に生れあひて。十惡をうとまず引接をたれたまふ阿彌陀佛を念じ奉るは。口のあればたゞにとなへゐたるか。耳のあればたゞに聞ゐたるか。あなあさましのやすさや。無始生死の間にちりの結緣つもりて泰山となる。露の功德たまりて蒼海とたゝへて。善根林をなし。機感時をえて。今生を生死の終りとし。當來を解脫のはじめとする人。此ときに生れて此緣にあひたり。故に慈父の長者は貧子どもの爲に福德の經を說て化一切衆生とこしらへ。みな皆令入佛道とよろこび。悲母の敎主はよはき子共のために誓願を發して此願不滿足と舌をのごひ。誓不成正覺と口をはく。こゝに知ぬ此南浮は西方の出門なりといふことを。道心はたとひかたからずとも。慙悔の箒をつかねて常に心を淸めん。然ば則さくら花えだにこもり。春の候を迎て開なんとす。佛種胸にうづもれ。終のときに臨て宜くきざすべし。抑これは羇中の景趣にあらず。存外のあさき狂言なり。然而魚にあらずば魚のこゝろをしるべからず。我にあらずば我心ざしを悟るべからず。駿蹄の千里にはするも。駑駘の咫尺に蹇くも。心ざしのゆくほどはいたる所たがはず。大鳳の雲にかけるをうらやみて。小鳥のまがきにあそぶばかりなり。此品家を出し始。道に入し時。身のあはれに催されて。人の嘲をかへり見ず。愚懷のためにこれを記す。他興のためにこれをかゝず。あざける人。あはれむ人。順逆の二緣ともに一佛土に生れて。一切衆生をすくはんとなり。

 開くへき胸のはちすのたくひには春まつ花の枝にこもれる

 かはらしな濁るもすむも法の水ひとつ流とくみてしりなは

この作品は1929年1月1日より前に発行され、かつ著作者の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)100年以上経過しているため、全ての国や地域でパブリックドメインの状態にあります。