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たが、これも後日を約して、引き取らせました。
早くも年が改つて、安政元年となり、ペリーは、ふたたび神奈川沖へ來て、返答を求めました。ところが幕府は、海防に自信がないので、攘夷の決心もくじけ、とりあへず和親條約を結び、下田・凾舘の二港を開いて、燃料や食料などの供給を約束しました。ついで、イギリス・ロシヤ・オランダとも、ほぼ同樣の條約を結び、ロシヤとの國境問題は、千島を分有、樺太を共有と定めました。
安政三年、和親條約に基づき、米人ハリスが、總領亊として着任し、やがて、將軍家定に謁して、丗界の形勢を說き、たくみに通商をすすめました。幕府もつひにこれを認め、通商條約の草案を作つて、安政五年、勅許を仰ぎました。ところで、諸藩の閒には、かねて攘夷の氣勢が强く、幕府が和親條約を結んだことさへ、非難の的になつて