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ました。

ペリーは、戰艦四隻を率ゐ、途中小笠原諸島や琉球列島の占領をもくろみながらも、ひとまづ浦賀に錨を投じ、盛んに空砲を放つて人々をおびやかし、幕府に國書をさし出しました。その夜、浦賀の山々、海岸一たいに、かがり火がもえさかり、夜通し警鐘が鳴り響いて、ものものしい光景を呈しました。幕府は、事重大と見て、返答を翌年に延し、やつとペリーをかへしたのち、ただちにこの事を朝廷に奏上しました。

一方幕府は、諸大名の意見をききましたが、攘夷論が盛んであるのにかんがみ、攘夷の方針を立て、ひたすら海防につとめ、鎖國以來堅く禁じてゐた大船の建造も、この際に許すことにしました。ペリーが來た翌月、ロシヤの使節もまた長崎へ來て、通商を求めまし