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ゐる際です。天皇は、國民の意見がまちまちであるのを、たいそう御心配になり、なほよく諸大名との評定をつくすやうにと、おさとしになりました。幕府は、進退きはまり、彥根藩主井伊直弼を大老に擧げて、この難局に當らせました。
このころ、英・佛の聯合軍が、淸を破つて、天津の砲臺をおとしいれ、勝ちに乘じて、わが國をおそふとのうはさが傳はりました。ハリスは、この形勢を說いて、條約の調印をせまります。直弼は、事を長引かせてはかへつて不利と思ひ、つひに勅許を待たずに「安政の假條約」に調印し、ついで、オランダ・ロシヤ・イギリス・フランスとも、ほぼ同樣の條約を結びました。しかも、この條約は、函館・神奈川・長崎・新潟・兵庫の五港を開いて貿易を許したことのほかに、わが國にとつて、ずゐぶん不利な點の少くないものでありました。