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ようとしたのです。彌兵衞がその不法をなじり、命をかけてそのいひ分を通したのは、まさに日本人の意氣と面目を示してあまりあるものです。

もえさかる國民の海外發展心は、このほかにも、多くの勇ましい話をとどめてゐます。早くも文祿年間、信濃の城主小笠原貞賴は、小笠原諸島を發見して「日本國天照皇大神宮地」と記した標柱を立てました。その後、慶長年間には、九州の大名有馬晴信が、ポルトガル人の不法に對する仕返しとして、長崎でポルトガル船を燒討ちしました。また加藤淸正が、大船を造つて安南との貿易を計畫した話や、支倉常長が、伊達政宗の命を受け、太平・大西の兩洋を橫ぎつてローマに使ひした話も傳へられてゐます。更に寬永年間には、播磨の人天竺德兵衞が、十五歳の若さでシャムに渡つた話や、九州の