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しかも家康は、大軍を以てなほ大阪城を攻めあぐみ、またまたはかりごとを用ひて、つひにこれをおとしいれ、むざんにも、豐臣氏をほろぼしてしまひました。〈第百八代〉後水尾天皇の御代、元和元年の夏のことであります。家康は、豐臣氏をたふした機會に、公家や武士を取りしまるおきてを作つて、幕府の基をますます固くし、翌元和二年、七十五歳でなくなりました。

かうした家康も、政治の上では、秀吉の方針にならひ、その始めた制度を受けつぎました。大名に自治を許すが、しかもこれをきびしく取りしまる、貿易をすすめるが、天主敎はこれを禁止する、すべて秀吉と同じ行き方をとりました。ただ、秀吉のはなやかなやり方に比べると、家康の選んだ方法は、きはめてぢみでした。學問を盛んにして、太平の世をみちびかうとしたのも、貿易を中心にして、