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はばかるところなく、ふるまふやうになりました。家康は、まもなく將軍職を退き、子の秀忠が將軍に任じられました。
關原の戰ののち、豐臣氏は一大名の姿になりましたが、何といつても、秀賴は大閤秀吉の後つぎです。大きくなるにつれて、しだいに高い官位に進みました。それに、大阪城の守りは堅いし、藏には金銀や兵糧が滿ち滿ちてゐます。また、諸大名の中には、豐臣氏をもとの勢にかへしたいと考へてゐるものも、少くありません。家康は、それが氣がかりで、豐臣氏の力をそぐために、いろいろ頭をなやましました。幕府を開いてから十年もたち、身を七十の坂を越してみると、心はいよいよあせるばかりです。次から次へと秀賴に難題をもちかけ、豐臣方から兵を擧げるやうに仕向けました。
果して慶長十九年の冬、秀賴は、たまりかねて兵を擧げました。