の英雄が、あるひは御儀式や御所修理の御費用をたてまつり、あるひは神宮をお造りかへになるお手傳ひをいたしました。民草の中には、川端道喜のやうに、御所の近くに濟んで、折を見ては供御を進めてたてまつつたものもあり、伊勢の清順尼のやうに、外宮のお造りかへに、力をつくしたものもあります。また、この間、三條西實隆・山科言繼らの公家は、老の身をいとはず、苦しい旅を續けて、英雄たちに皇室の御やうすを傳えへ、神宮に奉仕してゐるものは、國々をまはつて、敬神をすすめました。わが國の古い習はしである「お伊勢まゐり」は、このころから、目だつて盛んになつたのであります。
五十鈴川の清らかな流は、いつまでも、日本の古い姿をそのままに傳へてゐます。さしもにみだれた世の中も、皇室の御惠みによつて、しだいに明かるくなつて來ました。しかも黑潮たぎる海原には、八幡船や南蠻船が、はげしく往來してゐます。國民は、尊王敬神の心を深めて、浦安の國に立ちかへる日を待ちわびました。やがて〈第百六代〉正親町天皇の御代に、織田信長・豐臣秀吉が、相ついで聖旨を奉じ、全國平定の事業を進めるのです。わが國がらの尊さは、あさましい戰亂の世にもかかはらず、かうして、はつきりと示されるのであります。
終