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いにみだれて行きました。早くも義滿の時、中國の大内おほうち氏が幕府に手むかひ、關東を治めてゐた足利滿兼みつかねも、そのあと押しをする有樣でした。

義滿はまた、みんとの貿易ぼうえきがたいそう利益りえきになることを知ると、さつそく使ひを出して、まじはりを結びました。明といふのは、長慶天皇の御代にげんがほろび、これに代つた新しい國です。ところで、義滿は、少しでも多く、自分の利益をたいため、國民の大陸進出をおさへたばかりか、國の面目めんもくにかかはるやうなふるまひをさへしました。心ある人々が、まゆをひそめて、これをけいべつしたのは、もちろんのこと、さすがに子の義持は、父のふしだらをはぢ、明との交りをきつぱりとつことにしました。

義滿 義持 義量
義教 義勝
義政─義尚
└義視

かうして、室町の幕府も、義持一代の間、少しは引きしまりましたが、〈第百二代〉後花園ごはなぞの天皇の御代に、義教よしのりが將軍に任じられたころから、またゆるみ始めました。足利氏は、源氏にならつて幕府を開きながら、その生活は、まつたく平家をまねたやうに、はなやかでした。義教も、はでな生活がすきで、ふたたび明との交りを開きました。しかも、足利氏の一族のあらそひが、このころから目だつやうになり、つひには、將軍が武將に殺されるさわぎさへ起りました。その後、義政よしまさが將軍に任じられると、あいにく不作が續き、惡い病がはやつて、國民はたいそう苦しみました。義政は、それを一かう氣にもとめず、大金たいきんをかけて、室町のやしきを造りかへようとしました。おそれ多くも後花園天皇は、これを深く心配になり、義政の不心得