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をおさとしになりましたので、さすがの義政も恐れ入つて、その工事を中止したといふことであります。

しかし、かうした時には、とかく人々の氣持がすさんで、物事が大きくなりがちです。〈第百三代〉後土御門ごつちみかど天皇の應仁おうにん元年、足利氏やその一族に、後つぎのことで爭ひが起ると、家來の武將が二手ふたてに分れて、京都で戰を始めました。しよ國の武將も、續々都へのぼつて戰に加り、さわぎは大きくなるばかりでした。この戰は、十年たつても一かう勝負しようぶがつかず、兩軍ともつかれはてて、いつのまにか、それぞれ國へ引きあげました。花の都も、これですつかり荒れて、みじめな姿になりました。世に、この戰を應仁のらんといひます。

戰をよそに
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戰をよそに

義政は、重ね重ね朝廷に御心配をおかけしながら、戰をよそに、すきな遊びにふけりました。亂がしづまつて數年たつと、東山ひがしやまに別莊を造り、銀閣ぎんかくかまへて、茶の湯にその日を樂しみました。しかし、せつかく造つた銀閣も、これをかざる銀箔が得られず、ぜいたくはやめられず、國民に重い税をかけたり、しきりに明と貿易をしたりしました。明との交りも、義滿の時と同樣どうやう、まことにだらしないものとなり、幕府も、これですつかり信用を落してしまひました。

京都の戰はしづまりましたが、枯草に火がもえうつるやうに、戰